エルピス
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カチリと時計の音が鳴った
口の中で噛んでいたライムのガムが
トニックウォーターの味に変わる頃
俺は750CCのバイクから降りて、小さなカメラと拳銃を持って
地獄の蓋を開ける最初の悪魔になる
背後には笑えるくらい厳重な鎧を着た連中が眉間に皺を作っている
この中に何があるのか、人類はまだ知らない
だが俺たちはそこから漏れ沸く化け物を確保しなくてはならない

蓋を開けるのが最良の選択か
それは誰にもわからない
これは罠なのかもしれない
誰の罠?
箱の中の悪魔か それとも背中から俺を押す連中か
確保せよ どうやって? この小さな拳銃で?
俺の前に居るこいつは、もしかしたら宇宙よりもでかいのに

世界が滅びてしまう事よりも、今は俺が俺で居られるかが重要だ
死体になんかなりたくないし、苦しみたくもない
俺は俺のままでいたい
明日も俺は ベッドで目を覚まして、お気に入りのカップでコーヒーを入れて
スマホを弄り回して IDカードをぶら提げて、あのコンクリートの塊の中に入り
デスクに座るや呼び出されて、今日も知らない顔の連中と仕事をする

世界を守るだなんて、そんな大層な事は考えちゃいない
ただ俺は黙って死にたくは無いだけだ
不条理で理不尽な化物どもに何もできずに死ぬのは嫌だ

俺はエージェント・██ 誇りもやりがいもこれっぽっちも無いが
さりとて他に仕事があるわけでもない
「シェルター」の中で働く連中みたいに毎週、精神課に通うのもごめんだ

だから俺はこういう時は戸惑わない 死ぬならせめて苦しまないようにと祈るだけだ
どんな天才も権力者も技術者も結局最終的には俺達に頼まざるをえないのだ
俺はエージェント・██ 地獄の蓋を開ける最初の悪魔
カチリと時計の音が鳴った

カチリと時計の音が鳴った
湯気を立てる紙コップの中のコーヒーが
温く、よどんで沈んでいく
分厚いスリーリングバインダーを閉じてモニターを確認
世界を滅ぼすかも知れないコマンドを入力する
電網の向こうの死せる兵隊はどんな表情をしているのか考える
私の背には70億人と家族と同僚の命が乗っている
この先に何が待っているのか 人類はまだ知らない
しかし私はそれでも、そこに待ち受けるものを収容しなくてはならない

この命令が最良の選択か
それは誰にもわからない
これは罠なのかもしれない
誰の罠?
箱の中の悪魔か それとも私自身か
収容せよ どうやって?
保護せよ なんのために?
私のうかつな判断が もしかしたら世界を滅ぼすのに

世界が滅びてしまう事よりも、今は私が私で居られるかが重要だ
死体になんかなりたくないし、苦しみたくもない
私は私のままでいたい
明日も私は ベッドで目を覚まして、お気に入りのカップでコーヒーを入れて
お気に入りのカップ?
それは本当にカップなのか?
なぜ私はこのカップを知っている、どうしてこのカップはここにある?
私は私のままなのか?
パラノイアックな疑念を飲み干す

私はドクター・██ 洗面所の鏡に向かってそう自分に言い聞かせる
他の誰にもできない仕事をしている
「娑婆」に暮らす人々が平和なときを過ごせるように神経をすり減らす

いつもこういう時は手が震えてしまう 死ぬならせめて苦しまないようにと祈るだけだ
どんな天才も権力者も技術者も結局最終的には死に行く兵士を必要とするのだ
私はドクター・██  世界を滅ぼすかも知れないコマンドを入力する
カチリと時計の音が鳴った

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