幼い頃、その名を目にしていた気がする。
当たり前のように私達のそばにあって、けれど、どこか遠いもの。
よく見かける気がするのに、どうしてか誰一人その名前を重要なものとしては覚えていない。
ごくごく有り触れているから、誰もがその存在を日常に溶け込むものだと信じている。
けれど、そうではなかったのだ。
私は、今ここにいる。
お昼前のオフィス街を抜けて、私はそこに居た。
「日野さん。例のビル到着しました」
「りょーかい。じゃ、エントランス抜けて、そのまま受付裏の階段に向かって。三階まで行ったらまた指示する」
「わかりました」
西████三丁目ビル。医療や製薬関係会社の入ったビルになっているそこは、閑散としたエントランスではあるが小奇麗な作りになっていて、どこか清潔な印象を思わせる芳香が漂っている。
ガサガサとビニール袋の音を立てながら、私は何食わぬ顔でその中を横切る。
どういうわけか、受付嬢を始め通り過ぎるスーツ姿の社員、作業着姿の清掃スタッフも、まるで私に気付く様子はない。
大柄な白髪交じりの男性の横を通り過ぎて、受付裏の扉へと直行する。忍者にでもなったかのような気分だ。
扉を開くと、夏の暑さと一緒に埃臭い空気がむわっと鼻をついた。
思ったより濃いそれにぎょっとして振り返ると、受付をしていた女性が"私ではなく扉に対して"不審そうな目を向けていた。
常識的に考えておかしな反応に、私は目をパチクリとして固まってしまったが、すぐに仕事を思い出し、扉を閉めに来た女性より早く扉の向こうへと滑り込む。
「あ、あぶない」
思わず呟く。直後に、バタンと金属質な音を立てて扉が閉まった。
「おーい。幸子ちゃん。大丈夫かい」
「あ、えっと、はい」
「事前に説明した通り、誰かに触られたりするとバレちゃうから。しくよろ」
「……はい」
インカムから聴こえる声に、私は胃が重く冷たくなる感覚を覚えながら周囲を見渡す。
狭い空間は、完全に物置か倉庫として使われているようだった。
そこは聞いていた通り裏口と繋がっていて、上へ向かうための非常階段が続いている。
誰も居ない階段を登っていくと、日本ではあまり見かけないダストシュートが据え付けられているのを見つける。
これ、何に使ってるんだろう。疑問を頭に浮かべながらも、私は持参したビニール袋の中から紙ケースに六本収められたジュースを取り出した。
「日野さん、指示された地点にいます」
「うん。じゃ、持ってきたそれ、ダストシュートにポーンって投げ入れて。ケースごとね」
「はい」
言われた通りに、私はケースごとジュースをダストシュートへ放り込んだ。
がん、がんと乱暴な音を立てながら、ケースは下へ下へと落下していく。思ったより長い反響音を繰り返しながら、それはずっと続く。ずっと、ずっと。ずっと。
「……なんか、明らかに落ちる音が長」
「任務終了。お疲れ様。後はそのまま裏口から出ていつもの仕事に戻りな。あ、出るまで誰にも触らないこと。いいね?」
「……えーと、はい」
浮かんだ疑問は消化されることなく、思った以上にあっさりと、緊急任務は終わりを告げる。
「……お腹空いたな」
職場のお弁当、間に合うかもしれないな。そんな風に思いながら、私は駆け足で階段を下っていった。
どうして私なのか。
どうしてあんなところにあんなものを投げ込んだのか。
それを知る必要はない。
あとは機動部隊がなんとかしてくれる。
答えにならない説明を曖昧に受けながら、私は夕暮れ時の帰路を歩く。
見上げた看板に刻まれる、SとCとPを頭文字とする会社の名前。
よくよく見渡せば、それはそこいら中にある。どこにでもある。大きな通りに覗くチェーンの飲食店から、昔から続く百貨店に入るブランド名、今さっき出てきたビルに入ってた製薬会社のひとつ、街頭のスクリーン広告に映る野球チームなんかもそう。私が働く猫カフェなんかもだ。
子供の頃から見知ったそれらの名は、今や私にとり働く場であり、得体の知れない何かでもある。
記憶に残らないくらいぼやけた印象は、どこか懐かしくも思え、恐ろしくも思う。
時々、記憶が信用ならない時がある。
ここで働くようになってから、思い出とそうじゃないものがごちゃごちゃになっているように思う。
今体験したことが、実は嘘だったりするように感じる。昨日の記憶がちゃんと思い出せなくて、少しだけ不安になったり。
でも、私は生きている。両の手を見下ろし、開いたり閉じたりして、生きているつもりになる。
「……ああ、そうだ。フィガロの餌、買って帰らないと」
猫が五匹も六匹もいると、餌代だけでも意外とバカにならない。
「あれ、今日って私、何してたんだっけ」
いつも通り出勤して、緊急任務の連絡が来て、それから――。
ーーそれから、任務を済ませて、仕事に戻って。今は帰り道だ。
「うん。そうだった」
私は、生きている。このぼやけた世界の中で、今も。