疑獄の亡者
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エージェント・涼代に好物はない。かつて何を美味しいと考えながら物を飲み込んでいたのか検討もつかない。今も新しい味に驚かされはするものの、それを新たに好物と言えるような神経は涼代にはない。
エージェント・涼代に親友はない。かつてこのような性格の人間に付き合っていた人間が居たとは到底思えない。今現在所属している研究室の人間や、似たような人種とは交友を持っているもののそれでも彼らを親友と呼べる楽天さを涼代は持っていない。
エージェント・涼代に家族はない。エージェント・涼代に宝物はない。エージェント・涼代に夢はない。エージェント・涼代に目標はない。エージェント・涼代に思い出はない。

エージェント・涼代に記憶はない。だが、エージェント・涼代には自分があった。現在があった。財団があった。

確かにあったはずなのだ。


「それでは、今月も不本意でしょうが、取り調べを受けていただきますよ」

冬も盛りを迎えるというのにセミが煩く鳴き喚く灼熱の部屋の中、互いに平気な顔をした2人が事務机を挟んで相対していた。肩に蝉を乗せた奇特な部屋の主、鳴蝉博士は真正面の相手に言葉を投げ掛けつつも、相も変わらず視線を向けずに書類仕事を片付けている。

「はいはーい、分かってますって。前にもやったんですから今回もちゃちゃっと終わらせますよ。こちとら慣れてんですから」

エージェント・涼代は半ば諦めたような声を挙げる。博士の言う取り調べとはSCP-944-JPの特別収容プロトコルにあるというソレのことだ。なんでも「1ヶ月周期で身辺情報の怪しい職員を拘束して尋問しろ」という行があるそう。

エージェント・涼代に身辺情報などない。極一部の職員が「要注意団体に所属するスパイだった自分を記憶処理して雇用している」という情報を知っているそうだが、その「極一部」に涼代は出会ったことがない。きっとお目通りも叶わないお偉方なのだろう。その極一部だって要注意団体時代やその前の涼代の経歴を掴んでいるとは思えない。掴んでいるなら毎月のように自分が尋問されることもないだろう、と涼代は推測している。つまり疑うところとしては涼代は真っ黒なのである。

だが涼代はあのような連中の「製品」では決してない。むしろ「製品」であったならどれだけ気が楽になることか。涼代にとって、現在の自分を構成している要素が全く分からないという現実は、その足下を非常に不安定なものにしている情報だ。涼代はそれを「現在の自分を見つめ財団を拠り所にする」ことで安定を図り、そして成功させた。

これも全ては記憶処理のせい、つまりは財団に原因があり、正直なところ面倒くさい、と涼代は思わなくもないがSCP-004-KOのような例もある、財団も手を抜いてはいられないのだろう。なので渋々従っているというわけだ。最近は尋問担当の梶尾博士も自分の尋問を面倒に感じている節が見受けられ、決められた質問に決められたように返すという一種の儀式めいたやりとりが行われるようになってしまっている。

「さて、まずは身体検査だったっけ?早めに終わらせてさっさと遊ぼうかな」

足取り重く鳴蝉研究室の扉を開けて涼代は歩みを進めていく。現在を見つめていた涼代はその後に待ち受ける未来を予想できなかったが、それを責めるのは余りに酷というものだった。


身体検査がいつもよりも長い。涼代は検査室で1人取り残された状態でそう感じた。いつもなら梶尾博士辺りが今回も問題なし、と気怠げに呟きながら迎えに来る時間のはずである。潜入捜査を得意とする涼代は、自慢ではないが時間感覚の方に自信はある。もしや身体に何か異常が見つかったのではあるまいか、節制はしていたはずだ……などと思索をしていたら、検査室の自動ドアの駆動音が聞こえた。

「いやあ待ちくたびれたよ。どうしたの?盲腸にでもなって……た?」

てっきり例の博士が面倒くさそうにしながら入ってきたと思い、軽口を叩きながら自動ドアの方向を向いた涼代は目を疑った。機動部隊、である。仰々しいハザードスーツを身に纏った巨漢が4人、入口に並んでいた。こちらを逃がすまいとする布陣であることはすぐに理解した、理解したが何故自分がその対象にされねばならないのか。

「……オォウケイ少し落ち着いて話をしよう。私に何か異常があったのは理解した。何があったんだい?」

涼代はできるだけ平静を装って4人に疑問をぶつけた。しかし、その疑問に答えは返ってこず、彼らは即座に展開し涼代を拘束しにかかった。思わず回避する。すると逃げた場合は銃殺してもよいとの指令が出ていたのか、巨漢の内の1人が発砲した。幸運にも頬を掠めるだけで済んだが、涼代の心拍数は一気に上がる。ここは最早戦場である、そう認識した涼代は理解の追い付かない頭で行動を起こした。

まず最も近くにいた男を足払いで強引に転ばせ、その後頭部に倒れ込むエネルギーも利用しながら蹴りを1発叩き込む。ハザードスーツを身に付けているため威力は心許なかったが、それでも意識を飛ばすのには十分だったようで、男は銃を取り落とした。涼代はそれを空中で掴み、飛び込みからの側転で他の3人の銃撃をすんでのところで回避する。そしてもう一度狙いをつけるまでの隙とも言えぬような隙をついて1人、2人、3人と銃撃し、涼代は何とか窮地を脱することに成功した。

「……何だっていうんだ、一体……」

涼代は倒れ付した4人を見渡し、そう呟きを漏らした。ハザードスーツを着ていることから自分が伝染性の何かに感染していることは分かる。では一体何に?涼代はひとまず蹴りで意識を奪った男から更にハザードスーツを奪い、得意の変装を施した上でその場を後にした。

涼代には何も分からなかったが、財団という拠り所をたった今、失ったということだけはかろうじて分かっていた。


「……-JPの収容違反が発生。機動部隊は直ちに脱走中の……SCP-0……」

涼代はサイトの廊下を駆ける。アナウンスが流れているということはつまり例の4人組の内の誰かが意識を取り戻して報告を行ったのであろう。もうハザードスーツでの変装は無意味だろうと、重りになるだけのソレは脱ぎ捨てておいた。急がねばならない、その一心で駆け出す涼代の目的地はサイト外ではなく、鳴蝉研究室。もうすでにサイト外には後詰の部隊が展開していることだろう……ならば最期に自分をこんな状況に追い詰めたオブジェクトの正体を知りたい。そんな心理が涼代の心を埋め尽くしていた。先程から聞こえるアイテム番号は自分の知識の中にはないものだ。……息を殺し、物陰に潜み通路の先の機動部隊員をやり過ごす。

無駄な足掻きと知りながらこんな騒動を引き起こしているのだから、全くもって嫌な性格の人間だ……と自嘲しながら涼代は、ついに目的の研究室の前にたどり着いた。自前のカードキーで解錠しようとしたが、当然のごとく受け付けなくなっていた。

「まあ、当たり前か……こういうところは本当に仕事早いよね財団って」

自分も昔は財団相手にこんな感じの大立ち回りを演じていたのだろうか……などと考えながら、涼代は霧甲水博士よろしくドアを蹴破ることにした。1, 2, 3, 4, 5, 6……その後何度目かの蹴りによってようやくドアは自分が通れるくらいの隙間が空いた。こんなタイミングであの博士の恐ろしさを思い知るとは……などと考えながら涼代は研究室の内部に侵入した。

普段なら恐ろしいほどに灼熱なその部屋は今は酷く凍えており、虫の鳴き声1つしなかった。そして先程まで部屋の主と相対していた事務机には大きな血の跡が残っている。ふと見回してみれば、争ったような痕跡が残っていた。

「……抵抗したのか、あの博士」

死体は残っていない。しかしこの状況を見ればそのことは明らかだった。涼代はあの博士が生に執着を見せるとは思っていなかったので、この研究室の様子は少々意外なところであった。ただ、それ以上に思うところはない。涼代はそう強く思い込むことにした。大丈夫だ、エージェント・涼代は現在を失ってなんかいない。


その後、涼代は鳴蝉博士の隠し持っていた予備のカードキーを記憶を頼りに探しだした。もしこれがセミの籠の中であったなら容易には見つからなかったであろう……カードキーを探すために中にいるセミが傷つけられる可能性を考えれば、これも博士のセミ愛の致すところなのだろうかとも思う。ともかく、これで望むデータにはアクセスできるはずだ。だが研究室のパソコンは既に死んでいた。あの博士が弾を防ぐのに使ったのか、それとも単なる流れ弾の被害にあったのかは分からないが、本体もディスプレイも弾丸がめり込んでおり、まるで使い物にならない。まあ、機器が生きていたところでデータベースの情報にアクセスできていたとは思えないが。ここでこれ以上の情報は得られない、そう判断すると涼代はカードキーを持ったまま研究室を出て、元来た道を戻っていった。

目指すは検査室でのデータを解析していたであろう部屋である。自分の検査結果を見てこのような事態になったのなら、あの場に全ての答えがあるに違いない。資料として真っ先に持ち去られている可能性も考えられたが、今は自分というオブジェクト扱いされている存在が逃げ出しているのだ、資料に構っている暇はないだろう。いくつかの岐路で機動部隊をやり過ごしながら道を戻っていく。途中不覚にもその一員に見つかってしまったが、できる限り速やかに気絶させた。……しかし通信がなくなったことにより自分の居場所は絞られてしまうだろう。時間はない、涼代は妙な心境の中で廊下を駆けた。

検査室のデータを解析しているはずの部屋は、検査室の右向かいの辺りに位置していた。立ち入りにはセキュリティレベル3以上の権限が必要だったが、今は鳴蝉博士のカードキーがある。脚を痛める必要はなかった。

「さて、私のデータはどこだ……?」

涼代は最後に検査されているのは自分なのだから、見つけ出すのは容易いと考えていた。しかし、想像以上に多くのデータが残されている。そのほとんどが人型オブジェクトの解析結果だったが、エージェント・涼代はそれらのオブジェクトはどんなものなのか知らなかったし、今は興味がなかった。多数のファイルを漁り、最新のデータを探しだそうとする。遠くから多くの足音が聞こえてきている。時間はない。

「どれだ、どれだ、どれだ……」

足音が大きくなりつつある。涼代は素早くファイルに目を通し続け、そしてついに「涼代鈴菜」の文字列を発見した。報告書も添付されている。これで自分をこのようにした犯人を知ることができる、半ば意気揚々とした勢いで涼代はその内容を閲覧した。

そして涼代は、その瞬間に自分が既に失われていたことを悟った。

涼代は叫んだ。そして行くあてもなく無我夢中に走り出した。大勢の機動部隊がやって来ていたはずだが、それをどうしたのか全く記憶にない。いや、記憶があったところでどうするのだ。すでに自分は!全ての拠り所を失っていた!エージェント・涼代は財団を失い、現在を失い、自分を失っていたのだ!エージェント・涼代には過去も未来も、現在も、ない。エージェント・涼代にはもはや何もないのだ。それはエージェント・涼代である必要は最早、存在しなかった。

涼代だったものは、かつては異常ではないと判断されていた変装、まごうことなき技術であったはずの変装がいつの間にか自身に施されていることに気がついた。薄暗い収容室の窓に移る自分の顔が、視線を向ける毎に異なる姿を形取っているのに気付いたのである。それは鳩のマスクであったり、ガスマスクであったり、狐の面であったり、紙袋であったりした。布袋を被せたような形や魚の形を取ることもあった。少なくともそれらの顔は、エージェント・涼代であると自分が知っているものではなかった。

「わたしは」
「一体何なんだ」
「ぼくは」
「おれは」
「エージェント・涼代は」
「エージェント・涼代とは、一体何だったんだ!」

ぐにゃぐにゃと変形する声帯が複数人分の声色を捻り出す。自分の足音が多人数の軍靴の音のように聞こえた。それこそ化け物のような慟哭をあげながら、エージェント・涼代であったはずのモノは足を素早く前へと進める。前方には暗闇しか見えない。このまま身体を失って虚空に溶けてしまえたら……そんなことを考える頭がまだ残っている。いや、これもアレに作られた偽の思考だ。もう何と信じられない。涼代は再び、足を前に出して身体を進めた。

その瞬間、どこかから銃声が響いた。かつて涼代だった意識は、闇に混じる感覚を最期に知った。


「……それほどに恐ろしかったのかね。自己の喪失は」

封鎖されたサイトから逃げ遅れていた大和博士は、目の前に現れた正体不明の何者かの死体らしきものを見つめながら、そう吐き捨てた。何かが叫ぶ声はずっと聞こえていた。自己の消失を嘆く声が、ずっと。この存在が目の前に現れたとき、サイト内に響いていた声はこれかと得心がいったものだ。なるほど、これは確かに何者でもない。

「……しかし、愚かとは思わないか。自己の消失くらいでこのように大騒ぎするのは。自分が死んでいくのは、自らを歪めるほどだったのか?」

コレと出くわした瞬間、大和博士は反射的に相手の脳天を撃ち抜いた。収容違反しているらしいオブジェクトのナンバーを聞くところによれば、これはもともと死者だったのだろうが。ということは、自分も最早この体は死んでいるのだろう。もしかすればすでに何処かで新たな自分が生じ、そして殺されているのかもしれない。

「……黄泉路を旅する連れとしてはいささか不本意かもしれないが、私も連れていってもらうぞ。さて、死とはいかなるものなのか。本当に、自己が消えるというのかね」

大和博士は何かの死体の傍らに座り込み、今もサイト内に展開しているであろう機動部隊を待った。これから2つの死体が、機動部隊によって適切に処理されることになるだろう。大和博士は煙草を吸いたいところではあったが、生憎手持ちは拳銃1本しかなかったので、しかたなくソレをくわえ、発砲して最期の一服とした。

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