長い、長い旅路
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 天井の光は弱弱しく明滅している。それは男の途切れがちな呼吸に呼応しているようだ。男は指一つ動くことすらままならず、ジッと訪れるはずのない旅路の終わりを待つことしかできなかった。
 男には身寄りがない。数十年前に妻を亡くし、一人息子もその孫も、みな男より早く終の旅路へ歩んで行ってしまった。
 今、男を見守っているのは病室の白い天井と若い女性の看護師だけだ。
「向山さん。本日はキレイな空ですよ」
 看護師が病室のカーテンを開くのを向山は感じた。感じた──もはや向山の双眸には光を知覚することができなかったからだ。
 看護師が日常通りの医療業務を続けていると、病室の扉を数回ノックする音が室内に響く。向山は最初は自分の見舞い客かと考えたが、もう自分を見舞いに来るような親しい者など誰もいないことを思い出した。
 病室に入って来たのは白衣を纏った若い女性だった。向山には確認することができないが、くるぶし近くまで白衣の裾が達している辺り、とても小柄な女性だ。
「失礼します。私は桜良心製薬の西海枝(サイカチ)と申します。向山さん、少々お話をお伺いしたいことがあるのですが……」
 西海枝と名乗った女性は医療ベッドに横たわる向山に丁寧な物腰で声をかけた。
 だが向山は薄れゆく記憶の中からどんなに掘り起こしても西海枝と名乗る人物に覚えがなかった。彼女を追い返すよう看護師にしゃがれた声で告げようとした時──

「我々はあなたが今、最も必要な物を用意しています」
 その言葉で向山から抗う気持ちが霧散した。


「1945年の2月、あなたはご自身の死因を売った。間違いはありませんね?」
「……あぁ。もう長い長い昔のことだ」
 向山は西海枝の言葉に公定の意思を示した。それは日本がまだ戦時中だったころだ。当時の向山は二十歳を越えたばかりのどこにでもいる普通の男だった。それ故に徴兵によって戦地へ送られた。
「私は母と妹に必ず帰ると言葉を遺したが、もう帰ることはできないだろうと感じていた。どこかの戦地に送られ、誰からも見守られずにひっそりと土塊になる。それが当時の男達にとって当たり前の最期だった」
 若い西海枝にとっては歴史の授業でしか知ることができない事実だが、目の前の老人は経験でそれを知っている。それはきっと彼女が思う以上に重い真実であり、軽い命なのだろう。
「怖かった。私は死が怖かったんだ」
 その語り口は罪を犯した信徒が懺悔室で神父に罪を告発するかのような静かな言葉だった。
「兵士たちがモグラになったかのように無心で掘った塹壕の壁に背中を預けていた時だ。私は妙な男に出会ったんだ」
 そう言って向山は天井を仰ぐ。映ることのなくなった瞼の裏で、彼は記憶の中から奇妙な出会いを掘り出した。

 ──生き方を自由に選べるように、死に方も自由に選んでみませんか?──

「彼は私に笑顔で語り掛けてきた。最初は疲れからの幻覚だと思った。場違いなトンビコートを羽織った山高帽の男だったからな。だが男の足元にしっかりと影があるのを見て、次に妖怪か何かだと思った」
 どちらにしろまともな存在だとは思えなかったと向山は続けた。
「だが男は笑顔を崩さずに『死は誰にでも平等に訪れます。だからこそ意味のある死に方を望みませんか?あなたにも遺してきた大切な人たちがいるはずでしょう?』と述べた時、家に遺した母と妹の事を思い出した」
 向山の脳裏には、母と妹と既に亡くなった父と共に過ごした家族の団らんが浮かぶ。それは戦時中で日に日に貧しくなる家計だったが、それでも幸せだった。
 こんな場所で土塊になりたく無かった。そう思ってからは向山はその男の言葉を耳から引きはがすことができなくなっていた。

 それがとてつもない代償を孕んだ商売の話だと知らずに。

「その男は死に方を売買できると言っていた。『人はみな誰しもが生れ落ちた瞬間に定まった結末へ向かっています。本来は決して覆ることはありませんが──我々の取り扱っている物でなら因果を動かすことが可能です』だったかな。他にも何か言っていたと思うが、私には半分も理解できなかった」
「……向山さん、不審には思わなかったのですか?死因の売買など、普通なら──」
「──できるわけがない。あぁ、その通りだ。素面の頭で考えれば絶対におかしいとおもっただろう……狂っていたんだよ!あの塹壕にいた時の私は!死にたくないばかりに異常な言葉だろうと縋るしかなかったんだ!」
 老人の喉から激昂と共に血と痰が混じった咳が零れる。本当ならとっくに事切れている肉体だ。それでも老人は決して死ぬことは無い。

 なぜなら今、彼は死因を持っていないからだ。

 死因を持っていない人間はどれだけ生きようと死ぬことができない。
 終点のない列車が意味もなく走り続ける。タイヤが朽ちようとも、ボディが砕け散ろうとも。終わりのない旅路が続くのみだ。
「男の促すままに、私は自分の死因【銃殺】を売り払った。指で血判をしてな。それからは前線に出ても弾がほとんど当たらない。当たっても致命傷には至らない軽傷ばかり。それだけじゃあない。部隊が爆弾で吹き飛ぼうとも、私だけは幸運が重なって決して死ぬことはなかった。私は高揚したよ。終戦を迎え、本土に帰還した他の兵士たちは足や手を欠損したとしても、自分だけは五体満足で帰ることができたのが嬉しかった」
 皺が何重にも刻まれてやせ細った両手で老人は顔を覆った。
 指の間からは、もはや光を見ることができない眼を伝って雫が数滴垂れる。
「……家には誰もいなかった。いや、家すらなかった。家のあった場所には焼け落ちた木組みと、真新しい札束だけがあった……死体がなかったのは救いだな」
 垂れ落ちた雫がシーツを濡らしていく。
「誰も私を待ってくれない人生に何の意味があるのか──札束を抱えて空を仰ぐことしかできなかったよ。西海枝さん、あなたに待ってくれる人はいるのかい?」
 10数分は泣いた後、向山は唐突に話を振ってきた。

「生憎ですが……私には待ってくれる人はいません。でも孤独ではありません」
「そうか、大事にしなさい。たった一人で死ななくて済む人生とは、とても幸福なものだから」


 西海枝は白衣の内側から携帯電話を取り出した。とても真新しい傷一つない携帯電話だ。盲目の老人の手に契約を済ませた携帯電話を握らせ所定のサイトへアクセスした。
 液晶画面に【YES】【NO】と浮かび上がっている。彼女は【YES】にカーソルを合わせてから手を離した。
「あなたの名義で契約は済ませています。右上のボタンはわかりますか?それを押せばあなたは死因を買い戻すことができます」
「……感謝するよ、しかしあなたたちは一体……」
「お答えすることはできません」
「そうか、ありがとう西海枝さん……」
 所持品一覧に死因【銃殺】が追加された瞬間、向山の心臓を無音の弾丸が貫く。

 即死。おそらく痛みすら感じないほどの刹那な終末が老人に訪れたはずだ。

 この現代日本でどうやって銃による死傷が可能だろうか?拳銃強盗や警察官の銃の暴発が病院で起こるにはどれほどの確率だ?
 限りなく零に近い。こうするしか彼の旅路は終わらせられない。
 白衣の懐に抜き去った拳銃をしまうと、西海枝は病室を出て行った。記憶処理等の後始末は別の職員がする手筈になっている。
 老人の苦闘と、財団への貢献に対するせめてもの報酬がこんなものでしかないのが歯がゆい。

報告書:執筆者 西海枝捜査官

 SCP-1235-JPのWEBサイトに登録されたアカウント履歴を遡った結果、インターネットが存在する前より活動を続けていたことが判明しました。
 現在こそインターネット上で活動をしていますが、かつては通常の訪問販売の様に死因の売買をしており、当時の顧客データも現代まで保存していたと思われます。
 時代の変化に沿って進化するオブジェクトであるため、さらなる追加調査と、現在SCP-1235-JPを運営する個人または組織を新たなる準要注意団体として登録を要請します。

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