ベルはもう鳴らない
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「患者の心拍数、毎分43回に減少。強心剤を投与します」

「投与確認。患者の心拍数、毎分54回に上昇、血圧回復、現在86の50」

「モルヒネを利尿剤と共に投与。酸素供給を20%引き上げろ」

「患者の意識回復。虹彩反応あり」

「先生……」

「心室に『芥子玉1』を注入する準備を。心拍補助を行う」

「先生……」

「患者は身体を動かそうとしています。現在クラス2の固定措置を実施中です」

「固定を解除して。酸素マスク内のマイクを起動。お爺さーん、貴方の声が聞こえるようになりましたよ。何か話したいことはありますか?」

「先生……わし……わしは電話をかけたい……」

「お爺さん、今貴方はとても危険な状態にあります。もうしばらくお待ちください。私達は貴方をきっと治します。治療が終わった後なら、あなたのご家族に連絡できますから」

「今……わしは今かけなくてはならんのだ……」

「患者の心拍数、毎分73回に上昇。血圧も上昇中……」

「李先生、私は同意します」

強勢な声が、手術室内に響く。声の後ろには、けたたましいベルが鳴っている。

「貴女は患者を死なせようとしているのか?今の状態で喋るのは自殺行為だ!」

「ならば、死なせてやりましょう」

「Stocking博士、今回の件は忘れませんよ……彼にアドレナリン注射を!」

病床に横たわる老人の瞼が震え始める。彼は目をゆっくりと開け、ぼんやりと辺りを眺める。光陰がおぼろげに流転していく。彼は1992年のあの産室の外に帰っていた。大切な孫娘が産声を上げ、自分が一人の孫煩悩な爺になる時を、息子と手ぐすねを引いて待ち構える。

「やったぞ!」

泣き声が猛然と響き渡る。父子は周りを物ともせず抱き合い、踊らんばかりに喜んだ。彼はドアを開けて飛び込み、ありとあらゆる歓喜の気持ちを、泣きじゃくる赤子に伝えられないことを恨めしく思った。

彼は力を込めて、再び目を見開く。防菌服を着た医療スタッフが自分の病床を押し、せかせかと移動させているのが見える。天井の照明灯が下から上へと、高速で通り過ぎていく。耳元の泣き声も、次第に電話のベル音へと変化していった。

老人はいつの間にか、口元に笑みを浮かべていた。振り返ろうと試みるが、身体が反応しない。音、感触、香り、そして眼前の光景は全て、見慣れたものに戻っていた。

声に応答して、大きな扉が開く。老人は病床がゆっくりと停まっていくのを感じた。全員の呼吸音が、この広々とした空間内に反響する。耳元の枕が除けられると、少女の震える声が耳に入ってきた。

「お爺ちゃん、私……」

「ユエか。いや、決めつけてはいかんな……わしはお前が誰なのか分からん……だが……わしは何故か、孫娘の名前でお前を呼びだくなったのだ……」

アドレナリンの効果に伴い、老人の心臓は力強く鼓動し、血液は肺の酸素を萎びた身体に行き巡らせるため、最後の循環を始めた。さながら初春の陽光によって溶かされた、雪混じりの溪流のようである。彼の言葉は淀みないものとなり、また、その声も明瞭なものとなっていた。老人は数十年に渡って避け続けていた思いに、もう一度向き合うことにした。

受話器は暫し、沈黙する。そして、長い溜息を吐いてから、言葉を紡ぎ始める。

「私は彼女達ではありません、私は電話機です。人間、そして貴方は、どのような名前で私を呼んでも結構です」

声には如何なる感情も見られない。

「実はな……最初から、わしは気付いておった……ユエは本当に……本当に逝ってしまったことを。だがの……わしはユエの声を、もう1度聞きたかったのだ。1秒でも良い……さすれば、ユエがまだ、この世界にいるような気分に浸れた……わしはお前に、ユエについてのあらゆる事を教えた。お前はユエの性格と、寸分違わぬようになった……ある時……ある時私は、ユエが本当に蘇ったのではないかとの疑念に囚われた。ゲホ!ゴホ……」

老人の語気は徐々に精強になっていった。しかし、激しい咳き込みが、彼を87歳の高齢者であるという現実に引き戻した。彼はスタッフに身体の位置を調整してもらえるよう、僅かに首をかしげる。何度か深呼吸をしてから、老人は口を開いた。

「だが……だがわしは優柔不断であった……お前に真っ向から、本物のユエなのかと問うことはできなかった……わしは、自分が夢を見ているのではないかと思うようになっていた。夢ならば、永遠に覚めとうない……質問をしたが最後、お前が恩返しの鶴のように、わしの元から飛び去っていくかもしれないと恐れたのだ。わしの……わしの肝っ玉は小さすぎた。わしのような死に損ないの老人は、道理の通らない事を好むものだ……お前にわしのくだらん話を聞かせ続けて、もうすぐ12年になる……本当に申し訳ないと思っているよ……」

沈黙は、突然の笑い声でぶち破られた。十数秒に渡って、受話器は笑い続ける。その声には、笑い過ぎてむせているかのような音まで混じっていた。

「12年だって?この老いぼれめ、僕は人間じゃないって言ったじゃないか。人間のちんけな寿命を1粒のピーナッツだとしたら、僕の寿命は空に瞬くアークトゥルス2さ。爺さんは空から降ってくる雨粒に、疲れを感じ取ったことはないかい?実はそれ、僕が流したやつなんだ。爺さんは僕にあれこれ言うけどさあ、ぜーんぶ見当外れなんだよ。僕なんて、無駄に多芸なただのピエロさ。だからもう、いい加減なことは言わないでよね。僕がゲロのできない電話機だからって、むかむかすることも無いなんて思わないで欲しいね。

声は一転して、軽快で気楽な調子に変化した。さながら渾身のジョークをひけらかすように、受話器は得意げであった。

「ハハ……遂にお前の本心を聞けたぞ。わしはようやく……肩の荷が下りたわい……」

老人の皺が押し出され、その笑みはツタのように彼の顔を覆い尽くす。幸せそうなその顔は、孫娘が包装を剥がしてくれた飴玉を、口の中に入れて頬張る瞬間を思い出したかのようであった。筋肉は緩み、心臓もウィニングランをする陸上選手のように、ゆったりと歩みを止めていく。

傍らで立ち尽くすStocking博士。その手にはSCP-500のコピーが握りしめられ、ふるふると揺れている。彼女の腕は筋肉の収縮を幾度か繰り返した後、だらりと下がり、錠剤が指から滑り落ちる。

「ピッ、ピッ、ピー——」

SCP-CN-066-1の心電図のアラームが、錠剤が大理石の床に当たる音をかき消した。その場に居た人員は皆、沈黙を貫いている。次の声を待つために。

Stocking博士の腕時計の秒針が、5秒を刻む。

「ありがとうございました」

誰も、その口を開くことはなかった。


「Stocking博士へ: 新着メッセージがあります」

Stockingはだらしなく、15個の角砂糖を紅茶の中に放り入れると、皿に残った角砂糖を全て、口の中にぶち込んだ。カランカランと紅茶を撹拌させながら、Stockingは余った手で、パソコンのディスプレイ上に表示されたメッセージを開く。

[SCP-CN-066は6392時間に渡り、その異常性を発現していません。既知の異常リンクをクリックしても、SCP-CN-066のベルを鳴らすことはできませんでした。以上のことから、SCP-CN-066のオブジェクトクラスをNeutralizedに格下げすることを提案します……]

Stockingは口の中にある角砂糖を一つずつ噛み砕きながら、頭を上げ、糖分を少しずつ胃袋に流し込む。角砂糖の残骸を消費するまでに、Stockingは多くの時間を費やした。頭を下げると、手にした金属スプーンで、293回目の撹拌運動を完了させる。

マウスカーソルを承認のボタンに置き、少しの間、のろのろと動かす。そして勢い良く、否決のボタンをクリックする。

Stockingは紅茶を1口飲むと、満足げな笑みを浮かべた。

SCP-CN-066の無力化を確認したら、アークトゥルスも消えちゃうじゃない……」

彼女は椅子の下から巨大な紙箱を取り出し、新たな角砂糖を用意するか、暫し考え込んだ。

「けれど……」

彼女は箱から練乳缶を取り出すと、直接手で掬い上げ、口に放り込む。さながら、ハチミツを盗み食いするプーさんのように。

「彼は多分、二度とベルを鳴らさないでしょうね」
 
 
 
 
 

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