せめてもの救いと希望、そして夜空
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夕方。会社の同僚の多くが残業に勤しむ中、男は一人電車に揺られていた。その顔には彼が入社したての頃のような年相応の生気は無く、目の下の隈が重々しい疲弊をより強調していた。吊革を掴む手も病的に白い。男は数日前、入社してから最悪と言っていいミスを犯した。それによる仕事の遅れを取り戻そうと、ろくな食事や睡眠も摂らず働き詰めた。その結果として彼は今日職場で倒れてしまった。無理矢理残業をさせてきた上司も、さすがに過労死されては困ると彼を帰す事にしたのだ。午後六時半。七月の空は夕暮れ時の青紫と橙が西の方でまじりあっていた。

カタタン、カタン。電車はゆらゆらと進む。不安定に揺れながら決められた道筋をなぞる。窓の外を流れていく車の光と帰路に就く学生、景色。視線は外を向いている彼だったが今の彼に周囲の状況は全く捉えることが出来なかった。ぐるぐるドロドロともたつく泥沼のような思考で考えているのは今後への不安。きっと近いうちに路頭に迷うだろうという強迫観念めいた確信と恐怖。両親の顔。罵倒。白眼視。考えたくないと思うけれど、考えなければ明日はやってこないというジレンマ。彼は吐き気を覚え、口を吊り革を掴んでいない方の手で押さえ俯いた。そして、きつく目を瞑る。

無意味な思考が暫くの間彼の頭の中で流れ続けた。

解決策は見い出せない。切迫感に胸が詰まり、普段通りの呼吸ができない。辛い。目頭が痛い。もういっそ子供の様に人目をはばからずこの場で大声で泣き叫びたい。自身のふがいなさからくる苛立ちをこの場で暴力的に発散させてしまいたい。ちくしょう。ごめんなさい母さん。僕はダメな子だった。父さん、期待してもらったのにろくな成果もあげられない息子でごめんなさい。生きてみんなに迷惑を掛けるぐらいだったらとっとと僕はしんでしまった方がいいんだ、でも死んだらきっと両親は苦しい生活を余生で送る事になるんだろう、どうやって死ねば家族に保険金を残すことが出来るんだろう、あぁ苦しい死にかたは嫌だどうやったら楽に消えることが出来るんだろう遺書は書いたほうがいいのかないっそのこと誰かが僕の事を殺してくれればいいのになそんなうまいことが起こるわけ―

棚から彼の足もとにばさりと落ちてきたファイルが、彼を帰路の電車へと引き戻した。急な衝撃に驚き、彼は半歩後ろに下がった。

「あぁ、すみません……」

ふと顔をあげると白髪交じりの、柔和な印象を受ける初老の男性が申し訳なさそうにこちらに頭を下げていた。

「あ……いえ、お気になさらず」

そう言いながら彼は足元のファイルを拾い上げる。ファイルの表紙には「宝石がもたらす効果について」と油性ペンで丁寧な字で記載されており、その文字の下には小さく、赤いボールペンで「機密」と書かれていた。何が入っているか、なんて好奇心は今の彼には働かない。どうぞ、と淡白にいうと彼はファイルを男性へと手渡した。男性が頭を下げて感謝を述べているのを無視して、すぐに彼は吊り革を握り直し再び自身の世界へと閉じこもった。

電車は進む。ゆらゆら、ゆれゆれと。

二つ三つ、四つと電車が駅に止まっては発車する。その間にも多くの人が入れ代わり立ち代わりに電車へと乗り込み、また降りて行った。青年の降りる駅は次の次の次の駅だ。所要時間としては20分前後といったところだろうか。あっという間かもしれないが、しかしながらそのわずかな時間さえも無限に感じられる。家に帰れば衣類とゴミが散らかった部屋の中でまた自分の愚かさ、稚拙さ詰めの甘さに嫌気がさし布団の中から動くことが出来なくなるのだろう。気が重かった。帰りたくない。いっそこのまま終点まで行って、そこからどこかに歩き続けてのたれ死んでしまおうか。その方がきっと楽だろうとさえ思えた。彼はまた小さくため息をつく。そして形容しがたい胸の苦しさに涙ぐんで、その目頭を取り出したハンカチで押さえた。

目的地が次の次に差し掛かった時、目の前にいた先ほどの男性が立ち上がった。どうやら次の駅で降りるらしい。気持ちは沈んでいながらも男性が降りることに気がつくことのできた青年は、邪魔にならないように少しずれた位置に立ちなおした。男性は青年の隣に立つと、棚の上から古い旅行鞄のようなアタッシュケースを下ろして床の上に置いた。そして、さっき青年が手渡したファイルをそのケースの中にしまおうとし、手を止めた。そして青年に投げかける様にこう言った。

「なにか、辛いことでもあったのですか?」

かつての青年なら何ともない、と言って流すであろう見ず知らずの人からの、他愛のない質問。しかしその質問は自身のありようの否定に走る、世界にはまるで自分がいる場所がないとさえ思っていた青年にとって、感情の堰を切るにはあまりにも十分すぎる一言だった。

「……俺、このまえ会社で失敗して、それで、何がいけなかったのかとか、俺は本当にあの企画に必要だったのかとか、色々考えてたら、その」

何を言っているのだろう、と青年は思った。見ず知らずの人にこんなこと言ったって、何も解決しないし、そもそも変人だと思われるじゃないか。

「そもそも、自分は生きててもしょうがない、世界には100億人ぐらい人がいるんだから一人死んだって世界はまわるし、死んだ方がいいって思えてしまって」

男性はずっと言葉を紡ぐ青年の目をじっと見ていた。あぁ、どうせなら嗤ってくれないだろうか。めんどくさいと突っ返してはくれないだろうか。早く駅についてくれ、降りてくれ。意思と関係なく流でる言葉と涙、次第に湧き出る嗚咽に青年は恥ずかしさを覚えた。

「すいません、こんな……、見ず知らずの人にこんなに、打ち明けるなんて、自分……、どうかしてます、すいません、ごめんなさい……ごめんなさい」

謝る青年を男性はじっと見ていた。その顔は何か思うところがあるようにも見えた。

男性は少し思案した後、先ほど青年が手渡したファイルの中から、四つ折りにされた一枚の紙を取り出した。それを更に小さくたたむと、青年の開いた方の手をとり、それを両手で包み込むようにして紙を手渡した。

「……人生何事も辛いことはあります。私も、そうでした。世界はクソッタレだと非行に走ったり、その反面、自分の愚かさに怯え、存在意義を見失ったりしました。……でも、見方を変えればそんなに悪いこともないんですよ。世界も、自分自身も」

男性は過去を振り返るように目を閉じ、半ば独り言に近い感じでそう言った。すると、列車は駅へと到着し、電子音と共にドアが開く。おや、と言うと男性は慌てて荷物を取りまとめ、青年に軽く別れの挨拶をすると駅の構内へと走って行った。その様子を見送った青年は自分の行いを恥じるように数度首を横に振ると、空いた席へと座った。電車が発進する。

暫く顔をあげることが出来なかった青年だが、先ほど渡された紙は一体何だったかと思い、握っている手のひら開き両手にそれを取る。改めて触ると紙の他に何か固い物が入っているようだ。青年はゆっくりとそれを広げていった。コロン、と手のひらに落ちてきたのは群青色に銀色の斑点が入っている小さな石。紙に目をやると、どうやら石についての説明が書いてあるようだった。

「……ラピスラズリ」

”群青。瑠璃。ウルトラマリン。12月(あるいは9月)の誕生石。一説には幸運をもたらす最強のパワーストーンともいわれ、その幸福の為に試練をもたらすことのある鉱石……”

紙には科学的な分析と俗説への考察、そしてその効果について、そんな感じの事が書いてあった。

「なんだよ、それ」

はは、と青年は苦笑いをした。縋る神も信じてないというのにこんな石を渡されてもなぁ、と呆れながら手の中の夜空をもて遊ぶと、彼はまだ笑うことのできる自分にはた、と気づいた。
まだ僕は、ひょっとしたらだけど、もう少しだけ頑張れるのかもしれない。

青年のなかに、ほんの少しだけ前向きな気持ちが芽生えたのと同じぐらいに、電車は減速を開始していた。
もう少し頑張ってみよう。と、気持ちの整理がつき始めていた青年は、原則の際に体が進行方向へ僅かに揺さぶられたのに促されるように顔をあげる。

そして目を見張った。

彼の目に映ったものは、先ほどまでの陰鬱とした、くたびれた通勤電車の風景とはまるで違っていた。
対面の座席の布地は祖母の遺品の椅子と同様のビロウドの様にしなやかに艶めき、その奥にあるガラスから見える夕闇の風景はかつて両親に連れられた時に見た田園に通じるものを青年に想起させた。辺りを見合わすと、出入り口付近に座る見ず知らずの女学生は中学のマドンナ的存在だったあの子とにていて、様な可憐さとわずかな憂いを持ち合わせている。横隣、少し離れた所に座る営業マンはきっと疲れているに違いないはずなのに、かっちりとした、高そうなスーツに身を包み穏やかな表情で腰かけている。抱える鞄は使い込まれて熟成されたウイスキーの様な、あるいは琥珀の様な色合いだ。
今気がつけば、この床は大理石のようにピカピカ、つやつやだ。そして自分自身が履いている靴も、まるでこの間のバラエティ番組で取り上げられたお高い革靴のように、見える。靴だけじゃない。スーツも、腕時計もだ。しいて言うなら、自分の白い両手も白磁の様で……。

なんだ、これは。青年は感動と疑念、焦燥によりぽかんと開けた口を暫く右手で覆わざるを得なかった。先ほどまで暗い考えが渦巻いていた脳は驚くほどに思考を停止している。

「まもなく到着します。お出口は右側です」

スピーカー越しではあるが独特な、どこか低音の楽器を思わせるアナウンスにより青年は座席から跳ねるように立ち上がり、電車を降りた。持ちっぱなしだった石と紙切れをポケットに押し込む。自分が自分じゃなくなった感覚に戸惑い、自然と駆け足になる。改札に向かうためエスカレーターに乗ると、前を行く女性のシャンプーか香水だろうか、様々な花の香りが彼の鼻腔を刺激した。この香りは、小さい頃母にあげた花束のそれと似ているな、と彼は思った。
それを降りると、また小走りで改札へと向かう。すれ違う老若男女、売店、駅員、広告、どれもが見違えて見えた。形容しがたいが、きれいだ。

気分が明るくなったとはいえ、こんなにまで世界が違って見えるはずがない。青年の感動は薄れ、次第に恐怖が積み重なり始めた。自分がおかしくなったのか。さっきまで自分は生きる価値のないゴミ屑だったじゃないか。こんな急に、世界が自分に救済を与えるはずなんてないじゃないか。
雑踏が雑踏に聞こえなくなり始めたころ、青年は改札をくぐり駅の西口広場へと歩を進めた。栄養剤の広告塔が遠くで妖しく輝き、青年の目を引く。その一方で街灯や客待ちのタクシーのヘッドランプが縁日の日の提灯の様に連なり、幻想的だ。これが自分の住んでいた町だったかさえも疑う程に、きらびやかな光景が、あちらにも、こちらにも広がっていた。

「ついに自分は、頭がおかしくなったのか」

青年は思わずつぶやいた。辛すぎた現実から逃れるために認識が曲がってしまったのか。それとも前を向くため自分の為の、世界からのささやかなエールか。あるいは疲れているのか。青年はこの状況をどう捉えるか決めあぐねていた。バスの排気音さえも不愉快でなくむしろ延々と聞いていたいと思えてしまう深みをたたえているのだ。決して悪い状況ではない。むしろ歓迎すべき状態なのではないか……。

とりあえず、帰って休もう。考えても無駄だと思った青年はそう決心し愛用のロードバイクがとめてある駐輪場に向かおうとして、その行動は古城の大広間のシャンデリアが床に落ち、叩き付けられるような、あるいは砕け散る大聖堂のステンドグラスのような女性の悲鳴によって遮られた。
守られるべき平穏は一瞬で流転し瓦解した。雑踏が阿鼻叫喚に、穏やかなハーモニーが不協和音に変わる。青年が振り返ると数人の地に倒れ込む人々と散り散りに逃げ惑う大勢、勇猛に駆けつける警官、そして、自分にナイフを突き立てようと駆けはじめた男性が、見えた。

青年と刃の切っ先までの距離は十分にあった。病み上がりの青年でも、息を乱れさせ、狂人の様に人を刺し始めた男を避け、逃げることは十分に可能であった。しかし、青年にそれは出来なかった。

彼は頭が真っ白になったわけではない。見とれてしまったのだ。白銀の剣と紅玉の様な赤のコントラスト、そして今まさに自分を刺さんとする相手の目の内に秘めた憤りに。轟々と猛り噴火する火山の溶岩よりも、血に飢えた獣よりも、サバンナの地平線に沈む夕日の赤よりも、太陽のコロナよりも燃え上がり荒ぶる感情の渦。本来見えないはずのそれが彼に鮮烈な、今までみた物よりも何よりも美しいイメージを与えていた。人間がこんなものを内包できたのかという、衝撃。彼が見る世界は永遠に感じられるほどにゆっくりと流れていた。
衝撃の後にきた、ゆっくりと己の血肉を、筋組織を、血管をプツプツ、ブチブチと裁断する冷たさと、刺されるような痛みが崩壊する青い氷山を連想させる。ナイフはすぐにその体を離れ、そこからあふれ出した赤を見て、彼は、自身にもこんなにも尊いものが流れていたことに再び衝撃を受け感動し、同時に今まで自分を卑下し親に侘びる事しかできなかった過去に後悔した。

「人は、命は生まれながらにして尊い。だから、お前だけが醜いなんてことは無いのですよ」と、昔いじめられていた自分に向かってそう言った祖母の温かい背中を今更になって思い出した。

男に荒々しく突きとばされた青年は仰向けにコンクリートの床に倒れた。ざらざらとして冷たい感覚は、痺れた青年の感覚には苔むした神社の境内の石畳の様に捉えられた。痛みはあるが、どこか別な、違うところに存在するかのように感じられ、あまり気にならなかった。地面の冷たさが自身の血により温められると共に、自身の体が冷たくなっていくさなか、青年は考える。

――あぁ、思えば、自分だって、父と母から生まれた、一つの命なのだから、連綿と続いた命の一つなのだから。どんなにクズだとののしられても、そこにあるのは命なのだから。だから、それが美しくないわけはないのだ。

――世界は、僕は案外、美しいものだったのかもしれない。

見上げる空に星が輝き、夜が街を覆い始めている。そこに先ほどのラピスラズリを重ね合わせた青年の意識は、その群青をたたえた海によく似た闇の中へと解け、やがて闇と一つになった。

彼以外からしてみれば事態は一瞬であった。仕事帰りのサラリーマンが狂人に刺された。それだけである。男が青年を刺し、ナイフを抜き、次の標的を定めようとして、警官に取りおさえられた。怒号と罵声、サイレンの音が薄藍色の空に木霊した。

それらを美しいと言える人はもういないだろう。ごみごみとした街を。激情、狂気さえも内に収めてしまう命を。
愚かだと罵られ続けた自分自身を。

世界はこんなにも美しいというのに、それに気づく事すらままならない。

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