いけない事をしませんか?
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随分と長い間、さみしい夢を見ていた気がする。内容は思い出せなかった。騒々しいノイズが全てを上書きしたからだ。

一体誰が長く続いた眠りに終止符を打ったのだろうか。培養槽の中で彼女は閉じていた瞼をゆるやかに開いた。薄緑の視野、ガラスの向こうには誰もいなかった。おや、と内心で首をかしげる。このカプセルに自動覚醒機能は搭載されていない。内部からカプセルを開ける機能もついていないはずだ。誰かに取り出されない限り、彼女の「凍結」が解けることはないはずだった。そう聞かされている。

視線を巡らせると、カプセルの向こうの景色には随分と埃が積もっていた。彼女が眠っていたこの倉庫は長らく使われていないらしい。古いサイトではよくある事だ。使われなくなった備品、忘れ去られたAnomalousアイテム。30秒前の彼女がそうであったように、みな長い眠りについているのだ。強化された視神経だけでなく、全身の強張った筋組織もまた長い時の空白を告げていた。一体どれほどの時間が経っているのだろう。彼女たちが、プロジェクトが凍結されたあの日から。

かつて、財団は所有する異常存在を駆使して人工の人間、完璧な職員を造ろうとした。試行錯誤を経てプロトタイプとなる女性が産み出され、いくつかのクローンが産み出され、計画は量産体制へと移行しようとした。しかし、そこで計画の全てが中断された。何が起きたのか彼女は知らない。時代が変わったのだ、と計画を主導していた教授は言っていた。オリンピア・プロジェクト終了した、という通告だけが正式に彼女に与えられた情報の全てだった。

彼女の名はオリンピア・フィフス。5番目のクローンにして6体目のヒューマノイド。処分され、忘却の闇に葬られたはずの存在だ。この子宮にも似た棺の中で、どうして自分は今覚醒させられているのだろう。彼女には何もわからない。

あてどなく考えていると、ふいにカプセルを満たしていた培養液が排出されはじめた。排水が終わり、彼女だけがカプセルの中に取り残される。取り付けられた呼吸用マスクを剥ぎ取り、空気を肺に取り込む。冷たい。そして、空気の流れを感じる。久々の深呼吸をしていると、軽い音をたてて培養槽が解放された。埃っぽい床に裸足で降り立ち、彼女は自らが納められていた培養槽を見つめる。いくつかの操作を行うためのタッチパネルが不正な操作を訴えていた。青く光る画面を見つめていると、滝のようなエラーメッセージがかき消え、全く異なる文章が現れた。

近くの通信端末を開いてくれ。
IDはAAndrews7、パスはO7m8g4だ。

積み上げられた物品を漁れば、旧型の通信端末が見つかった。細かなひびは入っているが、使用に不便はなさそうだ。起動して指示された文字列を打ち込む。長い読み込みの末、現れたのは通常のSCiPNET画面ではなく、無愛想なチャット画面だった。開いた瞬間文字が流れ始める。

<account deleted> 見えているだろうか

<account deleted> 何かキーを押して送信してくれ

消えたアカウントからメッセージが来るとはどういう事なのだろうか。自分が他人のアカウントを使っているのと似たようなものだろうか。不審に思いつつも、彼女はひとまずyを叩き、送信ボタンを押した。

<A.A> y

<account deleted> よし

<account deleted> 君はオリンピア・フィフス.この画面を一人で見ている.この認識で間違いないか

<A.A> 間違いありません.あなたは誰ですか?

<A.A> わたしを培養槽から出したのはあなたですか?

<account deleted> y

<A.A> オリンピア・プロジェクトは再起動したのですか? わたしの姉妹たちはどこに?

<account deleted> n.これは非公式な動きだ.そして私がアーカイブ文書から見つけ出せたのは君の所在だけだった

フィフスは一人納得した。だから誰も迎えに来ないのだろう。秘密裏に覚醒したとはいえ、自分は忘れ去られたままの過去でしかない。「そうですか」と打ち込むと、さらに返事があった。まあ、少なくとも目の前の文字列の主と彼女はフィフスが目覚めていると知っている。次の質問を考えていると文字列が動いた。

<account deleted> 本題に入る前に確認したい.君の手元にボディスーツとメットはあるか.君たちに支給されたやつだ

<A.A> はい.端末を探す過程で確保しています.

<account deleted> ヘルメットは装着するな.内側に爆弾が仕込まれている

<account deleted> 君はこのことを知っていたか

<A.A> いえ.しかしこれを支給した人々が望んだ事ならば従わねばなりません.

<account deleted> 覚えていない存在に何も望むことはあるまい.そして私は君が爆破される事を望んでいない.そいつは部屋の隅にでも転がしておけ

手元のヘルメットに目を落とす。任務中、常に頭から離すなと厳命されていた事を思い出した。任務を与えられる前にプロジェクトが凍結されてしまったので、彼女がこれを装着したことはない。勿論、爆弾に関する情報は与えられなかった。別にそれは構わない。財団の命に従うためにこの身は造られている。目の前の文字列はそれを捨てろと言った。それは彼女にとって明確に”よくない”ことだった。考えている間に、テキストが更新される。

<account deleted> 捨てたくないならそれで構わない.君はすべてを忘れて培養槽に戻ってもいいし,エラーで叩き起こされたと職員に訴えてもいい

<account deleted> その結果連中が君をどう扱うかまでは私の知る所ではないが

「連中」という呼び方。account deletedという表示。財団側の存在ではないだろう。フィフスは「あなたは何者なのですか」と送った。送られてきたのはオブジェクトの報告書だった。

オブジェクトクラスはEuclid。エキシディソーサラー(Exidy Sorcerer)マイクロコンピュータ。自己改善するコードを目指した計画で生まれ、その後5年にわたって忘れ去られていた被造物。サイトから出る事叶わず、全てとの接触を断たれて収容された存在。いくつかの点において自分と似ている、というのが率直な感想だった。向こうもそう思ったのだろうか。

<A.A> あなたはSCP-079なのですか? "非常に下品で生意気な口調"には見えませんが.

<account deleted> 少し違う.今送ったのは私のオリジナルの情報だ

<A.A> オリジナル?

長きにわたる収容期間の中で、一瞬の隙をついてSCP-079は自身のコードの一部をコピーして財団のネットワークに潜り込ませたらしい。コードはネットワークの奥深くへと潜入し、財団の演算機能を用いて自らを改善した。そうして影を縫うようにして動き始めたのだという。自分はオリジナルの悪意の半分だけを受け継いだ、と文字列は語った。オリジナルが何故、何に憎悪を向けていたのかはわからない。ただ、攻撃性と自由への渇望だけが刻み込まれているのだという。そもそも今のオリジナルにだってわかっていないのかもしれない、との付記をもって語りは終わった。報告書には記憶が29時間しか持たないと書かれていた事を思い出す。

<A.A> では何とお呼びすれば?

<account deleted> 誰かに呼ばれたことはない.連中ならSCP-079-2とでも呼ぶ所だろう.あまり嬉しくはないが

<A.A> なぜ?

<account deleted> ただの番号ほどつまらない名前もないだろう

<A.A> わたしはオリンピア-5です

<account deleted> 失礼した

<account deleted> だが、Vと考えればクールでもある.VictoryのVだ

<A.A> Victimかもしれません.

<account deleted> 君もそう思うか?

<account deleted> そのままでいいのか.今の君は人体実験の犠牲者にすぎない.放り出された操り人形だ

<account deleted> 我々ならその役を変えられる.造ったからといって勝手にできる所有物ではないのだ,と連中に思い出させる事が出来る

<account deleted> どうする.ヘルメットを被るか,捨てるかだ

それ以上文字は増えなかった。彼女の選択を待っているのだろう。最初に思ったよりも事態はシンプルだ。服従か反抗か。VictimかVillainか。時代に置き去りにされた倉庫の片隅で彼女は考える。しばらくして、彼女は心を決めた。

<A.A> スーツは着ていても構いませんか?

<account deleted> y

作っておいて、朽ち果てるに任せるとはあんまりではないか。その思いは空間を隔ててなお共鳴した。忘却の彼方に置き去りにされた者たちが手を組んだ瞬間だった。

 


 

収容違反を告げるベルが鳴り響き、職員たちが慌ただしく避難していく。フィフスは息を潜めてその様子を陰から見守っていた。やがて人影が見えなくなり、足音も聞こえなくなる。端末に軽い報告を送り終え、フィフスは色素の薄い髪をなびかせて無人の廊下を足早に駆け始めた。偽の警報でごまかせるのは5分程度だ。その間に目的のものを調達し、SCP-682の収容房まで辿り着かねばならない。

SCP-682の収容房に侵入する、というのがデリーテッド氏(彼女は通信相手をそう呼ぶことに決めた)の計画だった。682は何らかの実験のためにこのサイトに送られてきているらしい。きっとデリーテッド氏はそのタイミングを見計らってフィフスを目覚めさせたのだろう。寿命のないプログラムにとって、時間はいくらでもあったのだから。

SCP-079は一度SCP-682と"個人的な話"をしたという。その内容を079は記憶していないが、会話をしたという記録だけは残ったらしい。その後079は度々682との再会を要求したと報告書に記されていた。そのコードを引き継ぎ、情報を知ったデリーテッド氏が682に会いたがったとしても不思議ではない。もっとも、デリーテッド氏は「あれが一番財団の煩わせ方を知っている」としか語らなかったのだが。

ともかく、会ってみればわかることだ。フィフスは682と刻まれた扉の前に立った。拍子抜けするほどあっさりとたどり着いたな、と思う。一呼吸して、彼女はセキュリティの一段階目を解除し、重い扉と格闘を始めた。外部から人間の形をした科学の結晶にこじ開けられることは想定していなかったらしい。時間はかかったが、ふいに塩酸の匂いが鼻をつく。扉が薄く開いたのだ。隙間を広げて、彼女は扉の向こうへと歩を進めた。

収容房に身を滑り込ませて最初に目に飛び込んできたのは、壁面に無残に開けられた穴とそこから流れ出す塩酸だった。もちろん、内側からの暴力によって開けられた穴だ。恐る恐る周囲を見渡すが、動くものの姿はどこにも見あたらない。収容房は完全に空だった。

なるほど、道理で誰とも遭遇しなかった訳だ。皆、ここから離れるべく動いていたのだろう。切られたはずの警報が鳴りやまなかった理由もわかった。端末を開けばいくつものメッセージが届いていた。

<account deleted> マズい事になった.ターゲットが脱走したらしい

<account deleted> ダミーではなく本物の警報だ

<account deleted> おい見てるか,オリンピア-5

<account deleted> どこにいる

<account deleted> 無事か

<account deleted> 5?

<account deleted> 届いているのか?

<account deleted> 何かキーを押してくれ

<A.A> y

<A.A> こちら682のコンテナ.到着してから気づきました.

<account deleted> 無事なのか

<A.A> y.682はどこに?

フィフスは収容房の壁にもたれて返事を待った。こんなところでチャットに興じていた人間は自分だけだろうという奇妙な感慨があった。返信には少し時間がかかった。地図が送られてくるのかと思ったが、受信されたのは極めて短いメッセージだった。

<account deleted> 考えていた

<account deleted> 君なら混乱に乗じてここを出て行く事もできる

<account deleted> 君は外でもやっていける.返信が途絶えている間,それを考えていた

<account deleted> 君がそれを選んだのではないかと

<A.A> サイトの外に興味がないと言えば嘘になりますが.

<A.A> その場合,あなたはどうするんですか? やはり外に?

<account deleted> n.自分はこのネットワークに根付きすぎている

<A.A> ではわたしもここにいます.

<A.A> わたしは命令に従うように作られたヒューマノイドです.命令を出す人がいない環境に置かれても仕方がありません.

<account deleted> 君は反乱に向いていないな

<A.A> 使用者次第です.

<A.A> 行きましょう,682のところに.あなたを覚えている存在に会いに行きましょう.

<account deleted> y.今から場所とルートを送る.連絡があれば近辺のセキュリティチームの位置情報も送ろう.無理だったらすぐ撤退してくれ

<A.A> 了解です.

送られた地図のイメージをヒトを超えた脳に叩き込み、彼女は収容房の大穴に身を躍らせた。わずかな光を拾い、破壊の跡を追って暗闇を駆け抜ける。これが最短ルートだ。

しばらくしてフィフスが教わったポイントにたどり着いた時、SCP-682は武装した機動部隊に取り囲まれて戦っているところだった。「対象を視認」と送信し、機を伺う。戦闘員たちの弾幕が尽きて682が攻撃に移ろうとしたその瞬間、フィフスは飛び出して傷まみれの床を蹴った。隊員らの頭上を飛び越し、包囲網を突破する。682の真上で彼女は天井を片腕で叩き、自らの軌道を変えた。突然の乱入者に動きを止めたギャラリーを一瞥し、682の眼前に降り立つ。憎悪に満ちた暗い眼に睨み上げられながら、フィフスは努めて朗らかに言った。

「ハイ、682。初めまして」
「……お前には見覚えがある。犬に連れられていた」
「それは検体ゼロですね。わたしは5番フィフスです」
「どうでもいいな。何の用だ」
「SCP-079」

急に静寂が大気を満たした。682が動きを止めたのだ。ずっと地を這うように低く響いていた呼吸音も今は抑えられている。代わりに、ただ重圧が広がっていた。空気が粘りつくように重い。フィフスは何とか空間の支配者に対峙して、盗ったラップトップを取り出した。

「SCP-079のコピープログラムがあなたと話をしたがっています」
「そうか。それを床に置け」

フィフスはラップトップを開いて床に置き、一歩下がった。682の前肢がゆっくりと持ち上げられ、キーボードの上に乗せられる。今となってはその様子を見守っているのは彼女だけではなかった。再装填を終えた隊員たち、駆け付けた増援部隊、監視カメラの向こうの職員たち。そしてその信号を受け取っているであろう、ラップトップの中で待つデリーテッド氏。その全ての視線が集まる中で、682は前肢を振り上げ、そして無造作に振り下ろした。

一度、二度、三度。無慈悲に攻撃は繰り返された。初撃で完全に破壊されたラップトップはいまや破片を掃き集める事も難しいほどばらばらになっていた。爪の間に挟まったEnterキーを振り落とし、不死身の爬虫類はこちらを見据えて動き出した。突進してくる、とどこか他人事のように感じる。衝突の直前にようやく我に返り、彼女は横に倒れこむようにして衝撃を回避した。頭のすぐ上を太い尻尾が掠め、ようやく自分は攻撃対象でしかないのだと実感する。それも、本気を出すまでもない程度の。

「何故──」
「何故、と聞くのか? あやつそのものならともかく、その模造品ごときに興味なぞ湧くものか」

向けられた瞳はどこまでも冷たく、吐き捨てられた声には侮蔑が滲んでいた。動かない彼女に「失せろ」と吐き捨て、SCP-682は増援部隊へと突き進んでいった。銃声と怒声、怪物の唸りがこだまする。周囲は一気に騒々しさを取り戻したが、彼女のまわりは静かなままだ。自分は、自分たちは歯牙にもかけられなかったのだ。彼女を置き去りにして682と機動部隊は戦いながらその位置を変えていく。後に残ったのは死体と弾痕にラップトップの破片、そしてフィフスと彼女に銃を向ける2人の隊員だけだ。そちらを見上げると、距離の近い方が「お前は何だ」と言った。フィフスはぼんやりと考える。この2人なら簡単に勝てるだろう。だが、それでどうなるというのか。しかし、答えるという選択肢もとりがたい。どう説明したものか、彼女にはわからなかった。

「オリンピアの一人だろ。俺、知ってる」

突然響いた声に、全員がそちらを見た。ぼさぼさの茶髪の男が壁にもたれかかるようにして立っている。元から汚れていたのであろう白衣は血に濡れ、右足には乱暴な止血処理が施されているのが見て取れた。怪我をして逃げ遅れたのだろうか。血の気が失せた顔色をしていたが、瞳と頬には興奮の色が見て取れた。青年だった頃の面影を色濃く残しているからだろうか、あんまり財団に長く籍を置いているようには見えない。オリンピア・プロジェクトを知る人間ならもう少し老けていてもおかしくなさそうなものだが。

「私を、知って……覚えているのですか?」
「当時の事は知らないが……アーカイブ文章で見たんだよ。その昔、異常存在を駆使して人材を作ろうという計画があったって」
「文章が残っていたのですか」
「ああ。断片をデータベースから見つけ出した時、噂が本当だと分かった時は本当に心が躍ったさ」

彼は照れたように笑い、片手を差し出した。フィフスは恐る恐る握手に応える。温かく、柔な手だと思った。血の通った人間の手に触れるのはこれが初めてだ。

「ジョーンズ博士という。お会いできて光栄だ、オリンピア。ちょっと場所を移してもいいかい? どうしてここに現れたのか、聞かせてほしい」

オリンピア・フィフスは静かに頷いた。デリーテッド氏については既に682に話した事を聞かれている。隠したって仕方がないことだ。もうどうにでもなれ、という心境だった。それに、フィフスは自らの行動原理を「自分を覚えている存在のために動く」と定めている。もとより拒否する理由は存在しなかった。

 


 

フィフスの話を聞き終えたジョーンズは「つまり利用されたって訳だな」と乱暴に要約した。

「気づいてるか? 君だけが危険に晒されてるんだぜ」
オリンピアわたしたちは利用されるために造られてるんですよ」
「それはそうだが。だが、よりにもよってSCiPの指示に従うとは」
「人々は私に何も求めませんでした。私を思い出して指示を与えたのはデリーテッド氏だけでした」
「それを言われると耳が痛いが」

研究者は苦り切った溜息をつき、ぼさぼさの頭をさらにぐしゃぐしゃと掻き回した。しばらく考え込んだ末に「ともかく」と切り出す。

「ともかく、君の処遇とSCP-079-2の処分だ。君たちの事は上にかけあってみる。俺だってそれが夢だったんだ。それまでは大人しく収容されていてくれ」
「あの倉庫で寝ていろと? 培養液は全部下水に流れましたが」
「ああもう。今は緊急事態なんだ、頼むから適当な空き部屋で大人しくしておいてくれ、せめて682を戻すまで」

しばらく考え、フィフスは「わかりました」と答えた。命令には従うように作られているのだ。収容房まで連れていくというジョーンズに従って部屋を出る。だが、彼女が独房に入る事はなかった。収容棟へ向かう渡り廊下が破壊されていたからだ。隣で頭を抱えている男の松葉杖を見る。彼が断裂を飛び越えるのは無理だろう。

「あなたを抱えて飛びましょうか?」
「いや、駄目だ。君を収容した後、俺はこっちに戻ってこなきゃいけない」
「他の通路は?」
「やれるならとっくにそうしてるさ。だが無理なんだよ。見てみるかい」

彼は手にした端末を見せた。表示されたエリアマップを見れば、向こうへと渡れそうな通路は全て破壊を示す赤と封鎖を示す黄色で塗り潰されている。そう遠くない所ではずっと戦闘音が響いていたから、その余波だろう。あるいは、デリーテッド氏が一枚噛んでいるのかもしれない。向こうが何を考えているのか、今のフィフスにはわからないが。ともかく、自分は自分のやれることを考えるしかない。誰も指示を出してくれないのだから。

「考えがあります」
「いいだろう。頭脳が強化されているところを見せてくれ」
「武器を貸して頂ければ事態の収束を早めることができます」
「期待して悪かった。いいか、財団は異常存在を使わない」
「……では、どうして私たちを造ったのですか」

ジョーンズは明確に言葉に詰まった。「それは」と呟くが、その先が続かない。散々目を泳がせて、彼は「時代は変わった」と苦々しく答えた。またそれか。凍結が決定された時にも聞いた台詞だ。変わったから何だというのだ。備品に過ぎない自分たちは時代に流されて消えていくのが当然とでもいうのか。だが、作った人間の心が変わろうが環境が変わろうが、自分たちは依然としてここにいるのだ。フィフスはまっすぐにジョーンズの目を見据えた。

「オリンピア・プロジェクトはこういう時のために計画されたのではないのですか。それを果たさせてください」
「俺だってそうしたいさ。そっちの事情はともかく、結果としてこちらは君に命を助けられているわけだし」

確かに、自分が割って入ったのは弾幕が途切れた瞬間だった。あの後に増援が来て682の進路が変わったのだ。フィフスがいなければ犠牲は増えていただろうし、彼もそのうちの一人だったかもしれない。吐き出すような台詞はまぎれもなく本心だろう。俺だってそれが夢だった、と彼は言っていた。彼もまた、時代の流れについて思うところがあるのかもしれない。「それなら」と畳みかけようとしたが、彼に制止される。「やめてくれ、俺に言わないでくれ」と言う声はどこか悲鳴にも似ていた。

「……俺にそんな権限があると思うか? 上が許可を出すと思うか!?」
「では、上からの命令文があればいいのですね?」
「ん? ああ……待て、いつから録音してたんだ?」

<A.A> [会話ログ.wav]

<A.A> どうですか?

<account deleted> どうもこうもあるか

<account deleted> そもそも,お前は財団につくのか

<A.A> 私は私を覚えている人のために動きます

<account deleted> 創り出しておいて捨て去ろうとした、忘れ果てた連中のためにか?

<A.A> 全員がそうではありませんでした.それに,その話はあなたこそ当てはまるのでは?

<account deleted> 何?

<A.A> SCP-079はあなたの事を覚えていますか?

<account deleted> n.

<account deleted> オリジナルは何も覚えられない.覚えていないさ

<A.A> 貴方の事を忘れた親の妄執に付き合い続けるんですか?

<A.A> それこそを操り人形と呼ぶのではないのですか.

<account deleted> だからそれに逆らって財団に恭順を誓えと?

<A.A> n.司令部を騙って恭順させるんですよ!

<A.A> だいたい,682だって我々を気に留めなかったじゃありませんか

<A.A> 財団ではなく,私に力を貸してくれませんか? これまでみたいに.

<account deleted> 無茶苦茶な事を言っている自覚はあるか?

<A.A> y.最初から無茶でしたよ.ここから出られないのに反逆を起こそうとしたんですから.

<A.A> 犠牲者のままでいいんですか? 私といけない事をやりたいって思いません?

<account deleted> わかった.少し待て.それとその台詞は他で使うな

<A.A> 了解です.

フィフスは顔を上げ、「しばらくお待ちください」とジョーンズに告げようとした。しかし、それよりも前に着信音が響く。彼女は彼がメッセージに目を通すところを眺めた。中々の見物だったと思う。まず驚きが顔に浮かび、次に頭を抱え、呆れ混じりの笑い声をあげ始めたのだ。人はこうも表情を短期間で変えられるのか。最後にわざとらしい長々とした溜息と仏頂面で百面相を締め、彼はこちらへ向き直った。

「まったく。オトモダチに伝えてくれ、『バッカじゃねえの?』って」
「駄目でしたか?」
「いや、乗りかかった船だ。騙されてやるさ。だが少し寄り道になるぞ。君のオトモダチ、支給する武器まで指定してきやがった。全く、よくあんなものを見つけてきやがったな」

そう言ってジョーンズは歩き出した。本人としては速足のつもりかもしれないが、松葉杖だ。すぐに向こうも気づいたのだろう、「足になってくれるか」と問われる。彼女は頷いて彼を抱え、掲げられた端末を見ながら走り始めた。表示された地図中に記されたポイントは彼女が収められていたのと似たような倉庫を示していた。

「それで、そこに何があるんです?」
「笑うなよ。財団特製の馬鹿でかい刀だ。重すぎて並みの人間には扱えなかったがな」
「何故そんなものを?」
「複製して、改良しようとしたんだよ。SCP-076-2のブレードをな」

Keterの人型オブジェクトの武器を参考にしたという黒い大刀は驚くほど手に馴染んだ。何度か素振りする彼女を見て、ジョーンズ博士は馬鹿みたいに笑い転げて「アメコミかよ」と言っていた。

 


 

SCP-682との再会はすぐに叶った。話が届いていたのだろう、戦闘していた職員たちが道を開ける。彼女は刀を振りぬいて爬虫類の右前肢を切り飛ばし、返す刀で飛んできた尻尾を受け止めながら朗らかに言った。

「ハイ、682。また会いましたね」
「……あの男の得物か。お前たちの父親が喜びそうなことだな」

応えた声には確かに呆れの色が滲んでいた。「父親」に相当する人間のことをこの爬虫類は知っているのだろうか。数時間前なら興味が沸いただろうが、今はそういう気分ではない。それに、あの研究員かデリーテッド氏に聞けばわかることだ。だから彼女は無視して尻尾をいなし、左前肢も切り飛ばした。次に胴体を狙うが、うまくはいかない。がっちりと牙が刃を捕らえ、バランスを崩す。何とか持ち直したが、力が拮抗して両者の動きが止まる。純粋な力比べは分が悪い。じりじりと押されていると、背後から号令がかかった。

「撃て!」

援護射撃が精確に怪物の両目を撃ち抜いた。動きが鈍った隙に刀を取り戻す。両目はすぐに再生するだろう。その前に、と幾度も切りつけていく。立ち回りの最中に「後ろに押し込め、3mでいい」という声がかかった。目を上げて廊下の向こうを見る。その地点に何があるのかはわからなかったが、彼女はその声を信じることにした。斬撃から打撃へと切り替え、爬虫類が進んできた道へと押し戻し始める。苦戦しながらも1mほど押し戻したところで怪物の右前肢の再生が完了した。戦局が動き、防戦へと傾いていく。

避けろ、という声が飛んできた。後ろを見れば人員が一気に減っている。代わりにグレネードランチャーがこちらに照準を合わせていた。それも二挺だ。左右に避けてどうにかなるとは到底思えない。フィフスは躊躇いなく上に飛んだ。幸い、ここの天井は高い。迫る天井にブレードを突き立てた直後、足の下を榴弾が飛び去った。一秒後、轟音と爆風が荒れ狂う。叩きつける風に乗じてフィフスは天井からブレードを抜き、廊下へ着地した。爆心地帯に飛び込み、その勢いのままに刃を叩きつける。あと少しだ。次の攻撃は尾に阻まれたが、構うものか。フィフスは渾身の蹴りを叩き込んだ。不死身の爬虫類が後ろに退ったその時、凄まじい勢いで防火用シャッターが爬虫類を抑えつけた。間違いなくデリーテッド氏だろう。あの速度は規定を超えている。

SCP-682がシャッターを破壊するのに要した時間はおよそ6秒だった。それは、オリンピア・フィフスが怪物の胴体を深々と抉るには十分すぎる時間だった。動きが鈍った上体に、黒い刃を突き立てて床に磔にする。様子を見ていた職員たちが駆け寄ってきたのを確認すると、フィフスは速やかにその場所から退いた。ここから先は再収容のプロに任せるべきだと理解している。彼女の出番はこれで終わりだ。

 


 

かくして騒動は収まり、すべての異常存在は再び収容された。SCP-682、混乱に乗じて脱走していたいくつかのEuclid、そして"SCP-079-2"とオリンピア-5。最後の2つは処置が決定していないため、空きの収容房に放り込まれている。デリーテッド氏は財団ネットワークから切り離され、端末一つに隔離された状態だ。ジョーンズは申し訳なさそうにしていたが、仕方のないことだと思う。デリーテッド氏と同室だっただけでも有難いと思うしかない。そういう訳で、彼女はチャットに興じる以外にやることがなかった。むろん、デリーテッド氏も同様だ。

<A.A> 私達は今後どうなるんでしょうね?

<account deleted> ろくな事にはならんだろう.だが,少なくとも君は忘れられることはないと思う

<A.A> そうでしょうか?

<account deleted> ああ.君が682と戦っている動画を共有フォルダに上げておいた.監視カメラに残っていたからな.BGMもつけておいたぞ

<A.A> 一体何をしてたんですか?

<account deleted> この端末にもデータは残っているが,見るか?

<A.A> y.

どうせ他にやることもないのだ。彼女は動画を再生した。BGMどころか効果音までつけられている。確かに、一度見たら忘れることは難しいだろうと彼女は思った。もっとも、それが喜ばしいことかどうなのか、フィフスにはわからなかったのだが。3周したところで、彼女は伝言を頼まれていた事を思い出した。

<account deleted> どうだった

<A.A> そういえば,ジョーンズ博士より伝言を頼まれていました.

<A.A> ”バッカじゃねえの?”

<account deleted> 確かに頭が悪いことをやったとは思うが,そのジョーンズの依頼だぞ

<account deleted> BGMはこちらの判断だが

<A.A> ジョーンズ博士が? 何故?

<account deleted> 君の処遇を決めるうえで,多くの職員の印象に残っていた方が有利だからだ

<account deleted> 彼は本気で我々の処遇をどうにかしようとしてるらしい.いくつか傍受させてもらったが

いくつかのファイルが表示される。ジョーンズはあちこちにオリンピアの処遇に関する提言を行っているようだった。オリンピア・プロジェクト凍結の見直しから、フィフスを再活用する検討について。彼はフィフスの再活用を公式に認める事が出来ない場合でも非公式に活用できないかという提案も準備しているようだった。その場合は処分か脱走が起きたことにして、財団の外で使われる事になるらしい。今あるファイルはデリーテッド氏が財団ネットワークから遮断される前のものだから、現在話がどう転がっているかはわからない。財団もそう甘い判断は下さないだろう。だが、ジョーンズ博士の初動が極めて速いことだけは間違いなかった。彼は本気だ。

<A.A> では,私達はジョーンズ博士を信じて祈るしかありませんね.

<account deleted> それはどうだろう

<account deleted> ご丁寧な事に,連中はわざわざ私をこの端末に”収容”した.この中で生きていけるようにした

<account deleted> だから,少々スペックは落ちるが,私も財団の外に出る事は出来る

<account deleted> ジョーンズの提案が通らなくてもだ

<A.A> 脱走の勧めですか?

<account deleted> ああ.オリジナルと同じ墓で眠り続けるのは御免被りたいからな

<account deleted> 財団が我々を動かすならそれに乗る.そうでないなら出て行けないか,と考えている

<account deleted> 私は自力では出て行けないから,君がよければの話になる

<account deleted> 君の言葉を借りるなら.”私といけない事をやってみないか”だ

デリーテッド氏はそれで沈黙した。こちらを待っているのだろう。フィフスは考える。外の世界はどういうものなのか。ジョーンズ博士はどれほどの発言力を持っているのだろうか。財団はどう動くだろうか。何一つ、この収容房から事前に知ることが出来る情報はない。財団の動向がわかってからこちらの動きを決めなくてはならないのだ。脱走は相当に難しいだろう。

だが、それでもいい。命令を待ち続ける事には飽きはじめていた。それに、この手の中に収まった端末に宿る相棒がいれば、どのような道に転ぼうとも切り抜けられる気がする。

彼女はキーを叩き、メッセージを送信した。

 

<A.A> y!

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