ODSS OneShot Part4
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20██年 3月██日 東京都内某所セーフハウス 西塔道香

私は今、小包を手にしている。
それは、小さなダンボール箱。

これを手に入れるまで、どれほどの苦労があっただろう。
私はその小包を開き、発泡剤の包装をおもむろに破った。

中には、手榴弾の形をした小さな小瓶が入っていた。

私は部屋の周囲を見渡す。
ゴミで散らかった室内を。
周囲には何の気配もない。

ここを知っているのはごくごく少数なのだから。
私はPCの小型カメラに向かって厳かに宣言する。

「えー、みなさん、お待たせいたしました。それでは────」

クソロシア人の酒を、飲みます。

20██年 3月██日 サイト-8179工作室12番ガレージ 政治局行政監督部アレクセイ・イヴァノフ政治局長代理

「こいつぁひでえな」

木場 仁購買長は、ガレージ内に鎮座する俺の愛車、クリミアを眺めつつ呟いた。車体前方のバンパーからボンネットにかけて、巨大な凹みができている。

木場は腕を組んで仁王立ちしつつ、車体を眺めていた。

俺は木場を見た。年齢は40代から50代。頭髪は全て真っ白に染まり、その髪を軽く後ろに流している。
身に纏った作業着は、まるで皮膚の一部であるかのように、その体に馴染んでいるように思えた。

ここがどこかのガレージならば、さっさと車体を点検しろと言ったかもしれない。
だが、俺は知っている。この、ツナギ姿の白髪の男こそ、財団一の技師であるという事を。

だからこそ、俺は木場がクリミアを眺めるに任せていた。

「不思議な凹みかたしてんな?普通ならクラッシャブルゾーンごとぶっ潰れてるはずだぜ、乗ってる奴ごとな」

その通り、乗ってる奴ごとならどれほど気が晴れたか知れない。

「一体何にぶっけたんだか、まあ運が良かった方だなこいつは‥…」

木場はそう言いつつ、手元のタブレット端末を横目で見る。
タブレットには、三面図と三次元立体映像が表示されていた。

車体は既に、ガレージ備え付けの大型スキャナーで探査済みだった。

「随分といじってあるな、こいつはボンドカーか何かか?」
「必要最低限の装備を搭載しているだけだ、何か問題が?」
「いや、問題ねえ。おい坊主、ちょっとこいつを見てみな」

クリミアの後ろにしゃがみ込んでいたライダースーツの男が、立ち上がって木場を見た。

「クルマは専門じゃないんスけど、見た感じで良いんなら」

俺は黒髪の男を見た。こいつの名は速水と言って、財団では一番のスピード狂だ。
普段はオブジェクトの捜索や初期収容任務に携わっており、暇な時は良くここに顔を出す。

速水はいつも任務にバイクを使う。そして、危険を顧みずに遮二無二突っ込み、毎回生還してくる。

全くもって、信じられない事に。

そしてこいつは、時折妙なカンを働かせる事がある。

「一応聞いておこう、あんたから見てどう見えた?」

俺はこいつが、何かを嗅ぎつけないかと言う一抹の不安を覚えた。

「こいつはほうぼうに敵がいるやつのクルマっすね」

────予感的中、厄介な小僧だ。

「もう良い、余計な勘ぐりはなしだ」

俺は適当に釘を刺す事にした。

「余計な事言いました、すいません」

速水は慌てて頭を下げた。

内心舌打ちする。

こいつは若い。若い上に目も耳も良い。そしてこいつの言っている事は掛け値無しの事実だった。
本来なら、その若さと能力で突き止めた事実に対して、俺は賞賛の一つも送ってやるべきだろう。

だが、事情が事情だ。これ以上の詮索をされるわけにも行かない。
だから、何だかこいつを苛めているような絵図になってしまった。

「いいや。坊主、お前さんの言うことも案外ハズレじゃねえみてえだぞ?何にぶつけたか分かった、大方人型実体‥…そうさな、連合のサイボーグってとこだろ?あんたがやり合いそうなサイズで言うなら、そいつらだな」

木場が援護射撃をしてきた。全く、本当に厄介な連中だ。

「え、イヴァノフさん連合とやり合ったんスか?」
「それは俺じゃない、やり合ったのは他の連中だ」
「海野さん達スか?よく生きてましたね、マジで」

内心嘆息しつつ、俺はこいつの口を塞ぐ方法を考えていた。
こういう相手には、適当な玩具を与えて黙らせるしかない。

「……スペックが知りたいなら、木場のタブレットを見ればいい」
「ああ、そうだな。坊主、せっかくだからこいつも見てみてくれ」

木場はタブレットを掲げて速水に示した。

「タブレット借りますね」
「おう、凄いぜこいつぁ」

タブレットに、俺の愛車の搭載装備一覧が表示された。

修理品目録


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当該車体009876 搭載装備一覧
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7.62mm機関銃×2
ロケットランチャー×4
防弾加工ガラス
防水加工
NOS搭載型エンジン
ナンバー入れ替え機構
シート下部搭載ロケット噴射装置
全システム オフライン

「うわあ!凄え!こいつはマジモンのボンドカーですよ!しかもNOSニトロまで積んでる!1

ほう、と俺は若干感心しつつ、意見を改めた。どうやらこいつはクルマもわかるらしい。

「凄えなあ……クルマってバイクと比べてデカいからなあ。こういう玩具をいくらでも積めるんすよね」
「このシートの下のロケットは、脱出装置ベイルアウトシステムか?こりゃもう戦闘機かなんかに近いな!」

子供のようにはしゃぎ始める二人を見て、俺はこいつらを懐柔するためのステップを一歩踏んだと確信した。

「この仕組み、動くんスかね?」
「ざっと見た所、この装備は常時電源2で動く。そうだろ?」

「そうだ、そのようにカスタマイズしたからな」
「バッテリーは上がってる筈だ、外部電源に繋ぐぜ」

木場はそう言うとおもむろにボンネットをこじ開け、素早くバッテリーの位置を確認して電源を繋いだ。

「坊主、悪いがちょっと中、いじってみてくれや」
「え、いいんスか?イヴァノフさんのクルマですよこれ」

速水が俺を見た、こう言う時は妙に律義な奴だ。

「構わん、電装品のチェックもしておきたかったからな」
「あざっす、じゃあ失礼して‥……」

俺は速水が車内に入り込むのと同時に、コクピットの横に立った。
ダッシュボードの液晶パネルは煌煌と明かりを放っている。
どうやら電装系は、どうにか生きているようだった。

「あの、どこをどう押せばいいんスか?インターフェイスの言語、全部ロシア語なんすよ」

そういえばそうだった、面倒だがここは教えてやるか。
「ロシア語で考えろ」などと、言うわけにも行くまい。

「ここと、ここが機銃とロケットランチャー、ここが脱出装置だ。こいつは絶対に押すな」

俺は素早く速水に指示を出してやる。
ここで自爆されるわけにもいかない。

「ナンバー入れ替え機構はここだ」
「わかりました、ここっすね」

速水はおもむろにタッチパネルを押す。

カシャリ、と言う音が響き、おお!という木場の 歓声がそれに続いた。

俺は速水を放置し、車体後部へと歩き出す。
一瞬、圧搾空気のような音が鳴る。

少し妙だったが、派手なクラッシュをした後だ、車体内部の機構に歪みが生じたせいだろう。

「すげえなあ、瞬く間にナンバーが入れ替わったぜ」

木場は上機嫌だった、掴みは上々と言ったところか。

「電装品のチェックは済んだな、これなら問題ないか?」
「ああ、これならあんたに手間をかける事もないだろう」

俺はそろそろ交渉に入ってもいい頃合いだと踏んだ。

「いいだろう。それで、どうなんだ?直せるのか?」
「勿論。だがこいつを直すにあたって少々問題がな」

木場は言葉を濁した、俺は内心舌打ちする。だが焦ってはならない。
交渉ごとには根気がいる。根負けすれば、解決のためのチャンネルは閉じられてしまう。

「何が言いたい?」

俺は慎重に言葉を選びながら、木場に質問をした。

ふむ、と木場は呟くと、速水に視線を投げる。

「坊主、すまんが頼まれごとをしてくれ。フロアAの2にこの伝票を届けにいってくれんか」
「え?でも、仕入れの報告時間までまだあるんじゃないスか?」
「まあまあ、せっかくきたんだからちょっと働いてけや。後でコーヒー奢ってやるからよ」

速水の表情がはにかんだ、どうやらこいつはこの木場という男に懐いているようだった。

「約束ですからね!じゃあ、ちょっと行ってきます!」

速水はそう言うと、足早にガレージを出て行った。

「気遣い感謝するよ、木場さん」
「なに、長い付き合いだからな」

木場とは、ロシア支部時代から何度か接触を持ってきた。装備の特殊なカスタマイズ────財団の装備規定スレスレか違反────を行う際、俺はこの木場を頼った。だから、腕が確かだと言う事は前から知っていたのだ。

それから、ロシアでは手に入りにくい物品の仕入れも木場に頼む事が何度かあった。
財団のサイト経由なら、いちいち税関を通す必要もない。俺はこれによってそれなりの利益を得ていた。
もちろん俺自身も、木場に対してそれなりの〝誠意〟を示してきたつもりだ。

だからこそ、俺は今回も木場を利用することにしたのだ。

「色々大変だって聞いたぜ、イヴァノフ政治局長殿」

木場は笑みを浮かべつつ、茶化すように言い放つ。

「代理だ。正しくは政治局行政監督部・”室長代理”」

俺は一つずつ、丁寧に発音してやった。
ひゅう、と木場が嬉しげに口笛を吹く。

「相変わらず流暢な日本語だな。よくもまあ、舌を噛まないもんだ」
「ビジネスの話をしに来た。あいにくと、雑談を楽しむ時間はない」

訝る俺を差し置き、木場はステンレス製の吸い殻入れを、俺との間に置く。
カタン、と音が鳴る。これは、木場との商談の合図なのだと俺は悟った。

「付き合えや。年寄りってのはよ、雑談が唯一の楽しみなんだぜ?」
「あんたが?とてもそうは思えんがな、どういう風の吹き回しだ?」

俺は木場を注意深く観察する。声色や態度から、木場の持つ意図を探った。
だが、それは今のところ見えない。もとより、木場は掴みどころのない男だ。

「本当に忙しいみてえだな、政治局行政監督部 ”室長代理”どのはよ」
「あんたが行政にどういうスタンスで臨んでいるかは良く分かった」

何かが俺のセンサーに引っかかった、これは雑談の話題向きではない。

「小僧共や嬢ちゃんらのために、色々骨を折ってくれてるって聞いたぜ」
「仕事だ、俺には向いていない類のな。厄介ごとばかりでうんざりする」

これは俺にとって正直な感想だった、あの書類の山を思い出すだけで気が遠くなってくる。

「あの坊主も、育良もロロも、今じゃ政治局の特務に取られちまった」
「文句があるなら、あの土建屋に言え。引っ張ったのは俺じゃないぞ」

土建屋。道策常道、サイト8100総合企画局所属。元国交省の天下り官僚。

常道ツネな、俺は奴が兵站ロジスティクス部門にいた頃から顔馴染でな」

初耳だった、どうやら奴とは以前から、薄いながらも縁があったらしい。

「土建屋の前職が配送屋とはな、だが奴には似合いの仕事だ」

俺は、脳裏にあの男が例の仏頂面で段ボールを運んでいる姿を思い描く。
それは日本人にとって古き良き、俺にとっては目障りな仕事人間の姿だ。

「あいつとは合わねえか?結構話のわかる奴なんだがなあ」
「何を楽しみにして生きているのか、わからん奴だからさ」

俺に言わせれば、奴はいつまでも役人を辞められない、哀れなワーカーホリックに過ぎない。
せっかく役所を辞めて自由の身になったのに、人生を楽しむ気概のない奴は変人でしかない。

「どうだい?あの椅子の座り心地は?結構快適だって話だが」

どうやら木場は、俺の苦労など、分かってはくれないらしい。

「俺があの胸糞悪い椅子に好んで座っているとでも思うか?」

せっかくなので、俺は木場に仕事の憤懣の数百分の一をぶつけた。
相手の懐に入り込む為には、時に怒りをも用いる必要があるのだ。

「いや思わねえな。このでかい組織をミトコンドリアみてえに泳いでたあんたが、今じゃ籠の鳥だ」
「気持ち悪いたとえをするな。せめて魚とか、そういう詩情のある表現をするつもりはないのか?」

これも素直な感想だった、俺はミトコンドリアになどなった覚えはない。

「俺ァ技術屋だからよ。詩情は成果物で奏でるもんだと心得てるのさ」
「さっさと仕事の話をしろ、技術屋。それが必要だから、ここに来た」

技術屋に詩情を期待した俺が間違いだった。

時間さえあれば、俺の文学的修辞を総動員してこいつに詩情を理解させてやるところだ。
だが残念なことに、今はとてもそんな時間はない、商談ビジネスに時間を費やすべきだ。

「で、問題はだ……こいつは財団の正式装備って事になってるが、あんたの私物だって事さ」
「今更すぎる話だな。エージェントの多くは私物を用いている、それの何が問題なんだ?」
「最近、うるさくってよ。車両を修復レストアすんのも潰すのも、いちいち報告が必要になった」

────やはりか。

木場が気にしているのは、どうやら俺の仕事に関係しているらしい。

「内部保安部門の連中が好き勝手やっているのは、俺も知ってる。現場に奴らがうろついているんだからな」

「それさ、あんたの現場、あんたの座っている椅子。そいつがまさに、問題なんだ」

────ビンゴ、俺の危惧は当たったらしい。

俺はこのクリミアを、何も言わずにここへ持ち込んだ、他に修理する方法はなかった。

持ち運ぶ先はここしかなかった、実際持ち込む先は他にいくらでもあった。
俺があの忌々しい、政治局長代理などと言う椅子にさえ座っていなければ。

いくら代理とはいえ、局長職の行動は倫理委員会が監視している。
あの事件の後であれば尚更だ。おそらく、保安部門も動いているだろう。

俺がコネクションをもつ、信頼できる業者に頼めば、俺はすぐさま査問会議にかけられる。

そこで連中はこう言うだろう。

────イヴァノフ政治局長代理、君は自らの私物を財団の備品であると主張しているそうだな。

────だがそもそも、個人所有の改造車など言語道断だ。局長代理として相応わしい素行ではない。
     
────エージェント・マクリーン、彼の行動についての報告はどうなっている? 

俺の脳裏に、マクリーンのメガネ面が浮かぶ。

奴は、今もなお俺を監視しているだろう。奴の好餌となるなど、それこそ御免こうむる。
だから、俺は愛しきクリミアを、木場の手に委ねる他なかった。

「こいつと同じくらいの性能の代車なら用意はできるぜ、ボンドカーじゃねえけどな」
「それは困る、こいつが必要だ。財団の為、何なら人類の為にとでも言えばいいか?」

木場は無言でタブレットを差し出す。そこには、クリミアのデータが表示されていた。

「このクルマは、確かに財団の装備目録にナンバー登録されてる。だが、私物なら監査が入る」
「監査などどうにでもなる。あんたはただ、修理目録を別の車に差し替えてくれればいいんだ」

木場はポケットからタバコのパックを取り出すと、一本咥えて火をつけた。

「良いのかい?どうなっても責任は取れねえぜ」
「たかだか車の修理だ、問題はない筈だろう?」

────最後のひと押しだな。

俺は交渉の成功を確信しつつ、最後の一手を放つことにした。

「報酬ならいくらでも弾む。必要なものは全てこちらで用意する」

木場は紫煙を薫せつつ、口を開いた。

「証拠はきっちり消してもらう、絶対にな。だがカネはいらねえ」

俺にとっては、予想外の返答だった。

「良いのか?」

いつもなら黙ってカネを受け取る筈のこの男が、どう言う風の吹き回しだろうか。

「こいつはなかなかの代物だ。仕事の息抜きにいじるにゃ、最高の玩具だからな」
「気に入ってくれて何よりだ。だが、カネが要らんのなら費用はどうする気だ?」
「クルマ一台程度ならどうとでもなる。フレームを新しく作り直す程度で済むさ」

簡単に言ってくれるが、それは新車一台を新造するのに等しい。
いや、この男ならばそれすらも平然とやってしまうに違いない。

だが俺は、木場の表情から何か別のものを感じ取っていた。

「ただしこいつは好きにいじらせて貰う。それから、もう一つおまけをつけて貰う」
「おかしいな。あんたはさっきカネは要らんと言った筈だが、俺の聞き間違いか?」

今度はこちらが攻める番だ、商談も締めにかかっている。
これを終わらせれば、クリミアは再び俺の手に戻る筈だ。

「簡単な話さ。あんたが今やっている仕事、そいつをきちんとやってくれればいい」

────仕事?

「どう言う意味かわからんな、もっと具体的な話をしてくれ」
「あの小僧共の為に、これからも骨を折ってくれと言う話さ」
「やるべきことはやっている、骨を折った結果がこの有様だ」

どうやら、話が見えてきたようだ。

「クルマ一台人身御供にしろってんじゃねえのさ、局長さん」
「残念だがお手上げだ、欲しいものを言ってくれ。木場さん」

木場は気怠そうな表情を浮かべながら、紫煙を燻らせた。

「エージェントってのは今日・明日・明後日の事ならどうにかできる、そうだろ?」
「俺なら、1年ほど先はある程度見通せるがな。で、それが一体何だと言うんだ?」

────ようやく核心か。

俺は胸ポケットからパイプを取り出し、悠々とパイプに葉を詰めながら言葉を待った。

「あんたが1年先の事を見通せても、他の小僧どもはどうかな?」

俺は木場の言葉を再び吟味する、それは俺にとって一番厄介な注文だった。

「あんたが心配しているのはそいつらの身の上の安全と言う事か」
「そうさ。早い話、俺は心配なんだ。あいつらがどうなるかをな」
「過保護に過ぎるな木場さん。あの〝坊主〟はあんたのなんだ?」

父親を気取るにしても、財団はそれができる組織ではない。
木場にしても、それは重々承知の筈だ。

「分かってくれと言うつもりはねえ。こいつは商談ビジネスだ、そうだろ?」
「理解するつもりはない、これはあんたの問題だ。俺にも、高くつき過ぎる話だと思うが」

ここは突っぱねる、あっさり受けては足元を見られかねない。

「それなら、このぶっ壊れたクリミアもあんたの問題さ。なら俺も請求書を切るしかねえな」
「俺を脅しているつもりか?くだらん小細工は抜きにして貰おう、カネなら払うと言ったが」
「まあ、年寄りの話には耳を貸すもんだぜイヴァノフさんよ。もうこれで終わりにすっから」

俺は渋々、木場の話に付き合う事にした。サイト-8100を離れてそれなりの時間が経っている。
もうしばらくすれば、定時報告を入れなければならない。それまでには終わらせる必要がある。

「俺は今日・明日・明後日の事ならどうにかしてやれる、その日を生き抜く為の手助けをな」
「そうだな。正直な話、あんたの装備のおかげで俺も何度か命を拾った。他の連中も同様に」

それは事実だった、奴は多くのエージェントを救っている。
一体何が言いたい?俺は苛立ちを抑えつつ、言葉を待った。

「だがな、あいつらが今日・明日・明後日を生き延びても、1年後の事は分からねえ」
「1年後にどうなっているかを見通せないなら、そいつは初めから死ぬ運命だろうさ」

俺は煮え切らない木場に、現実を突きつけてやる事にした。
木場がどのような感情を、誰に抱こうと、俺には関係ない。

「ああ、その死がバケモンのせいなら仕方ねえ。だが、それが人間の仕業だったら?」

────人間?

そうか、俺は木場の言いたいことがようやく分かった。
だが、木場は少々甘い考えを抱いて居るのではないか。

「人間の仕業だろうと化け物の仕業だろうと、ここはそう言う組織じゃなかったのか?」
「あんたもそう思うかい?だが、あんたもハメられて殺されかけたんじゃなかったか?」

────こいつ、俺が日本支部に来た理由を知っている?誰が漏らした?

今度は俺が、現実を突きつけられる番だった。
予想外の一撃、甘いのは俺の方だったらしい。

「驚くこたぁねえ。俺がここで親父を気取るのには、それなりの理由があるのさ」
「いや、驚いたよ。俺はどうやらあんたを甘く見ていたようだな、すまなかった」
「ま、年寄りは物を知らねえからな。小僧どもは色々と、俺に教えてくれるんだ」

でだ、と木場は言葉を継ぎつつ、もう一本のタバコに火を点けた。

「俺が心配してるのは、小僧どもや嬢ちゃんたちが、あんたと同じ目に遭う事だ」
「今を生き抜いても、1年後に粛清されるかもしれない。つまり、そういう事か」

それは、今の財団の情勢下においては、十二分に起きうる事だった。
マクリーンが遠慮なく権勢を振るうようになった以上、十二分に。

「組織の正常化だかなんだか知らねえが、早い話、目障りならこうすんだろ?」

木場がタバコを指先で弾いた、タバコは吸い殻入れの穴に吸い込まれるように消える。
ジュッ、と言う音がかすかに響く。吸い殻入れの中の水が、タバコの火をかき消した。

「俺はそいつが許せねえ、許すつもりはねえ。だからこそ、あんたの力が要る」

俺は木場の顔を見た、木場の目には静かな怒りが篭っているように思えた。
分かった事はただ一つ、この技術屋は存外に理想主義者ロマンチストらしいと言う事だ。
そして、奴には理想だけで終わらせるつもりも、さらさらないようだった。

「つまり、あいつらを無駄死にさせないよう力を尽くせ。そう言いたいんだな」
「話がわかるじゃねえか。あんたが今の椅子に座ってなきゃ、頼まなかったが」
「俺の知ったことではない、と言いたいところだが、選択の余地はないようだ」

「商談成立だな」

木場はそう言いながら右手を差し出した。

「よろしく頼む」

俺もまた、右手を差し出して応じる。

木場の掌を握った、ところどころにタコができた、ゴツゴツとした手触りだった。
奴の注文はまで気にくわないが、この手が、奴の優秀さを雄弁に物語っていた。

────仕方ない、後釜が見つかるまで職務に精励する他ないか。

「じゃあ、頼んだぞ」
「おう、任せときな」

木場は相好を崩しつつ、答えた。

商談は成立した、やけに疲れた俺は、急に酒が飲みたくなった。
そうだ、こう言う窮地を切り抜けた時こそ、自分自身に対する報酬が必要だ。

俺はふと、クリミアのダッシュボードに、秘蔵の酒を隠していた事を思い出した。

この酒は大変貴重な物で、窮地を切り抜けたとき、あるいは本当に追い詰められた時に開けようと思っていた。

それは、AKカラシニコフ社が販売した、ヴィンテージ物のウォッカだ。
木箱の中には6つのショットグラスと高品質なウォッカを納めた、ガラス製のAK-47を型取ったボトルが入っている。そしてさらに、手榴弾型のボトルが一つ。中にはハーブリキュールが入っている。

これは初期に販売されたモデルで、相当に手に入りづらいものとなっていた。

俺はその手榴弾型のボトルを、ダッシュボードに入れていた。
飲むなら、ショットグラスに一杯、ただそれだけでいい。

俺は今、切実に命の水を必要としていた。
ゆっくりと、俺はクリミアに歩み寄った。

あの瓶も、そろそろ愛でてやらねばならない。
酒を秘蔵するのはいいが、飲んでやらねば酒の神バッカスも嘆く事だろう。

俺はクリミアのドアを開け、ダッシュボード下のトランクを確認。
指紋認証デバイスに自分の親指を読み取らせ、トランクを開いた。

そして、俺は驚愕した。
あるべきものが、ない。

トランクは空っぽになっていた。

反射的に俺は銃3を抜き、木場に向けた。

「木場、これはどう言う事だ」
「あン?どうした?忘れ物か」

木場はそれを見て、飄々と答えた。

「酒が、ない」
「知らねえな」

────知らぬはずはない。

「ふざけるな、あのトランクを開ける奴は一人しかいない」
「ほほう、その誰かさんってのはどこの誰の事なんだい?」

「西塔道香。俺のトランクは指紋認証式だ、他にそれを開けられる奴はいない」

────迂闊だった。

確かに俺はあの任務の際、クリミアをあの女に貸し出した。
そして俺は親切にも、デバイスに指紋認証登録してやった。

あの時のやりとりが、克明に、脳裏に浮かび上がる。

────────俺のクリミアを使っていいぞ、車に収まってるものは自由に使っていいが壊さず返せよ。

────────前に乗ったときにダッシュボードにしまってあった手榴弾型の瓶に収まった酒、あれもいいんだな?

────────それを飲んだら殺すからそのつもりで。

まさか、まさか。

ここまでのやりとりが全て、奴の掌の上だったとしたら?
十分にありうる事だ。あの女は知恵の長い女だ、奴ならやりかねない。

「ああ、西塔の嬢ちゃんな。だが嬢ちゃんはここにはいないぜ?何言ってる?」

俺は拳銃を構えたままゆっくりと歩み寄り、数メートル程度まで距離を詰めた。

「まだとぼける気か?この程度の稚拙なトリックを暴くくらい、容易にできる」

ここまで虚仮にされた以上、最後の最後まで、こいつらの手口を明かしてやる。

「舐めるな、指紋認証を突破する方法はある。あんたが知らない筈がない」
「おう、そこんとこ詳しく聞かせてくれや。後学にさせてもらうからよ!」

木場は得意げに言い放った。技術者の俺に物申すなど100年早いとでも言うかのように。

俺は木場に滔々と盗みの手口を語ってやる事にした。

「まず、指紋は偽装できる。フィルムを指で触り、指紋を写すだけでいい」
「だがな、指紋認証ってのは個々の人体のデータ込みで認証するんだぜ?」
「脈拍や生体電流、人体の活動パターン込みでな、だが偽装する手はある」

生体は僅かな電流を帯びており、指紋認証はそれを含めて検知する。
切断された指では、指紋認証は突破できないと言うのは有名な話だ。

「簡単な話だ。その生体電流を偽装するフィルムがあればいい、特注のな」
「だがもう一つ問題があるぜ?指紋の特徴点はどう偽装するってんだい?」

指紋は、何層もの凹凸で構成されていおり人間の指紋にはそれぞれ固有の凹凸がある。

それは特徴点と呼ばれ、指紋認証は、その特徴点がどこにあるかを電子登録することが可能だ。
そして指紋読み取りデバイスは特徴点の位置を瞬時に走査し、その結果個人を特定するわけだ。

「それも簡単だ。例えばフィルムの表面に、皮膚を偽装する液体を塗布すればいい」
「随分と雑な考えだな。そんなもん塗りたくっても、フィルムは平面じゃねえのか」
「フィルムを指に巻けばいい、またはサック状に形成して指に嵌め込むのが理想だ」
「指に巻こうが嵌めようが、指紋の凹凸の再現にゃならねえぜ。考え直しな、素人」

どうやら、木場はまだとぼけるつもりらしい。
それなら、最後のとどめまで聞かせてやろう。

「ナノ単位で人間の皮膚を再現する技術は既にある。例えば創傷被覆スプレーがな」
「ほう、面白えじゃねえか。聞いててやるからどんどん続けてくれよ。勉強になる」

ナノファイバーと言う技術がある。端的に言えば、液体を固体に変化させる技術だ。
そしてこれらの技術は、例えば傷口を塞ぐ為の人工皮膚などに用いられている。

スプレーひと吹きで、傷口の上を人工皮膚で覆うことが可能なのだ。

「液体にプラスとマイナスの電荷をもつ粒子を混ぜ、それをフィルムに吹き付ける」
「ふむ、+の電荷は山、−の電荷で谷を再現できれば、指紋の凹凸も再現できるな」
「ご納得頂けて何より、問題はそれを作れる人材だ。そいつは今俺の目の前に居る」

俺は拳銃を、木場の額に押し付けた。

「それは貴様だけだ、木場!」

だが、木場は笑みを浮かべたままだ。

「おおっと最後の詰めが甘いぜ。それなら、酒をパクった実行犯は誰だ?」

まだとぼける気か、いい加減最後にしてやる。

「今更すぎる話だな、あの〝坊主〟に決まっている。いい加減舐めるなよ」

クリミアから目を離した際、圧搾空気のような音がした。

おそらくその瞬間に、速水は指にフィルムを嵌め、人工皮膜スプレーを指に吹いたのだ。
奴は悠々と中身を持ち出し、そして後は、商談の話をほのめかしつつ奴を外へ送り出す。

つまり木場も速水も共犯。全ての黒幕は、無論あの女だ。

「正解だ。だがいいのか?さっさと追わなきゃ取り逃がすぜ、あの坊主はすばしっこいからな」
「言われなくともそうする、だが商談は無効だ。命が惜しければ代車を用意しろ。今すぐにだ」
「無効?何言ってやがんだ、商談は今でも有効だぜ?そもそも誰がクリミアを修理するんだ?」

────こいつ。

「己の価値を分かった上で交渉に臨む、ビジネスの才能もあるとは、本当にただの技術屋か?」
「ただの技術屋さ。だが、注文は守って貰うぜ。代車は用意してやるが、あの坊主は殺すなよ」
「ふざけるな。あの商談、あれは俺の注意をクリミアから逸らすための茶番じゃなかったのか」

木場は笑みを浮かべつつ、前額に当てられた拳銃に自分の体重を預けた。
こいつ、は俺が撃つとは思っていない。だからこその、綽々とした余裕。

「舐めるなよ、あれはマジ話だ。あいつらの身柄はきっちり守って貰うぜ、それが俺の注文だ」

あまりにも呆れた話だった。だが、俺がそれに背けば、木場は俺をあっさりと売るだろう。

「ならさっさと代車を用意しろ。奴に追いつけるだけのものであればいい。今すぐにだ、木場」

木場が、キーチェーンを俺に放り投げる。俺は片手でそれを受け取り、ナンバーを確認する。

「D-3587の車庫、ここの隣だ。間違ってもあの坊主を撃つなよ、他の連中もだ」
「くそったれが、貴様も日本支部も地獄に落ちろ!クリミアは直せ!必ずだぞ!」

俺は全力の呪詛を木場に叩きつけた。

「ご利用ありがとうございました」

木場は慇懃無礼に頭を下げる、くそ、仕草から何から全部堂に入ってやがる。
奴の前歴は一体なんだ、経済悪魔め。MC&D相手ならもっとやりやすかった。

連中ならばフェアな取引ができた、ついでに言うなら酒を盗まれる事もない。

「またのご利用、心よりお待ち申し上げます。局長代理どの」

俺は木場の声を背に聞きつつ、脱兎のごとく走り出した。
俺の酒を西塔の肝臓に分解させるつもりはない、絶対に。


20██年 3月██日 サイト-8179工作室12番ガレージ 木場仁購買長

静かになったガレージ内で、俺は静かに息をついた。
一服つけつつ、手元の携帯電話を手早くダイヤルする。
相手先は即座に繋がった。

「もしもし、嬢ちゃんか?すまん、バレた。手早くガラ躱してくれや、じゃあな!」


20██年 3月██日 国道███号線 政治局行政監督部 特務エージェント 速水神一郎

唸るエキゾーストノートと、エンジンの振動。
地を噛むホイールとタイヤ、アクセルの感触。

これらのもの全てが、俺を風に、否、流星に変えた。

光のように過ぎ去っていく風景が、それを証明してくれている。

危険かもしれない、でも今の俺にそんな事関係ない。

俺は速度スピードだから。

アクセルを握り込めば、空気の壁さえ容易く突き破れるだろう。
アクセルを握り込んだ、その刹那、俺は空気の壁を突き破った。

俺は今まさに速度スピードになっている。
速度スピードそのものに。俺は今速度スピードだ。

「エージェント速水!Speed is Hereスピードはここにあり!」

俺は虚空に向かって叫ぶ。

今日も、愛車のカタナは最高のレスポンスを叩き出してくれている。

前方を塞ぐ車両をバンクで素早くすり抜け、俺は前へ前へと飛翔する。

行き先は分かっている、だが決められた行き先など俺には関係ない。
いつまでもどこまでも先へ、縛る者などなく、縛られる事などない。

それが、速度スピードだからだ。

耳元にかすかな着信音が響き、俺は心地よい速度の世界から引き戻される。
フルフェイスヘルに搭載されたHMDヘッドマウントディスプレイが着信元をオーバーレイ表示させた。

俺は渋々、着信表示を視線選択し、通話に出た。

「もしもし、Uber Eatsですか?酒を早く届けてください」

西塔先輩だ。普段と代わり冷静極まりない声。
この声から察するに、相当に酒が入っている。

「もしもし、西塔先輩ッスか?ええ、うまく行きました。でも大丈夫なんスか?酒勝手に持ち出して」
「あれは私が注文しました、確かに良いとロシア人も言っています。なあヤマトモ、そうだったよな」
「え、ヤマトモさんいるんすか?やめた方がいいんじゃないすか、あの、怒られても知りませんよ俺」

エージェント・ヤマトモは、先輩の悪友の一人だ。

「ヤマトモはいません、ローカルチャットでビデオ通話を、しています。酒を、早く持ってきなさい」
「そっスか、どうでもいいですね。で、届け場所ですけど、もっかい確認させてもらっていいですか」

この発言を一字一句区切る喋り方、これはもう、先輩がかなり泥酔している証拠だった。
だから俺は、先輩の言っている事が確かなのかかなり心配になってきた。酔っ払いだし。

「ダメです」
「は?何で」

やっぱり酔っ払いの言う事は信用できない。
今からでも引き返すべきじゃないだろうか。

「あのほんとマジ勘弁してください、理由は?」
「ローカルチャットは盗聴の危険が、あります」

確かにアレクセイ・イヴァノフと言う人は、代理といえど政治局長を任されるほどの人だ。
そして俺は政治局の特務エージェント。つまり、イヴァノフさんは俺達の頭って事になる。

それ程の人なら、通信網に盗聴botを走らせるくらいはするだろう。
と言うかもう既にやってる筈だ。だから、話せないという事だろう。

「あ、割とまともな理由なのがムカつきますね」
「今、引き返そうと思いましたね?死になさい」

本当に引き返すべきではないだろうか?
速度スピードは引き返さないが倫理は別では?

「いいから、酒を、持ってきなさい。さもなくば、お前の黒歴史諸々を、財団のローカルチャットに」
「わかりましたよ!わかりました!持って行きますから!全くもう、酒入ったら本当にロクでもない」
「ではそろそろ通話を、切ります。それから最後に、先輩からありがたい忠告です。速水は後方注意」

通話が切れた。

俺はHMDを視線操作しつつ、後方監視カメラを視界の片隅にワイプ起動させた。
普段は全然使わない機能だ。速度スピードは振り返らない。我ながら当然の理屈だ。

だが、俺は後方から言いようのない殺気を感じた。
距離にして100メートル程の後方に、何かがいる。

後方視界カメラに何かが映った。そいつは、4枚羽の小型飛行無人機だった。

迂闊だった、俺はもう既に位置を把握されていたのか。
だがおかしい、追跡を警戒してGPSは切っていた筈だ。
だと言うのに、あいつは俺をしっかりと追尾していた。

しかし、その理由は簡単に思いついた。

おそらく、財団の道路上に設置している動体センサーに、俺が引っかかったのだ。
高速で移動するタイプの異常実体に、そいつは作動するようになっている。

そいつは常時作動しているから、権限がある人間はそれの情報を見る事ができる。
例えば、高速移動するバイクに載った人型実体なんてものも、これで追尾可能だ。

イヴァノフ局長代理はそのデータを元に俺のおおよその位置を割り出した。
後は、近隣のサイトに所属しているドローン網から数機を差し向けるだけ。

だが、それでも俺は笑みを浮かべる。
居場所を知られたとしても問題ない。

局長代理は俺のはるか後方にいるからだ。
無人機を差し向けた事が、何よりの証明。

「無人機なんて、速度の前では無意味なんだよ!」

だが俺の余裕は、次の瞬間消し飛んだ。

HMDの視界の片隅に、警告が表示されたのだ。

車体に埋設された車載レーダ、民生品を違法改造した広範囲サーチ可能版が何かを捉えた。
そしてヘルメットの集音マイクが、頭上を巨大な何かが旋回する音を伝えて来る。

耳障りな音の正体がなんなのかは、すぐにわかった。
それは爆音と共に、俺の頭上に巨大な影を落としている。

HMDの上方視界カメラがそいつを捉え、諸元を表示した。

KAMAN KMAX UAV

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MAIN SPEC

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Specification display completed[]

「おい、なんなんだよこいつは」

別にこいつのことをよく知らないわけじゃない。
むしろ、俺はこいつの事はよく知っていた。

啄木鳥の嘴のような先端ノーズ。
ボディ頂部に取り付けられた2対の角のようなローター基部。
そこからローターと、2枚のブレードが生えている。
この交差反転式のローターは旋回に都合がいい、だからこいつにはテイルローターは必要ない。

特筆すべきは、こいつが自重よりも思い荷物を軽々と運出せるって事だ。
例えば、バケモンの入ったデカいコンテナとか。

KAMAN KMAX、頼りになる超重輸送ヘリ。

こいつは俺のようなエージェントや収容スペシャリストなら、一度は現場で目にする代物だ。
ついでに言うなら、財団の技術者はこれを無人化することに成功していた。
コール一つで現場に飛んできてくれるから、現場でもかなり評判のいい機体だった。

で、問題は….こいつがなぜここを飛んでいるのかという事だった。
もしかして、あれの所属は連合が?俺を殺しに来たってのか?
だとしたら薄情な連中だ、だがまあそう言うもんだろう。

しかし、俺の思考に反して、その返答はHMDに即座に表示された。

RESPONSE IFF

KAMAN KMAX UAV

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MAIN SPEC

HMDの敵味方識別装置IFFが、財団のネットワークを通じて即座に反応を返して来た。

反応あり、つまり味方機。あいつは財団の機体だって事になる。
しかし妙だ、俺がサイトを出た時、ここ近辺でアラートは出ていなかった。
それからもう一つ奇妙なのは、KMAXがワイヤーで、一台の乗用車をぶら下げていた事だ。

クルマ?あれがオブジェクトなのか?

────いや、違う。

もう一つの可能性が、脳裏に閃いた。

KMAXはワイヤーを伸ばしてクルマを路上に下ろした。
軽いハンカチでも扱うように、驚くほどの繊細さでだ。
そして、荷を下ろしたKMAXは悠々と飛び去っていく。

クルマのホイールが即座に回転し、俺に並走して来る。

ウィンドウが開き、鈍く光る銃口が突き出された。
ドライバーの顔が見えた、イヴァノフさんだった。

彼は、ハンドルを一切握っていない。

理由は単純、あの車にはその必要が一切ないからだ。
あれは、購買部ガレージ謹製の全自動走行車両だった。

制御用コンソールに対象を入力すれば、そこへひとっ飛びできる優れもの。
自動車メーカーが夢見る、書いて文字通りの「自動車」がそこにあった。
作ったのは木場の親父さん、そして今それにイヴァノフさんが乗っている。

────相当やばい状況なんじゃないか、これは。

「速水、止まれ」

そうこうしているうちに、ヘッドフォンに無線通信。
声から察するに、局長代理はお怒りのご様子だった。

────ここで止まって先輩を局長代理に売るか。

俺にとってはしごく当然な思考が、頭をよぎる。

「速水、行きなさい」

そして、並行して先輩から着信。

「速水さん、速水神一郎さん。聞こえますか」
「速水、聞いているか。聞いてるなら止まれ」

ああ、なんかこの前見たホラー映画を思い出した。
主人公に別々の声が語りかけてくるやつだったか。

「速水さん、早く酒を、届けなさい」
「速水、いいかよく聞け。酒を返せ」

おいおい、勘弁してくれよ。こいつはマジにホラーだぞ。
左耳から酔っ払い、右耳からは銃を手にした兇漢の声だ。

「速水さん、ここにあなたの過去の映像記録が」
「お前の行き先は分かっている、抵抗は無駄だ」

────うるせえ

だんだん面倒臭くなってきた。
だが何に従うべきかは明白だ。

「イヴァノフ局長代理、いいんですか?」
「何がだ?泥棒に銃を向けるのが問題か」

ああ、やっぱり怒ってる。
まあそうだよな、当然だ。

だが、今重要なのはそんな事じゃない。

「あのヘリコで俺を追えば良かったのに」
「規則上ギリギリの運用だ、何の問題が」

なるほど、局長代理は規則を振り切るつもりはないらしい。
それなら十分にやりようはある。局長代理は〝遅い〟のだ。

「そっか。じゃあ、気をつけてくださいね」
「何に?俺の銃口にだけ気をつければいい」
「前方注意って事。ここから2km渋滞です」

局長の車が停止した、ABSが作動したのだ。
事実、前方には長い車列。先頭は見えない。

一応だが、俺も一緒に停車してやる事にした。
局長代理の顔には、意外にも笑みが浮かんでいる。

「上等だ速水、流石は特務だ。お前は俺を出し抜いた」
「ええ、じゃまあ、そう言う事で。お先に失礼します」

俺は即座にアクセルを握り込むと、風になった。
車列の間を華麗にすり抜け、俺は速度となった。

響く怒号とクラクションを背に、俺は悠々と走り去る。
先輩の意向、局長代理の正当性、どちらにも従わない。

そう、従うべきは────

「スピードだ!」


20██年 3月██日 国道███号線 政治局行政監督部 アレクセイ・イヴァノフ政治局長代理

「いい度胸だ、速水。あの土建屋が目をつけただけはある」

俺は走り去っていく速水に、心からの賛辞を送ってやる。
実際のところ、渋滞に合う事は計算のうちに入っていた。
だが、華麗に車列を縫って走る速水に驚嘆したのも事実。

「認めよう、小僧にしてはよくやる」

なるほど、確かにあいつは得難い人材のようだった。
今後は、生死判定限界までこき使ってやるとしよう。

「だが、お前は俺を出し抜いてなどいない」

先ほどとは違った感想を、俺は呟く。
これは、決して負け惜しみではない。

────そうとも、この程度で出し抜かれる俺ではない。

あれは、あの小僧に対する賛辞であり、花を持たせてやったまでの事。
そして、あの小僧を撃とうとする自分自身を抑える為に言っただけだ。

それから、この全自動車両のこともある。
木場がこいつの動きをモニターしていない筈はない。

俺がそう考えた刹那、車内のルーフに設置されたカメラが作動し、俺にフォーカスを合わせた。

「……この車はデイジーデイジーの歌を歌う機能もあるのか?」

俺はぼやきつつ、今後の動きを考える。

ダッシュボードの液晶パネルを操作し、周辺の地図を出す。
このまま一般道に出て数百メートルの座標に、目当てのものがあった。

これで目的地への足は確保できた。
どうやら、俺はついているらしい。

逃がすか、絶対に。


20██年 3月██日 サイト8100 総合企画局・総合政策室オフィス 道策常道専従担当官

私は手元のファイルを手繰りつつ、ページを開く。

その横にうず高く積まれた書類から一枚取り、内容を吟味する。

数秒で私は間違いを見つけ、付箋を貼り、必要な文言を書き入れていく。
さらに書類挟みから一枚取り、そこへ慎重かつ大胆に、ペンを走らせる。

完全な書式の書類が一枚出来上がった。

「書式が間違っています、差し替えたものはこれを」
「すみません、ありがとうございます!」

若い職員は私から書類を受け取ると、足早に去って行く。

首都で発生したテロ、その隠蔽の為の多くの秘密作戦。
それは幸いにも、その全てが概ね成功裏に幕を閉じた。

ヴェールは破られる事なく、東京は安寧に眠っている。

だが、その事後処理は未だ終わっていない。

私が所属する総合政策室の局員達は、今日も忙しく動き回っている。
総合政策室は企画局の中に於いて、様々なジャンルの問題を処理する部局だ。

だがそこで、面倒な問題が立ち上がっていた。
偽装書類の作成、その作業量が増大したのだ。

────無理もない。

財団が出動させた機動部隊、エージェント、隠蔽の為の様々な活動を行う者たち。
この全てを日本政府の行動に偽装するには、官公庁側のみの対応ではどだい無理だった。

そもそも今回のテロ事件は、官公庁がターゲットだったのだ。
霞が関側が出した犠牲者も多く、状況は混乱を極めた。

そして、財団と日本政府側で協議が行われた。
政府の先頭に立ったのは、細谷首相補佐官だ。

彼は財団側に、行政側の情報を提供する事を約束した。
テロの手引きをしたもの達は、政府に存在したからだ。

その代わり、彼は今回のテロの後始末の何割かを私たちに押し付けた。
結果、我々総合政策室は大車輪で稼働する事となったのだ。

そこで問題となったのが、書類だ。

書類、しかも日本の官僚組織が使用するものとなればどうだ?
種類、書式、適切な文言の選択、押印の必要性、その総量は?
役所によって使用されるものがまた違うなら、一体どうなる?

多分、夜空の星でも数えた方がまだましに思えてくるはずだ。
財団側の事務処理システムと比較すれば、非合理極まりない。

現在、日本政府は書類そのものをなくすべく電子化に邁進している。
それは国民のみならず、官僚達や私達にとっても福音となるだろう。

だが、その福音は今すぐにもたらされるわけではない。

たかが書類、だがその齟齬が超常の暴露に繋がりうる。
書類の齟齬が、ヴェールの崩壊に繋がるかもしれない。

座して福音を待てば、頭上で天使が喇叭を吹くだろう。

今は、二本の腕と10本の指を酷使する他に方法がない。

さらにそこへ、それを処理する職員達にも問題が発生した。
こういった作業に熟練した職員の多くが異動されたからだ。

理由は、人事の刷新にあった。その際に、私もここへ配属された。
だが、ベテラン職員の多くは私とは別部署へと異動となっていた。

その理由は年の初めの大粛清、裏切りによる物だ。
それ故に、財団首脳部は人事再編を強行していた。

我々総合政策室も、その煽りを受けざるを得なかった。
新たな職員達は、皆熱意に溢れ、優秀な若者達だった。

だがそれでも尚、ベテランの不足は深刻な問題を生じさせた。

────だからこそ、私が呼ばれたのかもしれない。

私は左手書類の山から無造作に数枚の書類を掴み、デスクに無造作に並べる。
一枚書式のものと、複数枚必要なものをデスクに並べる。全部で4種類ほど。

右手で幾重にも付箋が貼られた分厚いファイルを勢いよく捲りつつ、右目でその内容を見る。
左手で書類にペンを走らせる。1つ、警察庁、2つ、公安調査庁、3つ、METI4、4つ、国交省。
書式、文言をチェックしつつ、手元のボックスから判を取り出し、押印、押印、押印、押印。

書類が完成。それぞれの書類を揃え、クリップで挟み、各省庁ごとのボックスに放り込んだ。

私は、人と比べて物覚えがいい。

記憶力には自信があった。例えば今のように、役所ごとの書式を覚えるくらいなら朝飯前だ。
結果、作業効率は若手と比べて高くなる。だからこそ、私はここでペンを走らせているのだ。

もっとも、あと少しでこのような不合理も終わる。

若い職員達は知識をつけつつあるし、今後、国に提出する書類については合理化される。
書類を光学走査し、書式をAR表示するシステムが、今週にも納品されるという話だった。

また、それと並行して書類の作成作業を無人・自動化するという話もあった。
スキャナとロボットアームを組み合わせた自動工場のような代物だと聞いた。

馬鹿馬鹿しい話だが、そうでもしなければ書類の作成は追いつかないだろう。

しかし、そういった仕組みが導入されるまでまだ時間がある。
それまで私は拘束される。だが、やるべき事は他にもあった。

現在問題の焦点となっているのは、いうまでもなく政治局だ。
煮えたつ鍋の泡の如く、超常行政の問題は絶えることがない。

その問題を潰すのが政治局の任務だが、実のところ私もそれに関わっていた。

室長は現在の窮状を説明しつつ、私に専従職員なる役職を与えた。
多くの裁量を任される役職だ。逆に言えば、なんでもやらされる。

その「なんでもやらされる」という部分で、私は政治局に関与し続けている。

だがこれは、事案収拾に当たっていた男の意向でもあった。
グレアム・マクリーン、アングルトンの再来と呼ばれる男。

私がこの仕事をしているのは、この男が原因と言っていい。

以前より、私は総合政策局に籍を置いてはいた。
だがその立場は、非常勤担当官でしかなかった。

元々の役職は、サイト管理官だったのだ。

テロ発生時マクリーンの命令により、機動部隊も-9第二連隊の指揮を取った。
しかしあれ以降、私の財団に於けるキャリアは、奇妙な推移を辿りつつある。

これがいつ終わるのか、私自身にもわからない。
今は、手元の書類と格闘する日々が続いている。

ふと、手元の電話が鳴った。

私は受話器を手に取ると、懐かしい声が響いた。

「管理官、お久しぶりです。物流総局・交通管制局の鎌倉です」

鎌倉映司かまくらえいじ

テロ事件発生の際、私の補佐役を務めてくれていた人物だ。

財団に入る前は航空管制官であり、元官僚の私とはやけにウマが合った。
テロ事案の後、彼は財団の物流網を管理する交通管制局に勤務していた。
管制局は彼にとって古巣であり、今は元の職場に戻ることができている。

────古巣から追い出されてばかりの私とは大違いだな。

私は心の片隅に、彼に対する小さな羨望を感じた。

「久しぶりだな。だが、もう管理官ではないぞ」
「僕の中ではそっちの方が呼びやすいんですよ」
「一体どうした、何か事務手続き上の問題でも」
「そうです、実は政治局の件でちょっとお話が」

────「政治局の事は政治局か、総企の専従に」

問題があった際の問い合わせ先は、このようになっていた。

政治局の人間は様々な業務をしており、捕まりにくい。
よって時は私が、連絡窓口の役割を果たすこともある。

恐らくはこれもまた、マクリーン自身の意向なのだろうが。

「政治局と言っても、具体的にはどこの部署だ」
「お分かりでしょう?政治局行政監督部ですよ」

どうやら、私の職掌の件らしい。

「了解した。具体的には何があった」
無人航空機ドローンについてです」

彼ら交通管制局は陸・海・空の交通網を管理している。
近年では、無人航空機もその職掌の範囲内だ。

「ドローン網に呼び出された機体がありまして」
「使用された機体は?それから、機体記号は?」

鎌倉は手短にそれを伝えた。

1機目は小型UAV。そして二機目は無人化型KMAX。
私の脳裏に、特徴的なシルエットが浮かび上がる。
財団に於いては日常的に使用される機種だった。

「あれは初期収容時に用いる。現場から、何かアラートがあった筈だが」

妙だった、それはわざわざ私に伝えるほどの事でもない。

「実は、あれを使ったのは政治局行政監督部の局長代理なんですよ……」
「局長代理?確かにそのレベルの権限なら、使用を優先オーバーライドできるが」

何かがあったと言う事だろう、イヴァノフなら当意即妙にやる筈だ。

「でも、いくら局長権限とはいえ事前に連絡があってしかるべきです」
「確かに、それが収容作業に影響を与える可能性は十分考慮すべきだ」

たとえ一機のみであろうとも、ドローン網に穴が開く事で、収容の遅れが出る可能性はあった。

「いえ、使用された機体の機体記号を調べたんですけど、予備機体でした」
「それは、パーツ取り用に解体される予定の機体だったと言う事だろう?」

使用者がイヴァノフなら、当然の選択だろう。
使うのが解体予定の機体なら証拠も残らない。

彼らしい、クレバーなやり方だった。

「ええ、飛行時間も長くはありません。行きと帰りで1時間程度です」
「問題ない。予備機なら、収容に影響を与える事もさほどない筈だ」

「でも、何か運んでたみたいなんです。それも連絡なしで。困ります」

「政治部の任務については君もそれとなく知っている筈だ。何らかの隠密作戦、という事もある」

「ですが、せめて事後でも使用の際には報告が必要です。それを局長さんに連絡しようと思ったんですが、今は留守との事でして」

「政治局長に直接ものを言おうとは、なかなかの気骨だな。私が伝えればいいんだな?」
「お願いします。専従の方なら、局長さんも聞く耳を持つかもしれません。それと……」

「あの、すみません」

蹌踉とした足取りで、若い男性職員が書類を持ってきた。

ざっと20枚。彼の目線は、宙を泳いでいるように見えた。

「あの、本当にすいません」

配属当初快活だった彼は、今や疲労の海底を歩いている。
度重なる研修と、積み重なるタスクが、彼を苛んでいた。

「はい、全部そこに置いて行ってください」
「本当すいません、ありがとうございます」

彼はそう言うと、机に書類を置いて歩き去る。

「休憩も取ってください、そろそろ交代の時間の筈です」

私はその背中に声をかけると、彼は無言で片手を上げた。

────処理しきれない書類は、専従に。

これは室長の指示であり、私はそれに従う他ない。
仕方ない、他にどんなやりようがあっただろうか。

「あ、いいですか?実は他にもお伝えしたいことが」

────まだ、あるのか。

「了解、聞かせてくれ」
「小型機が妙な動きを」
「妙とは、一体何がだ」

何だか嫌な予感がしてきた。
否、きっと気のせいだろう。

「それが、財団所属の車両を追ってたみたいで」

「財団の?諸元は特定できたのか?」
「はい、今そちらの端末に送ります」

私の端末に、当該車両のデータが送信されてきた。
表示されたのは、車両のドライバーの情報だった。

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「こいつですよ、こいつ」
「ああ、顔馴染みかな?」

速水は財団一のスピード狂で知られている。
鎌倉は交通管制の職員、ならば知己だろう。

「ええ、結構前からね。会って話をした事もありますよ」
「それは、仲のいい事だな。君にとっては近しい友人か」
「ま、腐れ縁ですよ。奴は交通法規の敵ではありますが」

「すみません、これを」

若い女性の職員が、私の机に書類を置いた。
ざっと40枚程だろうか、書類の山ができた。

「はい、休憩も取ってくださいね」
「……ありがとうございます」

フラフラと、彼女は頼りない足取りでその場を去る。
頭を下げた時、彼女の黒髪がハネていたのが見えた。
女性職員が、身嗜みに注意を払えない程疲れている。

配属当初、彼女にはそれだけの余裕があったはずだ。

───まずいな、みんな限界のようだ。

システム導入以前に、一週間の休暇が必要だろう。
今日これが済んだら、室長に進言しようと思った。

「あの、すみません。ホントすいません、いいですか」

鎌倉も、どうやらこちらの状況を察してくれたようだ。

「ああ。だがそろそろ時間がない、忙しくなってきた」
「はい。要するに、無人機は速水を追ってたんですよ」

「確認したいのだが、それを動かしたのも局長代理か」
「はい。システムログには優先の履歴が残っています」

速水の動きをイヴァノフがモニタリングする理由を考えた。
いくつか思い当たったが、そこで私の直感が何かを訴える。

「隠密作戦の一環だ、心配する事はない」
「そうですか、それなら仕方ないですね」

「局長代理には私から言っておく、しかるべき書類も提出される筈だ」
「わかりました、管理官がそうおっしゃってくれるなら安心できます」

でも、と鎌倉は付け加えた。

「ドローンを使うのには細心の注意を払ってください、この国では特に」
「わかっている。UAVは法律上の取り扱いが厳しいことも理解している」
「それならいいんです。いやほんと、管理官がいてくれて助かりますよ」

────よし、いいぞ。

「気にするな。では切るぞ。処理しなければいけない書類が山ほどある」
「わかりました。何かあったら呼んでください、お役に立ちますからね」

「もちろんだ、では」

電話が切れた。

私はどうやら成功したらしい。

────これでよし、どうにか誤魔化せた。

嫌な予感がしていた。
イヴァノフがここを出る際、短い連絡があった。

────サイト8179に行く、暫く不在にするから諸々取り次げ。

おそらくその途上で何かがあったのだろう。
恐らくは、政治局案件以外の何かがあった。

私には確信がある。

何故なら、今朝は西塔を見かけていないからだ。
休暇だと聞いていたが、イヴァノフの行動がその証拠だ。

────絶対に関わってはいけない。

第一私には、この書類の山をどうにかするという目下の業務がある。
確かに私は以前、西塔の規則違反に手を貸した。それは事実だ。

しかし、今回は絶対に、何があろうとも無関係を決め込む腹づもりだ。
多分、否、絶対に何かよくないことに巻き込まれるのは確実だからだ。

「ああ、道策くん。いいかな」

白髪混じりの初老の男性、室長の是枝正国が、私に声をかけた。
丁度いいタイミングだ。局員の休暇について打診してみようか。

「どうかしましたか、室長」
「忙しい中、本当にすまん」
「今更ですよ、ご要件は?」

「いや、政治局の局長さんがお見えになっていてね」
「え?」

嫌な予感が当たった、全力で回避すべき案件だった。

「申し訳ありませんが、今私は大量の書類を」
「悪いがそいつは後にしてもらおう、土建屋」

私の目の前に、イヴァノフが立っていた。

「今忙しいんです、取り次ぐべき事は後ほど」

────巻き込まれてたまるか。

「至急の要件だ、悪いが力を貸して貰いたい」
「局長さんもそう仰っている、頼まれてくれ」

室長が私に頭を下げた、こうなれば断れない。

「すまないな、是枝さん。そういう訳だから彼を少し借りる」
「できれば早くお返し願えますか?彼には助けて貰っている」
「もちろんだ。要件が済み次第、すぐにでも業務に戻らせる」

────すぐに済めばいいのだがな。

「では、話は済んだ。行こうか」

イヴァノフが、にこやかな笑みを浮かべた。
この災厄から逃れる事は、できないようだ。

私は未練がましく書類の山を見つめながら席を立った。
総合政策室から出た私たちは、そのまま廊下へと出た。

「どうやってここまで来た?8179までは行き帰りで2時間ほどかかる筈だ」
「ちょうど良く〝フェリーポート〟があったんでな。使わせてもらったよ」

フェリーポート。

財団の拠点やサイト間を繋ぐ超高速鉄道網「マクロライン」への侵入口だ。
それは主要都市ののあちこちに、立体駐車場の形で偽装されている。
これを使用すれば、車に乗ったままサイトまでひとっ飛び、というわけだ。

「しかし、土建屋が事務屋に転職とはな」
「仕事なら何でもやるべきだ、違うか?」
「俺には、人生の無駄としか思えんがな」

そういえば、イヴァノフはどこへ向かうつもりなのだ。
ふと疑問が生じたその刹那、背中に固い感触を感じた。

「そのまま歩け」
「おい、正気か」

いつ抜いたのか、全くわからない。
感触からして、銃はPSS消音拳銃。

「西塔は?どこにいる」
「知らない、休暇中だ」

本当に知らなかった、だがそれでイヴァノフが納得する筈もない。

「なら、速水は?特務の動向はお前も把握している筈だ」
「なるほど、探しているものが何かわかった気がするな」
「話が早いな。で、積荷の行先はどこだ?さっさと吐け」

私は廊下を歩きながら周囲を注意深く観察する。
女性職員が一人、廊下を歩いてくるのが見えた。

やけに上機嫌で、かすかに鼻歌を歌っている。
曲は、古めかしい昭和のアイドル歌謡だった。

両手一杯に、デリバリーの唐揚げのパックを抱えている。
女子中学生と見紛うほどの低い背丈とやけに古いセンス。
政治局の来栖朔夜だ、彼女は楽しげに廊下を歩いてくる。

私は必死で彼女に目線を送ったが、彼女は私たちを無視してはるか後方へと去って行った。

「女に助けを求めるな、焼きが回ったか?さっさと言え」
「言えば、その物騒なものを引っ込めて貰えるのかな?」
「お前次第だ、カラチャイ湖5で泳ぎたくはないだろう?」

物騒な会話が無人の廊下に響く、残念ながら助けはない。
それならば、致し方ない。私も腹を括るしかないだろう。

「揶揄われるのは好きではない、その玩具で私を撃つか」
「木場、速水、お前。今日は随分度胸の良い奴に会うな」

────本当に気に入らん。

イヴァノフの不機嫌そうな呟き、彼は相当に苛立っているようだ。
だんまりを決め込むのも無益だ、私は情報を提供することにした。

「速水はもういない。このサイトからどこかに行った」
「荷物をここに届けた筈だ、俺の目当てはそれだけだ」

イヴァノフがそう呟くと、背中の固い感触が消えた。
当然の判断だ。ここで私を脅しても、何の益もない。

私は息をつく。これで、どうにか歩きやすくなった訳だ。
背後には復讐心に燃えた男がいるため、安全ではないが。

「速水が荷物をどこに届けたかが問題だが、恐らくは薬室チャンバーだろう」

サイト-8100には多くの機密情報や物品などが届けられる。
そして、時にサイト8100から物品が発送される事もあった。

これらの物品は自動的に仕分けされ、ベルトコンベアや気送管エアシュート、或いは超電導移送チューブによって、適切な移送経路へと迅速に送られる。

送り先は、例えばトラックが待機する物資集積所、マクロライン、マクロライン網に沿って配置された各サイト、又は自動物資集配所に待機するUAVやUGVだ。

この物資の自動仕分けシステムの端緒には、物資移送用エレベーターがある。
サイト-8100では、それを薬室チャンバーと呼んでいた。

問題は、そのチャンバーは12箇所あるという事だ。

「話にならん、何番のだ?速水はどこに立ち寄った」
「局長権限で監視カメラの映像を閲覧する他ないな」
「馬鹿を言え、守衛の連中をどう説得するつもりだ」
「言われても困る、君の裁量でどうにかするんだな」

どうやら早くも手詰まりらしい、可能性があるとすれば……

「いや、機密郵便なら企画局を経由するものもあったな?」

イヴァノフが私を見た、早くも気づいたようだ。

「そうだ。だが、その量が多いからこそ薬室があるのだが」
「いいや、奴が企画局のどこかに立ち寄った可能性は高い」

彼の瞳が怪しい輝きを放つ、嫌な予感が一層強まった。

「まさか、企画局の機密郵便を総浚いでもするつもりか?」
「そうだ、お前がそれをやれ。俺はその間昼寝でもするさ」
「人の心がないのか?絶対に断る。良いか、君はそもそも」

「ああ!いました!串間さん、こっちですよ!こっち!」

険悪な空気を吹き払うかのように、涼やかな声が廊下に響いた。

私たちが振り返ると、なんと先ほどすれ違った来栖が駆け寄ってくる。
そして彼女の後ろからもう一人、タイトなスーツに身を固めた女性が。

ポニーテールを揺らしつつ、小走りに駆け寄ってくる彼女。

あれは、串間小豆だ。

上層部からの意向で、企画局の非常勤職員を請け負ってくれている。
彼女は役所の書類仕事に知識があり、職員達を助けてくれていた。

「あ、こんなところに居たんですね!イヴァノフさん!道策さん!探しましたよ!」

私たちは顔を見合わせた、彼女が一体なんの用事だろうか?

「本当にごめんなさい、先にお伝えしたかったんですけど連絡が取れなくて」

彼女は丁寧に、私たちに頭を下げた。

「お嬢さん、理由なく頭を下げるな。まずは説明を頼む」

それを見たイヴァノフは、珍しく困惑しているように思えた。
それもその筈。彼女は男女問わず、多くの人間から慕われている。

この殺伐極まる業務に於いて、彼女は戦場に咲く一輪の花と言って良い。

「道香ちゃんの事です、ご迷惑をかけているみたいで……本当にごめんなさい!」
「西塔の?まあ、そうだな。だがお嬢さん、あんたを煩わせる程の事じゃない」

イヴァノフの困惑は深まるばかりだったろう、理由を私は承知している。
来栖にしても串間にしても、イヴァノフが扱いかねる人員だったからだ。

「それが、局長代理へのお届け物の件なんです。速水さんが小包をここに」
「お嬢ちゃん、それは本当か?本当に本当の話なのか?正確に答えてくれ」

来栖の言葉に、イヴァノフが色めき立つ。
ようやく私にも、事態が飲み込めてきた。

「本当ですよ。速水さん、突然きて私に荷物を押し付けて、これをすぐにチャンバーにって言うんです」
「妙だと思ったんです。届けるなら政治局にそのまま届ければ良いのに、変ね、って二人で話してたの」

不審そうに語る二人の言葉に、イヴァノフは静かに耳を傾けている。

「なるほど、君が不在のうちに片付けようとしたと言うわけか」

だがしかし、幸いにも我々は間に合うことができたようだった。

「話はわかった。何番のチャンバーだ?どうしてもあれが必要なんだ」

「2番チャンバーです。企画局の子が、ついさっき届けに行きました」
「2番ならここから一番近いです!走れば、まだ間に合うと思います」

イヴァノフは頷くと、突然の肩に手を置いた。
まるで、万力で掴まれたかのような強さでだ。

「走るぞ、土建屋。お前は今回の件について書類を書け」
「まだ付き合わせる気か?これで終わりにして貰いたい」

良い加減にして欲しい、付き合う必要があるのだろうか。

「二人とも急いで!間に合わなくなっても知りませんよ」
「早く!道香ちゃんには、私からも言っておきますから」

来栖と串間が私たちを急かした。

「行くぞ!」
「くそっ!」

イヴァノフは走り出した、不承不承だが私も後に続く。

廊下を走りつつ、私は積荷の行方を頭の中に思い浮かべる。
積荷の最終到達点は、恐らくどこかのセーフハウスの筈だ。
そこまでの経路を、積荷はどうを通るのかは、複雑極まる。
そもそも、行き先へ届くまでの経路自体が秘匿されている。

これは、Need to Knowの原則を徹底するための処置だ。

荷物には超小型タグが付与されており、チャンバーはそれを認識し仕分ける。
サイト-8100から出発した荷物は経由点を通り、その先の集積所に送られる。

例えばそれがエージェント向けの荷物だった場合、その送り先はデッドドロップだ。
国内には、自動販売機やロッカーに偽装されたデッドドロップポイントが存在する。
エージェントは暗号化された信号を端末で受信し、デッドドロップで荷を受け取る。

ここまでの流れが、チャンバーを利用した貨物集配のやり取りの全てだ。

集配所自体が偽装されている。

例えば、ビジネス街のビルやマンション、雑居ビル、団地、一軒家、倉庫。

例を挙げればきりが無い程だ。

もし、ここで荷を逃せば、荷物のトレースはほぼ不可能になるだろう。
そうなる前に、荷物を抑えなければならない。また、嫌な予感がした。

フロアの中心にあるチャンバーへの出入り口、無骨な与圧式ハッチが見えた。
丁度そこへ、一人の女性職員が入って行くのが見えた。荷物はあそこだろう。

チャンバーのハッチ前に辿り着いた。IDが自動走査され、ハッチが開く。
チャンバー内部は、例えるならばコインランドリーほどの広さがあった。

内部の作りもまた、コインランドリーに酷似していた。
壁にはずらりと、大小の大きさのハッチが並んでいる。
ハッチの一つ一つが、荷の大きさに合わせてあるのだ。

この全てが、貨物エレベーターの入り口となっている。

先ほどの女性職員が、小さなハッチに荷物を入れようとしているのが見えた。
小さなダンボール製の箱、あれがそうか。

「待て!その荷物に用がある!まだ入れるな!」

イヴァノフが叫ぶ、まずい。銃を抜きかねない。
私はイヴァノフの前に立ち、恭しく頭を下げた。

「すみません、何かの手違いがあったようです」
「え、手違いだったんですか?あら、私ったら」

女性職員はそう言いつつ、小包を私に手渡した。

「土建屋!そいつを寄越せ!」

言われなくても渡す、これで面倒ごとともおさらばだ。
私は言われた通りに、ダンボール製の小包を手渡した。

イヴァノフが小包を開く、私もその中身を確認する。

────どうせ、酒か何かだろう。

そこには、何も入っていない。いや、紙切れが一枚。
紙切れにはただ一言。ぞんざいな筆跡の文言が一行。

おとといおいで

その瞬間、出入り口のハッチ横の小型モニターが忙しく発光を始めた。

ALERT! ALERT!ALERT! ALERT!

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即時退去シークエンス開始[]

「えっ?」
「何だ?」
「ちょっ」

私、イヴァノフ、そして女性職員が三者三様の小さな叫びを上げる。
そして、重々しい金属音、圧搾空気音と共に、鉄の扉は閉ざされた。

「これは、一体……」
「そんな、馬鹿な!」

チャンバー内の照明が消えた。

「だ、大丈夫ですか!お二人とも無事ですか!」

チャンバーにどこか幼さを含んだ声が響く、来栖の声だ。
扉の小窓を見るが、来栖の影はない。否、何かが見えた。
小窓に頭の跳ね毛が映り、それが忙しなく上下していた。

恐らく身長が足りないので、跳躍を繰り返しているのだ。

「大したことはない、それよりドアを開けてくれないか」
「無事みたいですね。良かった、真空にはなってなくて」
「ほら。もう朔夜ちゃん、心配ないって言ったでしょ?」

串間の声が聞こえた。それにしては妙だ、真空とは何だ。
それは恐らく、チャンバーの清掃時のモードの事だろう。
チャンバー内の空気を全て抜く、害虫対策の為のものだ。

おかしい、何かが妙だ。いや、これは、まさか、そんな。

「とりあえず安心しました、それじゃ私はこれで失礼します」
「ありがとう朔夜ちゃん、荷物は1番チャンバーにお願いね

────嫌な予感の正体は、これか。

「お嬢さん……俺たちを嵌めたのか?」
「その通りです、本当にごめんなさい」
「何故だ?俺たちはあんたに恨みなど」

────待て。

「イヴァノフ、胸に手を当ててみよう」

私の脳裏に、二つの事例が浮かんだ。

「イヴァノフさん、道策さんは思い出したみたいですよ」
「待て、この前の禁煙ウィークの事か?あの時は……」
「それ以外にもあります、道策さんは思い出せましたか」
「ああ、この前の外務省絡みの件だな。すまなかった」

私は、あの案件を処理する際に差前を招聘した。
彼の言葉が、つい昨日のように思い起こされる。

「了解。それと道策さん、ちょっと気になることがあってさ、いいかな」
「何かね」
「ハゲろ」
「子供じみた物言いはやめたまえ、串間嬢の機嫌が悪いのは私も知っている」
「誰が原因だと思ってんだよ、誰が。この天下り役人」

────あれが、まずかったか。

「そうです、お陰で義兄とのデートがフイになりました」
「待ってくれ、それは土建屋が勝手にやった事だろうに」
「いいえ、あの時の最高責任者は間違いなくあなたです」

イヴァノフが無言になった、言い返せようはずもない。

「ですから、しばらくそこで反省していってくださいね」
「待て、待ってくれ。頼む、お願いだ開けてくれ、頼む」

イヴァノフの叫びは、半ば懇願に変わっていた。

「ダメです」
「クソッ…」

扉の前でイヴァノフはがっくりと肩を落とした。

「そうそう、このロックダウンですけど。時間は……」

串間は視線を上に向け、考え込んでいた。
まさか、設定した時間を知らないのか?

「1時間だったかしら?それとも2時間?」

口元に指先を当てて、彼女は考え込んでいる。

その様子はいかにも可愛らしく、それ故残酷に思えた。
彼女の胸先三寸で、我々は即座に窒息死するのだから。

「うーん、1日だったかな?1週間かな?」

串間は腕組みをして考え始めた、やめてくれ。

「とにかく頭を冷やすのには十分な時間ですよ」

彼女は強化ガラスの向こうで笑顔を浮かべた。
それも、慈悲をたたえた菩薩のような笑顔を。

「あのぉ、串間さん。私、っていうか俺はどうなるの?」

女性職員が妙な言葉遣いになった、待て、こいつは。
イヴァノフの裏拳が、女性職員の顎を的確に捉えた。

ギャッ、と叫んで女性職員は後方に吹っ飛んだ。

突如女性職員の輪郭が歪み、その姿は若い男性になる。
と思えば中年に、老人に、フランチィズのハンバーガーチェーンのロゴに変化する。
まるでチャンネル切り替機能が暴走したTV画面のようだ。

その映像の塊が壁にぶつかると、映像は半透明になっていく。
映像の向こうに、黒いコートを纏った奇妙な人物が出現した。

黒フードに黒コート、コートの下の黒いボディスーツ、黒い顔。
いや、これはラバー製の覆面だ。私は以前から彼を知っている。

「おい、そこの黒い奴チョルヌイはなんだ、誰だ貴様」

イヴァノフはそいつの襟首を掴み上げ、上下に揺さぶった。

ヤマトモ、そこで何をしている?なぜここに居る?」

「あはは、バレちゃった」

顔に張り付いたようにフィットしたマスクが歪み、笑みを形作った。

彼の名は、エージェントヤマトモ。

財団エージェントであり、その任務はオブジェクトの初期収容、そして敵地への潜入だ。

彼はエージェントだが、独自の研究をも行なっている。量子光学と音響工学がそれだ。
彼はその二つを組み合わせ、先程のような変装、否、迷彩を自らに施すことができる。

しかし、彼がなぜここに紛れ込んでいるのか。

「西塔ちゃんからさ、ちょっと頼まれちゃって。へへ」
「遊びじゃないんだぞ?それに、任務はどうしたんだ」
「いやさ、こっちの方が色々最近面白そうだなぁって」

思わず頭を抱えそうになった、私も彼を殴るべきか?

「では、私はこれで。3人とも仲良くしてくださいね」

串間は私たちの前から去ろうとする、ここに置き去りにするつもりだ。

「お嬢さん、待ってくれ!カネなら払う、だから待て」

イヴァノフは串間に追い縋る、まだ交渉するつもりか。

「ではイヴァノフさん、私の時間を返して貰えますか」
「何だと?それは、それは……いや、カネなら払える」
「お金で買えないものもあるんですよ?では、これで」

串間は無情にも、靴音とともに私たちの前から去っていった。
イヴァノフは、閉鎖ドアの前で、塑像のように固まっている。

閉鎖されたチャンバーに、私たちだけが残された。
この暗闇の中を、今はただ、静寂が支配していた。

そこに、パッと明かりが灯る。ヤマトモの指先に。
彼の身体は45%義体化されており、手足は義手だ。
恐らく、義手の指先に仕込んだオプションだろう。

「ま、仕方ないよね。二人とも、気を落とさないで」

気楽なヤマトモの発言に、彫像と化していたイヴァノフが振り向いた。
そして素早く踏み込むと、ヤマトモの腹に強烈な前蹴りを叩き込んだ。

ヤマトモはボールのように蹴り飛ばされ、壁に張り付く。

「あいたた……道策さん、酷くない?一言ないの?」

しぶとく起き上がりながら、ヤマトモは私に言う。

「何もない」
「ええ……」

彼の義体化率は、一般的な財団職員と比べて高い。
無論、GOCのエージェントほどではないだろうが。
だが見た所、受身は取れているように見て取れた。
恐らく、腹部にもボディアーマーを着込んでいる。
故に、彼を心配するべき理由など、何もなかった。

「そもそも、厄介ごとに進んで首を突っ込んだのは君の方だ」
「うーん、確かに。そう言われると辛いものがあるかもだね」

私はヤマトモの言葉を無視しつつ、今後の事を考えた。
イヴァノフの酒はどうでもいい。問題は、書類の山だ。
今、私の机の上がどうなっているか?想像したくない。

「待て、1番チャンバーだな?」

固まっていたはずのイヴァノフが、不意に復活した。

「ここから出れば、積み荷をトレースすることは決して不可能ではない」
「それは不可能だ、その間に、どれだけの工程が挟まっていると思う?」

まだ、諦めないつもりか。だが、彼が言っている事は土台無茶な方法だ。

「いや、そこの黒い奴を締め上げる。西塔の居場所は奴が知っている」

イヴァノフと私がヤマトモに視線を向ける。
ヤマトモは、壁の扉に手をかけて、開いた。

「あー、ごめんね。それはナシにして欲しい」

カシャリ、と言う金属音とともに、突如ヤマトモの身長が縮んだ。
そう言えば、彼の義手・義足は伸縮自在だった事を今思い出した。

「悪いけど、ここで抜けさせて貰うね。じゃ」

彼は扉の縁に捕まり、勢いよくエレベーターの中に身を躍らせた。

「待て、貴様!」

叫びも虚しく、ヤマトモの姿はエレベーターの奥へと消え失せる。

後には私と、イヴァノフと、静寂のみが残された。


20██年 3月██日 サイト8100 政治局フロア・11番チャンバー 政治局エージェント・海野一三

僕は穏やかな満面の笑みを浮かべて、エレベーターの到着を待っていた。
廃ボーリング場の死闘からしばらく経ち、僕は病院生活から抜け出した。

あの病院食の日々。思い返すだけで、げんなりする。
しかし、これでようやく好きな物が食べられるのだ。

僕は昼食のデリバリーサービスの到着を待っていた。
メニューはチャイナセット、飲茶のおまけまで付く。
入院生活中、ずっとずっと、食べようと思っていた。

僕は待ちきれず、チャンバーの受け取り口で待つことにした。
今日は穏やかな日だ、業務も比較的緩やかで、とても静かだ。

唯一の不安要素は西塔が不在である、と言う事だった。
昼食前に来栖から、西塔はどこにいるかと尋ねられた。
当然知らないので知らない、と返した。でも少し妙だ。

何だか厄介事の気配を感じたが、でも僕には関係ない。
今日は静かでいい日だ。チャイナセットは、まだかな。

チャンバー内の小さな扉の一つに、明かりが灯る。
どうやら、お待ちかねのデリバリーが来たようだ。
僕は扉を開くと、中から奇妙な黒い塊が転げ出た。

「あ、海野くん!久しぶり!」

ヤマトモだった。デリバリーセットは無残にも潰されていた。

とりあえず、殴った。


20██年 3月██日 東京都内某所セーフハウス 西塔道香

千鳥足気味の歩調を抑えつつ、私は我が家に帰り着いた。

ジャージパンツにTシャツ、その上にパーカーというラフ極まりない格好で。
要はいつもの服装。服飾部門の人間がそれを見たら、卒倒しかねないだろう。

デッドドロップポイントからは、片道10分ほどの道程だ。

正直、酔っ払いには容易いものではなかった。
だが、私は小包を手に取った瞬間、確信した。

間違いようのない、勝利を。

私は今、小包を手にしている。
それは、小さなダンボール箱。

これを手に入れるまで、どれほどの苦労があっただろう。
私はその小包を開き、発泡剤の包装をおもむろに破った。

中には、手榴弾の形をした小さな小瓶が入っていた。

私は部屋の周囲を見渡す。
ゴミで散らかった室内を。
周囲には何の気配もない。

ここを知っているのはごくごく少数なのだから。

「えー、みなさん、お待たせいたしました。それでは────」

私はPCの小型カメラに向かって厳かに宣言する。

「クソロシア人の酒を、飲みます」

その刹那、玄関で耳慣れた音が響いた。

銃声、それも2発。

私が足元に転がしていた拳銃を拾い、立ち上がって構えると、2mほど先にそいつがいた。

「探したぞ、西塔」

締まった筋肉で構成された大柄のシルエット。

イヴァノフだった。

「よう、クソロシア人」

私はイヴァノフにひとまずの挨拶をしてやる。
そして悠々と、イヴァノフの表情を観察した。

口元に笑みが浮かんでいたが、顳顬には青筋が浮き出していた。

大口径の散弾銃を抱え、その銃口からは硝煙が噴き出している。
それはあたかも、怒りを持ち主の代わりに吐き出したかのよう。

パッと見た所、間違いなく激怒している。

「酒を渡せ、さもなくば撃つ」

その眼差しに冗談はなかった。

室内に突然、殺気と緊張が充満し始めた。
私は数秒後、どうにすべきかを思案する。

このままでは、耐えられそうになかった。

「おい西塔、どうした?いつもの軽口は?」

イヴァノフは、無言で銃口を私に向ける。

────ダメだ、耐えられない。

「ぷっ」

イヴァノフの怒りの表情が、疑問に変わった。

「ぷぷっ、あははは!あーはっはっはっは!」

激怒したイヴァノフが、酒を返せと宣う。
その有様はなんというか、とても笑えた。

私は酒瓶を腹に抱え、ゴミだらけの床を転がり回っている。

「あっはははは!だっせえ!クッソだせえよ局長代理!」
「ほう、命が惜しくないのか。ここでミンチになるか?」
「ぎゃはははは!いいのかよ?酒瓶ごと粉々になるぜ?」

イヴァノフは舌打ちしつつ、散弾銃を後方に放り投げた。
散弾銃が奪還作戦に向かないことに、気づいたのだろう。
そして、紫電の速さでジャケットの内側に手を伸ばした。

────気づくのが遅いんだよ。

私は床を勢いよく転がりつつ、固めたつま先をイヴァノフの鳩尾に叩き込んだ。
手応えあり、だが足首に激痛。イヴァノフは強かに足首に肘打ちを入れてきた。

足をロックされる前に素早く足を引き抜くと、私は猫のように床を転がった。

柔道の受け身の要領で床を平手で打ち、身を起こし、ジャージの腰の銃を抜く。
それと同時に、イヴァノフもゴツいリヴォルバーをホルスターから抜いていた。

そして二人とも同じタイミングで狙いをつけ、構えた。

「なんだ、あの蹴りは?それじゃあ蚊も殺せんぞ!」

イヴァノフは必死で強がっている、だがダメージは通ったはずだ。

「てめえこそなんだ、あの肘打ちは?鍼灸治療か?」

こちらも強がるが、正直な話足が折れていないのが奇跡に思えた。

「なるほど、知恵も軽口も回ると見える。油断した」
「油断?思っきし不意突かれといて負け惜しみかよ」

奴を静かに観察する、イヴァノフの銃口はブレてはいない。
このまま横に跳ぶか?だが、足の痛みもまだ引いていない。

ならば、時間稼ぎと行くか。実際、気になることもあった。
こいつに言ってやりたいことも、叩きつけたい言葉もある。

「西塔、なんでこんな手の込んだ真似をした?」
忘れはしない。遺物サイト-215での、あの研修の事を。
飲み比べに負け、二日酔いで挑まされた、過酷な生存訓練を。

「酒の恨みってのは怖いって事を、思い出させてやったんだよ」
「なるほどな、さっきの蹴りは生存訓練の成果と言うわけか?」

イヴァノフのこめかみが引きつっているのを確認、もう少し煽るか。

「それだけじゃねえ、あらゆる場所からの奇襲もだ。楽しかったろ?」
「それも、十二分に堪能させて貰った。貴様、本当にただではおかん」

ここまで煽っても、イヴァノフの銃口は微動だにしない。

────ならば、話題を変えて煽るか。

「おい、ロシア人。ここをどうやって突き止めた?」
「ナビがあってな、ポンコツだがそれなりに使えた」
「ナビ?おいおい……そりゃまさかあの道策メガネかよ?」
「その道策メガネだ。奴は電池切れで、車でくたばっている」

使えんナビだ、とイヴァノフは笑った。

なるほど、確かに道策は人一倍物覚えがいい。

その記憶力は、財団の兵站網ロジスティクスにも及んでいる。
それを使い、サイト-8100からここに到るまでの道のりを算出させたのだ。

だが、しかし……

道策の近況は聞いていた。企画部で、書類に埋もれていると。
あの過労死寸前の天下り官僚を、この男は限界まで頤使した。

「お前……人の心が、ないのか?」
「貴様にそれを言う資格はない!」

イヴァノフが声を張った、その一瞬のタイミングを私は見逃さない。
横隔膜の振動が銃を支える腕に伝わるその瞬間、銃の先端がぶれた。

足の痛みはほとんど引いていた。

────今だ

横に跳躍、足を狙い撃つ!

床を蹴って跳ぼうとしたその刹那、イヴァノフは、笑みを浮かべる。
リヴォルバーを床に落とし、跳ぼうとした方向に、腕を向けていた。

銃を握っていないはずの腕に、小型の拳銃が握られていた。

────袖口銃スリーブ・ガン

金属製のガードレールを袖口に仕込み、腕を伸ばす事で即座に銃を抜ける、暗器だ。
声を張ったのはブラフだ。私を誘い、一瞬の隙を作るために、奴はわざとそうしたのだ。

野郎、味な真似を。ならばその逆の方向に跳ぶだけだ。

私は思い切って床を蹴り、跳んだ。
イヴァノフは笑みを浮かべている。

いかに素早く引き金を絞れるか、それだけが互いの命運を分ける。

私とイヴァノフの銃口が直線で結ばれる。
乾いた音が響き、視界に閃光が炸裂した。

────撃たれた?いや、これは。

視界が真っ白な光に浸されて、目が見えなくない。
そして目に針が千本詰めこまれたような鋭い痛み。

全身の方向感覚が失われている。
顔には冷たい感触、これは床だ。

「がぁっ」

小さく呻きつつ、大事なものを思い出す。
そうだ、酒。片手に抱えた小瓶が、床に。

痛みに耐えて目を見開く、少しづつ視界が開けてゆく。
1メートルほど先に、あの手榴弾型の小瓶があった。

床を這い、瓶に手を伸ばそうとする。
視界の向こうに、イヴァノフがいた。

イヴァノフが腕を伸ばし、私の顔を思い切り掴んだ。
私も負けず、イヴァノフの顔面を全力で掴んでやる。

「ぎぃっ」

唸りつつ、互いの顔を掴みあっているうち、視界の隅に黒いものが映った。
それはブーツだった。その持ち主は私達を跨ぎ越した、待て、その先には。

私とイヴァノフ、その両方が争うのをやめ、ブーツの持ち主を目線で追う。

ブーツの持ち主は財団制式装備の作業服に、防弾ベストを纏っている。
それから腰には、缶コーヒーに似た金属の筒が幾つか固定されていた。

────閃光手榴弾か!

こいつはそれを私たちに投げつけた、と言う事だ。

そいつは悠々と歩いて行き、あれを拾った。手榴弾型の酒の瓶。

目線をさらに上げると、そいつが振り返るのが見えた。
顔があるんだかないんだかわからない、薄い印象の顔。

海野、私の同僚であり長年の腐れ縁。

「二人とも、動くな」

海野はそう言うと、防弾ベストに固定したホルスターから銃を抜いて私たちに向けた。

「おい、どうやってここまで来た?」

イヴァノフが尋ねる、当然の疑問だった。

「ヤマトモを締め上げたらここを教えてくれた」

あの役立たず……一番厄介なのを引っ張って来やがって。

「いい加減にしろよ、西塔。僕だって色々忙しいんだ」

くそっ、こいつ、なんか知らんが随分機嫌が悪いぞ。

「局長代理も、こいつにいちいち付き合わないで下さい」

床に伏したイヴァノフが、ぐぅ、と呻き声を上げた。

「とりあえず、二人とも大丈夫になったら起きろ」

海野は私たちに銃を突きつけながら言った。
私もイヴァノフも不承不承、起き上がった。

「そこに座れ」

海野はそう言うと、自身も床にあぐらをかいた。
そして腰のポーチを開き、奇妙な物を取り出す。

それは、3つのショットグラスだった。

さっきまで鉄火場だった場所には似合わぬ品だ。
その中央に、海野は酒の瓶をゆっくりと置いた。

海野は銃を私たちに振った、距離を詰めろ、と言う事か。
気付けば、私たち3人は車座になる形で床に座っている。

そして海野は瓶の蓋を開き、ショットグラスに注ぎ始めた。
一つを私、一つをイヴァノフに渡し、最後に自分のグラスに注ぐ。

私もイヴァノフも、納得できると言う表情ではない。
その表情を海野は見逃さず、銃を突きつけて言った。

「お互い遺恨もあるだろうが、これで手打ちだ」

私も、イヴァノフも、無言でグラスを受け取った。

「飲め」

海野は銃を突きつけながら言う。
なんだこいつ、今日すごく怖い。

私たちは言葉もなく、ショットグラスの液体を喉に流し込む。
果実の上品な甘みと酒精が溶け合う極上の逸品だった、筈だ。

しかし、この口に広がる苦い味はなんだろう。

盗んだ酒は、美味い筈だと思った。
だがこの味は、期待通りではない。

海野はイヴァノフと私を睨みつつ、ショットグラスに酒を注いだ。

「ま、いいか」

私は2杯目を勢いよく呷った。

〈オフィサー、ドクター、ソルジャー、スパイ〉
幕間『ODSS Oneshot ピッチャーサイズ』

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