--M--OTHER
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鼓動が響く。声が聞こえる。泣いている。雛が鳴くように、泣き叫び続けている。
母親の胎内に居ながらにして、赤ちゃんは泣いている。
あの瞼が開く頃、赤ちゃんは生きているのでしょうか。
あの指が動く頃、赤ちゃんは母親の腕の中にいるのでしょうか。
温もりの中で絶望を悟り、安らぎの中で死を見る。
あれは──私? それともあなた?
きっと、きっと両方だ。
涙で体が、悲鳴で心が溶け始める。
溶けて溶けて、混じり合う。
そして産まれる。母の涙が、私の悲鳴があの子を殺す。
 
ああ、でも、神様、赤ちゃんに罪は無いのです──
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
『神に求まば、夢破る』
 
空白
 

精神が引き戻される。
ここは現実だろうか? 少なくとも、布団は温かく、赤ちゃんの泣き声は脳を揺さぶっている。
体を起こし、俯きながら目を擦る。何分寝ただろうか? 時計を見るのすら、もうおっくうだ。
逃げ場の無い四畳半が身に迫る。泣き声が心を侵す。何度と無く、何度と泣く。
隣で大声を上げる赤ちゃんをそっと抱き上げ、小さく揺する。
赤ちゃんの声量とは裏腹に、私はもはや呻き声も子守唄も絞り出せなかった。
 
──これが、私の子。私だけの、私しかいない子。
 
父親は誰なのか? 追加料金の代わりに私を好き放題していった誰か。もしくは、寝入った私に襲いかかった客の連れの誰か。いずれにしろ、頼る事は無い。
家。私の家。父さん、母さん、二度と帰らない、二度と会わないと誓った。頼る事は無い。そう覚悟して、彼と共に家を飛び出した。
その彼も、今はどこにいるのやら。私以外の女と一緒に、私とやったのと同じような事をやった。だから、多分もう生きてはいないだろう。
ここにいるのは私、そしてこの子だけ。煤けた天井と埃まみれの床の間にあるものは、この子の叫び声と私の疲労だけ。
 
赤ちゃんは泣いている。まだ名前すらつけていない赤ちゃん。かわいいかわいい男の子。愛しい愛しい私の坊や。この子が、この子が。
そんなに泣き叫んで、私に何をして欲しいの? 私に何をしろって言うの? あなたの何が壊れたの? 私に何を直して欲しいの?
あなたの大声を聞いていると、父さんの最後の言葉を思い出す。勘当だ、二度と帰ってくるな、このあばずれめ。自分の好きにならない事が起きると直ぐ怒鳴る人。あなたもそうなの?
自分の欲望に、周りを合わせるために、あなたはそんなに叫んでいるの? 全ての人間を跪かせるために、あなたはそんなに可愛い顔をしているの?
 
じゃあ、誰が私を愛してくれるの?
あなたにとって・・・私は都合の良い召使い? 私はあなたの奴隷なの?
お客を紹介してくれる仲介屋さんと同じようにしか、あなたは私を愛してはくれないの?
その仲介屋さんですら、あなたが居る間はお客を紹介しないって言って来た。

赤ちゃんの泣き声が止み始める。
良かった。可愛い顔が安らかそうで。あなたには、泣き声よりも寝息が似合うわ。
時計に視線を移せば、時針は2を指し示し、分針は6の辺りを漂っている。
隣の人に、迷惑をかけてしまったかもしれない。この子の声は、よく響くから。だってとっても元気な男の子なんですものね。
 
注意深く赤ちゃんを布団の上に置き、その隣に再び寝そべる。
掛け布団を静かに乗せ、起こしてしまわぬよう注意深く体の力を抜き、瞼を閉じる。


 
空白
 
ぼやけた私。ぼやけた赤ちゃん。私の赤ちゃん。私が赤ちゃん。
赤ちゃんの私を抱く母さんと父さんの姿はぼやけている。その表情すら滲んでいる。
何も見えない。何も思えない。
あれは本当に私の両親?
遠い。
遠い。
届かない。
私は愛されていた?
私は誰に愛されていた?
私は何に愛されていた?
父さんも、母さんも、彼も、仲介屋さんも、お客たちも、お客たちの連れも、神様も、私を愛してくれたのだろうか?
病院の人たちはどうだっただろう? あの子を取り上げてくれた人たち。
今はもう、その人たちの顔すら黒く塗り潰されたようにしか思い出せない。
思い出せない?
いや、目の前にいる。
そうだ、あの時、目の前にいた。
それは一羽の鳥。病室のベッドで横になる私に、窓の外から鳥が寄ってくれたんだ。
私を見て歌い、膝の上にまで乗ってくれた。
あの子だけは、私を真剣に愛してくれたような気がする。
 
そう、ちょうどこんな感じに。
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
『愛の答えは、歌の意思』
 
空白
 


精神が引き戻される。
ここは現実だろうか? 少なくとも、布団は温かく、赤ちゃんの泣き声は脳を揺さぶっている。
体を起こし、俯きながら目を擦る。何分寝ただろうか? 時計を見るのすら、もうおっくうだ。
逃げ場の無い四畳半が身に迫る。泣き声が心を侵す。何度と無く、何度と泣く。
隣で大声を上げる赤ちゃんをそっと抱き上げ、小さく揺する。
赤ちゃんの声量とは裏腹に、私はもはや呻き声も子守唄も絞り出せなかった。
 
──何度目だろう? 何度繰り返したのだろう? これの事では無い。この私の感情、その動き。
 
焦がれて、切望して、裏切られて、疲れ切る。何度何度何度繰り返したのだろう?
ここにあるのは何なのだろう? この先にあるのは何なのだろう?
 
この先?
 
この先なんて、あるのだろうか? 私とこの子に、この先があるのだろうか?
私に、私に、こんな私に何が出来るのだろうか? こんな惨めな私が、愛しい坊やと一緒に、一緒に・・・
 
一緒に? 私が?
 
この子は私は愛しているの? 愛がどれ程重要なの? ここで、ここで、私が、こうすれば、どうなる? どうなってしまうの? 何が終わって、何が始まるというの?
飛んで行く泣き声。隣から響く、壁を叩く音。私の頭の中で反響する。流転する。そして、停滞する。私は疲れているんだ。
 
「よし よし」
 
数時間振りにようやく絞り出した声は、掠れ、弱々しい。自分でもそう分かるぐらいなのだから、そんな声がこの子にちゃんと届いているかは全く分からない。
どれだけ声をかけても、どれだけ優しく抱き締めても、どれだけあなたを想って愛しく揺すっても、あなたに届いているのか分からない。
ここにあるのは何なのだろう? 薄汚れた壁と、声に震える空気の間には何があるのだろう?
この子はとても小さく、可愛らしく、柔らかい。少し力を入れるだけで、潰れてしまいそうな程だ。
もしそうなったら・・・私はどうするのだろう。この子と同じように泣き叫ぶのだろうか。それとも安心して静かに横になって泥のように朝まで眠るのだろうか。それとも明日からの根拠の無い自由を夢想するのだろうか。
一体、どうなるんだろう?
 
赤ちゃんの泣き声が止み始める。
ああ良かった。よく分からないけれど、恐らくそれは良かった事だ。
時計に視線を移すと、時針は3を指し示し、分針は20の辺りを漂っている。
 
注意深く赤ちゃんを布団の上に置き、その隣に再び寝そべる。
掛け布団を静かに乗せ、起こしてしまわぬよう注意深く体の力を抜き、瞼を閉じる。


 
空白
 
鳥が落ちる。声が響く。あの歌声が頭の中で響き続ける。
あれはなんと言っていた?
愛はなんと宣っていた?
鳥の歌声。鳥の歌声。
あれは人の声だった。
言葉がそこにあった。
私は病院で気を失っていた。
そこに何があった?
その時何があった?
あの子がいた。赤ちゃんがいた。私がいた。
黒く塗り潰されたのは病院の人たちの顔だけなのだろうか?
鳥が来ていた。鳥が歌っていたんだ。鳥だけがあの病院にあった。
頭の中で響き続ける。あの子の泣き声のように。私の泣き声のように。
鳥は朽ちた橋から飛び発つ。
鳥は鉄の箱から自由へ飛び発つ。
振り向いては駄目。そこに何があるというの?
 
夢が、夢が、愛の枷が絞め殺す。
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
『母よ歌え、愛は刃と高らかに』
 
空白
 


精神が引き戻される。
ここは現実だろうか? 少なくとも、布団は温かく、赤ちゃんの泣き声は脳を揺さぶっている。
体を起こし、俯きながら目を擦る。何分寝ただろうか? 時計を見るのすら、もうおっくうだ。
逃げ場の無い四畳半が身に迫る。泣き声が心を侵す。何度と無く、何度と泣く。
隣で大声を上げる赤ちゃんをそっと抱き上げ、小さく揺する。
赤ちゃんの声量とは裏腹に、私はもはや呻き声も子守唄も絞り出せなかった。
 
──頭が揺れる。視界が揺れる。何かが頭の中を高速で通り過ぎて行く。
 
一体なんなの? どうしてこんな・・・私が、こんな。
もう、もう、なんなの。どういうこと? 何がどうなっているの?
私は何をやっているの? 何を、一体、どうしてこんな事を。
光と音が回転している。脳が死滅する。心と体が溶けていく。
 
その中で、私は鳥の歌声と時計の針だけを感じ取っていた。


 
空白
 
『歌は響く。導きのまま、我が映し身の叫ぶままに』
 
誰?
 
『声は歌う。母の思いに、愛が応うるに能う限り』
 
誰なの?
 
『願いは語る。愛は一つに非ず、勇こそ愛なり』
 
何をしろって言うの?
 
『真理は願う。ただ生のままに、気のままに』
 
あの子はどうするの?
 
『響きは真理。捨てよ、得るために』
 
出来ない。
 
『知を望むか? 幸いなるを望むか? ならば捨てよ』
 
あなたは、何なの?
 
『夢とは記憶。歌は既に聞かれ、ただ思われるばかり。歌とは相応しき時に、相応しき箇所を聞き手が想起するべきにて』
 
どうすれば、良いの。
 
『歌に従うべし。歌こそ真理にて、真理こそ歌なり』
 
ちゃんと、答えて。あなた誰なの?
 
『母は声を忘れじ』
 
空白
 


精神が飛翔する。
私は眠ったままの赤ちゃんを乱暴に抱き上げると、裸足のまま外へと飛び出した。
不思議と、赤ちゃんは目を覚ます事なく私の腕の中で眠っていた。
 
夜の闇の中、時たま街灯に照らし出されながら私はひた走った。
私の行く先を歌が先導していた。あの鳥の歌。ただ一つだけの病院の中での記憶が、私を先へ先へと引っ張っていく。
私には出来なかった。私には無理だった。私はこの子を守れない。私は、私を愛さない人たち全てを捨てて来た。何故なら、私も愛せないから。愛せないものを守れる程強くは無いから。
私に出来ることは? 何も無い。何一つとしてやるべき事は無い。あの牢獄のような部屋で独り縮こまっている事以外に。
 
『走れ、走れ。愛は一つに。母子は一つに』
 
歌が闇の中を駈けていく。
私の隣を、あの鳥が共に飛んでいるような気がした。
頭が痛む。頭が眩む。それでも足は止まらない。
暗闇の中を、私は鳥が翔ぶように走り抜ける。
可愛い赤ちゃん。愛しい坊や。今この瞬間でも、私の愛は止まっていない。
でも、私はこの子を愛していない。
 
歌が止まる。
闇の中で歌が止まったその場所で私も足を止めると、私の視線の先には一つのものがあった。
それは、空き地に放り捨てられたコインロッカー。
歪に曲がり、錆の浮いた、打ち捨てられた一つのロッカー。
 
──この中に? この子を閉じ込めるの?
 
一瞬の戦慄を覚えながら、私がコインロッカーに歩み寄ると、蜂の巣のようにいくつも並んだコインロッカーの内の一つがひとりでにゆっくりと開かれた。
足を止めて、その中を覗き込む。空き地の隅に街灯があるとは言え、それはコインロッカーの中の闇を照らし出すにはあまりに心許無かった。
その小さな空間でしかないはずのロッカーの内部にある暗闇は、空間を押し広げて無限に広がっているように見えた。
私は更に注意深く暗闇を覗き込む。
 
その奥で、何かが蠢いた。
 
その奥で、何かが息づいた。
 
何か、いる。あの中に何かがいる。
あの鳥じゃない。私の記憶じゃない。私の愛じゃない。
あそこにいるのは、あの中にあるのは──
 
 
「愛し合おうね、ママ」
 
 
抱えている腕の中から声がした。
あの鳥と同じ声。
視線を下に滑らせると、私の腕の中で、あの鳥と同じ目で私を見上げる赤ちゃんがあった。
 
私が声を上げる寸前、暗闇の奥から暗闇そのもので出来た嘴が私の胴を挟んだ。
餌を放すまいとする親鳥のように。愛しい母親を抱き締める子供のように。
嘴は私をコインロッカーの奥へと引き込んでゆく
 
赤ちゃんの頭が卵の殻のように割れる。
そこから顔を覗かせたのは、あの鳥──
 
空白 
空白
 
──嘴ではなく唇を具えた、肌色の皮膚の小鳥だった。
 
空白
 
空白
 
空白
 
空白
 
『そだててあげらんなくて ごめんね』

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