ある研究員の休暇
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自分が明るい顔をしている方などとはおよそ四半世紀生きてこの方思ったことはない。
しかし、自分以上に珍妙なオブジェクトとの付き合いが長い――様々な色の隈が絶えない研究主任の田辺博士にさえ、
「君、少し休んだ方がいいんじゃないかな」と気を回された。

妹にも「最近顔色悪いよ。黙ってることも増えたし、乗せても怒らないし」と言われる。
要らぬ心配を掛けていたようで、テーブルに突っ伏していた俺の背中には団子の山じみて猫が盛られていた。
思えば、しばらく休みは取っていなかったようにも思う。

鏡に映る光のない三白眼に、対して不釣り合いな印象の明るい赤縁の眼鏡。
なるほど頬はこけて顔色は悪く、人相の悪さに磨きが掛かっていて苦笑してしまった。

確かに、ここ最近はまとまった休みを取っていなかった。妹はこの間取っていたようだったが。
些細なことだ。別に、感傷的になったわけじゃない。ただ、少しばかり柄にもなく話し込みすぎただけ。

とは言え自分もまた、感情のある一個の人間なのだと再認識できたようにも思う。

 


 
 
車窓の向こう側に流れていく雪と、籠に入った猫の小さな鳴き声。

地元へと向かう新幹線に乗りながら、財団へ入ったばかりの頃を思い出す。
今は猫などいないが、雪景色ばかりはあの時と変わらない。

ちょうど就職しようという頃に起きたこと。
周りが少し騒がしくなり、財団が介入して、何もなかったことになった。
便宜上は。

当時は煩わしいことが多すぎた。
だから、彼らの采配には正直助けられたと思っている。

窓辺に頬杖をついてうつらうつらとしていると、気付けば既に、車両は乗り換えの新潟駅へと入っていた。

気怠さとキャリーケース、それと欠伸を引きずりながら降車すると、
乾いた晩冬の冷たい空気がベージュ色のコートを縫って吹き抜け、
赤いマフラーの隙間からは白い息がふわりと舞った。

鼻をくすぐる冬の匂い。
暖かい構内に入ると、眼鏡のレンズがうっすらと曇る。
底冷えする指先を温めるため、自販機で砂糖を入れすぎたコーヒーを一つ買ってポケットに突っ込んだ。

飲む頃にはきっと温くなる。

実家周りはともかく、この辺は当たり前に雪が積もっている。
しかし、のんびりと眺めているほどの時間はない。
俺は早々にホームを抜けると、地元へ続く路線に足を踏み入れた。

乗り換えた特急列車の中は、時期外れの観光客か、出張か。
乗客の姿がまばらに見え、旅路に疲れた顔が並んでいる。自分自身も大差ないのだろうけれど。

俺は二つ空いた隅の席の窓側を取ると、今しがた買ったコーヒーを開けた。
外には先程までとさして変わらない景色。口に入れた液体の、酸味の強い甘さと生温さを転がしながら再び頬杖をつく。
何度も眺めた景色だ。数年に一回ずつ程度のペースではあるが。

列車が動いて数十分も経たない内に俺は瞼を閉じていて、
降りた頃には半分も残って冷えきったコーヒーの後悔も味わうこととなった。
 
 


 
 
地元駅の閑散としたバスターミナル前(タクシーが乗り入れるばかりなのだが)で、
ポケットに手を突っ込み、身じろぎもせず連絡相手を待っていた。どうせすぐ来るだろうと油断しながら。

十五分も経ち、そろそろ構内に戻って暖を取ろうか迷い始めた頃、
ようやくいつもの黒い軽自動車がターミナルへ乗り入れてくる。
あからさまに震えて見せながら俺はドアを開けると、露骨に不満気な表情と共にシートへどすんと座り込んだ。

「よ」
「寒ィよ。早く来いよ。早く乗せろよ」
「なんで中で待ってねえの?」
「いつ来るかわかんなかったからだよ」
「連絡入れるっつったじゃん。いいけどさ、お前が寒い思いしてただけだし」
「うるさいお前が遅いのが悪い」
「ひどない?」

悪友のアオキに文句を言って、
俺はエアコンの温風を両の手に浴びせつつ長いため息をついた。
温い。

「お前疲れた顔してんなあ」
「別に。それよりなんか美味い店。一昨年行ったインドカレー屋に行きたい」
「あそこ半年くらい前に潰れた」
「まじか。なら焼き肉行こ」
「じゃあノブとかハルちゃんも呼ぼうぜ。連絡頼むわ」
「おう」

プライベート用の携帯を取り出して、地元で就職した学生時代の友人達へと連絡を飛ばしていく。
今は長期連休ってわけじゃないから、遊べない奴もいるかもしれないが。

しばらくぶりの気の知れた友人との邂逅に、車窓から過ぎていく粉雪の降る懐かしい街並み。
郷愁が氷解していくのを僅かに感じながら、俺は車のシートに深々と座り直す。

結露した車窓に肘をつけて、液晶にスライドインしてくる連絡通知にその内容を眺める。
友人のハルが言うには、これまた友人のヨシヒサがマルチに引っかかっているらしい、とのことだった。
聞けば、ハルだけでなく、連絡の取れる友人全てに勧誘が飛んでいたそうだ。

それだけならよくある話だが。いや、友人の中でそういう人間が出るのは少し呆れてしまうな。

しかし、人伝てに話を聞くだけに済ませ、自分に届いていたであろうメールや
連絡の類には手をつけずにおいたことに感謝する。
疲れている時には聞きたくない類の話だ。忙しなさもたまには役に立つ。

土曜日の昼下がり。

連絡もつかない友人もいる中で、返事がすぐに来たのは三人ほどだった。
 
 


 
 
「けどさ、あいつも元々人に騙されやすそうな性格してたし」
「そのクセ頑固だからな。俺も結構説得したけど、結局今もハマったまんまらしい」
「あいつ自分が頭悪い自覚ないよなあ」
「俺らも人のこと言えねえだろ」

その場のノリで全員が頼んだメロンクリームソーダを、同じ色のストローで氷ごとかき回す。
目の前で音を立てて焼かれる肉の香りに、早々と箸を伸ばしてミディアムレアのロースを口に運んだ。
二枚、三枚。ウェルダン派には悪いが、俺の手は早い。

「美味い。マジ美味い。生まれてきたことに感謝」
「感想安すぎでは。つかお前ばっか食ってんなよ。でさ、なんか市役所の近くに銭湯あったじゃん? 昔」

同じくカルビばかりをかき集めて食うアオキが、続けて話を進めていく。

「何年前の話だよ。まあ、あったよな。一回だけ行ったことあるけどデカかった」
「あそこ、潰れた後はなんかどっかの宗教? 観光団体? だかの集会所になってて、アイツもずっと通ってんだと」
「へー。勤勉だねえ。勉強はロクにしなかったくせに」
「みんなそうだろ」
「せやな」

学生時代、俺もこいつらも、抜きん出て勉学に励んでいたりなどしなかった。
あるいは、それ以外に打ち込んだ事柄だって存在するはずもない。
どこにでもいる、どこにでもある、何も目指すものを持たない者が自動的に選ばされる普遍的な人生コース。

それが、今や――。
ジョッキの中で溶けた氷が、炭酸に揺られてカラリと音を立てた。

「そういやさ、お前の妹って元気してんの? またお祈りしてんの見たい」
「…………元気だよ。お祈りはしてないけど。今二人でルームシェアしてる」
「へー。お前ら婚期遠のきそうだな」
「いい年こいて誰一人結婚してねーお前らにゃ言われたくねーよ」
「スガイは相手いんじゃねえの」
「いねーよバカ。別れたわ」
「ご愁傷さま」

肩を竦め、笑い飛ばしながら返答する。
どうも、考えたくないことばかりがひとりでにぽろぽろとやってくる。

頭の中から揉み消すように、俺はストローを通じてクリームソーダにあぶくを立てた。
 
 


 
 
実家に帰り、風呂から上がってテレビを点け、懐かしい地元のCMに人心地つく。

祖母は今、友人と旅行中らしい。書き置きがあった。
久々に、祖母の作る料理の数々に舌鼓を打ちたかったものだが、仕方あるまい。

テレビなど消してしまえば、最早冬の夜は静けさだけの一言だ。
雪こそ積もっていないが、車の音など滅多に聞こえてこない。

遠く、駅の方から響く線路の音、ストーブが起こす炎の揺らめき。
そこに居るだけでゆったりと眠くなる、快く心が揺られる穏やかな時間。
これが味わえただけでも、帰ってきた価値があったというものだ。

とはいえ、猫すら居ない実家は退屈の一言。

娯楽など、最新のゲームもなければ、読み干した小説や漫画の幾らかが積まれているくらい。
携帯でゲームなんかに軽く触れ、
ツイッターで身内や友人がどうしているかなど眺めつつ、その内飽きてスリープボタンを押す。

仕方なく、片付けるつもりでポストに入っていた広告の何枚かを眺めていたら、
妙に小綺麗なデザインの観光ツーリストのそれが目に入った。
田舎向けにしては随分と金の掛かっていそうな丁寧な装丁に、奇妙な違和感を覚える。

端に記載のあった住所を携帯で調べてみれば、事務所の位置が昼間のあの話と一致していた。
ついでと検索を深めると、胡散臭いサイトやオカルト的な煽りが貼りついたブログばかりがやたらとヒットする。

「……」

俺は携帯を放り出すと、ごろんと畳に横になった。
電灯を見つめながらしばらく思案して、何とはなしに今度は仕事用の端末で、広告の写真を撮影し送ってみる。

二秒と経たない内に返ってきた事務的な謝辞の添えられたメールテキストの一部には、
要注意団体との関係疑惑を有する企業:調査中』と刻まれていた。

「……」

そのまま液晶を黙って見つめてからしばらく、端末を布団の方へと思い切り放り投げ、うつ伏せに寝転び直した。
もう手遅れかもしれないなあ。そんな想像をぼんやりと浮かべながら。
 
 


 
 
一人の実家は眠れなかった。

寝付けない時間を潰すため、寝巻きにコートを羽織って家の外に出ると、鳥居をくぐって階段を降りる。
実家の神社――境内で煙草を吸うのは何となく気が引けて、いつもすぐ下の街灯近くで吸っていた。

今は管理してもらってるとはいえ、生家を手ずから汚すこともあるまい。

冬の夜は、この明かりに立ち向かうような愚かで騒々しい羽虫もいない。
代わりのように、救急車の落ち着きないサイレンが遠く冷たい風に乗ってやってくる。
ポケットから出した煙草を口に咥え、おもむろに火を点けた瞬間、想像以上の重さにむせて口から離した。

しばらく吸っていなかった、最後のキャメル一箱分。
どうやら今年もまた実家に置いていくことになるようだ。湿気らないといいが。

そうだ、いっそ育良か差前にでもくれてやろうか。
メビウスかマルボロにでも乗り換えようかなあ。と言っても普段は吸わないのだけれど。

「……」

火の着いたそれを、どうにか吸いきれまいかと口に付けては離してなどしていたら、
不意に遠くの街灯下に人影が見えた。

眼鏡を掛けても目が悪い俺は、妙に重い足取りのその人影が誰かすぐにはわからなかった。
けれど、どうにもあちらはそうではなかったらしい。

俺に気づいたらしい向こうは突然に、目を細める間さえくれないまま、驚くほどの速さで駆け寄ってきた。
そうして三度、その人物に驚かされた。この瞬間は、俺も笑みを浮かべていたかもしれない。

――暗がりの中、俺の居る明かりの下にゆらりと現れたのは、懐かしい旧友の姿。

「柳沢」
「お前……竜二?」

灰を落とすことさえ忘れられた彼の煙草の先端が、歩調に合わせてボロボロと落ちる。

小学校の頃からの友人、齋藤竜二。
転校したばかりの頃に世話になった。近所に住んでいて、毎日のように遊んでいたこともある。
あまり外に出ないタイプだった記憶があるが、どうも当時の印象より随分と逞しくなった。

背が高く、黒く短く切られた髪に、髪と同じ色の厚手のコート。
元より体格は良い方だったが、体つきは大きくなったようにさえ見え、随分鍛えたのだなとぼんやり思う。
そして彼もまた、社会に出て――いや、財団に入ってからを境に連絡がつかなかった友人の一人だ。

だがその顔は、再会の喜色とは全く真反対であろう異様な激情に染まっていた。

「久しぶりだな。お前もこっち、帰ってたんだな」

様子を伺うように口を開いた俺に、竜二が咥えていた煙草はぽろりと落ちて、湿った車道に転がった。

「お前、どのツラ下げて戻ってきた」
「……何言ってるんだ?」

口から這い出た煙がその強面の頬を撫で、鬼気迫る表情を際立たせている。
これほどまでに彼が憤っている理由がまるでわからず、俺は眉をひそめた。

「お前、そんな顔する奴じゃなかったろ。どうし――」
「そっくりそのままその台詞は返す。この――人殺しの、化物が」
「……」

遮られて飛び出した言葉に目を細める。浮ついていた気分が急速に乾いていく。

納得はした。返答はしない。する訳にはいかない。

「京子を――お前は、お前の妹を、どこにやった」
「……」

震える手が持ち上げられると、そこには鈍色に輝く短銃身の拳銃があった。
名前こそパッと出てこないが、警察官が持つ、リボルバー式のそれだろうかと思う。

刑事にでもなったのか。おめでとう。あるいは、どこかから奪ってきたか。
いや、そんなことするやつじゃないな。それは俺がよく知っている。
とは言え、労いや慶びの言葉を掛けてやることすら、今の俺には許してくれないようだった。

歯が擦れぶつかり合う音すら聞こえてきそうな形相のまま、竜二は更に語調を強めて言葉を続ける。

「――お前が! あの日、ここでやったことを! あの、猫のような――恐ろしい――全て、全て見ていた。見ていたんだ!」
「……」
「あの子が、京子がどうなったかも、見たぞ。あれは、――お、お前の両親がどうなったかも、しっかりとだ!」
「……何言ってるんだ? 支離滅裂だぞ。お前が何を言っているのか、俺には分からない」
「ふざけるな!」

罵声と怒気を飛び散らせながら、彼は憎悪のこもった瞳と銃口で真っ直ぐに俺を貫いている。

「……このコート、良いだろ? 俺に似合わず、可愛くて、スマートで。あいつに選んでもらったんだ」
「京子はもういない! お前が、あの化物に――」
「そうだな。この眼鏡もあいつに」
「御託を並べるな!!」
「……会話する気、ゼロかよ」

吐き捨てるように、俺は顔を背けてぼそりと呟いた。久しぶりの再会だというのに。

しばらくの逡巡の後、思考を無理矢理押し出すようにため息をついて気持ちを落ち着かせた。
しかし、まさか。見ていたヤツがいたなんて。
彼らの監視網をすり抜け、恐らく周りに話したりもせず、今日まで覚えていてくれた奴がいたとは。

口元が微かに歪む。用心深い言葉だけを選んで、ほんの少しずつ目の前に羅列してやる。

「しかし、居るもんなんだな、逃げおおせるやつ。少し嬉しいよ。俺には無理だった。
 だから諦めた。……妥協したんだ。お陰で、少しだけ救ってもらえた。多くを望まなかったからだ」
「……何を言ってる?」

竜二は睨みを利かせたままに聞き返してくる。
その指は最早、引き金に掛けられつつあるのが見て取れた。

かつて地元に越してきた時、それこそ一番と友人になった相手から向けられる鋭い殺意。
刑事ドラマのワンシーンもかくやと言うべきか。笑ってしまう。
休暇に帰ってきたらこれなのだから、泣けてきてしょうがない。まあ、劇的な展開なんてこれ以上現実には続かない。

「落ち着けよ。別に撃ってもいいけど、ひとまず見せたいものがあるんだ」

ポケットから取り出した仕事用の携帯電話へ、
暇潰しにでも使うような気軽さで静脈認証を通し、目的のアプリを立ち上げる。

使うのは初めてだ。俺は内勤の研究員に過ぎないから。
ひょっとしたら、妹の方がまだ使う機会は多いのかもしない。
使用の経緯自体は秘匿事項だから、例え妹とでもコレの詳細について話すことなんてあまりないのだけれど。

「どういうことだ」
「あの子の現状だよ。……はは、相変わらず猫に囲まれててさ」
「は……?」

彼の疑問より先に目に入ったのだろう映像に、彼は口を噤む。いや、映像かどうかも知らないが。

「元気なもんだよ。ちょっと変わっちまったけど、今もあの子は可愛いもんだ」

ともかく、竜二がどんな"モノ"を見ているのか、俺にはわからない。
いや、俺自身そんな過去も忘れてしまってるだけなのかもしれない。
その事実すら財団は覆い隠してしまうことができる。こんなの、ただの"ずる"だ。

注視したまま、竜二は決して目を逸らせない。

「……まあ、心配するなよ。あの子のことは俺がしっかり面倒見てるから」

突き出した液晶から放たれる、形容し難い明滅。
自身にまで悪影響が出そうな気がして、呟きながらも目を背ける。
こんな光も、それに侵される友人も、好き好んで見ていたいものではない。

片手間、左手に放置されていた煙草を口に咥え直すと、
一息も吸わず、灰を落とすこともしないまま、取り出した携帯灰皿に突っ込んで火を消した。

「とにかく、お前も元気そうで良かった」

規定の時間が過ぎた頃には、彼はもうすっかり呆けた顔で、自然、銃などは下ろしていた。

「……まあ、綺麗さっぱりスッ飛んだらさ。今度は飯でも食いに行こうぜ」

何を呼びかけようが、こんな独り言には反応してくれないだろう。それに、大事なのは今この時よりこの後だ。
 
 
 
――辺りに、不気味に押し殺された人の気配を感じた。
 
 
 
首や背筋を這う悪寒のように、それらの動きは周囲へ三々五々散っていく。

迅速すぎるほど迅速に到着した、機動部隊員の群れ。何人いるかもわからない。
光の下でも黒い影にしか見えない内の一人は、既に竜ニの腕を取り踵を返していた。

従順に闇の中へと引きずられていく旧友の背姿を、引き止めることも声をかけることもできないままじっと見送る。
しかし、その視線は幾つかの黒い木立に遮断された。

その瞬間すら定かでないまま、いつの間にか。
物々しい格好の隊員が複数名存在感なく並んでおり、俺を閉じ込めるように輪を形成していた。

「――お疲れ様です、"猫宮"さん」

顔をすっぽり覆うマスクに、それに通されて奇妙に歪んだ不気味な声。
そして、全く見覚えのない背格好。きっと何かされているのだろう。
明かりの下で顔まではっきりな俺とは対照的なのに、挨拶ばかりは旧知の間柄めいて話しかけてくる。

アプリの起動から数分と経っていない。近隣の財団施設にアラートでも上がったのだろうか。
あるいは、元より監視でもされていたか。自分の素性からすれば考えられなくもない。
まったく本当に、彼らは優秀なものだ。呆れてしまうほどに。

「…………あー。うん。お疲れ様です」

うんざりした気分を表すように間を置いて、それからようやく俺は声を返してやった。

「少々事情をお聞きしたいので、ご同行を願いたいのですが」
「もちろん、いいですとも」

手でも挙げさせられたみたいにひらひらと両手を肩の高さで振って、目も合わせずに気のない返事。
彼らはその所作に何の関心も寄せないまま振り返ると、先導して無機質に歩き出した。

俺も付いて行こうと足を上げかけた時、竜二の吸いさしをつま先に見つけた。

「……」

俺はたっぷり時間をかけて踵でその火を踏み消してやると、のんびり拾い上げてから携帯灰皿へと入れる。
それから、闇の中に馴染んでいく黒服の隊員を追って、自身も闇に身を投じた。

叶いもしない望みは祈らずにいたいものだが。
願わくば、この日の記憶はどうか、自分のモノのままであってほしいものだ。

「……ま、どうせサイトの場所ごと忘れてるか」

そんなボヤキもきっと、実家の布団と温もりの中に消えていくだろう。
 
 
 
……明日も休暇が続いてくれていれば、だけど。

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