おもいでエスカトロジー
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Ω

これは未来の物語
あるいは過去の物語


 夢を見ていた。なんてことはない日常の夢。いつもの職場で親しい顔見知りと擦れ違う。挨拶を交わして談笑し、手を振って別れる。木漏れ日の柔らかく射す昼下がりの中庭を歩く。新緑の中、木製の瀟洒なベンチに坐る。皐月の暖かな風が副交感神経を刺激する。溶けるように重くなる瞼。微睡み。意識は華胥の国へ、暫しの旅に出る。
 記憶はそこで一度暗転する。

 遠野司書はうろたえない。目を覚ました自分の身体が人工冬眠莢の中に横たわっていることに気付いたその時も、彼は微塵も動揺しなかった。全ての経緯を、彼は察していた。
 ああ、そうですか。彼の抱いた感想はそれだけ。
 そうですか。僕がここで眠らされていたということは、そういうことなんですね。
 何本もの、禍々しくさえある柱状の装置──かつてスクラントン現実錨と呼ばれていたもの──に囲われたシェルターの中央、気怠げに身を起こした彼の左隣に、男が一人立っている。背が高く温厚そうな、スーツの上にトレンチコートを着た男。
「神山さん」皺の付いてしまったシャツの襟を正しながら、遠野司書は呼びかける。「起こしに来てくれたんですね、約束通りに」
「ええ」神山と呼ばれた男は答える。「約束したのは、私の兄ですが」
「どうなりました、人類は」
「有り体に言えば、滅びました」

 取り立てて驚くほどのことではない。終末はいつか必ずやってくる。そんなことは解りきっていた。余りにも確実なことだった。
「そう、例えるならば、土曜日の次に必ず日曜日が来るように」
「週末だけに、ですか」
 下らない冗句にも律儀に反応してくれる人物が隣にいるという状況には感謝すべきだろう。この先の時間をたった独りで過ごしていくなんて、それはちょっと、ぞっとしない。

 パンドラの箱が一個だけならなんとかなっていたかもしれない。だがパンドラの箱は千も二千もあった。自分達はその全部に開かない鍵をかけようとしていて、そして、どこかでしくじった。神話では箱の底には希望が残っていたけれど、実際のところこの世界に最後に残された希望は、勝手に起動するリセットボタンだった。

 長い長い階段を登って、漸く一番上に着く。錆びた金属製の扉を開いて外に出る。外は昼の明るさ。刺さるように冷えた空気が頬に当たる。そこは荒野だった。太陽は眠りに就く前と変わらず青い空に輝き、冷たく乾いた大地を照らしている。
「冬ですか、今は」
「天文学的には十二月三十一日です。気候変動もまだ完全には復旧していませんが」
 目の前には無骨な四輪駆動車が停車していた。神山が運転席に乗り込む。
「乗ってください」
「どこへ行くんですか」
 神山は遠く山々の向こうを指差す。
「ラザルス-01の開始からもう20年余りですが、漸くこの列島にも復興の兆しが見え始めました」
 状況説明を聴き流しながら遠野司書は助手席に乗り込み、車上に用意されていた黒いピーコートを羽織った。

 SCP-2000。財団が「いつの間にか手にしていた」人類のリセットボタン。超大規模の人類複製装置とその他諸々。終わった世界をもう一度創り直す、機械仕掛けの神。どうやら巧く働いてくれたらしい。
「北米の一部、ニューヨークやサンフランシスコはかつての林立するビル群を取り戻しつつあります。計画は順調です」
 四輪駆動車は砂塵を巻き上げ、道なき荒野を疾駆していく。文明を失った大地にあるのは、時折現れる野生動物と見渡す限りに立ち込める静寂のみ。
「ですが、予定より遅いですね」
「K-クラスシナリオの被害は予想以上に甚大でした。自然環境と生態系の復旧、それに先立つ地球全土のヒューム値の修正。その辺りに多少手間取ったようで」
 大丈夫ですよ、これが初めてではありませんから。神山が言い、二人は苦笑した。

 凸凹の道を車は走る。止むことのない激しい振動は、ちょっとお尻に優しくない。
「本当はヘリコプターにでも乗って来たかったのですが、使用申請が却下されまして」
 それはそうだろう。特に存在が不可欠なわけでもない人間一人を迎えに行くために、貴重なリソースを割こうとは誰も思うまい。担当職員一人と車一台、自分にかけられた期待などその程度なのだ。
「僕は、なぜ生かされたんでしょう」
 遠野司書は独り言ちたつもりだったが、それは神山の耳にも届いていたらしい。
「貴方は聞かされていないのですか」
「人類文明の保存のため、と」
 全ての経験を記憶し、決して忘却しないという"特技"。その"特技"ゆえに、人類滅亡後の世界へと失われた文明の知識を伝える使命を与えられた。それが自分の役割だと聞かされていた。ロケットの作り方、世界中のあらゆる言語、トランプゲームの遊び方……手当たり次第に知識を脳に詰め込んだ。だが、SCP-2000は終末以前に財団に所属していた世界最高の科学者達のクローンをいつでも生産できるし、ワールドワイドウェブの完全なバックアップも一緒に保管されている。結局のところ、SCP-2000があれば自分など不要ではないか。
 一応それらしい仮説を立てるなら、きっと自分はSCP-2000が巧く作動しなかったときのための予備だったのだ。今となっては確かめることも叶わないが。
「それは純粋な疑問ですか」神山は前を向いたまま訊ねる。「それとも憤りですか、嘆きですか」
「まさか。不満に思ってなんかいませんよ」
 車は道なき道を行く。一定のビートを刻む座席の振動に揺られ、ぼやけた思索は拡散していく。
「ただ、少しだけ寂しくはあります」

 太陽はさっきよりも高く昇っている。恐らく時間は昼頃になるようだ。神山が隣から何かを差し出してきた。
「どうぞ、昼食です」
 財団標準糧食E型。スパウトパック入りのゼリー飲料である。
「お腹空いていませんか」
「いえ、貰っておきます」
 容器に印刷された文句は高い栄養価と保存性を事務的に喧伝しており、キャップを開けて吸い出せば人工的な添加物の味が口腔内に広がる。
「今はそれで我慢してください。晩にはもう少しまともな食事を用意しますよ」
 固体とも液体ともつかない今日のランチを嚥下していく。不味くはないが食べ応えもない。側面を押して、吸って、底のほうを少し巻き上げて、最後まで残さずに食べ終えた。
「御馳走様。久しぶりの食事でした。何十年ぶりでしょう」
「すみません」神山が冗談めかして呟く。「記念すべき昼餉が味気ない非常食になってしまって」
「構いません。食べ物がお腹に入るだけで満足ですよ」
 長期冬眠の直後でも正常に空腹を感じることができるのは人工冬眠莢の高性能な恒常性維持システムのおかげだ。だが長い眠りですっかり縮こまった胃はゼリー一食程度でお腹いっぱいになってしまった。「食事を楽しむ」感覚を取り戻すのにはもう少しかかるだろう。

 旧世界の黄昏と、新世界の黎明の間の、静かな世界。人の気配がないことを除けば、それは記憶の中の旧世界と変わりはない。枯れ葉は北風に揺れ、小さな白い雲が地に陰を落とし、そして空は飽きもせず青い。
「神山さん、僕は眠っている間、色々な夢を見ました」
「いい夢でしたか、それとも悪夢?」
「いい夢も、悪い夢もありました」遠野司書は空を見上げる。「あるときはこんな夢を見ました。目を覚ますと、世界は雑草すら生えない不毛の大地に覆われている。立ち昇る火山灰で空は灰色に塗られている。生き残った人類は地上を支配する異形の獣達に怯えながら洞窟の陰に隠れている」
 世界が終焉を迎えて、世界の全てが終わったら、目覚めた自分が見るのは今とはまるで違う世界になると思っていた。だが現実は見ての通り。財団が収容していたオブジェクトの全部が野に放たれたなら、こんな程度で済むはずがないのだ。地球が死の惑星になる程度ならまだマシ。地球そのものがなくなったって不思議ではなかった。
「詳しい検証はまだですが、どうやらそれぞれのアノマリの異常性がうまく"相殺された"らしい、というのが有力な見解です」
 多少できすぎた話だな、と遠野司書は思った。神山も多分同じことを思っているだろう。財団は、その収容下にあるオブジェクトを世界の脅威と見做してきた。だがそれは、もしかして間違いか思い上がりに過ぎなかったのかもしれない。人類の脅威たる異常なオブジェクト群は、この世界にとっては異常でもなんでもない、単にその"一部"に過ぎなかったのではなかろうか。高く広い空の下、その先に広がる気が狂うほどに巨大な宇宙の中で、人間という存在は余りにも矮小で脆弱だ。
「あるいは、僕が今見ているこの世界は夢だったりして」
「胡蝶の夢、ですか」
「それか、この世界は誰かが書いた小説の中の世界なのかも」
「であれば納得ですね、この無理矢理な御都合主義も」

 道路を只管に進み、日も落ちて周囲は暗くなった。神山は車を路肩に停めた。
「今晩はここで野宿です。テントを張るの、手伝ってください」
 夜露を凌ぐ寝床をふたつ用意し終えてから夕飯を摂った。財団製造部門特製レーション(洋風ディナーセット)。昼のゼリーと比べれば正に御馳走だ。満天の星空の下、熱いミネストローネが身に染みた。
 
「神山さん」
 そろそろ零時を回ろうかという頃、遠野司書は神山のテントを訪れた。
「どうしました」
「いえ、なんだか寂しいものですね。年越し蕎麦も除夜の鐘もない年の瀬というのは」
「そうですね。拠点まで帰り着ければ蕎麦ぐらいあったのですが」
 神山は机に着いて、ノートに何やら書いていた。
「お仕事中でしたか」
「いえ、これは趣味です」
 机に真っ直ぐ向けていた身体を少し横に避け、隣に遠野司書を手招いた。招かれるままに近付き、覗き込んだそれは日記だった。日付に続けて、その日の出来事が簡潔に記されているらしい。
「ラザルス-01の始まった日から、毎日書き続けているのです。零から世界を創り上げる、その記録です」
「なるほど」分厚いノートをぱらぱらとめくると、毎日の出来事がぎっしりと記述されていた。「さしずめ、新世界の創世記ですね」
「そんな大それた物じゃありませんよ。最後には忘れ去られてしまうものです」
 世界が終末の前と同じ状態まで創り直された暁に、ラザルス-01は地球全土の全人類に対する記憶処理、即ちアンニュイ・プロトコルの発動と共に幕を下ろす。それに先立って、終末から復活まで、今現在のこの"空白の時代"に関する全記録は処分される。勿論このノートも。
「後世に残りもしないものを、なぜ書き続けているのか。自分でもよく解りません。無駄な行為です。単なる自己満足かもしれない」
「無駄ではありませんよ、きっと」遠野司書がそう言ったのは、手に取ったノートの全てのページに目を通し終えたときだった。「少なくとも、僕は憶えています。いつまでも。世界が終わって、また始まっても。ずっと」
 分厚い日記帳の一言一句までが、どんな記憶処理剤でも白紙化されない大脳皮質に刻み込まれた。これから幾億の夜を越えようとも、遠野司書は忘れない。強大すぎる存在に滅ぼされた矮小で脆弱な人類が、もう一度立ち上がったその過程を。恐怖の淵に沈み、それでもそのまま溺れることに抗い続けた人類の悪足掻きを。
 大きな宇宙の中で、その悪足掻きにどれほどの意味があるのか、人類にはまだ解らない。解らないから、人類が忘れてしまうその記憶を、せめて自分一人だけは憶え続けていよう。思い出に残していよう。その意味が解る日まで。いつか来るかもしれない、永遠に来ないかもしれないその日まで。
「きっとそれが、僕が生かされた理由ですから」

「神山さん、どうせなら年末らしいことをしましょう」
「なんですか」
「除夜の鐘です」遠野司書は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「鐘はないので、代わりに自分の口で」
「はい……え?」遠野司書の突然の提案に、神山は明らかに付いていけていない。
「いきますよ、回数は僕が数えておきますから。一回ずつ交代で」神山の滅多に見られないほどに戸惑った表情をよそに、遠野司書は一回目の"鐘"を撞いた。「ごおん」
「……」
 無言の神山の顔を、遠野司書は覗き込む。じっと双眸を見つめる。
「……ごおん」
 根負けした神山に、遠野司書は満足そうに微笑みを送る。
「ごおん」
 今年の終わりのカウントダウン。
「ごおん」
 来年の始まりのカウントダウン。
「ごおん」
 この世界が夢でも小説でも構わない。僕が確かに存在したこの瞬間の情景を、この心に去来した情動を、僕は憶えていて、そして別の誰かに伝えていく。夢を見ている貴方へ。小説を読んでいる貴方へ。誰かの記憶に残る限り、それは存在し続ける。それが夢か現実かなんて大した問題じゃない。
「ごおん」
「ごおん」
 そう、これは物語だ。強大なる異常存在に立ち向かった人類の物語。人類の滅亡と復活の物語。
「ごおん」
「ごおん」
「ごおん」
 間の抜けた鐘の音を聞きながら、夜は更けていく。歴史には残ることのない、新しい一年が始まろうとしている。


A

これは未来への物語
あるいは過去への物語

そして、これは貴方への物語

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