ハエトリ計画特殊対処事例-1:作戦名"霧迅"
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20██年██月██日/16:27:04 SCP-066-JP特別対処事例警戒発令
20██年██月██日/16:27:04 SCP-066-JP特別対処事例警戒発令
優先レベル6以下の業務、または休養中の"ハエトリ計画"担当人員は直ちに配置につけ
優先レベル6以下の業務、または休養中の"ハエトリ計画"担当人員は直ちに配置につけ
本作戦への問い合わせを予定する場合、速やかに作戦司令部へ連絡する事
本作戦への問い合わせを予定する場合、速やかに作戦司令部へ連絡する事
繰り返す
20██年██月██日/16:27:04 SCP-066-JP特別対処事例警戒発令
優先レベル6以下の業務、または休養中の"ハエトリ計画"担当人員は直ちに配置につけ
本作戦への問い合わせを予定する場合、速やかに作戦司令部へ連絡する事
繰り返す──

作戦司令部と呼ばれてはいるが、実際の所、その一室の役割は情報統合室と言った風情のものであった。
ずらりと壁際に揃えて押し込められたコンピューター端末とモニターは、テニスコートよりもやや大きいはずであったこの一室の広さを6割程にまで押し縮めている。
機器の前には、それぞれが専門分野を有したオペレーターが座し、モニターとコンソールに向かって、忙しなく情報の整理と分類を行う。
それらの手順に淀みは一切無く、躊躇わずに素早く自らが得手とする分野の情報を処理し続けていた。
 
しかしその中に、身を縮こまらせながら周囲を見渡し、躊躇いがちにキーボードをさする指先と背中が一つ。
業務命令により、普段着用している頭部の覆いが外されているためか、それとも生来の小胆のためか、その細身の体は不安に震えていた。
 
そのため、作戦司令部の扉が強く開け放たれたというそれだけの事で、その肩はびくりと跳ねた。
扉が開け放たれた理由は、その向こうから、軍服の群れが入室してくるためだ。
堅い靴音を響かせながら部屋の中央へ歩んでいく軍服たちの先頭を行くのは、一際大柄で厳つい男だった。彼の軍服そのものは他の者たちのそれと同様であったが、その風貌と、纏う静けさは、彼が歴戦であることを示しているようだった。
 
「各員、そのまま続けろ。遅れてすまなかった」
 
彼へ向けて畏まる寸前であったオペレーター達を制しつつ、男は軍帽を脱ぎ、部屋の中央にある机の上に投げ置いた。
男の名は黒堂 団一。"ハエトリ計画"作戦司令室指揮官であり、実質的な作戦司令官である。
 
SCP-066-JPに於ける実体SCP-066-JP-2の空中確保作戦──"ハエトリ計画"
台風が来る度に海中から飛び出し、日本のいずれかに落下する大質量の実体を、可能な限り被害を抑えて収容することを旨としたこの作戦では高度な設備、人員、システム、そしてそれらの連携が求められる。
だが何より求められるのは速度である。設備も人員もシステムも連携も、速度のために存在していると言っても過言では無い。
故に、黒堂なのである。実戦経験が豊富で、状況に対して素早く的確な判断を下せる人材として、国内の職業軍人としては異例の実戦キャリアを持つ彼が適任だったのである。
彼の後ろからついてきた軍服の群れは、ただの補佐官に過ぎない。黒堂こそが、この作戦全ての指揮と、命令系統に於ける多くの責任を負う者なのである。
 
その彼が、機器の前で小さく震える背中を見つけると、補佐官達に机の傍で待機するよう目配せした後、小さな背中に向かって歩み始める。
小さく震える肩が、今度は強張る。黒堂の足音が近付いてきている事を察したためだ。
 
「幸坂事務員」
「はいぃっ!」
 
小さな背中の名を呼び終わる前に、彼女は勢い良く立ち上がった。
力強く鼓動する彼女の心音は、黒堂にすらはっきり聞き取れる程だった。
そんな彼女を振り向かせぬまま、黒堂は静かに言葉を放つ。
 
「作戦行動への従事は初経験だそうだな?」
「はっ、はい」
「肌には合わんだろうが、慣れてもらうしかない。まずここでは『幸坂事務員』などと呼ばれても返事はするな。ここでの君の肩書きは二等情報官・緊急対処オペレーター。作戦中のコードネームは"レザー"だ」
「は、はい」
「どもるのも厳禁だ。分かったな"レザー"」
「はい!」
 
彼女は自らの単眼が涙で潤いそうになるのを何とか堪え切った。
二週間前、いつも通り業務連絡を確認していた彼女は、そこで突如自らが"ハエトリ計画"のオペレーターの一人に抜擢された事を知ったのだ。
無論、ほぼ定期的に実行される大規模作戦の事を彼女自身が知らないはずは無い。それどころか、"ハエトリ計画"の手順改正会議のための会議室を手配したことすらある。
だが、それはあくまで自分とは全く異なる分野の仕事。是非に頑張ってもらいたいと思いはしつつも、そこに自分が参加するとは到底思っていなかった。
それが唐突に、作戦そのものの基幹となるべき司令室の情報官として働く事になってしまったのだ。萎縮しない訳が無いというものである。
パリッとした制服に身を包み、まさしく戦場の前線に立つ。これまで事務員として、財団の中では比較的和やかな業務をこなしてきた彼女にとって、それは災難以外の何ものでも無かった。
 
「こちらを向け」
 
黒堂の声が幸坂の耳に、脳にこだまする。
ここに配属されるにあたって、当然彼女は司令官である黒堂の顔を写真によって知っている。
その時に最初に抱いた印象は大まかに述べて「怖そうな人」というものであった。
その人物と、至近距離で対面せよ、という命令が下されたのだ。軍人でも何でも無い幸坂は、一瞬たじろいだ。
 
「こちらを向くんだ」
「はいぃっ」
 
だが、更に声を低めて発された二言目に対しては、意思よりも肉体、ひいては生物としての本能が反応した。
素早く反転した幸坂の視界に、固く口を閉じ、眉間に皺を寄せた黒堂の顔が映る。
幸坂は、思わず口元が引き攣ってしまった。その様子を黒堂の双眸がじろりと見下ろし、微かに口を開く。
「怒鳴られる」。咄嗟にそう感じた幸坂は体を硬直させたが、その予想に反する事態が起きた。
黒堂は幸坂から視線を外し、司令部全体を見渡せるように振り返ったのだ。そして微かに開いた勢いそのままに、口を広げ声を張った。
 
「諸君、注目」
 
低く、それでも司令部全体には十分に通る声。
ここにいる全員が、それに従った。
 
「事前の連絡で既に承知の事だとは思うが"ハエトリ計画"内の緊急対処手順の多様化に伴い、司令部の増員が実施された。周知の事実ではあるものの改めて紹介しよう、彼女は幸坂 縁二等情報官あるいは緊急対処オペレーター、コードネーム"レザー"、平時に於いては幸坂事務員と呼ばれる。全員、彼女の声と顔をよく憶えておくように」
 
黒堂は、司令部の一同に幸坂を改めて紹介したのだ。
当然、司令部に配属されている人間は、他の司令部所属の人員全ての人事ファイルに目を通している。が、実際に幸坂を目の当たりにするのは初めてなのである。
"ハエトリ計画"では日本全土、更には国外からも人材を集めているため顔見知りなどもいない。それ故に、現場入りした新人の紹介は不可欠なのである。
ここにいる全員は、他の全員の声の僅かな特徴を憶えて、誰が何を発言したかを即座に認識出来るようにならなければならないのだ。
そしてそのためには、幸坂が自己紹介を行う必要がある。黒堂はそのお膳立てをしたのだ。
 
「こ、幸坂 縁二等情報官、コードネーム"レザー"です。緊急対処手順のオペレーションを担当する事になりました。よろしくお願いします」
 
このぐらいの自己紹介なら、普段の彼女であれば余裕綽々でこなせるはずである。
だが、普段の業務とは全く違うこの空気と緊張の中で本領を発揮するには、未だ時間が足りないのである。
彼女には、自己紹介後の皆の沈黙すらも恐ろしく感じられてしまった。
 
「以上だ、仕事に戻れ」
 
黒堂の言葉で、各々は自らの業務へと戻る。
 
「お前も仕事だ"レザー"。緊急対処が業務のお前でも、マニュアルの確認とプログラム動作のテストぐらいは事前にやっておけ。シフトの時間は・・・予定通りだ」
 
更に彼は幸坂の方を振り向き淡々とそう言い放つと、彼女の挙動を見届ける事もなく、司令室中央へと戻っていった。
その様子に更に不安を覚えながらも、幸坂はなんとか再び席に着く事が出来た。
 
SCP-066-JP特別対処事例警戒が発令されてから5時間27分が経過していた。
 
「状況は?」
「温帯低気圧の発生と、SCP-066-JP-1への接近軌道が報告されています。温帯低気圧の中心の最大風速は現在51.2m・s-1。衰弱期に移行しつつありますが、"Phoibos"の計算では十分な勢力を保ったままSCP-066-JP-1上に到達するとの結果が出ています」
「温帯低気圧は南東よりSCP-066-JP-1上に到達するものと思われますが、軌道の誤差程度で、十分SCP-066-JP-1より外れる事もあり得る、と郡博士は見ています」
「しかし、比較的早い段階で偏西風に乗った事もあり、移動の速度は非常に速く、予断を許さない状況です」
「各支援基地と監視駐留所、各種通信網へのダメージ予測はどうだ?」
「現在のところ基準値内です。機動部隊のスタンバイにも支障ありません」
「よし、温帯低気圧の情報を逐一取得し、報告しろ。"ハエトリ計画"発動宣言を発布すべきタイミングを決して逃すな。今回は"Phoibos"の補助に"Helios"も使う。今から申請したとしても、一時間半後には許可が下りるはずだ」
「了解」
「了解」
「了解」


 
空白
 
天にまします われらの飢えよ
願わくは我が心を満たしたまえ
御影を来らせたまえ
御心の血になるごとく、地にもなさせたまえ
われらの日用の糧を今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを
われらが糧とするごとく
われらの飢えをもゆるしたまえ
われらを頂きにあわせず
渇望より救い 出したまえ
霧と水と飢えとは
限りなくなんじら影のものなればなり

████…
 
空白
 
空白
 
空白
 

20██/8/██ 17:40頃、巡回中だった無人航空機の光学スペクトルデータ及びサンプリング調査の分析から、██県███町南南西約140km地点の海上、約1,800m上空に積乱雲状のSCP-058-JPが発見されました。この時点でSCP-058-JPは███町方面へ60km/h前後で移動しており、███町への到達予想時刻は19:55と推定されました。

 
空白
 
空白
 
空白
 
我は禍土の造り主 全能の父なる影を信ず
我はその独り子 我らの主、█████を信ず
主は陰影によりてやどり おとめ█████より生れ 苦しみを受け 死にて葬られ 陰府にくだり 三日目に光芒の内よりよみがえり 影にくだり 全能の父なる影の右に座したまえり
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん
我は聖霊を信ず 七臓の血の交わり 罪のゆるし からだのよみがえり とこしえの命を信ず
 
████…
 
空白
 
空白
 
空白
 
「確認が取れました、未確認のSCP-058-JP実体群です。一時空気中に飛散した霧状の小実体が対流圏内で融合を続けていたものと思われます」
「来たか、久々に」
「規模はどの程度だ?」
「少なくとも48,000㎥程度は」
「・・・随分多いな」
「対処は?」
「ティフォンとあかしまが急行しています。オブジェクトは人類生活圏へと接近しており、最大の収容努力が必要かと」
「ヨウ化銀誘導の手配をしろ。6基の誘導装置をオブジェクト中心部から3km圏内に必ず配置するんだ、行け!」
「はっ」
 
「・・・妙では?」
「何がだ」
「アレらが一ヶ所に集まろうとする性質を持つのは承知の上だが・・・一度飛散した後で集合する場所が、何故ここまで日本に近いのだ? 気候的にも、ここは集合地に向く国ではあるまい」
「他の集合実体も全て日本で発見されている。帰巣本能みたいなのがあるんじゃないのか?」
「他の例では、集合実体は全て日本国土に固着した実体だった。しかし今回は、文字通り空気中に霧散した個体だ。気象の変化が激しい日本近海上に留まること自体困難なはずだ。ましてやかつてない規模である、最低48,000㎥の塊などで──」
「だが奴らはその労苦を推してでも、そこで集合し、隠れ、今まさに襲ってきた」
「・・・」
「・・・そういえば、今はSCP-066-JP特別対処事例警戒も発令されていたな」
「そうだな。関係あると思うか?」
「分からん。だが──」
 
「嫌な予感がする。そうだろう?」
 
空白
 
空白
 
空白
 
我ら霧の民、我らが飢えの故に、我らが血漿の誓いの故に、御出征をお慕い申し上げる
 
████…
 
空白
 


「一体どうした」
 
やや語気を強めながら、黒堂は補佐官の面々をギロリと睨み付けた。
彼らの周囲を固めるオペレーター達は、より一層の慌ただしさでモニターを制御しつつ、作戦に関係する各部署に連絡を取り続けていた。
それはまさに、不測の事態が起きた事を証明する喧噪であった。
 
「温帯低気圧が洋上で急激に加速しています」
 
筆頭補佐官が、老練の司令官に対してまずは簡潔に事実を述べた。
 
「気象図を見ても各前線は高速で推移しており、今なお加速し続けている状況です。原因の詳細は不明なままですが、加速は17:45より急激に進行しました。温帯低気圧が現在の速度を保った場合3時間後に、従来よりも20時間早く"ハエトリ計画"発動宣言発布の要件を満たすと思われます、更に加速した場合の予測は計測結果待ちです」
「原因の詳細は不明と言ったな。仮説程度のものなら、何かあるのか?」
 
黒堂の問いに、筆頭補佐官は数瞬躊躇った。
しかし鋭い視線に射すくめられ続けられ、直後には覚悟を決めたように口を開いた。
 
「・・・17:40に、SCP-058-JPのかつて無い規模の集合実体の出現が確認されています。捕捉可能となる以前の軌道を推測した所、複数の推測結果の内の一つで、SCP-058-JPは形成段階にある温帯低気圧に接触していました。およそ110時間程前に、ですが」
「そうか」
 
報告に対し、いやにあっさりとした返答がなされる。そしてその後数秒の沈黙すら挟まる余地を与えず、黒堂は言葉を続けた。
 
「"ハエトリ計画"発動宣言は、本来は"Phoibos"自らの計算結果に基づいて自動で発布される。だが、手動でも"ハエトリ計画"発動宣言の発布は行えるはずだ」
「お言葉ですが、マニュアル外の出来事をプログラムに強制した場合の影響は予測が困難です」
「いや、緊急対処マニュアルF12-22に記述がある。"レザー"!」
 
黒堂は突如大声でオペレーターの一人のコードネームを呼ばわった。
それに反応して、肩を凍らせながら、単眼の女性が椅子をガラガラと180°回転させて立ち上がり、意味の無い敬礼をとる。
しかしそんな様子に構わず、黒堂は決然とした口調で幸坂にこう言い放った。
 
「緊急対処マニュアルF12-22を起動! "ハエトリ計画"発動宣言の発布と同時にプロトコル1243-KKRを実行し、各部隊にこう通達しろ。『本作戦は"ハエトリ計画"に基づく収容プロトコルを技術手順として取り入れた、独立した収容任務として扱う。"ハエトリ計画"の本来の手順やシステムに加えて、従来の収容マニュアル、システム、装備、通信網を活用し作戦にあたるものとする』」
 
黒堂の語気が強まる。
だが、それは怒りによるものでも、士気によるものでも、恐れによるものでも無い。
 
「──『これは特殊任務である。各員、腹を括れ』」
 
彼は単純に、全ての人間にこの言葉が聞こえるよう、口調を強めているのである。
この司令室に存在する全員の視線が、黒堂に集まる。それは一瞬の事だったかもしれない。
だが黒堂の言葉によって、オペレーター達が、技術将校達が、補佐官達が、警備兵達が、役割を持つ全ての人々が黒堂を仰ぎ見た。
そして彼らの視線は、黒堂に注がれた直後に、幸坂へと向かう。妙な敬礼の格好のまま固まって、その大きな単眼を潤ませている彼女へと。
 
「はいぃっ!」
 
幸坂はなんとかどもる事もなく一言で返事をすると、椅子を蹴り倒しながらも急いで自分の持ち場に戻った。
その直後、他のオペレーター達も動き始める。ただし今度は慌てた様子はなく、静穏に、且つ素早くプログラムの軌道修正を行っていた。
 
そして15分後、"ハエトリ計画"発動宣言が発布された。


「SCP-058-JPの収容と事態の鎮静から12時間が経過しましたが、温帯低気圧はほぼ速度を維持しています」
「これだけのものだ、一度勢いがつけばそう易々と止まりはしないだろう。SCP-058-JPとSCP-066-JPの関連は掴めたか?」
「報告に基づいて研究が進行してはいますが、かなり難しいでしょう。判断材料が少ない上に、両オブジェクトを関連づける証拠すら決定的に不足していますから」
「しかしSCP-058-JPの事態が鎮静されてから、温帯低気圧は少なくとも加速はしなくなりました。おかげで"Phoibos"による計算結果は安定しています」
「SCP-066-JP-2出現までは、おおよそどれ程の猶予がある?」
「6〜7時間程です。加速した分勢力は弱まっていますが、確実にSCP-066-JP-2の出現を促すだけの勢力と軌道を有しています」
「よし。指示していた通りの配備は?」
「既に完了しています。現在は各通信網のチェックとテストを繰り返している段階です」
 
黒堂と補佐官たちの話を背中越しに聞きながら、幸坂は不安の中で業務をこなす。
尤も、不安と言えども仕事の基本的な動きには慣れが生じており、チェックとテストの手順はいつもの事務処理とほぼ同様のスムーズさで行えるようになってきている。
しかし、いざSCP-066-JP-2が出現し、自分が動かなければならない状況になったら、果たして大丈夫だろうか?
自分が担当している場所は緊急対処オペレーション。つまりスピードが勝負である。スピード勝負の経験が無いわけではない幸坂であったが、その事を事前に報されているような状況下では、緊張が勝る。
結果として、不安が募る。こんな事ではいけない、と思い直し汗と共に拭い去っても、不安は再び同じ動きで積み重なる。
そうして、時間だけが過ぎていく。初任務の緊張と不安と焦り、そこにイレギュラーな事態の発生という事実が重圧として重なる。
緊急対処オペレーターとは言え、緊急指令下以外では通信回線の中継や暗号化のサポート等も行うのであるが、それがますます幸坂の時間の感覚を早めていた。
 
心臓の高鳴りと、頭部への熱の結集が自分でも感じられる。だが、両隣にいる先輩オペレーター達も、司令室の中央で議論を重ねている戦術技官達も、そして黒堂も、幸坂の感じる重圧に気をかけている余裕は無かった。
時間は有限で、そして今現在もそれは消費されている。必ず来るその時に対して万全な備えを整えるために、やれる事は全てやる。
構築が完了したとしても、確認とテストはその時が来るまで無限に行い続ける。平常時に訓練を積んだ上での入念ぶりこそが、財団を財団たらしめる、組織としての性質の一つであった。
そこには、何らかの作業に没頭させることで、緊張感や絶望感や恐怖を和らげるという意図もあっただろう。しかし少なくとも幸坂に対しては、その効果は半分は意味を為さず、もう半分は覿面であった。
6〜7時間をただ座して待っていたならば、現在感じているのとは比べ物にならない不安と更なる重圧によって、最悪の場合、彼女は嘔吐までしていたことだろう。
それに比べれば、時間の経過が早く感じるというのは「まだマシ」な症状であった。
 
そして時は瞬く間に消費され、遂にそれを報せる警報が司令室に鳴り響いた。
その一瞬のみ、黒堂を除く全ての人間が警報に気を取られた。
 
「作戦開始だ。全てのプログラムを起動しろ」
 
低く抑えながらも、威圧するような凄味の篭った声で、黒堂はそう指示した。
この警報が意味するものこそが「いつSCP-066-JP-2が出現してもおかしくない状況に突入した」という事実である。
つまりは作戦開始の合図。何かを予め行える時間は過ぎ去ったという証である。
 
「"ouroboros"活性化開始」
「全作戦支援基地、作戦行動に支障ありません」
「全機動部隊のモニター開始。戦術ウインドウに表示します」
「"Quetzalcoatl"活性化します」
「"Phoibos" "Helios"両サーバ問題ありません。動作良好です」
「各監視駐留所のモニター情報表示します」
「作戦支援基地機能起動。収束磁気システム内の励起を確認しました」
「監視駐留所との通信を優先化します」
「リアルタイム情報表示します」
 
矢継ぎ早に報告が司令室を飛び交う。しかし実際の所、直前の備えに行える事は既に殆ど無い。やるべき事の多くは、既に完了しているからである。
いつ対象が出現してもおかしくない状況へと移った事で、やる事はかえって劇的に減ったのだ。
行うべきことと言えば、継続運用によって負荷がかかると思われるシステムの起動と、報告程度のものである。
慌ただしさはものの数十秒でなりを潜め、後は張りつめた静けさのみが場を支配する。
その中で、全員が司令室の壁に取り付けられた大型のメインモニターに視線を注いでいた。
 
メインモニターに映っているのは、監視駐留所からの映像である。
それは台風によって荒れ狂う海の模様を沿岸から撮影しているリアルタイム映像であった。
この画面全体が、SCP-066-JP-1──「巨大な金属塊を放出し得る海面」なのである。
 
皆が固唾を飲み、映像を注視した。
監視駐留所が管理している観測機器から送信され続けているデータは、スーパーコンピューターによって自動で処理されている。
それらが示すものは、今のところ何一つ無い。
沈黙と、スピーカーから漏れ聞こえてくる、台風の勢力の強さを物語るような風と波浪の音のみが皆の心を包み込む。
 
この静けさを切り裂いたのは、情報官の一人が担当している制御盤から鳴り響いた、心電図がフラットを描いた時のような電子ブザーだった。
 
この音こそ、観測機器がSCP-066-JP-2出現の徴候を感じ取った証である。
重力場の形成を、海面の分子運動の異常から感知したのだ。
 
それとほぼ同時に、膨大な量の情報がまさしく洪水の如く司令室へと流入し始めた。
数十基のモニター全てが、感知し得るあらゆる情報をリアルタイムで表示し続け、オペレーター達は一斉にそれと向き合った。
 
「重力場の形成を確認。海中穿孔開始」
「重力場沈下を確認。温度上昇しています」
「崩壊現象始まりました。臨界予測開始します」
 
そして、メインモニターに映る海面にぽっかりと穴が空いた。
穴は、まさしく地球そのものを呑み込まんとするかのように直径と深さを増し続ける。
そこで世界が途切れているかのような、不自然な落とし穴。
黒堂はそれを、黙って見つめていた。
動揺も狼狽も驚愕も無く、ただそれを見つめながら、報告を聞き続けていた。
画面を埋め尽くすように広がりつつある穴は、まるで司令室を呑もうと迫ってきているかのようだった。
 
だが、それは穴では無い。黒堂はそれを知っていた。あれは穴ではない。
あれは引き絞られた弓なのである。
もしくは、大きく後ろに振りかぶられた、石を握る手であろう。
 
「深度260に到達。収縮率83.9%!」
「重力場内の全原子の崩壊を確認しました!」
「内部温度レッド・ゾーンに突入!」
「核熱量臨界点に到達!」
「収縮率97.8%! 収縮停止!」
 
多くの声が響いていた。
しかし、モニター越しに"それ"と相対していた黒堂が漏らした言葉は、ただ一つだけであった。
 
「デカいな」
 
直後、司令室から遥か遠く離れた海中が爆ぜた。
海そのものによって投擲されたが如き格好で、巨大な金属塊は爆発のような水柱を立てながら外界へと飛び出したのだ。あたかも、獲物に飛びかかる獣の如く。
その瞬間、幸坂はそうしてはならなかったにも関わらず、つい横目で再びメインモニターを覗き見た。
 
監視駐留所のカメラは、既に遥か彼方へと飛び去っていったSCP-066-JP-2へと向けられている。
そこに映る実体は、最早僅かな点のようにしか見えなかったが、幸坂は息を飲み込んだ。
 
──アレが、敵か。
 
端的で、ごく短い思考だった。
これから自分が対処しようとしているモノを、遠く離れた姿であっても、モニター越しであろうとも、その大きな目で見たのである。
体を、心を、震わせずにはいられなかった。
 
「落下地点出ました!2S-76-12!」
「対象の情報を取得!戦術ウインドウに表示!」
「"ouroboros" "Quetzalcoatl"への自動指令及び動作を確認!」
「作戦支援基地S-12、S-13、S-15、S-16、S-17、S-18への指令送信を確認!」
「機動部隊"アーチα" "アーチΔ"への指令送信を確認!」
「気象情報自動追跡問題無し!」
「当該作戦支援基地準備開始! 完了まで残り1分16秒!」
 
10秒間で多くの報告がまたも指令室内を飛び交う。
だが、"ハエトリ計画"の手順の多くは既に自動化されている。
 
SCP-066-JP-2実体の情報を集積し、気象条件等の、軌道に影響を及ぼし得る条件と照らし合わせて落下地点を割り出す。
その後落下地点を中心とした作戦エリアを、周辺の作戦支援基地と機動部隊待機所の分布から設定。作戦支援基地と機動部隊に指令を送信し、SCP-066-JP-2の位置情報をリアルタイムで共有。
作戦支援基地が照射する収束磁気の出力を、SCP-066-JP-2との距離によって個別に設定し、既定の高度にSCP-066-JP-2が達するのと同時にタイミングを合わせて照射。
出力をコントロールしつつSCP-066-JP-2の情報を機動部隊に送り続け、収束磁気照射によって落下速度が低減されたSCP-066-JP-2を回収すべき最良のタイミングを指示する。
 
ここまでの事を、全て自動で行う事が既に可能となっている。
極端な話、一度SCP-066-JP-2が飛び出してしまえば、司令室にいる人間が何もせずとも"ハエトリ計画"に支障は無いのだ。
 
メインモニターの画面が切り替わる。
映し出されたのは、今回出現したSCP-066-JP-2実体に関する情報である。
観測と計測から得られた情報によって構築された、歪み一つ傷一つに至るまで正確に再現されたSCP-066-JP-2の3Dモデルが画面の中央で展示品のように回転しており、それを取り巻くようにして数値的なデータが示されていた。
それを目の当たりにして、黒堂の眉間が僅かに反応した。
 
円筒部の表面にはあのシンボル。ただし引っ掻き傷による破損は無い。
車軸の頭にはこれまで見られなかった、異なる複雑なシンボルが刻印されている。
車輪部の直径は47.3mで厚みは45.9cm。
総重量は3121kg。
これまで現れた実体の中で最大規模のものをゆうに超えるサイズと重量。
傷は多いが歪みは少なく、他の実体に比べれば密度も均一に近い。
車輪部は円筒部と溶接されておらず回転する仕組みとなっており、空中軌道に大きな影響を及ぼすだろう。
 
とはいえ、想定外の事態が発生する事は既に予想済みでもある。
これまでの最大値が、あくまで「これまでの」でしか無い以上、より高い要求を実現出来る能力は当然備えていなければならない。
既に、プログラムはこれらの特殊事象を考慮した上で計算結果を弾き出している事だろう。
この実体を受け止め、回収出来るだけの戦力を既に正確に把握し、情報と指令を送信しているのだ。
その点について心配すべき事は無い。
黒堂が直感的に反応した点はそこには無い。
ただ彼は、円筒内部に大きな空洞が設けられており、そこに楕円形の何かが収納されている点に、予感を覚えたのだ。
空洞の内部にはただ"何かがある"という事だけしか分からず、その正体については判別が出来ない。
彼はそこに、漠然と悪い予感を抱いたのだ。
 
とはいえ、収容そのものはつつがなく実行されていく。
そうしなくてはならないのだ。
正体不明の不確定要素一つ程度であれば、作戦に支障が生じるまでは捨て置くしかない。
少なくとも、刻一刻と時間が消費されていくこの場では。
それに、この楕円形の何かがたとえ爆発物であったとしても、機動部隊は必ず一定の距離を保ったまま、実体を磁力によって吊り下げて移動させる。
そうなれば、仮に作戦行動中に爆発したとしても影響は軽微であろうし、作戦終了後に、有り余る時間を利用して慎重に調査と収容を実行する事でリスクは最小限に抑えられる。
 
作戦に支障は無い。
この慌ただしさとは裏腹に、司令室は作戦中、最も不要な存在のままである。
 
 
──緊急事態さえ発生しなければ。
 
 
けたたましいサイレンと同時に司令室内の警告灯の一つが点灯する。
緊急事態の発生を、いずれかの自動装置が感知したことを示す合図だ。
緊急事態は、その性質によっていくつかに分類され、分類ごとにサイレンの音が僅かに異なっている。
つまりサイレンの音の違いによって、どの緊急対処オペレーターが担当すべき分類の事態なのかが、警告灯を見なくとも瞬時に判別出来るという仕様である。
今回のサイレンは初めの音が途切れ、次の音は正常、という二種の音の繰り返しによって構成されている。
それが指し示すものは一つ。そして点灯した警告灯に最も近い者も一つ。
 
"レザー"。幸坂 縁が担当する区分の緊急事態であるということである。
 
ハエトリ計画に於いて「報告を」などという馬鹿げた指示を、黒堂が出したりはしない。そのようなやり取りは重大な時間的猶予の損失であるからだ。
故に、言葉以上の速度で、彼女は自らの職務を自己の判断のみでやってのけなくてはならなかった。
小さな体格に納まる小さな心臓が大きく跳ねたように、幸坂には感じられた。
 
幸坂 縁。彼女は本来こういった危機的状況の対応には優れた才覚を持つ人物である。
だが今の彼女は平常心を欠いていた。普段とはあまりにも異なる衣服、環境、業務、そして使命。これらが、内気で人見知りな彼女の面を大きく引き出してしまっていたのだ。
この期に及んでもそれらは解消されておらず、実感を持ち切れずに、萎縮した状態でここまで来てしまっていた。
そんな状態であれば、緊急事態に際して軽いパニックを引き起こしてしまうのは自明の理であった。
 
「えっ、あっ、きんきゅっ」
 
キーボードに手を添えたまま、数秒間の狼狽を如実に露にする幸坂。
視線と思考のみがうろつき、手も喉もまともな着地点を見つけられていない。
ここに配属が決定されてからの、郡博士によるマンツーマン講習の内容が記憶をかき回す。
いくつもの手順や判断の例が空転し、多くの言葉がよぎっては消えてを繰り返す。
事態の把握。
緊急事態ファイルの位置。
先に報告。
報告、何て言おう。
汎用緊急メッセージ呼び出しってどうやるんだっけ。
何が起きてるか、どうやって見るんだっけ。
データの呼び出し。
報告って口頭?
戦術ウインドウに情報の開示を。
情報ってどこ?
それより、緊急事態って何?
いや、報告しなきゃ。
時間無い。
どういう手順だっけ。
郡博士の説明分かりづら過ぎだ。
 
──駄目だ、このままじゃ。
 
「っ・・・」
 
息を詰まらせながら、幸坂はなんとか情報をメインモニターの戦術ウインドウに表示することが出来た。
本来なら口頭での報告と同時に、メインモニター以外の各オペレートデバイスと、司令補佐が所持する策戦用タブレットにも併せて情報を送信しなくてはならないのだが、今の幸坂にそれらの正規の手順を速やかに完了する余裕は無かった。
これらの失敗を、直接咎める者はいない。そのような余裕などはとても無いからだ。事実、黒堂はメインモニターを凝視するのみであり、何事かを幸坂へと言い渡すようなことはしなかった。
 
「"アイアン"、プロトコルUS-12を発動しろ。対象JAL管制室、161-B-737-800」
「了解」
 
それどころか、まるで差し支えなく他のオペレーターへの指示を済ませてしまった。
プロトコルUS-12の発動が宣言されると、司令補佐たちは黒堂の代わりに手分けして、そのプロトコルの規定に従い指示を飛ばし始める。
 
緊急事態"SCP-066-JP-2と民間航空機の空中衝突"
SCP-066-JP-2は射出後かなりの飛距離と最高高度を有するため、民間機との接触が懸念される。
民間機の空中軌道は通常時は既定されており、何らかのイレギュラーな事態によって通常とは異なる軌道をとっている場合でも、その位置情報はリアルタイムで報告され、記録されている。
それらのデータとSCP-066-JP-2の空中軌道のデータを突き合わせて、空中衝突が予測された場合、空中衝突による惨事と機密違反を防止する方法がプロトコルUS-12である。
まずは空中衝突が予想される航空機と連絡している管制室を特定し、スーパーコンピューター"Phoibos"と付近の作戦支援基地を使用し通信をジャック。
管制室にはダミーのデータと音声を送信して記録させ、航空機には──
 
「こちら管制。7時下方より不明な機影の接近を確認、回避のため直ちに左30°旋回せよ。繰り返す、直ちに左30°旋回せよ」
 
管制室を装い、パイロットの母国語で回避を指示する。
この間、航空機の乗客リストとその情報をもとに、乗客のメールアカウントや各SNSアカウントを割り出して一時凍結し、航空機の不審な回避行動や「目撃証言」の情報が一切外部に漏れないようにする。掲示板への書き込みに対しては、US-12を行っている間、アクセス数の多い指定されたウェブサイトのサーバーをダウンさせることで対処。アクセス数の少ない個人サイト等に書き込まれたものは、"ハエトリ計画"の終了後に別個対処する。
 
指示によって民間航空機が回避に成功した場合は、その後正常なルートに復帰させ、最後までこちらの方で誘導する。そして航空機が目的地に到着する前に、当該エリア担当の財団のバックアップ部隊が本来の管制室に踏み込んで全人員に記憶処理を施す。
そして仕上げとして、タラップもしくはボーディング・ブリッジ内に検査員との名目で待ち構えているバックアップ部隊が乗客全員を記憶処理し、最後に残った機内スタッフの記憶も処理する。
この際、何らかの機密違反に繋がりかねない記録や物品も、乗客と機内スタッフからは回収され、ブラックボックスも"Phoibos"によって記録が改竄される事になっている。
こうして、公式的な記録上にはあくまで「航空機は問題無く飛行を完了した」とだけ残り、痕跡は抹消され、人々は己の危機すら忘れて正常な生活へと戻る。
 
しかし、回避に失敗した場合は・・・
 
「対象は回避行動を開始。接触予測時間まであと17秒です」
「バックアップ部隊14名出動確認」
「機内の電子的情報の封鎖手順異常ありません」
 
熟練のオペレーターたちの声からは、僅かばかりの緊張が感じ取れる。
想定し得るあらゆる状況に備えて膨大な緊急事態プロトコルを用意してある"ハエトリ計画"だが、その半数以上は未だ実戦で使用された経験が無い。
今回のプロトコルUS-12についても実際の使用は今回が初めてである。無論、講習を受け、訓練を積んだ優秀な人員と、財団日本支部が総力を挙げて組み上げた緻密なプログラムと、"Phoibos"の演算能力は十分な信頼に値する練度と完成度を誇るだろう。
しかし「世の中なにが起こるか分からない」という言葉が骨身に染みているのも、また彼ら財団の人々である。
十分な要素と経過にも関わらず、実戦での使用例が無いという事実一点が、「もしかしたら何かが起こるかもしれない」との想いを彼らの胸中から拭わせなかった。
 
「接触予測時間まで残り5秒」
 
メインモニターの戦術ウインドウに"Phoibos"演算によるレーダーが表示される。
映し出されているのは海岸線と気象による影、地磁気を表す線、そして航空機を示すアイコンと、ボビンのような形状の赤い陰影。
アイコンと陰影は既に距離を詰めており、1秒ごとに完全に重なり合おうという意思を有しているかの如く互いに接近する。
航空機のパイロットからは、既に旋回を開始した旨の報告を受けていたが、間に合うかどうかは誰にも分からなかった。
 
「残り2秒」
 
レーダー上で、二つの影が重なり合った。
17秒もあれば、十分に避け切れる。誰もが、そう信じたかった。
 
「通過しました」
 
そしてそれは報われる。
二つの影はレーダー上で擦れ違い、双方が健在であることを確かめ合った友人のように違う方向へと別れた。
 
即座に"アイアン"のもとへ、狼狽に満ちた声が送り届けられる。
どうやら、SCP-066-JP-2をパイロットに目撃されたらしい。
そのフォローに関しては、管制を行う"アイアン"とバックアップ部隊の役割である。
"レザー"たる幸坂には、緊張で強張らせた肩を数瞬、呼気とともに下ろす暇が与えられた。
 
「作戦は継続されている。気を緩めるな」
 
だが、その弛みを感じ取ったか、もしくは司令室全体に弛緩が伝播するのを先んじて制するべきと判断したのか、黒堂の言葉が直ぐさま幸坂の背中を固くさせた。
そして、彼の言葉はまさしく真実であった。
 
けたたましいサイレンがまたもや司令室に鳴り響く。
途切れず、一繋ぎで鳴り続ける音は、まるで早口で急いで捲し立てているかのようだった。
 
この音で全てを察した黒堂は、瞬時に2名のオペレーターを睨み付けた。
 
「"クロス"、"ホップ"、対象の特定と施設との通信を急げ」
 
一言で、この緊急事態に割り当てられる人員が確定した。
この2名が緊急事態に対処し、その2名が通常行う情報整理は他の人員に分担される。
つまり幸坂への負担も増えるのであるが、彼女はその事よりも、サイレンの音から察せられる緊急事態の内容に戦慄を覚えていた。
 
「("オブジェクト・クロス"だ・・・!)」
 
財団が管理する異常オブジェクトの中には、固有の土地に異常性が定着していたり、広域に渡って発生し得る散発的な存在もある。
噛み砕いて言えば、地域・土地そのものがSCPオブジェクトである存在だ。
それらに対しては「収容」というよりも「管理」の色合いが強く、箱の中に閉じ込めると言うよりは、それを中心として箱を組み立てたり、箱を作る以外の方法で外部と遮断することで"不可視の箱"を構築し、収容とする事が多い。
 
そこに、SCP-066-JP-2が落っこちる。
それが緊急事態"オブジェクト・クロス"である。
SCPオブジェクト指定を受けた、異なる物品同士の計画外の接触。
それは、正体不明の液体を爆薬に注ぎ込むようなものである。一体何が起こるものか、一切の予測を許さない危険な遭遇。
財団が断じて防がねばならない事態であり、"ハエトリ計画"という途方も無い資源が注ぎ込まれるであろう計画が承認された理由の一つでもある。
 
だが先程に比べて、司令室全体の雰囲気で言えば、今回はより落ち着いていた。
"オブジェクト・クロス"の発生は、実のところ初めてでは無いのである。
既にSCP-720-JPSCP-138-JPに対する"オブジェクト・クロス"が"ハエトリ計画"によって対処済なのだ。
で、あるからして、黒堂の指示とオペレーターの動きは速やかであった。
まずは"オブジェクト・クロス"の対象となるSCPオブジェクトを割り出すこと。同時に、そのSCPオブジェクトの収容を行っている施設・もしくは部隊の責任者と連絡を取ることである。
これらの事は、4秒もあればすっかり完遂可能であった。
 
「特定しました。SCP-900-JP──エリア-8190です」
 
オペレーターの一人からの報告と同時に、モニターに人工衛星からの俯瞰映像が表示された。
それは、SCP-900-JPを収容──というよりただ囲い込んでいる──しているエリア-8190全体を映し出していた。
しかし映像が示しているのは、SCP-066-JP-2の予測着地点だけでは無かった。
 
「活性化中か」
 
手元のタブレットに視線を落としながら、黒堂は呟いた。
タブレットにはSCP-900-JPの報告書が表示されている。
そしてメインモニターには、エリア-8190内に広がる大規模な濃霧が映し出されていた。
 
「エリア-8190管理者と繋がりました」
「スピーカーに繋げ」
 
補佐官の一人の命令と同時に、フロアスピーカーが微かな雑音を流し始める。
それと同時に、黒堂が相手を待つことも通信状態を確認する事もなく、卓上のマイクを手繰り寄せて切り出した。「状況は?」と。
 
『・・・職員の退避は68%まで完了している。こちらの人員は即応部隊が主だ。なんとか、時間には間に合うだろう』
「機動部隊との連絡は?」
『つい先程、部隊長との通信を終えた。こちらの施設と相互に影響しないよう、管制指示も出している。ただ──』
「どうした」
『"霧"が出ているせいで、観察と記録は継続する必要がある。私を含む研究員7名が施設に残るが、構わないか?』
「何かあっても援護は出来ないぞ」
『結構だ』
「よし。この通信は開いたままにしておく」
 
そう言うと、彼はマイクのスイッチを切らずに、卓の隅へと押しやった。
数瞬後には『頼んだぞ』という声がスピーカーを通じて室内に響いたが、それに返事をすることもなく、黒堂は改めてメインモニターに向き直った。
 
SCP-066-JP-2には、これまで特別な異常性を自ら発揮した例が無い。
SCP-900-JPは、何らかの物質に接触した場合、その物質を削り取って消滅させるか破損させるだけ。
ならば、両者の接触がどのような損害──あるいは危機──を生み出すというのだろうか?
池にゴルフボールが落ちる事が、世界の滅亡にどう関係してくるというのだろうか?
それが分かるなら、それが明らかであるならば、あれらは”異常”とは呼ばれないだろう。
「何故かは分からないが海中の無から突如現出するゴルフボール」と「どうやってかは分からないが全ての物質を細切れにして消失させる池」が接触するとどうなるか? それは誰にも分からない。
だが、一つの真実として間違いなく存在しているのは、「財団は決して甘くは無い。容赦の無さでは、彼らをも上回るものと相対しているが故に」という事だけである。
ならば、何としても防がなくてはならない。財団が把握している範疇に現象が収まっている内に。
 
その上、今回のSCP-066-JP-2はこれまでで最大規模の実体である。
これまでで最小の実体であっても言語に絶する被害を生み出したSCP-066-JP-2が、まともに地面に激突してしまえば、その余波でエリア-8190は間違いなく崩壊する。
それは、封じ込め違反の発生であると同時に、SCP-900-JP現象を観察し、記録しなくてはならない職員たちの死をも意味する。
故に、黒堂は通信を切らなかったのだ。
 
「全時間を割り出せ」
 
省略した指示を一つだけ、黒堂は発した。
その直後、オペレーター達はメインモニターに、タイマー付きのウインドウを次々に展開させた。
幸坂も、心中穏やかならずとも、簡略化された手順のおかげか、何とか出遅れる事なく仕事を遂行した。
 
「"アーチα"の収容ヘリ到着まで16秒」
「たいっ、対象の着弾まで残り47秒」
「作戦支援基地、いつでも磁射開始出来ます」
「再演算完了しました。900との接触3秒前に確保出来ます」
 
「3秒か」黒堂は心の中でのみそう呟いた。
幸坂も、報告を聞いて生唾を飲み込んだ。
スーパーコンピュータ"Phoibos"と"Helios"の演算に狂いは無い。
しかしだからこそ、それによって弾き出された猶予が3秒しか無いというのは、あまりにも危険だった。
機械は正確であるが、人間は正確では無い。そして、SCPオブジェクトも正確とは限らない。
だが現状で言えば、無事に収容が成功する確率の方が高いことも事実であろう。
故に、二者択一が成立する。「なにも起こらない方」に賭けるか「なにかが起こってもいい方」に賭けるか、だ。
 
で、あれば、司令たる者が下すべき決断は一つである。
 
「"ouroboros"を一時凍結。1S、2R、3Rの全支援基地を緊急手順で起動した後、"Quetzalcoatl"を適用して即座に磁射開始」
 
淡々と指示を述べる黒堂を、補佐官たちが意外そうな表情で仰ぎ見た。
 
「"スクランブル作戦"だ。直ちに実行しろ」
 
幸坂は、今度は息を呑んだ。
黒堂が下した指令は、"ハエトリ計画"の肝である空中確保という手段を破棄するものであったからだ。
 
スクランブル作戦とは俗称であり、正式なプロトコル名では無い。
それは実の所、未だ正式採用されていない手順である。
本来、財団がとるべき手段では無い手段だからである。
 
作戦支援基地は、本来SCP-066-JP-2に対してあらゆる方向から磁力を浴びせかける事により、SCP-066-JP-2を空中に押し上げるために存在する。
その際に最も重要なのは、全方向から"均等な力"がかけられ続けるようにするということである。
少しでも磁力の出力が弱い、または強い作戦支援基地があると、空中の一点でSCP-066-JP-2を保持し続けるのは非常に難しくなる。
そのバランスを計算するプログラムが"Quetzalcoatl"である。"Quetzalcoatl"は参加する作戦支援基地とSCP-066-JP-2との距離、または周辺環境を計算して「どの基地がどの出力で磁気を照射すべきか」を導き出す。
このバランスが偏るとどうなるか? SCP-066-JP-2は空中で止まる事無く、軌道を変えるだけで終わる。
下手をすると、どこかにすっ飛んで行ってしまうということもあり得る。
 
その"下手"を敢えて行うというのが、スクランブル作戦であった。
とにかく着地地点を変える、という目的のために、一方向から集中的に磁力をぶつける。
そうすることで、どの方向にSCP-066-JP-2が吹き飛ぶのか? 無論、その方角は想定出来る。
しかしそれは、例え一時的であっても、財団がSCP-066-JP-2のコントロールを失う事に他ならない。
SCP-066-JP-2が具体的にどのような軌跡をとるのか? どのような損害が出るのか? それらの予測も、対応も間に合わないだろう。
結果として、スクランブル作戦を実行する上でやれる事は一つだけ。「防ごうとした被害を上回る被害が出ないのを祈る」。これだけだ。
 
しかし、それを推して既に決断は下されたのだ。今更異議を唱えて議論をする猶予は無い。
もたもたしていると、全ての決断は無意味と化すのだ。
 
「し、指定の作戦支援基地に"Quetzalcoatl"を適用しました。磁射焦点設定完了です」
 
"Quetzalcoatl"から吐き出された情報を述べる幸坂。
予測によると、今回のスクランブル作戦が実行された場合、SCP-066-JP-2は太平洋上へ落下するとのことだった。
民間船がそれに巻き込まれないだろうか? 津波を誘引するだろうか? その場合津波の規模はどれほどだろうか? 地殻に与える影響は? 生態系に与える影響は? 回収に要するコストは? 手間は? 対応できる準備は万全か?
それらを調べている時間は無い。今、ここで下された決断で重要なことは一つ。"オブジェクト・クロス"事案はなんとしてでも防がねばならないということだ。
 
そして、その決断の早さが、結果的には功を奏するのである。
作戦支援基地の再設定はすんでの所で間に合い、SCP-066-JP-2は、SCP-900-JPが接触する11秒前に洋上へと吹き飛ばせる、との予測結果が弾き出されたのだ。
通常の"ハエトリ計画"では、実体を減速させることに重きが置かれているため、磁気の出力は段階的に推移していく。
しかしスクランブル作戦は、実体を軍用機に見立てて、文字通りスクランブルさせるように弾き出す。持続的に磁気を照射するのではなく、最初から大出力で磁力を瞬間的にぶつけるのであるからして、遥か手前でSCP-900-JPとの接触を阻止可能であるのだ。
 
 
『緊急だ!』
 
 
唐突にスピーカーから響いた声を、一瞬で理解出来た人物はいなかった。黒堂を以てしてさえも。
 
『応答しろ! 映像を送るぞ!』
 
続いた言葉で、黒堂はやっと卓の隅に追いやったマイクを再び手繰り寄せた。
声は、エリア-8190管理者のものだった。
 
「分かった、モニタ回線を開く」
 
そう応えるのと同時に、補佐官の一人がオペレーターの一人に指示を出した。
オペレーターによって、戦術ウインドウに新たに一つのウインドウが出現する。
ウインドウは初め暗闇のみを映していたが、2秒もすると、エリア-8190からの映像を受け取り、それをそのまま流し始めた。
 
映っていたのは、SCP-900-JP。その濃霧としての姿を横から撮影しているものであった。
通常ならば、ただ風に揺らめき、気圧の軽重に身を任せるだけである、一塊の巨大かつ広大な濃霧。
その濃霧が、渦を巻き、槍の穂先を突き出すように、上空へ向かって真っ直ぐと伸びていた。
芯央から幾度も、幾度もの閃光をほとばしらせながら、意思を有するが如く上へ上へと身を捩らせていた。
その姿は、あたかも叫び声をあげながら井戸の縁へと手を伸ばす亡者か、そうでなくば肉の欲望への抑えが利かぬ猛獣であった。
回転し、収束し、縋り付くようにして、求めるようにして、霧はただ一点を目指していた。
 
『10秒前にいきなり始まった。リアルタイム映像だ!』
 
黒堂の口元と眉間に力がこもった。
SCP-900-JPがどこへ向かって伸びているのか、それは明白である。
何故? 一体どうやって? SCP-900-JPのこのような活動は、これまで記録された事が無い。
しかし、今ここに於いて、それは問題ではなかった。
問題は、SCP-900-JPがSCP-066-JP-2に向かって伸びていく速度だった。
 
──明らかに、スクランブル作戦でも間に合わない──
 
「受け止める気か・・・」
 
誰にも聞かれぬ声で、黒堂が呟いた。
しかし、どのような声量であったとして、今ここにいる誰に対しても声は届かなかったであろう。
補佐官も、オペレーターも、情報技官も、誰もがこの異常過ぎる事態に圧倒されていた。
一つの山岳部を埋め尽くすほどの濃霧が一つの塊として、一つの方向へと一斉に向かっていく光景。
あまりにも予想外に過ぎた事態の発生。
そして、もう打つ手が無い、という事実。
 
誰もが、呆然とした。
唖然として、ただただ見上げた。
 
幸坂も、息を止めてメインモニターに視線を注いでいた。
 
重要部署への任命からの初任務が、こんなことになるなんて。
 
そんな事は誰も、地球上に生ける全てのものの知力を総合したところで、想定出来なかっただろう。
 
その時のために存在するのが財団であるのだとしても──
 
敗北は、今や目前にあった。
 
 
しかし、幸坂は気付いた。
彼女の目前にある、オペレーター用の情報モニターでは、目まぐるしく情報が交錯している。
人工衛星の情報を受け取っている"Phoibos"が、情報の書き換えと再演算を高速で何度も行っているためだ。
皆が止まっている中で、コンピュータだけが停止していなかった。
幸坂には、それが必死に諦めを拒絶しようとする執念のようにも見えた。
"ハエトリ計画"を作り上げるために、幾度もの試行錯誤を重ねた専門家たち。
"ハエトリ計画"を成し遂げるために、たゆまぬ研鑽を続けた実行部隊員たち。
この作戦の成功──そのためだけに、生活を、人生を、貴重な財産を捧げている人々がどれだけいるだろうか。
その全ての執念が、今はこのコンピュータにのみ宿っている。
 
そう感じ取った幸坂とて、諦めたくは無かったのである。
 
「(でも、どうやって──)」
 
疑問を頭の中に走らせようとした瞬間、情報モニターの一部が彼女の目に留まった。
それは、タイマーであった。
それも、一つのタイマーではない。
急行している機動部隊の到着予測時間。
作戦支援基地の稼働状況をリアルタイムで示し続ける時刻表。
SCP-900-JPとSCP-066-JP-2が接触するまでの残り時間を示すタイマー。
 
それらを目にしたとき、一つの閃きが幸坂の大きな目玉の裏に秘められた脳を駆けた。
そしてその瞬間──厳密にはその過程で──彼女の精神は昔日のそれへと変貌を遂げていた。
彼女の本性、何故この席に彼女がついているのか、その真の理由。
知識も装備も経験も応援も無いままに、たった一人で異常存在と渡り合い、勝利した胆力と決断力。
事務員としては凡庸な彼女。小人物的な感受性。専門知識にも乏しく、取り立てて高度な身体能力を誇るでも無い。
しかし間違いなく、彼女はここに相応しい人物として選ばれるべき人材であるのだ。
 
幸坂は、その時と同じように、熟考よりも直感的に行動した。
そうしなければならない、と覚悟する前に、体が動いていた。
皆が静まり返る中、彼女だけが前触れ無く席から立ち上がったのである。
 
即座に、注目が集まった。
彼らの大半は、そうしようと思っていた訳では無かったが、誰もが幸坂を見ずにはいられなかった。
無論、黒堂さえも──
 
そして、そこまでいってようやく幸坂は覚悟を決めた。
もう後戻りは出来ない。
やり切るしか、無い。
あの時と同じように。
 
彼女は力強く振り返り、黒堂を仰ぎ見た。
全身に力がこもっているのが、肉体の緊張から感じ取れた。
 
「プロトコルUB-Z8を提案します!」
 
叫ぶように言い放った言葉。
黒堂はその緊張が伝染するでも無く、慌てるような様子も無く、厳かな視線を幸坂に送るのみだった。
しかし、それこそが言葉の先を促している証であることを、幸坂は感じ取っていた。
 
何故ならば、誰一人として「UB-Z8」などというプロトコルは聞いたことも無かったからだ。
 
「まず、収容ヘリを落下中のSCP-066-JP-2に急速接近させます! そして接近完了と同時に、ヘリに搭載されている収束磁気装置で、最大出力の反発磁射を行います! こうすることで、作戦支援基地無しでスクランブル作戦と同様の効果を得る。それがUB-Z8です!」
 
幸坂のその言葉に最初に愕然としたのは、補佐官たちだった。
オペレーターの一人が急に、戦術技官である自分たちを飛び越えて、前代未聞のあまりにも無謀な方法を提案したからだ。
プロトコルUB-Z8。それは即ち、収容ヘリによる接射だ。空中でヘリとSCP-066-JP-2が接触する危険も高い。
そもそも、高速で落下するSCP-066-JP-2にヘリで肉薄すること自体が困難極まる。
更に、もしヘリがSCP-900-JPに呑み込まれればいたずらに損失を増やすだけで終わる可能性もある。
万一成功したとして、ヘリが搭載している程度の磁気装置でSCP-066-JP-2をどれほど弾き飛ばせるかは甚だ疑問である。
 
補佐官たちも精鋭である。彼らは瞬時にそのことに気が付き、黒堂に却下を申請しようとしたが──
 
「誰の案だ?」
 
──彼らよりも早く、黒堂は幸坂を見下ろしながら速やかに、それでいて静やかにそう訊ねた。
 
「研修の時に、郡博士がちらりと漏らしてました! スクランブル作戦の一環として提案する事で、作戦の正式採用に漕ぎ着けられれば、と!」
 
黒堂の試すような視線を受けながら、それでも彼女は初めて真っ直ぐに彼の目を直視した。
彼女の魂の中で、既に賽は振られたのだ。今更退けば、破滅だけ。
 
時間が、無いのだ。
 
「そうか」
 
黒堂は一瞬だけ、逡巡するような様子を見せた。
それは1秒か2秒の間だけであったが、幸坂と黒堂の間には無限に近い刻が流れていた。
補佐官たちが黒堂に詰め寄る。
最早言葉を発する時間も惜しいのか、彼らは視線のみで黒堂に訴えていた。
そして彼らの感ずるもの、考える点については、黒堂もよく理解していた。
その上で、彼は決断を下す──
 
 
「"アーチα"に繋げ」
 
 
その言葉は、即ち"実行"を意味していた。
補佐官たちは明らかに何かを言いたげであったが、黒堂はあえてそれらを全て無視していた。
彼の視線はただ、幸坂にのみ注がれていた。
彼女もまた、全身を強張らせながらも、黒堂の射るような視線に応戦していた。
 
『その必要は無い』
 
その緊張を裂くようにして、無線機越しの声が響いた。
声を発したのは、幸坂のオペレーター用情報モニターに据え付けられたスピーカーであり、情報モニターには「通信中:アーチα」の文字が表示されていた。
 
『賭けに乗るのは、俺たちの方が一足先だったみたいだな。全部聞いてたぜ』
 
声を聞き、オペレーターの一人が急いでコンソールを操作する。
そうして戦術モニターの作戦領域ウインドウを拡大すると、既に機動部隊アーチαのヘリは、SCP-066-JP-2に向かって突進を敢行しようとしている所であった。
 
幸坂は、立ち上がる前に、アーチαとの通信をオープンにしていたのだ。
アーチαに対して伝達を行う時間を省略するために、そうしたのだ。
黒堂が、UB-Z8実行を下知すると信じて。
 
そして結果的には、このアーチαの行動によって司令室内の全員で、想いが共有されるのである。
「もう、やるしかない」と、全員が腹を括ったのだ。
 
「よし、こちらから補助する。そのまま遂行しろ」
『了解。こちらのシステムは全部オープンにしておく』
 
アーチαと通信を交わしながら、黒堂は隣に立つ補佐官の胸を右手の甲で叩いた。
それが、合図のようなものとなった。
オペレーター達は再び自らが担当する情報モニターとコンソールに向かい、情報技官はプログラムの制御とコントロールを再開し、戦術技官や補佐官たちもやけくそとばかりに指示を飛ばし始めた。
今の黒堂とアーチαの会話で、全員が何をやるべきかを把握していた。
無論、幸坂も皆が動き始めると再び席につき、本来の役目を再開する。
 
やるべき事とは、アーチαのヘリをSCP-066-JP-2のもとへ導く事。
"Phoibos"とヘリの情報管理システムをリンクさせ、ヘリの現在の状況と環境、SCP-066-JP-2の軌道、SCP-900-JPの速度等の情報からリアルタイムで演算を行い、最適なルートと操縦の仕方を伝達する。
更に、ヘリの収束磁気発生装置の制御も"Phoibos"に明け渡させ、磁気照射のタイミングや出力のコントロールも自動化。機動隊員の負担を軽減することで、SCP-066-JP-2に向かって突進することにのみ集中出来るよう、助けるのだ。
 
「"Phoibos"による情報統合完了」
「磁射設定の修正完了しました」
「900予測軌道の最終演算開始します」
「ケーニヒ・リング稼働開始。磁射準備完了です」
「ルートナビ送信完了しました」
「タイマー最終更新。猶予2秒!」
『おい! 映像を送るぞ、クソッタレどもが見えた!』
 
アーチαからの報告と共に、メインモニターにリアルタイム映像が表示される。
ヘリに備え付けられたカメラはヘリの進行方向へと向けられており、山岳部の地表とそれを覆い尽くす濃霧が映し出されている。
その一部が、下からせり上がる竜巻のように伸び、空を目指してまさに突き進んでいる。
揺れながらも、その様子をカメラはしっかりと記録していた。
 
ヘリが上昇を開始するために頭を上に向けると、カメラも上に向く。
そして、それによって映ったもう一つのものこそが、SCP-066-JP-2であった。
伸び来る霧の手に比べれば僅かな点に見えるが、突き破った雲をそのまま尾のように曳きながら、鉄塊は予めそう定まっていたかのように、SCP-900-JPの霧の手目指して落ちていた。
 
「間に合うか?」
 
率直、それでいてあまりにも重要な問題を、黒堂の口は形にした。
それを聞いた直後には、既に幸坂は必要な情報を全て取得し、戦術ウインドウに表示させていた。
 
「SCP-900-JPの速度と加速が一定ではないため、確定出来ません」
 
幸坂の言葉に対して、黒堂は「そうか」と重々しく呟くのみだった。
確定出来ない。つまり、それ程までにギリギリ限度いっぱいのタイミングだという事である。
間に合うか、間に合わないか。遂にスーパーコンピュータでさえ、それの結果が神の領域にあることを認めたのだ。
ヘリからの映像が揺れ始める。アーチαからの報告では、気流が乱れ始めたとの事だった。
大質量の急速落下と、膨大な質量が空気の流れを押し返して伸び上がっているがための現象であったが、それはまるで、二つの出会いが引き起こす重大な何かの前触れか、もしくはそれを感じ取った世界の戦慄きのようであった。
 
『どの道、やるだけだ。磁射、いけるか?』
 
「自動化完了しました。ヘリと066の距離が7m以内になったと"Phoibos"が感知し次第、最大出力で磁射を開始します」
 
『了解』
 
その乱流の中を、ヘリはものともせずに直進する。
誘導に従い、全速力で。
 
ヘリには、耐磁気装備が充実している。
自らが収束磁気を照射する事に加えて、作戦支援基地が照射する収束磁気の余波の影響が考慮されているからである。
しかし、磁気照射の出力は本来車のギアのように、段階的に出力を上げるよう出来ており、安全性の問題から、出力を最大にするには最低でも14秒必要なよう、プログラムによってセーフティーがかけられている。
そのセーフティーを、今回は"Phoibos"が強引に破って、起動と同時に最大出力で磁気照射を開始するのであるが、何故そのようなセーフティーが存在するのか?
 
『反動はどれだけ来る?』
 
鉄の床の上に磁石を放り投げれば、磁石は浮き上がる。
磁力が機器に与える影響を防護したとしても、反動を完全に殺す事は不可能である。
また、磁力の防護自体も完全ではなく、強力な磁気に対しては影響を受けざるを得ない。ヘリをヘリとして飛翔させるためには、防護に関して妥協点を持つ他が無いのである。
だからこそ、ヘリ全体にかかる急激な磁力の反動は、ヘリの姿勢を崩し、墜落を引き起こす可能性があった。
それが、ヘリからの磁気照射が段階的に行われるべき理由であり、作戦支援基地によるSCP-066-JP-2の空中保持を要する理由であった。
それを破るとなれば、当然、ヘリには大変な反動がかかる。ましてや、もし墜落するのであれば、落ちる先はSCP-900-JPの濃霧が立ちこめている山岳地帯だ。
 
覚悟を決めていたとしても、アーチαは、そのことを訊かずにおれなかった。
 
「無人機による実験では、わかりやすく言うなら2tトラックが時速70kmで突っ込むようなものだとの事だ」
 
黒堂が応える。
 
『その後無人機は?』
「墜落した」
 
淀みなく言い切った黒堂と、数秒の沈黙の後「了解」とだけ返したアーチα。
両者とも、心理の速度の差こそあれ、同等の覚悟を共有していた。
黒堂は手元のタブレットを慣れた手つきで操作しつつも、視線はほぼメインモニターに釘付けであった。
 
メインモニターでは、全ての距離が見る見るうちに縮まっていた。
それは濃霧とSCP-066-JP-2との距離であり、ヘリと濃霧、ヘリとSCP-066-JP-2との距離であった。
伸びゆく槍に貫かれず、横合いから弾丸を撃ち落とす。
運命で結ばれた二人の抱擁に割り込み、引き剥がす。
それがどれ程至難であることか。
 
ごぉ、という轟音がアーチαの無線越しにも、司令室内に響き渡り始めた。
風を切り裂く鉄塊の音か、はたまた空を押しのける濃霧の音か。
答えなどなく、交錯の瞬間が迫りつつある事のみを表す。
SCP-066-JP-2は空気を歪めながら、圧力による熱の光を纏う。
濃霧はメッセージのように、決まったリズムの閃光を孕ませながらその手を伸ばす。
 
ヘリが狙うのは、それらがまさに触れ合う、その地点だ。
 
 
『よし、間に合う!』
 
 
アーチαが吠える。
そこには願望ではなく、確信があった。
 
メインモニターのカメラは、赤熱する巨大な塊を映す。
SCP-066-JP-2が画面に迫り、押し潰すように画面中に広がった。
画面の隅には、濃霧の指先が常に映り込んでいた。
 
『あ──』
 
アーチαが何かを言おうとした時、映像はただの砂嵐に切り替わり、直ぐ隣で交通事故が起きたかのような凄まじい衝突音が無線越しに撒き散らされた。
同時に響くのは、鉄が捻れるような音、悲鳴のような風鳴り、微かにしか聞こえない怒号。
 
「状況!」
 
即座に黒堂が声を張る。
それとほぼ同時に、矢継ぎ早に報告が開始された。
 
「自動磁射確認!」
「アーチαを確認! 状況は不明!」
「066不明!」
「900不明!」
「地表面の900活性継続確認!」
「海上監視網に切り換えます!」
「再演算開始!」
「監視衛星情報、磁気と濃霧閃光により不明瞭!」
 
その殆どが、現状の不明を報せるものだった。
濃霧と閃光、そしてヘリが瞬間的に照射した磁気は、反動によってヘリの姿勢が崩れるのと同時に複数方向へバラまかれた。
それが、瞬間的な状況の把握を困難なものにしていた。
ただ、磁気防護が施されている、アーチαとの無線は未だ繋がっている。アーチαが健在である事も分かっている。
 
しかし、そこから伝わるのは、狂騒のみ。
ヘリのローター音に、風の音、エンジンの音、聞き取れない声。
雑多な、様々な音が入り乱れ、その上どれ一つとして状況を正確に表してはいないのだ。
黒堂は幾度も無線越しに状況を訊ねるが、明確な答えは返って来ない。
 
 
「SCP-066-JP-2位置を再度捕捉しました!」
 
 
その時、幸坂が叫んだ。
黒堂が直ぐさま視線を戦術ウインドウに移すと、そこにはプロトコルUS-12の時と同様のレーダー画面が表示されていた。
その中で、SCP-066-JP-2を表す赤いアイコンは、SCP-900-JPが収容されているエリアの示す白塗りのエリアを外れ、内陸から海岸線へと向かっていた。
それは、明らかに事前に予測されていた自然落下の軌道とは異なる動きを示していた。
 
「066高度538!着弾地点洋上2-18x!」
 
やったのか!
報告を聞きながら、黒堂は目を見開いた。
アーチαは、やり遂げたのだ。
 
「"ブローチ"!回収指揮!」
「はい!」
 
直ちにオペレーターの一人に、SCP-066-JP-2が洋上に着水した場合の回収マニュアル実行の指示を飛ばす。
SCP-066-JP-2の方は、これで一先ずは急場を凌いだ。
後は、SCP-900-JP。そして、アーチαの安否だ。
 
「ヘリの位置特定急げ!」
「無線通信から位置を特定中です!」
 
ヘリの位置特定には、然程時間はかからない。
まだ、焦るほどの時間も経過していない。本来ならば。
 
しかし、無線通信から響いてくる、のっぴきならない状況であることを示す数多くの騒音が、聞くものの心を掻き毟っていた。
それらの多くは明確な意味を為さなかったが、焦燥と混乱の空気だけは、遠く離れた司令室にもまざまざと伝えていた。
 
だが、ついに、無線機を力強く握りしめる音の直後に、意味を持った言葉が司令室に送られた。
 
『落ちる!落ちるぞ!霧に墜落する!』
 
それは悲痛な叫びのようであった。
黒堂は眉をひそめる。アーチαのヘリは姿勢を崩し、立て直しも出来ていないようだった。
 
「聞こえるかアーチα。司令室だ。ヘリの状態は?」
 
マイクを持ち上げて話しかける黒堂。
返答は、直ぐさま返ってきた。
 
『制御不能だ!機体が回転している!だがやったぞ!霧はあの塊に触れてもいない!』
「よくやった。隊員は?」
『全員"まだ"無事だ!』
 
"まだ"
つまりは、そういう事なのだ。
 
『司令!』
 
再び、アーチαから声が送られる。
焦燥と熱気そのものの声であった。
 
『いい仕事だった!』
 
その言葉に、幸坂は思わず視線を伏せかけた。
ヘリが墜落すること自体は、幸坂の提案によるものだからである。
"オブジェクト・クロス"が防げたとしても、"ハエトリ計画"を完遂したとしても、アーチαの隊員を死なせるのは彼女である。
 
──あの時と同じように全部が上手くいくなんて保証は無い。覚悟はしていた。それでも──
 
 
 
「ヘリの位置特定出来ました!」
 
"アイアン"が叫ぶ。その直後、メインモニターのレーダー画面に、小さな黒い点が現れた。
黒い点の横には「259m」と表示されていたが、その数字はスロットのような速度で減り続けていた。
黒堂は身をやや乗り出し、それを僅かな間のみ凝視しながらタブレットを指先でコンコンと叩くと──
 
「アーチα、まだ聞こえるか?」
 
──尚も、無線に語りかけた。
 
『ああ』
 
「隊員に伝達。3秒以内に、衝撃に備えろ」
 
『!』
 
無線越しであるにも関わらず、息を呑むような感情の動きが幸坂にも感じられた。
衝撃に備える。何故その必要があるのか?
それを訊ねる必要など無く、またその暇も黒堂は与えなかった。
 
「"アイアン"」
 
彼はただ、続く指令のみを下した。
 
 
「"スクランブル作戦"実行だ」
 
 
その指令に対して短く応えた"アイアン"がキーを叩いた直後、再び無線機越しに凄まじい衝突音が響いた。
同時に、レーダーに映る黒い点が、先程のSCP-066-JP-2と同様、内陸から海岸線目がけて軌道を一転させる。
高度を示す数字のスロットは逆方向に回り始め、"Phoibos"がヘリの予測着水点を洋上に表示させた。
 
幸坂は、大きな目を更に丸くした。
"Phoibos"がヘリの着水点を予測表示した所で、彼女はようやく、何が起きたかを理解した。
SCP-066-JP-2に対する接射でヘリが姿勢を崩し、墜落することを黒堂は予め知っていた。
しかし、制御不能に陥ってから墜落するまでには、いくばくかの時間の猶予がある。
ならばその間に、作戦支援基地が準備を完了するだろう。
そうなれば"スクランブル作戦"に出番が来る。隊員が乗ったヘリを、パチンコ玉を弾き出すように吹き飛ばすために。
 
それがために、黒堂は"スクランブル作戦"の明確な解除は指示しなかった。
タブレットで"スクランブル作戦"の対象をSCP-066-JP-2からアーチαのヘリに変更する旨を"アイアン"に伝達し、全ての準備を整えさせた上で、実行した。
数十基の作戦支援基地から照射される収束磁気は、ヘリが発する収束磁気を遥かに凌駕する強度であり、ヘリ程度が有する防護など意にも介さぬ、空間そのものを歪め得るものである。
墜落中のヘリを海に向かって弾き飛ばすなどは造作も無い。
 
だが、ヘリの中にいる隊員たちもただでは済まない。
時間が無かったとは言えど、たった3秒の準備時間のみを与えて、黒堂は実行した。決然と、怯むこと無く。
 
「SCP-066-JP-2の着水を確認しました」
「I2-11、I3-03、J1-01、J1-03、J2-18エリア沿岸部に高さ4m津波到来が予測されます」
「津波はJ1-01へ34分後に到達、その後各エリアへも順次到達が予想されます」
「SCP-066-JP-2目撃者は確認されていません」
「各エリア被災予測地帯の一般住民の避難誘導開始します」
 
だが、その結果よりも先に、SCP-066-JP-2着水の結果が続々と寄せられ始めた。
 
「SCP-066-JP-2の状態は?」
「洋上エリア2-18xに着水後、沈下しているものと思われます」
「回収より調査班を先行させろ。異常があれば司令室に直接報告するよう伝達」
「了解」
 
黒堂はそう指示を飛ばすと、マイクのスイッチを切り換えた。
 
「こちら"ハエトリ計画"作戦司令室。エリア-8190応答せよ」
 
呼び掛けには、直ぐに応えが返ってきた。
 
『こちら、エリア-8190。全部聞いていた。こちらは無事だ』
 
その声には、先程と比べて微かに安堵が混じっているように感じられた。
 
「SCP-900-JPはどうだ? そちらで捕捉しているか?」
『ああ、元に戻りつつある。閃光も止まって、濃霧の規模自体も縮小し始めた、じきに消えるだろう』
「記録したか?」
『とても準備を整えられる状況じゃなかったからな、既存の設備と手順しか使えなかったが・・・出来る限りの記録はした』
「よし、通常任務に戻ってくれ。無線を切るぞ」
『わかった』
 
そうして黒堂がマイクのスイッチを切ると、ようやくヘリについての報告が飛び込んだ。
 
「アーチαヘリの着水を確認」
「機動隊員識別信号異常ナシ」
「機器損傷により生命反応検出不能」
「救助班の出動を確認」
「損傷甚大・・・バラバラです」
 
人工衛星からの俯瞰映像がメインモニターで拡大されると、そこには無惨ないくつもの残骸と化したヘリが浮かんでいた。
大きな残骸の幾つかは既に沈没したようだったが、人の姿は無い。
一緒に沈んだか、もしくは着水の衝撃で砕け散ったか。どちらにせよ、映像には生物の影は何一つ映ってはいなかった。
それも、当然と言えば当然の結果であった。
ヘリが海面に衝突した際のスピードはどれ程であっただろうか?
収束磁気を受けた直後なら、音速は超えていない。亜音速程度には、達していても不思議ではない。
収束磁気の照射は一瞬であったから、その後空気の抵抗による減衰はあったはずである。
だが、引力による下方向への加速と、空中分解した場合の慣性力の変化などが重なれば、それは衝撃のみで人体を破壊するには十分なエネルギーとなっていた可能性もあった。むしろ、その可能性の方が優勢であるだろう。
 
しかし、黒堂はやった。
躊躇すらなく、幸坂の提案を受けてから僅かな間のみで、彼は決断を終えていた。
 
 
Pi
 
「!」
 
 
何故ならば、黒堂は見てきたからである。
幾度もの任務を経て、既に知っているのだ。
 
「通信!アーチαからです!」
 
コンソールモニターの表示に、慌てて回線を繋ぐ幸坂。
それは、アーチαが有する緊急用予備回線であった。
同時に、メインモニターのレーダー画面にいくつかの小さな黄色い点が現れる。
黄色い点はアーチαの隊員が発している救難信号であり、全隊員と同数の光点が、全員の無事を示していた。
そして、黄色い点は、ヘリの残骸から150mは離れた所で光っていた。
 
『あー、こちらアーチα』
 
司令室に響いた声に宿っているのは、安堵、微かな喜悦、そして疲労だった。
 
「こちら司令室。全員無事か?」
『無事です。ガツンと来た時にヘリの全機能が停止しましたが、おかげでローターに巻き込まれずに脱出出来ました』
「ツイてたな」
『全くです。救難信号、届いてますか?』
「直ぐに救助班を向かわせる」
 
そこまで言うと、補佐官の一人が、機動隊員の位置を救助班に伝達するよう指示を飛ばした。
 
「通信を切るぞ」
『了解。お手柔らかに頼みますよ』
 
そして、通信を終えた。
アーチαの最後の言葉に、黒堂は片眉を吊り上げた。
「お手柔らかに」
その言葉がどこへ向けられているのかは、彼も分かっている。
 
 
「諸君」
 
 
少しだけ身を乗り出し、号をかける黒堂。
差し迫った役目の無い者たち──幸坂を含んだ、司令室の殆どの人員が黒堂を仰ぎ見た。
まるで、最初の時のように。
しかし幸坂の胸には、今や気後れは無かった。
 
「調査班によるSCP-066-JP-2の一次調査が完了し、回収班による回収が確認され次第、"ハエトリ計画"発動宣言を解除する」
 
それは、実質的な"ハエトリ計画"の完遂宣告であった。
SCP-066-JP-2の空中確保は叶わなかったが、ヘリ一機と、沿岸部の建築物への津波被害で損害が収まるのは、3tを超える塊が成層圏近くから降ってくるという事態がもたらす結果にしては極軽微と言って良い。
着水したSCP-066-JP-2からも目立った異常は感知されておらず、"Phoibos"も警告灯も静けさを保っていた。
 
それはつまり、緊急対処手順を担当する幸坂の仕事の殆どが終了したことを示していた。
 
「それまでは手順継続だ。各員、任務に戻れ」
 
それぞれが、それぞれの持ち場に向き直り、各々の仕事を再開する。
現状、司令室の主な役割は調査班と回収班のバックアップとルート確保、情報の統合と処理、中継程度である。
皆の表情はいくぶん緩み、声音にも落ち着きが戻った。
袖やハンカチで汗を拭う者も多く、心の内から込み上げるものをなんとか抑えている様子の者は一人や二人ではなかった。
 
幸坂も、その内の一人であった。
回収班のルートと、一時収容先への受け入れ指示をまとめながらも、彼女の心を占める感情は、衝動的に彼女の肉体を支配しかけていた。
 
本当は、大きなため息をついて突っ伏してしまいたい。
体中の力を抜いて、静かに啜り泣きたい。
良かった。うまくいって、本当によかった。
全部終わったら、すぐに帰って眠りたい。
そうだ、梅酒が冷えていたはず。
ちょっと、軽く、一杯やって、明日まで泥みたいになって眠ろう。
 
そして、やっぱり──
 
 
「"レザー"!」
 
「はいぃっ!」
 
 
任務中に、思考の海に沈みかけていた幸坂の背中に黒堂の声が突き刺さった。
気を抜いていた状態で喝を浴びせられて、思わず肩が強張る。
恐る恐る振り向くと、そこには鋭く目尻を吊り上げた黒堂がいた。
司令室の中央で、補佐官たちに囲まれながら、幸坂を真っ直ぐ睨んでいた。
 
「来い」
 
戦慄する幸坂を、低い声が呼びつける。
彼女はすごすごと立ち上がると、刑場に引き出される受刑者のように、視線を伏せながらそそくさと神妙に黒堂の前に立った。
まずは、叱責が飛んでくるだろう。作戦中のいくつかの醜態。そして、手順を違えた提案。結果的にうまくいったものの、プロトコル活用の判断を下すのは黒堂と補佐官たちであり、幸坂ではない。
彼女は規律を乱したのだ。緊急事態だったとはいえ。
 
「郡 雅弘とは、友人でな」
 
だが、最初に発された言葉は、幸坂の当初の予想とは少々異なるものだった。
意外な切り出され方をされ、思わず間の抜けた表情で黒堂の顔を見上げる。
しかし、黒堂の固い表情を目にし、また、時間をかけて彼の言葉の意味を理解してしまうと、彼女の顔からは見る見る内に血の気が引いていった。
 
「未提出の計画を、講習で新人に漏らすほど軽率な奴じゃ無い」
 
「ご、ごめんなさい・・・!」
 
腰を折って、深々と頭を下げる幸坂。
醜態を晒し、規律を乱し、その上嘘までバレた。
郡博士を騙り、全員を欺き、存在しない手順をでっち上げた。
これらは明確な背信行為であり、越権行為を更に超越した問題であった。
 
そんな幸坂に、黒堂がどのような処罰を言い渡すか、誰もがそれを聞きたがらないだろう。
死か、それ以上の罰か、財団をよく知る者ほど、それらが単なる与太話などでは無いと知っている。
 
 
「言いたい事は以上だ。任務に戻れ」
 
 
だが再び、彼の口からは幸坂にとって予想外な言葉が飛び出てきた。
 
「はぁ?」
 
これには、つい意図することなく、関西弁のイントネーションが飛び出てしまった。
当然、その直後には慌てて口を手で塞いだのであるが。
 
「今回は不問に処すと言っている。さっさと戻れ」
 
「は、はいっ!」
 
黒堂が更に声を低めた事で、幸坂はすぐに逃げるが吉と判断し、自分の席へととんぼ返りした。
その姿を見て、黒堂の方がため息をつく。
 
幸坂の嘘には、当然の事ながら黒堂は最初から気付いていた。
彼はその上で、幸坂の策に乗ったのである。
ならば、責任は黒堂が持つのだ。
幸坂は確かに規律を乱した上申を行ったが、それ自体は処罰に値しない。
嘘をついたことも、司令官の裁量で目を瞑る事が出来る。
だが、このような嘘自体はもう止めてもらう必要がある。
そのための釘刺しとして、彼は幸坂を呼びつけたのだ。
諸々の醜態や微罪は、功績で帳消し。そもそも、処罰して改まる類の失敗でもない。
 
なれば黒堂は、幸坂を解き放つ他は無いのである。
 
「全く・・・」
 
黒堂の呟きに、補佐官の一人が苦笑いを浮かべた。
お手柔らかな処断に、誰あろう黒堂こそが呆れている。
 
 
 

20██年7月16日17:28:39

SCP-066-JP-2はサイト-8169に一時収容され、アーチα隊員全員の救助が完了。"ハエトリ計画"発動宣言が解除された。
沿岸部への津波被害は10数棟の家屋や堤防に損傷を与えたが、人的被害は無し。"ハエトリ計画"専用ヘリ一機、収束磁気発生装置一基損失。
収容されたSCP-066-JP-2はSCP-066-JP-2██と分類された。

[アクセス:ER]
[アクセス:ER]
[アクセス:ER]

[コード:特外交渉K2]
[コード:色-1"Alpha et Omega"]

 


 
紙を引きずる音が廊下を這う。
革靴の音がそれに並走し、小さなリズムを刻む。
それらのやや後方からは、いくつもの軍靴の群れが追随する。
 
機動服に身を包んだ、機械のように整然とした群れを引き連れて、スーツの男が廊下を歩いていた。
10m以上はあろうかという長大の紙に視線を落とし、その端を引きずりながら。
紙には同じ語句が、同じ字体で延々と続いて印刷されていたが、スーツの男はため息一つつく事無く読み進めていた。
彼が紙を手繰る度に、廊下に引きずられる紙の尾は長く伸びていった。
 
「失礼」
 
その行く先で、声が歩みを制した。
スーツの男が足を止めると、後方の群れたちも停止した。
 
紙から顔を上げたスーツの男が目にしたのは、3名の警備員、そして彼らが守っているであろう一つの自動扉だった。
 
「御用向きは?」
 
警備員の一人がスーツの男に単刀直入に訊ねる。
その質問を受けると、スーツの男はにこやかな笑顔を、まずは返した。
 
「ご苦労様です。機密コード案件で参りました」
 
先程まで読んでいた紙を素早く丸めて懐へ押し込むと、彼は返す手で2枚の紙切れを警備員へとかざした。
それはまさに紙切れであり、安物の紙を手で千切り取ったもののようで、何やら手書きの番号がいくつか記してあった。
 
「照合しますので、少々お待ちを」
 
しかし警備員は怪訝な表情一つも出す事無く、紙切れを受け取り、それを見ながら自動扉の横のコンソールを操作し始めた。
他の二名の警備員も、最低限の警戒心は露にしていたが、怪しむような態度は見せていなかった。
 
「お通りを。お待ちしておりました」
 
やがて、コンソールを操作していた警備員がスーツの男にそう告げて紙切れを返す。
それと同時に、自動扉が重々しい起動音と共に開き始めた。
銀行の金庫を思わせる、重厚にして堅牢な分厚い特殊隔壁の向こうに、スーツの男は群れと共に足を踏み入れる。
 
その先にあるのは、広々としたホールであった。
一辺が100mは超えていようかという巨大な四角い空間。
壁にはバルコニーのように突き出したいくつもの見張り台が置かれ、ホール全体を吹き抜け構造のような様式にしていた。
見張り台には当然、一基につき一名以上の武装した男が立ち、中央にあるモノを監視している。
 
その、中央にあるモノとは、巨大な車輪が両端に取り付けられた金属の円筒であった。
スーツの男はそこに向かって、止まらずに歩き続けた。
 
「お待ちしておりました」
 
つい先程も聞かれた言葉が、再びスーツの男に浴びせられる。
しかし、今回その言葉を発した者は警備員ではなく、鼻に6つものピアスを取り付けた肥った男であった。
彼はすぐさま、スーツの男の隣につき、並んで歩き始める。
スーツの男は当然、ピアスの男に気付いているはずであったが、敢えてそれを無視するようにして歩を進め続けていた。
 
「収容から26分、解析チームの到着まで18分です。今のところ異常はありませんが、言われた通りに、隔離房を一つ用意しました」
 
声を潜めて、まるで耳打ちするかのように肥った体を寄せながら、ピアスの男はスーツの男に告げる。
スーツの男は何の反応も見せず、先程の紙切れ二枚を丸めて呑み込みながら、ひたすら進んだ。
 
「・・・何も説明しては下さらないのですか?」
 
まるで訴えるかのような口調と態度にも、一切の動揺を見せない。
張り付いたような微笑みは、ただの無表情よりも無機質さを感じさせた。
 
「・・・これは、大変な過ちなのかもしれないのですぞ」
 
しかし、その言葉を聞いたときだけ、スーツの男は足を止めた。
そして、停止したその瞬間だけ、スーツの男が横目で自分を睨んだように、ピアスの男には感じられた。
だが、笑顔を崩さずに、横目だけで冷たく刺すが如き視線があまりに不気味だったが為に、ピアスの男はそれを自分の見間違いだと即座に否定した。
 
「葦鳥さん」
 
何故なら、続いてスーツの男がピアスの男の方を振り向いた時には、彼の目は元の笑顔に相応しい柔和な線を描いていたからだ。
 
「手筈通りに」
 
ピアスの男──葦鳥は、気圧されるように仰け反った。
そんな葦鳥にもう一度笑顔を浴びせかけると、スーツの男は中央に向かって再び歩き出す。
葦鳥は、軍靴を鳴らす群れに追い抜かれながらも、ただ黙ってスーツの男の後ろ姿を見送る他は無かった。
 
しかし群れにも追い抜かれると、彼は頭を振りながら俯いて小さくため息をついた。
そして、見張り台に立つ武装した男の一人に目配せをしながら手を振ると、中央に背を向け、自動扉の方へと歩き始めた。
 
合図を受けた武装者は無線を取り出して何事かを告げると、壁の中に通じる出入口へと引っ込んでいった。
他の見張り台に詰めている者たちも、無線からの連絡を受けるや否や、同様に壁の中へと引き上げる。
そうして、ホールの中にはスーツの男と、彼に従う群れたちのみとなった。
その群れたちも、スーツの男が左手を上げてひらひらと振ると、二名を残して四方に散る。
散らばった群れたちは、ある者は梯子を登って、ある者は壁の中を通って、先程までは武装者たちが詰めていた見張り台へと移動した。
 
それらの移動が全て完了したとき、スーツの男は足を止め、"それ"を見上げた。
およそ人の手で作られたようなものには見えぬ、壮大で巨大な構築物。
直径が50mに届こうかという両輪に支えられた円筒部はまさしく横倒しになった塔のようであり、今にも目の前のスーツの男を押し潰そうとしているかのような威圧感を漲らせていた。
円筒の一部には、金属光沢には負けない程の毒々しさと派手さを誇る、紋章のようなシンボルが描き込まれていたが、この紋章の習俗的なデザインが無ければ、"それ"の事は神の手による創造物とすら思えただろう。
 
スーツの男は、少し困ったような表情で、それを見上げた。
彼は見上げながら、ズボンのポケットからTVのリモコンに似た装置を取り出し、円筒に──正確には、円筒に描かれた紋章に──向ける。
そして二つのボタンを順番に押した瞬間、"それ"の円筒部は音を立てて開き始めた。
まるで鞄を開くように開口し、その中にあるものを、捧げもののように外界へと晒したのだ。
とはいえ、あまりにも高低差があるために、スーツの男が内部を除き見る事は出来ない。
 
が、スーツの男がリモコンのボタンを操作すると、開口部の縁から数十本もの金属の糸のようなものが飛び出した。
縫い物を解くようにして飛び出し、広がった金属の糸は蛇のようにうねる。群れたちが一斉に銃を向けたが、スーツの男はそれを手で制した。
いくつもの金属の糸は、空中で互いに絡まり、編まれ、開口部の縁からスーツの男の方へと伸びてゆく。
その不規則ながらも連動した水流のような動きが完全に停止した時、そこにはスーツの男の足下から、円筒の開口部の縁へと伸びる階段が形作られていた。
 
スーツの男はリモコンをズボンのポケットに押し込み、その階段を登り始める。
細い金属の糸で編まれた階段は踏みしめる度に軋んだが、スーツの男は己の身を案じていないのか、はたまた安全を確信しているのか、スムーズな、普通の階段を登るのとさして変わらぬような様子で歩みを進める。
そして、階段の頂点に辿り着くと、男は円筒の内部に視線を落とした。
円筒には空洞があり、楕円形の構造物が内包されていた。
その楕円形の構造物も既に開放され、中心には半径2mほどの、金属で出来た真球が浮遊している。
 
スーツの男が円筒部の内壁を二度、平手で叩くと、その真球もゆっくりと、城門のように開いた。
 
「全く」
 
呆れたような、スーツの男の呟きが漏れる。
真球から姿を現したのは、蛍のように浮遊しているいくつもの小さな光点と、山積みの羽毛。そして──
 
 
「傍迷惑な亡命者だ」
 
 
──その中で胎児のように体を丸めて眠る、一人の少女だった。
 
 
 

SCP-900-JP可視光解読記録XX-XX:

記録日: 20██年7月16日

内容: 光あれ [以下繰り返し]
 
 
 
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