斜陽に溶ける
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 隔壁に囲まれた暗い空間、微かな呼吸音の聞こえる狭い部屋の中で、それは確かに今雨が降っていることにぼんやりと確信を持ち始めていた。かつての山奥で嗅いだような、湿った岩の臭いがしたような気がしたのだ。普段思考や意思を他者に委ねているそれは、珍しく自ら己の故郷を想起した。灰色の空から降り注ぐ、無数の水の槍。この部屋よりも、洞窟に押し込められるよりももっと前の記憶だ。苔むした鳥居と一面の草原。

 ゆっくりとした歩みで目の前を横切る影。古ぼけた傘一つに仲睦まじく入っている親子。お互い離れぬようしっかりと手をつないでいる。父はわが子を濡らすまいと少し強く娘を自分の方に引き寄せて、歩く。
「おとう、雨が強いね」
「そうだな、雨は嫌いか?」
「ううん、でも、晴れの方が好きだよ。あーぁ、早くお天道様がみたいなぁ」
 他愛の無い会話。親子の仲睦まじい会話。お天道様はみんなの心を明るく照らす。確かに、この二人には雨空よりも光射す空が良く似合うだろう。私もそう思う。
 どうか彼らの為に明るい未来が有らんことを。私はそう願った。低空飛行の鴉が鳴いた。

「あ、おとう、みて!」
 しばらくすると雨は止みうっすらと雲の隙間から空が見え始めた。彼らの行く先を照らすかのように幾多もの光の筋が差し込む。彼らの道を赤い赤い雨上がりの夕日が照らす。草原の上の露たちが瞬き、コロコロと零れ落ち、鳴く。そうだ、これでいいんだ。これで。

 -と、まぁ、それも昔の話である。今となってはこの狭い部屋が自分のいるべき場所であり、(単調な思考ではあるが)ここにいてくれと望まれている以上離れる訳にはいかない。それで満足だった。誰かの望みをかなえる。それが自分の使命。そう、満足なはずだ。けれども。
あの親子が思考をかすめる。夕日に向かいあゆむ親子。光の中にだんだん黒い点になって、夕日の中へ溶けていく親子。固くつないだ手。笑い声。後追うように飛び去る鴉。全てが夕日に溶ける。夕日は全てを受け入れる。この暗い部屋には無い光。あぁ、そうだ、せめて

「…あの夕日だけはもう一度見たいなぁ」
 久しぶりに僕はそんな戯言を言って

…みたい?

 僕は思考を止めた。

 直後彼の中の、心の中の全ての歯車が動き出す。心が軋みだす。

-これは、これは自らの欲望である。みんなの欲望は僕がいくらでも叶えてきた。だってそれが僕の存在意義だったから。それはいいんだ。でも、じゃあ

-僕の欲望は誰が叶えてくれるの?

「…い」ねぇ、僕の願いは誰が聞いてくれるの?
「…たい」僕の望みは誰が叶えてくれるの?
「…みたい」僕の未来は誰が切り開いてくれるの?
「…みたい!」それはきっと僕自身だろう!

 もはや彼の耳には誰の声も聞こえなくなり、かつての自分に流れていたもう無いはずの血潮の音だけが轟々と猛りだす。固く強張った一本の柱は、己を奮い立たせるよう震えだす。
 拍動する空気。黒曜石の滑らかさを保ったままその柱から孵るは一羽の鴉。誰かの怒鳴り声と鳴り響く警報すらも聞こえないまま彼は上へと飛んだ。本来あるべき障壁は彼の意志をくみ取り導くように退く。とうの昔に失ったはずの心音が高鳴る。

「みたい!みたいんだよ!なぁ!それだけなんだ!それだけでいいんだ!」
 叫ぶ。声を置き去りにするような力強い羽ばたきの度に。吠えるように、宣言するように、ぶつける様に、吐き出すように、叫ぶ。誰にでもなく、誰かの為でもなく。自分の為に鳴き叫び羽ばたく。

 最高速で最短距離で衝動的に飛び出した鴉はついに屋上へと舞い上がった。見渡す西。赤い。赤い空だ。そして湿った空気。雨はついさっきあがった様だった。雲の切れ間から金色の光が射し込む。露が草の上で輝き、さながら天球儀のようだ。山際から差し込む斜陽の眩しさは彼の両目を突き刺し、その絶対的な美を心へと刻み込ませる。陽の光の温もりを全身で受け止める。雨上がりの土臭さを肌で感じ取る。網膜に焼き付いた斜陽の光を何度も咀嚼する。ぁあ、かつてこれほどまでの幸せを今まで感じたことはあっただろうか。これほどまでの充足感はあっただろうか。ぁあ、願わくばこのまま、どうか、どうか

「夕日に溶けてしまいたい」

 そこでもう彼の意識は無くなった。彼は最後に自信の望みを叶え、夕日に溶けていった。もう誰も彼を知覚することはできないし、知ることもできない。きっと彼は夕日そのものになったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 今日も今日とて誰かの心に突き刺さる斜陽は、暴力的に美しい。

アイテム番号: SCP-115-JP

オブジェクトクラス: Keter Euclid Neutralized

説明: SCP-115-JPは"事件115-JP-ぬ"での収容違反の後消息を絶ちました。[中略] その後数年に渡る調査と分析が行われ、最終的にSCP-115-JPの無力化が宣言されました。事件の詳細は別紙を参照してください。……

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