オーハイ
評価: +9+x

財団エージェントのジョージ・バーシンは一枚岩の如き男だ。身長は二メートル近くで、角張った肩を持ち、ブルース・ティムのキャラクターにも似ていた。頭髪は剃られ、髭はさっぱりと整えられていた。スーツは特注品だ。なぜなら店頭に並ぶものが彼の体躯に合うことは滅多に無いからだ。

彼がグリーンの中心地に到着したのは夜明け後間もない六時のことだった。住居は隔絶されていた。それはオーハイから北方に伸びる高速道路の枝道の枝道を走り、碌に整備されていない一、二エーカーの低木地帯を抜けた所にあった。

バーシンは財団の異常宗教表現部門に所属している。カルトが担当だ。

"グリーン"とはバーシンがこれから対面することになるカルトの名前ではなく、コードネームだ。その本当の名前をバーシンは知らない。昨夜のブリーフィングによれば、セキュリティ上の合理的な理由により本当の名前が用いられないとのことだったが、理由までは説明されなかった。バーシンも決して愚かでは無く、真の名前に関わる認識災害が何かしらあるのだろう、あるいは記憶妨害現象によって記録に残せないのだろう、と解釈した。あるいは、長年に渡って財団研究職員とやり取りしてきた経験から来る想像だが、誰かが本当の名前を記録することを忘れて、それを誤魔化そうとしているのかもしれない。

仮にSCP番号が決まっていたとして、彼はそれを知らされていない。

*

家は醜い白の斑に覆われていた。平屋の木造で、二つと同じ様式の窓は無く……腐敗の最中にあった。ゴミや材木、錆びた車両部品が積み上げられ、緑色の汚水の溜まったドラム缶が複数あった。二面半の方向から柳とプラタナスが枝を伸ばし、葉や種子を始めとした諸々の有機物を屋根一杯に落として、雨樋を詰まらせていた。窓の向こうに見えるのは閉じられたカーテンとブラインドだけで、正面のドアは半開きだ。

バーシンは慎重に中へ侵入する。入口はそのまま広々としたLDKに繋がっていた。部屋は暗く、殆どの光は入口から注ぎ込んでいるものだ。バーシンはドアを開いたままにして、窓の遮蔽物の縁を手で探った。部屋は汚れていて、黴臭い。淀んだ空気はオーブンの中のようで、極端な静けさに支配されていた。唯一微かに聞こえるのは、興奮気味の話声だ。それは廊下を進んだ場所から来ているようで、言葉を聞き取ることまでは出来ない。

「― 蜂だ、ああ、中は鋭いもんだ。君が行動を起こしたら、それでつろいくうるうどすから血を流して ―」

バーシンは廊下を進み、壁に吊るされた、かつて鏡だった物体の脇を通り過ぎる。鏡面は黒色の塗料で塗り潰されていた。

彼は各部屋を一通り探索し、声の源を除いて建物が無人であることを確認した。最後の部屋に辿り着く。ドアは閉じられ、熱心な雑言が中から漏れ出ている。

「― 家なら、超簡単だ。一つ君にやるよ。簡単な2パートのプロジェクトだ、持っていけ。後、下のあるすあむぬすを忘れるなよ。パート・ワン:自分より弱い人間を見つける ―」

バーシンは強く、二回、ドアをノックした。

早口が止む。音は無い。バーシンはドアを開く。

部屋は暗く、窓は厚いカーテンによって遮られている。ドアの反対側の隅にパソコンデスクがある。デスクはこれ以上に物を置くことが現実的に不可能と思われる程に雑然としていて、一部分解されたハードウェア、USBキーボード、チョコレート菓子の包み紙、くず紙、ボールペンが散らされていた。ゲーミングマウスはがらくたに動きを阻まれている。良質なビデオカメラがセットしてあり、モニターと、それに映るビデオ映像、そして埃がある。

およそ二十歳と思われる若い男が、モニターの前の安っぽい、細身の回転椅子に居心地悪そうにもたれかかっていた。痩せていて、肌は血色が悪い。バーシンの目には栄養失調患者として映る。かつては洒落た髪型だったものは放置されていた。男が振り返ると、目の周りに輪のように生じた隈が見て取れる。一年は眠っていないかのようだ。臭いが鼻を衝く。部屋を満たす悪臭は、肉眼で見えかねない濃さだ。

異常な拡散/宗教現象、即ちこの若者を中心として金床雲のように存在するカルトが"グリーン"と名付けられたように、この若者は"レッド"の名を与えられていた。

「おはよう」バーシンは言う。「配信を見させてもらったよ。」

若者はヘッドホンを外した。「一体誰だお前は?」

「ジョージ・バーシンという者だ。私の勤めている組織は ― あ ―」

檻から解き放たれた狂犬のようにレッドは椅子から飛び上がる。ヘッドホンを放り、拳を突き出してくる。バーシンは自身の重心をわずかに左へ傾け、拳を避ける。彼はレッドの腕を掴み、激しく前へ引っ張り、向けられた運動エネルギーをいなして若者の両顎をドア枠に叩きつける。レッドは後によろめき、うずくまる。彼は速やかに体勢を立て直す。口角からは血混じりの泡が吹きこぼれる。彼は床に散らばったがらくたを漁り、はんだごてを手に取る。

レッドは再び前進し、バーシンは貴重なコンマ何秒かを費やして、はんだごてのケーブルが繋がっているか、電源がついていて熱を帯びているかを確認する。電源は付いていなかったが、その不注意はレッドを懐に入れるには十分なもので、若者は両手で使ってバーシンの腹に金属棒を突き込む。電気的な唸りとオレンジ色の火花が生じる ― 金属棒はバーシンの着衣を掠めたものの腹部からは逸れ、布に長い切断痕を残すことしかできなかった。皮膚は露わになっている。透明な防壁は、神話的な原理を一部に用いて、彼の一見すると無防備な頭と全身の他の部位を守っていた。

バーシンはレッドをヘッドロックで捕らえる。周到さを欠いた、当てのない蹴りが続く。レッドの内には悪魔のようなエネルギーがあったが、バーシンは、身も蓋も無い言い方をすれば、準備が出来ていた。続く何手かの動きでレッドは武器を奪われ、意識を失い、仰向けに寝かされ、己を助ける一切の動きを封じられた。

バーシンは戦闘を吟味した。本物の、命を賭けた戦いを経験した回数はまだ二桁にも届かない。今回の応酬はその中程の順位だ。15秒の交戦、互いに判断を誤った。良い学習経験だ。

「イントロの説明は省こうか」彼はレッドへ語り掛ける。「生放送型のベクターは新規性があった。今まで見たことのないものだ。従来の自己啓発本と収容所の組み合わせよりははるかに効果的だ。オリジナリティを評価して、十点中一点をやろう。しかしそれは十年前には予想されていて、収容プロトコルの準備は万端だった。放送サービスに人を置いているのだよ。今こうして話している間にも、あんたのアカウントがロックされているはずだ。そのチャンネルを通じて接種コードを流布する。」

バーシンは着ていたシャツを整えようとする。上手くいかない。まあ良い。

「しかしあんたはそのソースだ」彼は言う。「単なる接種コードは通じない。物理的な干渉が必要だ。」彼はジャケットの中に手を入れる。そこにはよく手入れされ、使用可能な状態の銃があったが、今回の対面では取り出さないことを選択していた。彼は代わりに視力検査用のスコープにも似た装置を取り出した。彼は膝を付き、レッドの右瞼を開き、スコープを向ける。装置は眩い白光を眼球全体に照射し、目を開いた状態で固定する。レッドの殆ど全ての筋肉が硬直し、確実に彼を床に張り付ける。彼は歯を食いしばる。

バーシンはレッドに語る。「この男は無実だ。あんたがそいつに与えた仕打ちを与えて良い人間など存在しない。彼を解放して、この現実を去れ。」

歯を食いしばりながら、レッドは言う「おまえは。一体。誰だ?」

「良いだろう」バーシンは別のボタンを押し、照射される光のパターンは純粋な白の円盤から、赤と青の複雑な渦巻く星型に変わる。肋骨がこじ開けられるかのような割裂音。若者は悲鳴を上げる。その声はレッドのそれとは違う。全身を使って奏でられる悲鳴で、苦悩と絶望が込められ、物理的に可能な最大の音量に達していた。それは腹から込み上がり、平坦に継続し、そして息が途切れると同時に吸気を挟んで、再び始まる。彼は背筋を折り曲げ、床に爪を立てる。二回の深呼吸を経て、声は咽び泣きに落ち着く。

「ちくしょう。俺をあそこに送り返さないでくれ。お願いだ。」

「分かってる。大丈夫だ。」

「送り返さないでくれ。目が見えない。そこにいるのは誰だ?」

「大丈夫だ。視力は元に戻る。私の名前はジョージだ。君は?」

「穴があるんだ」若者は喉を詰まらせながら言う。「それでどんどん悪くなる。止まらないんだ。底が無い。」彼は暫し無秩序に喚き、そして声を静かに途切れさせた。彼の視線は盲目的に周囲を彷徨う。

「今の君は相当不味い状態にある」バーシンは言う。

若者は激しく同意を示した。

「何かがおかしくなった」バーシンは語る。「そいつは、間違いの元凶のそいつは、君を攫って、君に成りすましていた。今もここにいて、君の皮を指人形のように扱い、歩かせ、喋らせてる。本物と同じように。君が経験している悪夢を、十万人もの人間が今経験している。それが悪いニュースだ。良いニュースは、君を捕まえられたことだ。まだ君がそこにいるのが見えるよ。良い確率でそこから助け出せるはずだ。」

「'良い確率'?」若者は二度呼吸した。「失敗したら ―」彼は目に見えて焦り出す。

「赤と青の渦巻きに集中するんだ」バーシンは言う。彼はスコープを若者の眼球に向け続ける。

「何に?何も見えない。」

「それは君が自分の視神経と最早繋がっていないからだ。しかし君を閉じ込めている何者かは、確かに繋がっている。渦が見えないとしても、それがどんな形をしているかを何故か知ることが出来るはずだ。形が、頭の裏の熱の広がりのように認識できるだろう。」バーシンは声の速度を緩めながら、催眠誘導のリズムを取り始める。「渦の観念が流れ込んでくる。広がり、花開く。より広いスペースを占有する。渦のことを考えるほど、君は渦以外のことを考えられなくなる。」

若者は返す言葉を持たないようだった。彼の呼吸は安定する。

「思考が遅くなる。」バーシンは続ける。「渦が君を満たし、雪の結晶のように同じ形を何度も作り、動けなくさせる。君の脳は毒されたことを知っている。たとえ目が見えないとしても、君は反射的に目を逸らさなければ、視界を遮らなければと考える。長時間の曝露は命を奪うだろう。」

長く、重苦しい沈黙がやってくる。その間、バーシンはひたすら有毒な光を若者の目に当て続け、それがまばゆく煌く様を観察し、眼球の反応を追い続け、終わりがやってくるのを待つ。明確なサインがある訳ではなく、幾らかの推測が必要だ。彼は確信が得られるまで待った。ようやく、彼はスコープのボタンから指を離し、電源を切った。

男はぴくりとも動かない。

*

バーシンは立ち上がり、膝を鳴らす。彼はリラックスし、ため息をつく。肩に入っていた力が幾らか抜ける。彼はスコープを懐に仕舞った。

「ミーム的な化学療法とでも考えれば良い。」彼は言う。専ら沈黙を絶やすための、自分に対する独り言だ。若者が聞こえるのはピンク色の弱々しいノイズだけだ。「渦巻き模様は初歩的な認識毒物(cognitopoison)だ。長期の曝露は死に至る。しかしほんの少しの曝露なら回復可能だ。君は毒から回復し、レッドは回復できない。君は生存し、レッドは死ぬ。なぜなら、君は、知性と創造力を備えた一人の人間で、レッドは……」

彼はブリーフィングの内容を思い出し、グリーン現象について教えられた事柄や、その最中でもだえ苦しんでいる十万人の人々について考えた。被害者の分布は地球全体に広がっている。レッドの凶悪なメッセージを送りつけられた家で何が起こるのか、写真を何枚か見せられた。多くを検閲された録音の極一部を聞かされた。

感情を差しはさまない者は現場でよりよい判断が出来るものだと、彼は何度も教えられてきた。しかし時として、感情を無視できない日はやってくるものだ。

「……全く。」

バーシンはしばらく部屋をとぼとぼと歩き回り、ハードウェアの幾つかをつぶさに観察した。先のはんだごての台座を除いて、注意を引くものは無かった。部屋の中央の細身のキャンプベッドにはみすぼらしい寝袋が乗っていた。彼は寝袋をどかして若者をベッドの上に乗せ、回復体位を取らせた。彼はカーテンを開く。鬱陶しいほどに日差しの強い日で、ちょうど窓の方向から太陽光が照りつけた。

最終的にバーシンは回転椅子を部屋の反対側の隅に引っ張ってそこに座り、患者の様子を見守ることにした。彼は財団支給の携帯電話をポケットから取り出し、酷く絡まった安物のイヤホンを解き始める。

彼はリラックスし、モノローグを再開する。誰も聞いていないかのように。

「実を言えば、私がここにくる必要も無かった。グリーンのような代物に物理的に干渉する方法は一つじゃない。最初の計画を教えてやろうか?衛星からレーザーを発射して脳天を一撃だ。出来るんだな、これが。実績も一度や二度じゃない。家だったものは材木の燃えカスに、そしてあんたはその真ん中の焦げたマシュマロだ。伝染性の、単独責任のミーム異常に対応するための、最新の方法だ。一切の酌量を与えず、最も離れた距離から、瞬きや恐怖の暇も与えず、詳細は構わずに。暴力的だ。冷酷だ。衛星を維持するのには大金が必要だ。我々はそれが最善だと自分に言い聞かせている。実際にそうなのかもしれない。知っているのは上層部だけだ。私は統計を見ることができないのでね。」

「しかし私は改善の余地があることを知っている。ファイルを読んで、あんたを見て……大穴に賭けた。全体の規模からすれば私はちっぽけな人間だが、なかなかに過酷なミーティングに出席して、普段なら指図する権利もないような人に向かって言ってやったんだ。要約にはなるが ― 事態の中心にいるのは、全くの無実の一人の少年だ。こんな目に遭って良いはずがない。少なくとも、形だけでも動かなければ、と。」

一つの影が部屋を横切る。バーシンは辺りを見回すが、存在は既にいなくなっていた。彼は気に留めない。

「そして私は言った訳だ、『うまくいけば、山ほどの予算を節約できるはずだ』と。一番注意を引いたのはきっとそこだろう。ともあれ許可は下りた。こうして私はここにやってきた。あんたを原子分解させずに、面倒な方法で、君の命を救おうとしている。一日中かかることだろうよ。六時間か、十時間か。心配しなくて良い、私にはポッドキャストがある。」

彼はイヤホンを解き終わり、片方を左耳に突っ込んだ。

「組織の人間はお前を大層嫌っていることだろう」とレッドが言う。

クソ。

バーシンは銃を取り出す。しかし遅い。当然、この状況で喋り出す人間がいるはずもない。出遅れた本当の理由は、その一言に狼狽えたからだ。聞き流すべきものでありながら、鋭く、不快な真実を射た側面があった。事実、誰もそのアイデアを賞賛しなかった。バーシンは長い間、徐々に語気を強めながら、年を重ねていく財団の監督者らに対して、戦闘よりも対話が重要だと唱えてきた。彼は何度も無視された。昨日、彼はようやく試みるチャンスを与えられたが、それも渋々のことだ。それ故に、おぞましい疑念が脳裏をよぎる ― 彼らは知ってたのか?彼らは私を見殺しにしたのか?

そうではない。そんなはずはない、当然だ。しかしもう遅い。彼が銃を取り出した頃には、レッドは上体を起こし、腹話術の人形のような笑みを浮かべ、バーシンの方へ頭を向けていた。彼らは目を合わせる。レッドの目は完全に見開かれ、バーシンはその向こう側をそのまま見て取ることが出来た。グリーンの認識が穴隙から飛び出し、バーシンの頭蓋に埋め込まれる。

彼は本能的に後退りし、接続を断つ為に目を覆った。彼は足を踏み外し、背中から椅子へ、部屋の隅に倒れ込む。彼のオレンジ色で結晶質のシールドは波打ち、通り過ぎた存在に対する独特の混乱を示した。シールドは断続的に不透過化し、バーシンの激しい呼吸を遮る。そして一瞬の内に消失する。

バーシンは、自分が今曝露したアイデア複合体を完全に理解する為の訓練を受けていなかった。彼の実践ミーム訓練は基礎レベルだ。渦巻き治療や類似の幾つかの治療を実行することや、普通の人間をドミノのように打ち倒すような特定の攻撃から身を守ることが出来た。しかし彼は入門レベルの実践者で、専門家でも、科学者でもない。グリーンの外観ですら、彼の理解を越えていた。デーモン・コアを目撃し、ルイス・スローティンによって殺された一人の男のような感覚。死への確信。唯一の疑問は、それがどれだけ先のことかだ。

レッドは足を振り上げ、ベッドから降り立つ。バーシンに向けられた笑みを崩さずに。「回転する赤と青の光だと?どれだけ遅れているんだ?」若者は大きく成長するかのように見え、その場に人型の穴を作り出しながら、背後の空間へ沈み込んでいく。バーシンは隅から抜け出すことができない。打ち付けられたかのように。じわじわと、静電気的な痺れが両手を侵す。

彼は自身の間違いを理解した。彼のやったことは、海を毒で染め上げようとするようなものだ。全てが見える。レッドが世界を見渡す時のグロテスクな視界、そして彼あるいは'それ'がもたらす、壮大で残酷な約束を。腐敗はそこかしこにある。侵された十万人は味見に過ぎない。胞子は現実の隅々まで行き渡っている。人々の肺に、意識に、言葉に、土地に、空に。蛆と癌と星のシグナル。どうして人がそんな考えを持とうか。誰がそれを望もう?

「あんたは ―」バーシンが声を向ける先は一人だ。レッドとそこにかつていた誰かに違いはない。救うべき男はいなかった。計画は端から破綻していた。

望んだことだったのだ。

「あんたがこれを望んだのか?」彼は声を絞り出す。「あんたを攫ったわけじゃない。招いたんだ。自分の魂を半分に割って、何の意味も無くそれを差し出したのか?あんたは、想像も出来ない存在の正面に抱き着いたんだ。結末がどれだけ悲惨なものかを理解していない。あんたは自分を殺したんだ。」

レッドは彼に向かって前進する。

銃。バーシンの意識は焼失しかけている。しかし一つの言葉が浮かぶ。銃。

それは二人の間の床に転がっていて、窓を通じて注ぎ込むオレンジ色の光によって照らされていた。バーシンは己に打ち勝ち、その在処に向かって飛び込むが、そこで彼は麻痺の進行が手だけを侵しているのではなく、それを認識する力をも奪っていることに気付く。それが軽度の反ミーム隠蔽効果であることを彼は知らない。唯一分かるのは、両腕の先に切断跡があることだ。銃は使えない。床の上で転がすことしかできない。彼は惨めさと無力感から悲鳴を上げる。レッドは彼を嘲笑い、それを蹴り飛ばすことすらしない。

「財団はあんたを止めるだろう。」バーシンは声を絞り出す。マントラのように。

"財団"という言葉をどこかで聞いたことがあるかのように、レッドは頭を傾ける。「そいつらはお前のように弱いのか?」

彼は意識を研ぎ澄ます。理解は双方向だ。バーシンは朧げにレッドが表す存在を理解し、同時に、レッドはバーシンが表す存在を理解する。レッドは、バーシンをこの場所に送り込んだ組織の権力機構を認識する。レッドは"放送サービスに置いている人"の影を認識する。そしてバーシンの知らない、敷地の周囲をうろつく機動部隊が、届くことの無い指令を待っていることを認識する。レッドは四、五人の"暴力的な""冷酷な"スーツ姿の人間が上層で作戦を組み上げ、主導していることを認識する。一人は手持無沙汰を紛らわそうとレーザー攻撃用のキースティックをいじくりまわし、親指の背を軸に回転させようと試み、何度も落としていた。

レッドが探ることの出来たヘッドスペースはそこまでだ。レッドの存在を知る人間はそれだけしかいない。それがリストの全員だ。

影は再び太陽を遮る。前と同じく、しかしもう少し長く。レッドは窓を通じてそれを一瞥する。彼が小さく頷くと、影は去る。

バーシンは肩まで殺され、横向きに転がる。どの言葉が最期の言葉になるとも知らず、彼は言う。「あんたは自分に主導権があると思い込んでいる。でも殺されるのはあんたも同じだ。あんたをそこから出してやれる。収容の手助けをしてくれても良い。」

レッドは同じ笑みを張り付けながらしゃがむ。「俺を見ろ。見ろ。」バーシンは見る。選択肢は無い。痛む。レッドは確実に聞こえるような音量と明瞭度で答える。「断る。」

「ザ……ザィン スリー フォー シックス。サメク シン。」バーシンは小声で唱える。

レッドは瞬きする。「何?」

何かの電子音が鳴る。

「アエ スター」バーシンは唱える。「アエ スター」

「クソ。」レッドは警戒を露わに周囲を見回す。携帯だ。バーシンの携帯電話の居所を見ていなかった。彼はそれがベッドの下にあるのを発見する。携帯をつかみ取る。音声認証インターフェースが起動していて、認証は完了しかけている。「停止。キャンセル。戻れ。」何も起こらない。声が違う。彼は携帯を落とし、慌てて拳銃を手に取る。

「ザエロチ アナエオラ。発射。」バーシンは言う。

レッドは携帯電話に弾丸を撃ち込む。二発目はバーシンの頭蓋に。

彼は警戒しつつ天井を見上げ、待ち、警戒する。彼は待つ。

しかし何も起こらない。

Next: インメモリアル

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。