火星の夢
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私は火星の夢を見る。赤茶けた大地に私の三つ編みを揺らして風が吹きすさぶ。
寒い。二酸化炭素の嵐にセーラー服がはためき、胸元を抑える。

地学の授業で習った不毛の大地は、夢の中だと分かっていてもどこか落ち着いた。

何時からこんな夢を見るのだろうか。宇宙を一人孤独に歩く。誰かを求めている。誰を?
火星の先に私は一人の姿を見て。そこでようやく夢から覚めるのだ。一緒にいたいのに。

「適応障害からの不眠症でしょうね。おそらく精神疾患その他はないでしょう」
「適応障害?」
「ストレスと言えば分かりますか? それが原因で発生する睡眠障害なのですが」
「えっと、何かのストレスを私が感じているってことですか?」
「もちろん精神面だけでなく外的な寒さなどにも起因するものですが、そういうことですね」

火星の夢を見てから眠りが浅くなった私は家族の勧めもあり、病院で診察を受けた。真新しいその病院は看護師さんも親切で、消毒薬の匂いより花の香りが似合いそうだった。私を診てくれた医者は狐みたいな吊り目、ワックスで撫でつけられた綺麗な七三と神経質そうなイメージだけど、物腰柔らかい。白手袋が清潔感を感じさせて好印象。

「最近、何かストレスを感じることは? 冬ですから暖かくなれば自然に、ということもありますが」
「ストレス、ですか」
「ストレスと明確に表現できなくても何か身の回りで変わったことは?」

少し考える。変わったことなんて特に無い。普通の進学校で上の中くらいの成績を取る真面目な文学少女。それが私のステイタスだ。人生はこともなく平凡に進んでいく。しばらく悩み、そこでようやく教室の喧騒に思い至った。

「ストレスかどうかは分かりませんけど」
「どうぞ」
「担任が変わったんです。前の教師が産休で、若い臨時の先生に」
「男性ですか?」
「はい。それで、友達とかクラスメイトが騒いでいて」

医者がつっとカルテを撫ぜる。その指先の動きは先生によく似ていた。溌剌として明るい友好的な男の先生、男女に分け隔てなく接するその先生はすぐにクラスの人気者に。その空気に私はどうにも馴染めなくて、ぐいぐいと迫ってくる先生から距離を置こうとしているのだけども。その低い声はよく響き、何か言っているとつい目線を向けてしまう。

「なるほど、その環境の変化があるかもしれませんね」
「そういうものなんですか?」
「原因がそれと決まったわけではありませんが、些細な変化が原因ということは案外多いのですよ」
「そうなんですか」
「とりあえず初回ですしお薬は止めておきましょう。まずは生活リズムを整えることからですからね」

狐目の医者は睡眠衛生の指導を丁寧に行ってくれた。その言葉を聞くだけであの火星が遠ざかっていくような、そんな気がする。説明を終え、簡単なパンフレットを貰い診察を終える。出ていこうとしたとき、医者が何かを思い出したように一枚のプリントを手渡してきた。

「では、次は一週間後に…、あ、そうだ。折角ですからこれを」
「?」

医者が渡してきたプリントには「Mars Dream」の文字。
何やら難しい事が書いてあるが文系の自分にはサッパリだ。理系なら分かるだろうか。

「たいしたものではありませんが、治験という言葉をご存知ですか?」
「はい、新薬のバイトでしたっけ?」
「その「Mars Dream」、仮称ですがそれも新薬なんですよ。非ベンゾジアゼピン系の…、分かりませんね、不眠症のお薬でして」
「求人票、ですか?」
「そういうことですね、製薬会社との取引の一環でして。もちろん、親御さんの許可を得ないとダメですが」

医師は薄い唇をつっと曲げた。初めて見たその笑顔は無機質ではあるけど優しそうで。「Mars Dream」、火星の夢、か。何だか自分の現状に似合っていて少し笑ってしまった。

火星の夢を見る。赤黒い荒野は何処までも続いていて、何処までも一人で。
そして、最後に人影が見えて、いつも通り誰だか気づかないまま目が覚める。一緒にいたい。

「まだ改善されませんか」
「…はい」

狐目の医者は神経質そうにカルテを撫ぜる。あれから一週間。医者に言われたとおり試してみたけど、一向に火星の夢は終わらない。

環境は変わらず、以前より騒がしくなった教室に先生の低い声が響く。本を読んでいてもその声は耳に届き、話しかける同級生たちの声が癇に障る。先生は私の名字を呼ぶ。同じ苗字が教室にもう一人いてややこしい。寝れないのに教室の中では妙に意識が冴えて、家に帰ってからが気怠くて仕方がない。

「やはり環境の変化でしょうか…、不眠がかなり日常生活に影響を与えてもいるようですし」
「言われたことはやってみたんですけど…」
「やはり一度お薬を出してみましょうか。それと併用して…」
「あの」

自分でも気が付かず声を出していた。火星の夢、その言葉に惹かれていた。親からの同意書を突きつける。

「あの治験、やってみたいです」

医師は細い目をさらに細めた。

医師に渡されたその薬は青い錠剤。家に帰り、言われた通り食後に飲み、そのままベッドに潜り込む。錠剤のパックに書いてあった「Dream Dealers」のロゴ。なんとなく今夜はゆっくりと眠れそうな気がした。

温かな感触と共に、私は夢へ墜ちていく。

火星の表面は赤黒く、宇宙は何処までも黒々と広がっている。私は気づいた。行かなくちゃ、行かなくちゃ、行かなくちゃ。
夢から覚める前に駆け出した。二酸化炭素の嵐を突き抜けて、凍えるような寒さも気にすることなく。三つ編みがほどける、眼鏡を投げ捨てる。

そしてようやく、その人に会えた。夢の中で一度も出会えなかったその人に。

「先生、私の名前は?」

夢から、覚めた。行かなくちゃ。


「おはようございます、そして、おやすみなさい」

七三の男は白手袋の指で神経質そうに炭となった教室の壁を撫ぜる。その視線の先には黒焦げの死体。
もはや人としての体を為していないその炭化した死体の腹から、男は「Mars Dream」を取り出した。
死体の隣にはもう一つ、僅かに生身を残した死体。体格からして成人男性のものだろう。

「我らと生理機能すら違うであろう火星の住人。ではそんな火星の住人は、一体全体何を夢見るのでしょうか?」

炭化した少女を砕き、白手袋を黒く染めながらビニール袋に詰め込んでいく。

「火星の夢は戦争の夢、あるいは♂の夢。火星の女の置土産、黒焦げ少女の屍体。確かに代金として受け取りました」

男は夢売り。夢を売る者。夢を征く者。夢に揺蕩う者。
そして静かに男は残った屍体を燃やしていく、自らも燃やしていく。どうせ夢なのだから。火星の荒野だけが残った。

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