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音楽もなく、悪魔は足下に立つ。
 
ベッドで横になり目を閉じて暫く経つと、僕の意識は新たな視点を得る。
眠っている僕の頭、そこから連なる胴体、その向こうに投げ出された僕の足、その奥に悪魔が立っている。
逆光がかかっているように、その姿は人の形をした黒い輪郭と、それを塗り潰している暗闇だけ。
顔も指もない、形を持った影。
だが僕は感じるのだ。これを悪魔だと感じ、そして僕をじっと見ていると感じるのだ。
寝室の壁際、必ず僕の足下の方角に悪魔は立つ。
じっと、何をするでもなく、僕が目覚めるまで立っている。
 
僕はそれを見返す。同じように、じっと、ただ見返す。
言葉を投げかけようとする事もしなければ、何かを思うような事もない。
僕の体越しに、悪魔を見つめ続けている。
自分に対する疑問もなく、静かに、無音の中で佇むものに視線を注ぐ。
まるで一生の始まりから終わりまでのように感じる程の長い時間、ただ見続ける。
雨のように視線を注ぎ、光のように影の視線を受ける。
悪魔も僕も、決して動かない。僕の体も、決して目を覚ます事は無い。
 
彩光もなく、悪魔は佇む。

短いブザーが鳴る。
今の僕が一日の始めに聞く唯一の音楽。
僕は目を覚まし、夢の中では微動だにしていなかった上半身を起こした。
 
『おはようございます、新中さん』
 
小さな個室の天井隅にあるスピーカーから声が響く。
何度となく聞き続けた声、そして言葉。
僕が返すべき言葉も、そのようなものだ。
 
「おはようございます」
 
応えながら、僕は両目の瞼を親指と人差し指の腹で揉む。
寝苦しさもなく、この簡素でスースーする患者着にも慣れた。今更寝汗をたっぷりかくような事も無い。
しかし、寝不足なように感じる。あの夢を見始めてから、ずっと。
 
『体調はどうですか?』
 
杓子定規な声と言葉だ。
だがそれも仕方ないのだろう。同じ事を、もう何度繰り返した事か。
 
「いつも通りです。また同じ夢です。退院予定日は決まりましたか?」
『未定です』
 
繰り返しによって簡略化されたやり取り。そして簡略化された心理。
言葉に心を動かされるような事は、もうなくなっていた。
 
ベッドから立ち上がり、軽く伸びをする。
あの夢を最初に見た日から、今日でもう217日目。あの夢を見るのも217回目。
毎日、欠かさず数えている。おかしいと言う人もいた。間違ってはいない。だって僕は病気なのだから。
レム睡眠なんとか障害、なんて言ったかな? あんまり意味無いから、よく憶えていない。
周囲に悪影響を及ぼす可能性がある上に、希少な症例だからという理由、それだけが大事なことだ。
その大事なことのために、僕はここに入院しているのだから。
 
『朝食です』
 
スピーカーからの声と同時に、ドアに備え付けられた小さなトレイ受け渡し口から、朝食が渡される。
味噌汁、漬物、納豆、そして少量のご飯と一組の箸。それだけ乗せられた、安っぽいプラスチックのトレイだ。
僕はそれを受け取ると、部屋の隅に置かれているテーブルに置いて席についた。
監視カメラにももう慣れた。箸を掴み、何も言わず食事を始める。
 
僕が最初に診察を受け、そして入院した病院からここに移されたのはいつ頃だったか。
僕の睡眠障害はどうやら重病らしく、鎮静剤を打たれてここに運び込まれた後で受けた説明では、ここはそういう重病者達を専門に、そして集中的に取り扱う施設との事だった。
両親の同意書と僕自身の同意書の下で、僕には記憶障害が更なる症状として説明された。同意したことを憶えていないのだと。
確かにそうかもしれない。僕はもうよく憶えてはいない。あまりにも長い時間を夢の中で感じ続けてきたせいだろう。伸長された生の中で、体験の多くは風化していく。
 
だが、きっと嘘だ。
ここが病院だというのは嘘。
僕が睡眠障害だというのも嘘。
記憶障害なんてもってのほかだ。
でも、普通じゃないのはわかる。それだけは、何故かハッキリと。
僕は病気だ。だがここにあるのは嘘ばかりだ。嘘に囲まれて僕は生きている。
ここにある確かなものは、感覚。それだけだ。今は食べ物の味。これは確かな実存だ。
 
ここがどこなのかは分からない。
しかし僕は、日付をつけている。
どんなに夢の中で時間が誤摩化されようと、決して忘れないように日数を数える。
嘘が、嘘でなくなる日がいつかきっと来るはず。その時を忘れないように、数えるのだ。
 
食事を終える。トレイを受け渡し口に差し込むと、向こうから引き抜いてくれる。
このトレイを引き抜くためだけの係、というものがいるのだろうか。
もしそうだとしたら、とても律儀なことだと思う。まるで奴隷のようだ。
一方の僕は、もう生活には慣れてきた。
夢のおかげで、退屈にも耐性がついていると思う。
ただ、一つだけ、音楽があればなあ、とだけ感じている。
この部屋も夢の中も、静かすぎるのだ。
 
音楽は、元々熱狂的に何かのジャンルを追っていたわけではない。
なんとなく、ちょっとした嗜みのように気に入った曲を聞いていただけだ。
しかしこの部屋と夢の中の静けさと来たら、思わずかつての日々を懐かしく感じてしまう程なのだ。
あの悪魔も、地獄の歌でもなんでもいいから何か聞かせてくれればいいものを。
ここの連中にしたって、ラジオを求めてみても「精神状態への影響が予想できなくなるから」なんていう理由で突っぱねる。
その上、あまつさえ「病人としての自覚を」なんていう説教までもらったぐらいだ。
そう考えると、あの悪魔の方がよっぽどこちらに気を遣っているのかもしれないな。
 
『本日は午後1:30より定期診察となっています』
 
スピーカーが今日の予定を報せる。
気の早いことだ。それに定期診察と言ったって、結局ここにいながらにして、スピーカーと監視カメラを介してやり取りをするだけ。
相手の顔も見えやしないし、声も結局は読み上げソフトを使用したものでしかない。
精神の病気なのだから直接患者に触れる必要は無いし、医者と患者の安全確保のため、という名目なのだろうけど、ハッキリ言ってしまえば滑稽だ。
 
・・・何をそんなに、恐れる必要があるんだ?
 
僕は、ただの人間だ。
あのスピーカーや監視カメラでも無ければ、夢の中の悪魔ですらない。
一体彼らは何を怖がっているんだ?
 
空白
 
まあ、どうでもいいか。もう少し眠ろう。


僕の足下には、悪魔が立っている。
常に悪魔は存在し、僕を見続けている。
ある日突然悪魔は現れ、この静寂の世界にただ自らの影のみを投げかけ始めた。
僕には驚きも狼狽も恐怖も無く、ただ当然のようにそれを見た。
 
今も、悪魔は見続けている。
その大きな輪郭が、両足を床に立てて一毫も動じずに。
悪魔の顔はいつでも見えない。耳と頭髪が僅かに見えるだけだ。
だと言うのに、悪魔は一切視線を動かしていないと僕は確信している。
あの悪魔のことなら、なんでも分かりそうな気さえする。
本当は、何一つ分かっていないのだとしても。
誰のことも、自分のことすらも分かっていないのだとしても。
 
静寂と視線だけが、僕と悪魔の間にある。
そして悠久の時間だけが、ここで唯一動き続けるものだった。
一生という単位の無限。永遠という単位の一瞬。あらゆる時間が、ここで静かに流れていく。
いや、それは最早「静か」という音すら奏でてはいない。無音という言葉ですら表せない。
例えるなら、そう──それは「偽」だ。
 
その偽の中で、僕は平穏を──いや
 
空白
 
「安らぎ」すら感じていたのだ。
 
空白
 
空白
 
『────────』
 


短いブザーが鳴り、僕は目覚める。
 
・・・しまったな。ちょっと寝るだけだと思ったのに、いつの間にか一日経っている。
昨日の午後には定期診察を受けていただろうから、その前からの記憶が飛んでしまったのか。
夢の中で、現実の記憶を忘れる。これじゃまるであべこべで、なんだか可笑しく感じてしまう。
 
一人で小さく笑いながら上半身を起こす。
いつものやり取りを手早く済ませようと、軽く息を吸い込む。
 
そして、その息を飲み込む。
 
少しおかしい。普段ならとっくに、スピーカーからいつもの言葉が投げかけられるはず。
一体どういうことなのだろう? 僕は奇妙に思い、久しぶりにスピーカーを直視した。
 
その直後、スピーカーから流れてきたのは、壊れた拡声器か、または古いテープレコーダーが鳴らすガガッと引っ掛かるような音と甲高く響くような高音だった。
そして更に続くのは、微かな声。遠くで叫んでいるような、怒号のような声だった。
まるでこの部屋の外へと意識を向けるかのように、僕は耳をそばだてた。
 
『 ぇ   ぶたぃ !  じ  』
『かくほ   よう   !!』
 
複数人が何かを叫んでいるようだった。患者が逃げ出したのか、それとも何か事故でも起きたのか、随分と慌てている様子なのは伝わった。
もっと意識を集中してみる。呼吸の音すら止めて、しっかりと聞き取ってみる。
雑音と途切れ途切れの音声の嵐。
つい眉間に皺が寄ってしまいそうな音の奔流の中で、僕がまともな文章として聞き取ったのは以下のものだけだった。
 
『唯一の被験者だぞ!絶対逃がすな!』
 
この言葉と同時に、スピーカーは何かが切れたような音と共に完全に押し黙った。
被験者? 逃がすな? やはり患者が逃げ出したのだろうか。
しかし、被験者とは? 何かの実験・・・いや、稀な症例を持つ患者を集めたのであれば、何らかの研究目的である可能性も十分あるのだ。尤も、彼らの言説を信用するならば、であるが。
とはいえ、どうやら自分とは関係なさそうである。もしかしたら朝食は抜きになるかもしれないけれど。
実際の所は、至ってここは静かなままだ。
外で何が起きていようと、ここでは関係無いのだ。
この、静かでゆったりとした時間だけがここにあるのだ。
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
 
・・・いや、静かすぎる。どうしたんだ。今日はとても静かだ。
 
待て、そういえばいま私は呼吸を止めてスピーカーの音を聞き取ろうとした。
しかしそもそも呼吸の音なんて聞こえていたか?
何も聞こえてはいなかった。あのスピーカーの音は、勝手に聞こえてきた。私が聞こうとしたから聞こえてきた。
いま、動いているよな? 上半身を動かしている。確かめている。自分の着ている服やベッドを擦っている。
だが何故衣擦れの音がしないんだ? どうして無音のままなんだ?
壁を叩いても歯を強く噛み合わせてみても何の音もしない。立ち上がってみても、何の音も。
 
いや、違う。そうではない。私は動いてなどいない。
初めから、動いてなんかいない。私は目覚めてすらいない!
私の体はベッドに寝たままだ。目を閉じて、死人のように眠り続けている。
それを見ている! 頭が見える、そこから連なる胴体が見える、その向こうに投げ出された両足が見える。
そして、なんてことだ。あの悪魔が見える。悪魔が足下に立っている!
 
見慣れたはずの光景。
それに初めて恐怖を憶える。
そしてその光景は、直ちに見慣れたものではなくなった。
音も無く、静かに流れる時間と同じ歩調で、悪魔はゆっくりと近付いてきた。
影が大きくなり、悪魔が近付いてくる様に初めて怯えを抱く。
 
悪魔。悪魔だ。
だが何故これを悪魔だと感じたんだ?
これは悪魔だ。だが悪魔ではない。悪魔だと感じたのは私だ!
私が悪魔を感じ取り、そして像を成したそれを呼ばい、遂には受け入れてしまったのだ。
隔てられていたものが取り払われたのだ。そこには最早空気すら存在しない。距離は既に0なのだ!
 
空白
 
悪魔が、私の体の直ぐ傍に立つ。
そしてゆっくりと上半身を曲げて、眠っている体に覆い被さるようにして、あるいは見下ろすようにして顔を近付けた。
悪魔の視点が見える。今や悪魔の視点で私は見ている。
私は、寝そべる私の体を見下ろしている。
 
『心配するな』
 
その声は紛れも無く、僕──私の声だった。
 
空白
 
空白
 
『私が見ている』
 


 

一般曝露者隔離管理施設い-12棟脱走事例報告書

対象者: E-4993 SCP-421-JP曝露者

対象者概要: 対象はSCP-421-JP永続発症者であり、財団によるSCP-421-JPの収容管理開始以前に曝露した者である。初期に於いては確実に症状が現出していたにも関わらず、本来の異常性質は自然的に治癒。その代替として特殊な感性あるいは精神疾患の徴候があったため研究目的に収容したものである。
主にSCP-421-JPの症状が自然治癒した原因と、その現象によってもたらされる精神衛生上の影響についての究明を主眼としていたものである。

事例概要: 対象は[削除済]に自個室にて再度就寝。午後1:30の定期診察が予定されていたが午後1:11に突如覚醒。素手によって個室の扉を破壊し脱走した。このとき対象の身体能力は平常時の数値を遥かに上回っており、総合的な身体能力はおよそ3.6倍にまで上昇していた。
対象は全ての封じ込め措置と機動部隊による再収容の試みを突破。敷地外まで脱走した所で、不明な理由により追跡装置によって捕捉されなくなった。人員による48時間にも渡った周辺捜索も有力な成果無し。血痕の付着した患者着一着と成人男性の両眼部が発見されたが、DNA鑑定の結果どちらも被験者の情報とは適合せず。しかし患者着の名札から、対象が常時着用していた着衣である可能性が示唆されている。

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