傷痕
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「うーん・・・」
 
サイト-8181のレベル2以下職員用生活エリア。その廊下を、エージェント・猫宮 幸子は困ったように眉をひそめながら歩いていた。
仕事着の一つである黒のスーツ姿ではなく、ホットパンツに、胸で1ポイントの猫が躍る白地のTシャツと、首を彩る鈍色のチョーカーという出で立ち、そしてサンダル履きは、彼女が非番である事、そして困っている理由が些細である事を表していた。
サンダルの底が廊下に擦れる音を響かせながら、彼女は一人きりで何かを探すように、不安げな表情で辺りを見回していた。
 
やがて、音は二つのものが交錯するようになった。
布と滑らかな紙を擦り合わせるようなサンダルの音に混じって、ゆっくりと、しかし一定のペースで刻まれる靴音。革靴の底が、ノックのように床を叩く音だ。
そして猫宮は、革靴の音の主を、廊下の奥に見つけた。
 
「あっ、保井さーん!」
 
前方のT字路地点で、自身の視界を横切ろうとするその一瞬を逃さず、彼女はエージェント・保井 虎尾に声をかけた。保井は足を止めると、眠そうな視線をゆっくりと猫宮へと向ける。
一見、不機嫌であるようにも見える表情であったが、猫宮は満面の笑みで彼に手を振る。そこには躊躇や気後れなどは微塵も感じられなかった。
その様子を見ると、保井は一度己の進行方向へ顔を向け直し、小さくため息をつく。そして、耳からイヤホンを外しながら90度転回し猫宮の方へ歩き始めた。
 
「猫宮・・・あー、幸子だったか?」
「はい!」
 
イヤホンを上着のポケットに押し込みながら、保井はやや途切れながらも猫宮の名前を間違えずに呼んだ。
猫宮は嬉しそうな笑みを浮かべたまま、それに元気よく応える。
自身が保井の名前を憶えていたのに対して保井が自身の名前を曖昧にしか憶えていなかった、という事実を前に、不快を感じるような人間ではなかった。
 
「何か用か?」
 
猫宮の快活な影響を全く受けてないかのように、物静かな調子を一切崩さず保井は訊ねた。
 
「えーと、実は兄貴・・・兄・・・猫宮 寓司を探しているんですけど、どこかで見かけてませんか?」
 
上目遣いに訊ね返す猫宮。それに対し、保井は一瞬だけ微かに両目の大きさの差を広げると、視線を外してため息をつく。
そして猫宮の目を見下ろし、やや逡巡した様子を見せてから答えた。
 
「俺も探してる」
 
猫宮は目を丸くして、覗き込むような前傾姿勢から少し身を後ろに引いた。
とんだ偶然が重なったものだ。珍しい、とても面白い偶然だ。
 
「じゃあ、一緒に探しませんか?」
 
しかしながら、彼女がそう言って保井に同行を願うのは、偶然と言うより寧ろ必然と言うものであった。

「どこ行ったんだよーぅ、バカ兄貴ー」
 
力の抜けた声を垂れ流しながら、猫宮の頬はカフェテリアのテーブル上に着地した。
保井はコップに入った水を飲みながら、その様子をただ黙って見下ろしている。
 
二人で猫宮 寓司を探し始めてから40分あまりが既に経過していた。
その間に、彼女がこの施設内で兄と会った事のある場所は全て探してしまっている。
私室、オフィス、資料室、第2研究室、第6実験室、第7実験室、B収容棟第3待合室、管理官オフィス、人事部事務室、猫宮 幸子の私室、同私室のシャワー室、疑わしい所は全て回った。だが彼女の兄を見つけるには至らなかったのだ。そしてそれら周辺で行った聞き込みも、望ましい成果は挙がらなかった。
 
「腐るな」
 
全ての手が徒労に終わってテーブルに倒れ伏している猫宮に、保井はそう一言だけ突き刺した。
突っ伏した状態から首だけを動かし、顎をテーブルに乗せる形で猫宮は顔を上げる。
 
「えぇ〜、だってぇ〜」
「エージェントの割には堪え性の無い奴だな。空振りはいつもの事だ」
「むっ。大体保井さん、ちっとも探してないじゃないですか! 行き先も全部私が決めてるし・・・」
「期待していないだけだ」
「どういう意味ですかー!」
「こういう意味さ」
 
保井はイヤホンを自らの両耳に装着した。そして体を背もたれに預け、両腕を肘掛けに置く。
この動作が意味するもの。それは「待つ」という意思表示だ。
捜索中、保井は何もしなかったのではなく、待つという手を打っていたのだ。
 
物は言いようなのである。
 
「むー」
 
むくれながら、猫宮も待つことを選択せざるを得なかった。
待った後どうするかは考えていない。「これでどうにもならなかったら、保井さんのせいですからね」と後で言うつもりでいるだけだ。
突っ伏した態勢から上体を引き起こし、保井と同様に背もたれに寄りかかる。
カフェテリアに漂う穏やかな雑音の中、二人は取りあえず空腹にせっつかれるまではここで待っていようと決めたのだった。
 
そうしてたった30分で、猫宮の腹の虫が文字通り音を上げた。
腕を組んで目を瞑っていた保井が、顔をしかめて猫宮を睨み上げる。
対する猫宮は気まずそうに「えへへ」と弱々しく笑いながらお腹をさすると、ウェイターを呼びつけた。
 
「フライドチキンひとつお願いします」
 
ちょっとつまむ程度の料理。その注文を受け「かしこまりました」と一礼し去ろうとしたウェイターを、保井が「待て」と呼び止めた。
 
「ダブルチーズベーコンバーガーひとつ。あとフライドチキン用に黒胡椒も頼む」
 
保井はイヤホンを取りながらそう注文する。
ウェイターは再度「かしこまりました」と一礼すると、今度こそ厨房の方へと去って行った。
 
「ここのフライドチキンは薄味すぎる。多めにかけるんだな」
 
背もたれから体を起こし、低い声色で彼は猫宮へそう忠告した。
のっそりと、目を覚ましたばかりの熊のようなその動作に、彼女はつい可笑しくなって笑みをこぼす。
保井はそれに対して別段文句を垂れるでもなく、ぬるくなった水を飲み干した。
 
「意外ですね。保井さん、ジャンクフード食べるんですか」
「今じゃフライドチキンもジャンクフードだろ」
「まあそうですけど・・・私はほら、いいんですよ。でも保井さんがダブルチーズとベーコンのハンバーガーって、なんか意外で」
「どうしてだ?」
「いや、あの、だって保井さん、すごいじゃないですか。その、色々と」
 
猫宮が言葉を濁すのは、その内容が保井の過去に触れているかもしれないからである。
保井が過去をあまり語りたがらない事は、以前彼の相棒であるコールマンに口説かれた時に聞いていた。
しかしその経歴と業績は異色と言って差し支えなく、多くの者から畏怖の対象とされている。
だが、それらの畏怖心は保井 虎尾という人物にではなく、彼の過去そのものへと向けられているのである。
 
「色々か」
 
保井はため息をつく。煩わしさからではない。嘆かわしさからであった。
 
「何をどう思ってるかは知らんが、俺もお前も大して変わらん。俺を凄いと思えるなら、お前はお前自身のことも凄いと思えるはずだ。違いなぞ無い。ただのエージェントだ。財団のな」
 
保井は、全てを「当然」と認識して行動している。
財団のエージェントとしてやるべき事、行動すべき事をしているだけなのだ。
だが目の前の同輩は、それを「凄い」という言葉で自らと切り離してしまっている。
保井にとって、それは全く必要のない事だった。凄くもなければ誉れでもない。当然の事。
それ故に、その当然と同じ事を求められている地位にある同輩にも、同じ状況で同じ行動をとり、同じ成果を上げてもらわなくてはならない。
 
だが、猫宮の表情を見るに、そのことはイマイチ伝わってはいないようだった。
 
「猫宮」
 
目を閉じ、静かに面前に座す者の名を呼ばう保井。
猫宮は保井の態度を見て、自身が何か不適当な振る舞いをしてしまったのでは、との不安を涌き上がらせながらも「はい」と短く応えた。
そして保井は、大きさの異なる左右の目をゆっくりと開き、左肘をテーブルについて顎に手の甲を添え、それから口を開く。
 
「俺たちの仕事はなんだ?」
「え・・・え、と、確保・収容・保護?」
「そりゃ財団全体の目標であって、俺たちが全てを担うべき仕事じゃないだろ。俺たちは何のために現場に出るんだ?」
 
確保・収容・保護は財団という組織そのものが掲げている活動理念であり、エージェントの業務はその一部に属する。
ならば極論して言えば、エージェントの目的は確保・収容・保護ではない。彼らの業務の結果もしくは成果が確保・収容・保護なのである。
 
「えーと、オブジェクトを回収したり、異常事態を鎮圧したり、要注意団体のことを調べたり、メンバーを追っかけたり・・・」
「それら全てに共通する事は一つ。『守る』ということだ。俺たちはそのために存在している。財団が何かの異常事態や災害に出くわしちまった時、それらの暴力や災害はまず『一枚目の盾』である俺たちエージェントにぶつかる。そういう時ってのは大抵、やれる事は限られてる。相手の正体が何も分からん状態で、まずぶつかって来やがるからな。その少ない選択肢の中から、最良のものを選ぶのが、俺たちが判断すべきことだ。俺たちは、当然それが出来るものとして見なされてる」
 
滔々と静かに語るその言葉には、彼の実年齢には不相応なほどの経験と実感が込められていた。
決して荒げない一本調子な声であるにも関わらず、彼の声は能く猫宮の耳に響いた。
 
「だから猫宮、あまり心を動かすな。全てはそうなって当たり前なだけだ。何を前にしても『そうか』とだけ呟いて、平気なツラをぶちかます。あとは、体の方が勝手に動くさ。俺たちは当然のように、そうすることが出来るはずだ」
 
全てを言い切って、猫宮の目へと視線を移す保井。
そこにあるのは、一つの輝きであった。彼の言った平気なツラ、とは程遠いものであった。
 
「やっぱり、保井さんは凄いです!」
 
完全に話が最初に戻ってしまったことで、保井は左手で面を覆った。
しかし確かに、保井も数多くの経験を踏まえた上で現在がある。
それは言葉で説明されたものでは無かったのだから、猫宮にも経験と時間が必要ということなのだろう。
それよりも、今は──
 
「お待たせしました。ダブルチーズベーコンバーガーとフライドチキン、黒胡椒になります」
 
──喰おう。
 
ウェイターが運んできた料理に真っ先に手を付けたのは、猫宮の方だった。
先程まで熱心に保井の話を聞いていたというのに、今はもう全ての関心は目の前のフライドチキンに向いている。
名前と趣味の通り、猫みたいな奴だな。保井はそう感じながら、猫宮がかけ忘れた黒胡椒を代わりにフライドチキンにかけてやった。
彼女はそれにも気付かず無心でフライドチキンに噛りついており、黒胡椒のかかった辺りに差し当たると、目を丸くして「おいしー」と感想を漏らす。
本当に、猫みたいな奴だ。保井は少し顔をしかめながらも、イヤホンは着けずに自身の食事にかぶりついた。
 
だが、猫というのはあっという間に好奇心や興味が切り替わるものである。
保井がその事を痛感したのは、ハンバーガーの二口目を口中に押し入れた時だった。
 
「そういえば保井さん、どうして兄貴・・・兄のことを探してたんですか? 仕事の用事ですか?」
 
口の中が一杯の時に限って質問を飛ばしてくるものだから、つい保井は生来の目つきの悪さもあり、ギロリと猫宮を睨んでしまった。
その視線を受け、少し遠慮がちに視線を伏せて体を縮こまらせる猫宮。その様まで、あたかも猫のようだった。
保井の方はハンバーガーを置き、ゆっくりと口の中のものを噛み砕いて呑み込んだ後に、律儀にも質問に答え始める。
 
「ああ、まあ、そんなもんだ。あの野郎、業務連絡用端末のGPSまで切ってやがるせいで、こっちは朝からかかりきりだ」
「え、それって、もしかして懲罰対象になります?」
「ああ、規則違反だな。謹慎処分ものだ」
 
この言葉に、猫宮は慌てたように手をばたつかせ始めた。
 
「えーっ えーっ それは困りますよー」
「何故だ?」
「えっと、その、うーんと」
 
猫宮は歯切れが悪かった。
その理由を察せなくも無かった保井であったが、敢えて訊ねた。そして、ハンバーガーを再び手に取って頬張る。
 
「私が兄貴・・・兄を探してる理由にも繋がるんですけど・・・」
 
そして猫宮は、そう前置きした後に話し始めた。
内容を整理しながら話しているかのような、たどたどしさのある口調であった。
 
「えーと、実は明日は兄貴・・・兄の誕生日なんですけど、それで、まあ、一応兄妹ですし、全く世話かけてない訳でもないので、プレゼントなんか、いいかなあと思って。でも何あげたらいいかよく分からないから・・・いっその事、本人に聞いちゃおうと思ったんですけど、そんな時に限って全然掴まらないんですよねー」
 
そこまで言った所で、はっとして口を押さえる猫宮。
頭の中で整理していた内容が、兄が見つからないことに対する愚痴のようになってしまっている事に自ら気が付いたためだった。
今は、猫宮 寓司が謹慎処分になったら困る理由の話であるのだから。
 
「そ、それでですね、そういう訳ですから、兄が謹慎処分になったら、誕生日にプレゼントが渡せなくて困るんですよ!」
 
なんとか話の結論を正しい方向へ持って行く猫宮。
相対する保井は、思考の読めない目で猫宮に一瞥をくれると、チーズとベーコンを呑み込んだ。
 
「安心しろ。そういった処分の決定が下るのには、大抵2日はかかるからな。謹慎処分程度の些事なら、後回しにされることも多い」
 
そう言ってから、最後の一欠片を口の中に押し込んだ。
それを見て、猫宮も慌ててフライドチキンを口に運ぶ。
 
しかし、誕生日プレゼント。今からその品を定めて調達にかかったとして、果たして明日に間に合うものだろうか。
猫カフェとやらを運営している割には、無計画な奴だ。
保井はそのような事を考えながら、さっさと食事を終わらせる。食べ終えた頃には、そのような思考も消えてしまっていた。
 
「ふーっ」
 
猫宮もほぼ同時にフライドチキンを食べ終えており、満足げな笑みを湛えながら、猫のように背中を丸めていた。
そんな様子を気にする事なく、保井はカフェテリアの壁掛け時計をチラリと見遣ると、懐を探り始める。
 
「そろそろ行くぞ」
 
そしてそう告げると、ハンバーガーとフライドチキンの代金、そしてチップをテーブルの上に押さえ付けながら立ち上がった。
突然の出発の報せと保井の先導に、猫宮は「ふぇ」と間抜けな声を漏らす。
 
「いい時間だからな」
 
説明になっていない説明の言葉だけを残し、保井はさっさと立ち去ろうとする。
それを見て、猫宮も慌てて後を追った。保井が自分の食事代を払ってくれていた事に気付くのは、もっと後の事だろう。


カフェテリアを後にした二人はオフィス棟の廊下を進んでいる。
当然の事ながら、オフィス棟も既に猫宮が捜索した場所である。
しかし先導する保井の足取りは力強く、躊躇せず確信を持って道を選んでいるようだった。
少し早足気味にその後をついていく猫宮の表情は、少し不安げであった。保井の行動の理由が掴めないからである。
だが、押し黙ったまま速やかに歩を進めていく保井の背に自分から声をかける事は、何故だか躊躇われるように感じていた。
 
「お前の相棒は元気か?」
 
しかし道の途上、歩みを緩める事も、猫宮の方を振り向く事もなく、保井が唐突にそう訊ねた。
いきなり自分の業務上の相棒の話を振られ、つい小さく「え?」と聞き返してしまった猫宮だったが、保井が横目で睨み付けてくる前に、なんとか質問を呑み込む事が出来た。
 
「あ、えーと、育良くんなら、元気です。今は日用品の買い足しに、町の方まで出てると思いますけど・・・」
 
この返答に対し「そうか」と短く応える保井。そして、変わらぬ調子で歩む。
突然の質問と会話の途切れに、猫宮の不安は少し膨らむ。
だが数十秒の後、再び保井は唐突に口を開いた。
 
「相棒ってのは、いいもんだ」
 
保井の言葉に、今度は不安よりも驚きを猫宮は覚えた。
だが彼女が何かを口にするよりも前に、保井は足を止めた。
急停止した保井の背中にぶつかりそうになって僅かによろける猫宮。
そうして、態勢を回復せしめた頃には、既に興味は、保井が足を止めた理由の正体へと移っていた。
 
彼は、オフィスの一室の出入り口そのものである一つのドアの前に立っていた。ドアの横には「猫宮 寓司」と書かれた表札が掲げられている。
ここは、二人が探している猫宮 寓司その人に割り当てられたオフィスである。そしてそこは当然の事ながら既に探索済みである。
だが保井は躊躇する事なく、ノックを省略してドアノブをしっかと握りしめた。
ドアは音もなく開き、まず保井が中に踏み込む。その直後、オフィスの奥から、少し沈んだような、しかし澄んだ若々しい声が響いた。
 
「やあ、どうも」
 
その声を保井の背中越しに聞いた猫宮 幸子は、まず頭だけを、保井とドアの間に差し入れて中の様子を見た。
 
「あっ! 兄貴!」
 
そして、デスクに座す猫宮 寓司の姿を認めると、保井を押しのけてオフィス内に進み入る。
彼女は頬を膨らませて怒りを表しながら、語気を強めた。
 
「もー、すっごく捜したんだからね! 一体どこにいたのさ! 携帯も繋がんないし、GPSまで切っちゃって、おかげで兄貴謹慎処分なんだってさ!」
 
腰に手を当てて矢継ぎ早に、少しピントの違った文句を浴びせかける幸子。
その間に、保井は壁際に置いてある来客用の椅子へと向かい、腰掛けていた。
視線は常に寓司へと据えられており、こちらには全くピントの違いは無かった。
 
「はは、分かったよ、参った、降参する。悪かったねユキ」
 
微かに笑みを浮かべながら、両手を上げて降参の意を示す寓司。
普段ならば、このような状況に陥った際、彼は露骨にならぬ程度に抗し、妹を丸め込もうとする。そうして結局、小さな喧嘩のようになってしまう。
だが今回のいやに素直な態度に、幸子は違和感を覚えつつも、自らの言葉を容れてくれた事自体には文句もつけようが無かった。
更に何かを言おうとして口を開きかけたが、彼女は結局、ややばつが悪そうに口を噤んでしまった。
 
「それで、僕を捜してたみたいだけど、何か用でもあるのかな?」
 
寓司が続けて放った言葉に、幸子は本来の目的を思い出すのと同時に、保井のことについても気がついた。
用事があるのは自分だけではないのだ。幸子は部屋を軽く見回して、壁際の椅子に座す保井を見つける。
その視線を受けて、言外に意図を察した保井は、無言のまま小さく頷く。それは、「そっちの用事を先に済ませろ」という意思表示であった。
幸子は寓司の方へと向き直る。
 
「え、えぇ〜っと。うーん」
 
が、いざ兄を目の前にして、どのように話をしたらよいものか幸子は窮した。
いま何か欲しいものはあるか、それだけの事を訊ねるだけと言うに、彼女は羞恥に身をくねらせる。
その気恥ずかしさの原因は、幸子本人ですら図りかねているであろう。
だが、幼子の如き躊躇に痺れを切らしたのは、寓司でも幸子本人でもなく、壁際で座す保井であった。
 
「お前にプレゼントをしたいようだが、その品が定まらんらしいぞ」
 
あっさりと幸子の目的を代弁する。
弁を代わられた本人は驚いたように、それでいてどこか安堵した様子で保井の方を振り向いた。
それに対し、保井はギロリと横目で睨み上げる。その視線は幸子と寓司の両方に向いているようだった。
 
「答えてやれ」
 
保井がそこまで言い切ったところで、寓司は「あぁー」と合点がいったように声を上げ、微かな笑みを浮かべた。
 
「そういえば、明日は僕の誕生日、か」
「そ、そういうこと! ほら何が欲しいのさ!」
 
寓司に対して少し興奮気味に答えを催促する幸子。
寓司はもう一度小さく笑うと、再び保井の方を見た。保井の目つきは鋭く、幸子の背中越しに寓司を貫いていた。
 
ふぅ、と小さくため息をつき、彼は答える。
 
「そうだなあ。ユキがくれるなら何だって嬉しいけど、万年筆とか、嬉しいかな」
「ふえ?」
 
万年筆。その答えは幸子にとって意外なものだった。
これ程までに常識的なプレゼントを求められたのは、およそ遡れる限りの記憶の中では初めてであったからである。
彼女は暫し、呆気にとられていたが──
 
「どうしたユキ。買いに行ってくれないのかい?」
 
──寓司のその言葉で、はっと気を取り直す。
 
「う、うん、分かった、万年筆ね! ここには売ってないと思うから、町まで行ってくるけど、いいよね?」
 
言いながら、幸子は出入り口のドアの方まで歩いていく。
 
「うん、いいよ、行ってらっしゃい」
「いってきまーす」
 
そして、ドアを開けて退室、しようとしたところで、彼女はふと何かに気付いたように、ドアから少し離れてから保井の方を向いた。
保井がそれに気付いて視線を移すと、彼女はぺこりと頭を下げる。一緒に捜してくれた保井に対する礼儀なのであろう。
保井は右目と左目の大きさの差を更に広げながら、追い払うような動きで、幸子に対して軽く手を振る。
頭を上げた幸子は、そのような保井の様子など歯牙にもかけぬ様子で、歯を見せて短く笑う。まるで悪戯好きの子猫のように。
それから、彼女は背を向けてドアの向こうへと去って行った。
 
その背中を、寓司は微笑みながら見送っていた。
 
空白
 
空白
 
「さて」
 
 
保井と寓司の二人だけとなったオフィスにて、遠ざかる幸子の足音すら聞こえなくなった静寂を裂いたは保井の声。
椅子を軋らせ、肘掛けに手をつき、ゆっくりと立ち上がった彼は、獲物と距離を詰める虎の如く緩慢に、それでいて隙がない歩みで寓司に近付く。
寓司は目を細め、両手をデスクの上で組んでその様子を神妙な面持ちでじっと見つめていた。
 
「大方、察しているだろうが」
 
保井は静かな足取りで、先程まで幸子が立っていた所に立ち、寓司を見下ろす。
そして淀みの無い流れるような動作で、懐から何かを取り出して寓司へと向ける。
 
SCP-006-JPの人為的収容違反未遂並びに指定要注意団体の財団に対する内偵幇助により猫宮 寓司一般研究員への処罰を執行する」
 
彼が取り出した何かは、一丁の拳銃であった。銃口は震える事すら無く、正確に寓司の心臓を捕捉していた。
しかし次に響くのは、銃声ではなく、寓司のため息でった。
 
「酷いことするね。人の妹を、まるで人質みたいじゃないか」
「そうだな」
「ユキは、知ってるのかい?」
「知ってたら、こうなってると思うか?」
「どうだろうね。僕にも、よく分からない」
「俺もだ」
 
緩慢な動作で、銃口を見上げる寓司。しかし、やや待っても、その銃口が向きを変えることも火を噴くことも無かった。
 
「撃たないのかい?」
「もし収容違反が未遂じゃなければ2分前に撃っている。お前の動機を知りたいという、上の連中の要望を無視してな」
「お優しい事だね。でも、そういうのは、こう、査問会とかで色々調べてから、こうやって処分を下すんじゃないのかな?」
「お前に関しては、公式の記録に残したくない情報が多すぎるそうだ」
 
成る程、と寓司は心の中で呟いた。どうやら、自分が死ぬ事は決まっているらしい。
まかり間違っても、目の前のこのエージェントは仕事をしくじるようなヘマはやらかさないだろう。
だが、不思議とその方が、寓司にとっては心が安らぐような思いであった。
 
「ユキのこと、あなたは知ってるかな?」
「ああ、昔実際に見た。本人は憶えちゃいないがな」
 
猫宮 幸子の体質のこと。死しても記憶が一部修正された状態で蘇生、というより復元されるという異常。
それは寓司と、一部の高レベル職員のみが知っている機密であり、本来それを目撃した保井は記憶処理の対象となるはずであった。
だがこうして、それを知った上でここに保井が立っているという事実が何を示すのか。それは二人ともよく理解していた。
この事態が想定されたものであるが故に、保井は記憶の保持が許されたのだ。
猫宮 幸子の不死。それに兄 寓司が密接に関連している事は、財団にとっては公然の秘密であった。
 
「そう。でもね、あのユキは『失敗』なんだ。とても不完全で、完成品とは言えない」
「・・・お前たち兄妹が互いに強い依存関係にある事は、把握してる」
「話が省けて助かるよ。動機なんて一つさ、僕はユキに幸せになって欲しい。そして、幸せなユキがこの世に存在しているということが、僕の満足なんだ」
「賢明とは言えんな」
「結果的にはね・・・とても、残念だ」
 
保井が銃の引き金に指をかける。
寓司の体は椅子の上で微動だにせず、両者の視線は交錯する。
寓司は諦めているような、あるいは自棄になっているような力の無い視線であった。
対する保井は、熱も感情も無い、冷静さそのものである細めた視線を、銃口の先に向けている。
 
「何か言い遺したい事はあるか?」
 
しかし、銃弾が発射されるより前に、保井の言葉が発された。
 
「・・・訊かないのかい? 僕が内偵幇助した、敵の工作員のこと」
 
寓司は表情を変えず、呟くような声を絞り出した。
即座に、はっきりとした保井の声が応える。
 
「どうせ喋るまい。それが最後の台詞か?」
「いや・・・そうだね、じゃあ最後に、一つだけ聞かせてもらっていいかな?」
「なんだ?」
 
寓司の上体が、若干前方へと傾ぐ。
その変化に保井は一切反応を示す事なく、ただ寓司の言葉の先を促した。
 
「ユキは、どうなる?」
 
その言葉こそ、彼と保井のやり取りの中で最も真剣な問いであるように思われた。
自分の死後、妹がどのように処されるか。それは、どのように扱われても不思議ではない、という寓司の想いをそのまま表していた。
 
「エージェントとしての雇用は継続されるだろう。いくつかの心理テストと監査を受けてもらう事になるだろうがな。あいつがこの一件に関与していない事は、もうウラが取れてる」
 
ウラが取れている。
つまり、内偵中の要注意団体工作員も既に捕捉済みであるということである。
だが、寓司がこの期に及んで関心を寄せる点はそこではない。
 
「そういう事じゃなくて、記憶のことさ。まず、ユキはどこまで知ってるんだい?」
「あいつは何も知らん。自分が人質、あるいは処刑のための道具として利用された事すら知らんだろう。お前がした事も、4日間雲隠れしていた事にも気付いてはいない」
「・・・君のことは?」
「・・・何も知ってはいない」
「そうか」
 
背もたれに背中を預け、天井を仰ぎ見る寓司。天井には、シミ一つ浮いてはいなかった。
 
「記憶処理も、恐らくされないだろう。あいつは死ぬ度に原理不明の記憶改変が起きている。そういう奴に記憶処理を施すのはリスクが高い、と判断されるはずだ」
「そう。それは、よかった」
 
視線を保井の方へと戻す寓司。
保井は、やはり、全く表情を変えてはいなかった。
無表情で、冷静そのもの。その奥には何も無いかのように思わせる、空洞の仮面である。
しかし、本当にそこには何も無いのだろうか? 少なくとも引き金に指をかける意思は存在しているはずである。
 
「僕がいなくなって、ユキは大丈夫かなぁ」
 
呟く寓司の瞳を、保井の鉛色の視線が貫いた。
 
「『そうか』と言うだけさ」
 
ふっ、と薄笑いを漏らしたのは、寓司であった。
そしてその直後、二度の銃声がオフィス内にのみ響き渡った。
 
空白
 
空白
 
オフィスのドアが開き、姿を現したのは黒いスーツの男。
彼は、私物のイヤホンを取り出して装着すると、静かに目を閉じた。
 
完全防音のオフィス内では、発砲音すら隣室には些細な音としてしか響かない。
その程度の音ならば、職務への集中によって十分に人の脳からはかき消される。
監視カメラの記録等も既に差し替えられている。死体も、特殊機密処理班が上手く後始末をつける手筈である。
部屋も掃除され、遺品も整理・検閲されるだろう。関係する情報は分断され、隠蔽されるだろう。
全てが速やかに片付けられ、迅速な手続き書類の上で、存在は略奪されていくだろう。
そうして最後にぽつんと残るのは、猫宮寓司が死んだという事実だけである。
猫宮幸子ならば、その事実を保井と結びつけることが出来るだろう。彼女の思考は恐らく、正しい推理であるだろう。
そうして・・・どうなる? 何も変わりはしない。何も動きはしない。それが、当然だ。彼女がその当然を受け入れることを願う。
 
もう二度と、起きない事を願う。
 
保井は心の中で呟き、目を開いた。いつも通り、何も変わらぬ、左右で大きさが異なる両目がそこにあった。
彼は白い廊下を歩み始める。
 
猫宮は、相棒である育良と非常に仲が良い。それがために、今回の件は育良にすら伏せられていたが、猫宮が全てを知った時、縋る相手は育良だろう。
あの二人は、互いに精神的支柱になり得る。ならば今回の件で、猫宮が己の心の隙間を埋めんとすれば、相棒である育良を頼るはず。既に、そのように仕向けてある。
無論、心は千々に乱れ、昂揚と墜落を繰り返すだろう。一つの人生が終わりを告げた事を知り、暗黒の如く見通しが利かない未来が先にある事を知るだろう。
だが、大丈夫だ、猫宮。お前はエージェントだ。心を動かすな。お前は、既に出来るはずだ。
倒れても挫けても、これまで通り、直ぐに立ち上がって前に歩き出すはずだ。
怒りも憎しみも、愛も情熱も、いずれは消え失せる。理由なんていうのは、いつかはどうでもよくなる。
それらに翻弄される事自体は問題ではない。重要なのは、それらが消え去った後に何が残るかだ。
あらゆるものが燃え尽きた後、最後まで燃え尽きなかったものは何だったのかということだ。
重要なのは一つだけだ。それでいいし、それが当然だ。当然が、当然のように存在する。ならば、俺たちがすべき事は一つだけだ。
 
空白
 
空白
 
保井 虎尾。お前はエージェントだ。
 
 
彼は廊下を進む。
白い廊下に、黒い背中が埋もれてゆく。

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