旅の一幕その下に
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こうして完全な"オフ"に旅行に出かけるのはいつ以来だろうか。
と言っても、今から向かう先は海の向こうという訳でもない。
私の通うサイトからは何百キロと離れている――岡山の片田舎。

財団に入ってから、初めてと言っていいほどの長期休暇かもしれない。
それでも二泊三日かそこらだけど。

一般の企業と同じくらい、と考えれば財団的には長期も長期かも。
休めない人はずっとサイトにいるし。

私は、後部座席にいる彼に話しかける。

「岡山って凄いんですってね。こないだの地震でも、ほとんど揺れてなかったとか」
「未来都市岡山って言うし……西の方、心配だな」
「差前さんのご実家、九州の方でしたっけ」
「うん。確か他にも居たはずだけど……」

車窓に肘をつき、地元の山形とさして変わらない景色を眺めながら談笑する。
こうして育良君と直接話すのも久しぶりだ。普段、彼は職を偽ってあちこちを飛び回っている。

「どうでも良いですけどね。何で私が運転手なんですかね」

隣で、目元に深い隈を刻んだキャスケット帽姿の女性が呻く。
私は肩を竦めて、日野博士――日野さんの疑問に応える。

「そりゃ……最近免許を取ったから」
「それならユキちゃんだって持ってるじゃない」
「いや、私取ってからもう結構経ってるし、ペーパーだし……」
「こちとら突然車が爆発炎上するんじゃないかと不安でならないのよ」
「そんな、オブジェクトじゃあるまいし」

後部座席で育良君が苦笑する。
有り得なくもないが、少なくとも日本国内ではそういった類の怪現象はあまり見られたことがない……はず。
いや、私達――財団の目から逃れているだけかもしれないが。

人間が思っているよりずっとずっと、世界には不思議が溢れている。
とは言え、そうホイホイ車や乗り物を爆破、破壊するような人間がいてはたまったものではないが。
 
 
 
車をしばらく走らせると、山間にそびえるダムが見下ろす温泉街へと辿り着く。

適当な駐車場に停めて表に出ると、長い車旅の疲れを節々に実感する。
鼻先をほんの僅かに、温泉の不思議な臭いがくすぐった。ここいらの源泉はアルカリ性らしくて、硫黄の匂いはしない。
何というか、濃厚な湯気の香りとでも言ったものか。

うんと伸びをして、コンクリートの上でとんとんと跳ねて体をほぐした。

「っ――あー、っと。日野さん、お疲れ様です」
「はいどうも。車酔い?」
「いや、単なる煙草切れッス」
「気遣いすまんね」
「車は臭い残りますからね」

育良君は車にもたれてしんどそうに煙草を吸いながら、日野さんに礼をする。

「他の皆とも来れれば良かったんスけど。餅月さんとか西塔とか、差前さんとか……」
「仕方ないわよ。都合、合うことの方が珍しいし。こうして、そこそこ仲の良いメンツが集まるだけでも儲けモンって感じだし」
「それもそうスねえ。と言っても、サイトから出れねーヤツの方が多いんスけど」
「ま、私でギリかもね」

ははは、と笑う育良君から煙草をもらい、日野さんも一緒になって吸い始める。
辺りに、そこそこ嗅ぎ慣れた臭いがふわりと漂った。

「たまには悪くないわね。ねえ、ユキちゃんもどう? 煙草」
「え? いや、私煙草苦手なんで」
「煙草の臭いがする相手とキスするの、嫌いじゃないんじゃないの?」
「……ちょっと、日野さん」

からかうように言う日野さんをはたいて、私たちは談笑を交えながら今日泊まる旅館へと向けて歩き始めた。
 
 
 
歩くこと数分、旅館にはすぐ着いた。
立派な和風作りの佇まいに、背にした底の浅い川面からは湯気が漂い、中々の風情を演出している。
そこかしこに旅館はあるが、多分その中でもこれは一番リッチなやつ。財団給料さまさまだ。

早々にチェックインを済ませると、私たちは三人並んで旅館の表に出た。
日はまだ高い。観光するには十分な時間がある。

「あー、いいねいいね。こういうの、修学旅行以来かも」
「日野さん、修学旅行どこだったんですか?」
「京都かな。ま、あの時は神社の方に夢中だった気もするけど……」
「日野さんらしーッスねえ。俺グアムでした」
「私東京。中学は仙台。フッツー」
「はは。んじゃま、荷物も置いたしテキトーに散策しましょ―よ」
「さんせー。あ、この近くにね、いい感じの廃墟があるんだって。見に行きたい」
「幸子はそうやってまた危ないところに……お兄ちゃんに叱られるぞ」
「いいの。どーせ兄貴はバナナの相手で忙しいし……っと」

通り過ぎる人の姿に、私はふっと手で口を覆って言葉を自ら遮った。
まあ、これだけで何かを察せる人間がいたら怖いが。念のため。

「今日はオフなんだから、"そういうの"は、考えないでおこうぜ」
「はいはい」
 
 
 
足湯に浸かったり、観光地特有の妙ちくりんなマスコットや置物、お土産を見て回ったり、共同浴場に裸で闊歩するおじさん達の裸体を堪能したり、大きな砂湯の広さとやっぱり裸の群れに辟易したり。私達の休暇は、まさしく一切恙無く、のんびりとした形で進行していた。

じわじわと、行く先から人の姿が減じていく。
坂道になって山へと続いていく道は、見るからに古びて人気のない建物しか見受けられない。
寂れきった温泉街の端っこだ。

「こっちの方にあるんだって。なんでも、廃墟になってそのままの劇場が」
「……そこ、ストリップ劇場って話だけど」
「えっ、そうなんですか?」
「行きたいところの情報くらいちゃんと調べなさいよ。ホラ」

日野さんが差し出した携帯には、確かに目的地の写真と――それに付随して、そこがどういう場所だったかの事実が克明に刻まれていた。私が短く黄色い悲鳴を上げてみせると、日野さんは心底くだらなそうに深くため息をついた。

「……ま、覗けないほど監視が厳しいわけじゃなさそうだし、試しに行ってみる?」
「それもそうですね。育良君は?」
「…………日が陰ってきてる」

切ないほどに怯えた声色。

顔を上げると、確かに雲に覆われて空模様が怪しい。
と言っても、まだ時刻としては昼下がりもいいところだ。

「またいつものビビリだ。行こー、行こーよー。ねー」
「ゆ、幸子は、暗いところに潜むナンカアブナイソウイウノを知らないんだ……!!」
「ナンカアブナイソウイウノって……」

すんすんと鼻を利かせると、這い寄り始めた雨の匂いがむわりとまとわりつく。

それこそ修学旅行生のようにはしゃぎながら私たちは坂道を登っていたけど、目的地に近づくごとにじわじわと肌に張り付くような、気持ちの悪い湿っぽさが膨らんでいた。
曇天は既に雨降りの色に変わりかけ、少なくとも今夜は月見酒は楽しめそうにない。

「……ストップ。お前ら、お前らマジで行くんだな?」

育良君に振り返る。お腹の辺りを抱えるように押さえて、見てるだけで辛そうだ。

「今更ビビってるの? ほら、目の前じゃない」

日野さんは特にそう言ったものを感じていないのか、平然と目の前のその建物を覗いている。
今にも雨が降りそうな空の下、鬱蒼とした木々に覆われつつある劇場は不気味の一言に尽きた。

家屋を目の当たりにするなり、育良君は目つきを鋭く深いものに変えていた。
さすがに尋常でない育良君の様子に、日野さんは思い直したみたいに真剣な顔で続けて口を開く。

「……あんまり冗談でもなさそうね。機動部隊でも呼ぶ?」
「その必要はないと思います。……今の所は」

育良君は元々青白い顔色を更に蒼白にさせながらも、劇場のドアに手をかけた。直接触れないよう、収容任務時に配られる色々な耐性効果を持ったゴム手袋を二重に付けて。
何だか嫌な感覚が背筋を抜けて、私は彼の真似をして装備を整え、耐ミームのメガネを掛けながらくっつくように追う。
 
 
 
劇場の中は乱雑さを極めていた。
埃臭さよりも何よりも、飛び込んできた異様な光景の方に目を奪われた。

卑猥な文句が散りばめられ、古臭い髪型の扇情的な女の人たちがたくさん印刷された、何十年代の物かもわからないような黄色く日に焼けて退色した広告が、床中に散らばっている。
それだけならただの廃墟になくはない情景なのかもしれない。けれど、この状況は作為的なまでに周到だった。
まるで、見られてはいけない物を猥雑なそれらで覆い隠そうとでもするかのように。

広告で形作られた薄汚れたヴェールは劇場の狭苦しいメインホールから、控室へまで向けてびっちりと、執拗なまでに敷き詰められていた。
紙の向こう側の床は一切見えない。ひょっとして、踏ませたくないのだろうか。

玄関ホールに入った時点で、ここが何かしらの"ズレ"を抱いていることは明白だった。

「……ここ、マジでやべーかも。日野さん、機動部隊に連絡準備。猫宮は俺のバックアップ」
「了解。じゃ、私は外出てるんで。……戻ってくるまで連絡はしないでおくから、くれぐれも何も見つけないように」
「何かあったら旅行、ふいになっちゃいますもんね」

そういうこと、と苦笑し、日野さんは「頼むよ」とだけ言って外へ出て行った。
身震いしそうな体を深呼吸して落ち着けて、私は改めて歩を進めた。
 
 
 
控室の奥。扉を開けた瞬間、散らばっていた紙の群れは綺麗サッパリなくなっていた。

チリひとつ無い。財団並に隠蔽体質な企業が極めて丁寧に掃除すれば、こうなるかもしれない。
埃だらけの窓から差し込む陽の光をその透き通った表面で美しく照り返し、チェスの盤上じみた白黒の"床"が、暗がりの中に延々と広がっている。

この劇場にはまるで場違いな、神聖で清廉な宮殿の床をはめ込んでいるようだった。

「……」

育良君は注意深く足元の紙切れの一枚を手に取ると、体や皮膚に触れないようにしながらその"床"へそっと置いた。
――何も起こらない。今度は胸元から取り出した煙草の空箱をそっと投げ込む。やはり、何も起こらない。

「視覚、嗅覚、その他五感に対する作用なし。ただの床にしちゃ綺麗に磨かれすぎてるけど……」
「……踏み込んだらまずい、よね?」
「どう見ても。……とりあえず、これ以上はやれることもなさそうだし、報告だけに済ませよう。旅行の途中だし……」
「わかっ」

返事をしようとした直後、後ろからどん、と突き飛ばされた。

「うわっ!?」

慌てて体をよじり、育良君を避けながらそのまま室内に転がり込む。
運動神経がそこそこに良かったことに感謝しながら、突き飛ばした相手を見上げようとしたら、

「テメェ!!」

相手は既に育良君に張り倒されていた。

育良君の背中越しに覗くその人物は、何のことはない普通の中年に見えた。それこそ、さっきまでいた温泉街を歩いていてもおかしくないような、ネルシャツにスラックス姿の一般的な装いだ。けれどその体は土や埃、それに何か――すえた臭いのする液体で汚れていて、酷く不衛生であることは、何となくここからでも察しがついた。

「ゆ、ゆゆ、ゆかに触るなあ!!」
「ゆ、床?」

育良君は、その細腕から想像できないくらいあっと言う間にその男をねじ伏せるが、男は完全に身動きが取れない状態で"床"――私の転がる場所だろうそれヘ向けて、何やら喚き散らしている。

「ゆがっ、ゆ、ゆかあ、ゆかああ」
「猫宮! 何か変化はないか!?」
「えっ!? え、あ、うん。私には特に……」

何となく、背中の辺りがぞわぞわとするような、気持ちの悪い感覚が続いている。
接地する尻餅や足の裏から、耳元で囁かれている時に似たザワつきがくすぐっている。

そしてそれらは一様に――"貴女じゃない"と――繰り返しそう呟かれ続けているような風に聞こえ――。

「猫宮!!」
「いッ」

空いている片手で腕を掴まれ、汚れた広告だらけのホールへと放られた。

途端、居心地の悪い感触は離れ、囁き声は遠ざかっていく。
振り返るも、"床"は相変わらず綺麗なままだった。汚されたというような素振りさえ無く、美しいままだった。

「大事ないか?」
「う、うん。変な感じはしたけど、それ以外は……」
「……旅行は中止だな。おいオッサン、この床は何なんだよ! 説明しろ!」
「う、う、う、ゆか、ゆかあ。ゆかあ」

育良君に組み伏せられたままに、男は空いた指先でガリガリと必死に手元の広告を引っ掻いている。
紙切れは簡単に剥がれ、その下にあった床が明らかになった。――普通の床だ。どう見ても。

「猫宮。日野博士に連絡して機動部隊へ出動要請。俺はこのオッサン押さえとくから」
「わ、わかりましたっ」

私は慌てて表へと出て行く。
後ろ髪を引かれるような、異様な感覚をまだ首筋の辺りにチリチリと味わいながら。
 
 
 
「……というわけでアレは、男の子を、床が大好き変態性癖野郎に変えてしまう恐ろしいオブジェクトなのでした」
「わっ、私モロ踏んじゃったんですけどっ」
「言ったでしょ? 男限定だって。それに検査の結果も問題なかったって。まあ詳しくは報告書読んでみてよ。ユキでも参照できたはずだから。あ、でも実験ログ含め閲覧注意かも。刺激強めだし、注意ね」
「は、はあ……」

サイト-81██のリラクゼーションルーム。

私はマグカップに注がれたカフェオレをゆるゆると飲みながら、いつもの耳がピョンと突き出した日野博士の白衣姿を見上げていた。
椅子に座った私の膝には、ニ匹の猫が喉を鳴らして座り込んでいる。

「旅行はまたの機会だなー」
「育良君」

私よりしっかりと精密検査を受けていた育良君が、残念そうな表情と共にやってきた。

「……なんともないの?」
「ないです。あったらDクラス落ちか、SCPの付属品に指定されてるよ」
「良かった……」

ほっと胸を撫で下ろす。

撫で下ろす。胸を。胸。
視線を落とせば、お世辞にも豊かとまでは言えないそれが、私の胸元には備わっている。

とりあえず、一つ言えることがある。

「ねえ、育良君」
「なに」
「床みたいな胸の女の子、好きになったりしてない?」
「してないです」

即答だった。

少なくとも。彼の性癖に何かしらの問題は生じたりしていない。
それは間違いないようだった。

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