面影
評価: +40+x


 サイト-8181には窓のない通路があった。どうしてそこの壁だけが塗り込められてしまっているのかは、よく知られていない。白磁のごとく一面真っ白い空間は、春先の陽気にそぐわない肌寒さを覚えさせる。ブリーフケースを片手に自室への道を辿る脚はひどく鈍く、このまま停止してしまうのではないかと思われるほどどこか脆さがある。私は狐面を外した。この時間にここを通る人間は、ほとんど存在しない。先程よりもくっきりとした視界には、やはり白い空間が映るのみで、私は歩を進めるのが億劫になった。

 既に医局から報告は受けている。

 サイト-8181の運営するフロント企業の病院に入院している私の伴侶は、出産を機に急に来なくなった私に対して、不満を抱いているようだった。妻は、全て知っている。私がこの仕事を続けているうちに、ある日突然のように、この世から消えて無くなる可能性があることを。そしてその時には、きっと何の言葉も残せないであろうことを。

 どうして辞めなかったのだろう。その気になれば、この仕事を辞めることも出来たはずだ。それをしていないのは、どういったことなのだろう。今踵を巡らして、一筆取って辞表を書けば、それで済む話であるはずだ――。

 取り替えられたばかりの蛍光灯の輝きは、少し度が過ぎるように思われる。むしろ涼しいぐらいであるのに、私は白む視界に目眩を感じた。レジ袋を握っている手が急に弛緩して、どさり、と床に落下する。無惨にひっくり返った購買の弁当を元に戻すと、胸のポケットに入っていた職員証が落ちてしまった。

 小さな枠に収められた自分の顔と、目が合う。

 すぐにそれを拾い上げた私はしばしの間瞑目すると、雑念を飲み込んで大きく息を吐いた。真っ白な壁と床は、私の思考を吸い出すかのような錯覚を起こさせる。上下左右に広がるスクリーンに、観念とも呼べぬ悪夢のようなイメージが広がる。それは明確な形を持たぬ故、私を安心させるに足る抽象となり得ない。

 いつの間にか私は、狐面を着け直していた。

 視界が狭まると、悪夢も消えた。


「……はい、もしもし」

 遅い夕食を終えた私の元に、一本の電話があった。誰かを確かめるまでもなく、それは妻だと分かる。このところ姿を見せない私に痺れを切らし、毎晩電話をするようになっていたのだ。

「もしもし、あなた」

 今日はやけに明るい調子だと思った。あれだけ人を心配させたマタニティブルーの要因はどうやら陣痛への恐怖以外になく、それを乗り越えたことで妻の精神は完全に復調し、というよりも高揚しつつあるのかもしれない。

「今日ね、月餅が、私の顔を見て笑ったの」

「そう」

 出来るだけ楽しげな口調で返してやると、それから、妻の一日の報告が始まる。今日は何処何処の奥さんの誰々が来てくれた、だとか、新しい看護師さんと仲良くなった、とか、話す種は尽きないようだった。話に耳を傾けながら、私は脳裏に妻の表情を描く。どう考えても笑っているとしか思われないような声音であるのに、私はどうしてか冷や汗を背中にかいている。

「――どうしたの」

 急に話をやめた妻の声に、私ははっと我に返った。

「……なんでもないよ。続けて」

「もう話は終わり」

 妻のため息が続く。見上げたテレビの中では映画がクライマックスを迎えていて、恋人同士が抱き合っている。無造作に画面を消すと、急に部屋は静かになった。

「最近、何かあったの?」

「別に」私はにべも無く答えてみせる。「何もない」

 今の妻の顔を思い浮かべるのは苦痛だった。全面的には私に非があることは分かっていた。むしろそうだからこそ、それが怖いのだろうと思えた。

 一日の報告をしている間とそれほど変わらぬ調子で、妻は滔々と話を始める。カウンセラーの人はこう言っていた。医者はこう言っていた。████さんのときはこうだった。

 私の意識は話そのものよりも妻の表情にあった。いや、それは正確でない。妻の顔を恐れている自分にあった。目まぐるしく私の中の感情は推移していく。何をそんなに恐れているのかは、既に明らかなことであった。

「だから、あなた」明るい口調。「一度会って欲しいのよ、月餅に」

「………………」

 生暖かい何か黒々としたものが、胸を降っていく。妻の言葉の切っ先は私の心の真ん中に突き立っていた。私は思わず机の上に置いてある狐面を見やる。写真では何度もみた息子の顔は、ちょうど自分に似ていた。もちろん、狐面を外した姿の自分に。

 狐面をした男がそう言ったところで、きっと誰も理解できないのだろう。そしておそらく息子も、そうは認めてくれはしない。狐面を父親と教えられる子供などぞっとしない。

 狐面を外した男が言っても、同じように理解はされないだろう。

 知っている。知っているそんなこと。

「もしもし?」

「……今、忙しいんだ」

 再びため息が聞こえてくる。分かったわ、という諦めの声とともに。私は妻の表情を想像するのをやめていた。

「おやすみなさい」という一言を最後に電話が切れてからしばらくしても、私はその場から動けずにいる。

「…………」

 机の上には、こちらを見る息子の写真が飾られていた。




 帰ろう、と舞奈が言った。僕は頷いて、荷物をスクールバッグの中に詰め込み始める。土曜の授業は午前中で終わってしまうから、部活のない僕らはもう帰るしかない。

 ████さん家の一人娘である舞奈は、一つ年上の、僕の幼馴染ということになる。母親の説明によれば、僕の父親と舞奈の父親はもともと同僚で、そこから家族ぐるみの付き合いとなったらしい。とは言っても僕自身は舞奈の父親と直接会ったことは一度もなく、だいぶ前に見せてもらった舞奈の父親であるという写真には明らかにペンギンの抱き枕を被った人間が映っており、どこまでこの話が本当なのかは分からない。

「ねえ」舞奈がボブカットを揺らしながら振り返る。「今日うちに寄ってかない?」

「うん」

 二つ返事で承諾した僕は、ふっと母親の怒気迫る表情が脳裏をよぎって顔をしかめた。最近帰りが遅いと口うるさく言われたばかりであったから、事前に連絡をしておくべきかもしれない。

『え? お母さん今████さんの家にいるけど』

「………………」

 先を越されていた。

 電話口で呆然とする僕を見て、舞奈は苦笑した。その笑顔は眩しく、すくなくともペンギンの遺伝子を継いでいるとは思われないのだが、彼女のかばんには今日もペンギンのチャームがぶら下がっている。

「舞奈ってさ」

「うん?」

「本当にお父さん大好きだよね」

「そりゃそうよ」

 ペンギンのチャームを誇らしげに揺らす舞奈は眉を上げて見せる。そう言う彼女も、物心ついてから父親に会った回数は数十にも上る程度で、やはり一般の家庭よりは少ない。しかし全く一度もその機会を持つことのなかった僕からすればそれでも十分羨むべきことで、このことを話題に出すたび母親は嫌な顔をする。

「月餅のお父さんはどんな人なんだっけ?」

 僕ら二人の間でこの話題は既にタブーではなくなっていた。

「なんだっけな……かっこよくて、優秀な学者で、優しくて、ぬいぐるみが大好きで、あと……」

 母親の情報は極めて偏重していると言わざるを得ない。どこがってあまりにもポジティブな情報ばかりが集まりすぎている。僕の出生とともに死んだ父親の写真は一枚も残っていない。そんなに大好きな夫の写真なら一枚でも残してあるのが筋というもので、母親が「これでいいのよ」の一点張りなのはいかにも怪しい。

 別に僕が橋の下で拾ってこられた子供だとは言わない。きっと母親の言う通り僕の父親は虎屋外郎という男で、母親が再婚を拒むほどには優しい人間で、そして僕らが未だ暮らせるほどの庇護を与えられるほど優秀であり――そして僕がその顔を見る前に死んだのだろう。それを疑おうというほど僕も擦れていない。

 でも、僕の前に一度くらいその姿を見せてくれても良かったのではないか。

「うちのお父さんと外郎さんはとても仲が良かったのよ」

 ████さんは毎度のことのように笑顔で言う。

「本当ですか」

 僕のその問いには疑義が含まれている。




「あ、これは虎屋博士」

 翌日。

 エージェント・マオは珍しくペンギンの抱き枕機密防護を脱いでいる。その頬はやけに緩んでおり、先ほどまで託児所にいたであろうことは一目でわかる。

「こんにちは」

 そそくさと逃げるように進んでいく私を、案の定マオは呼び止めた。「ちょっと」私が面倒そうに狐面を外すと、一瞬ぎょっとしたエージェントはすぐに平静を取り戻した。「お茶でもしませんか」

「………………」私はすぐに答えるような真似はせず、左手首の腕時計を見る。こんな動作をしたところで、相手には湯気の立つ唐揚げしか見えていないのだからたちが悪い。ややあってから、私は答える。「分かりました。40分程度なら」

「おめでとうございます」

 マオは運ばれてきたモンブランにフォークを突き立てながら言う。ありがとうございます、と形ばかりの返答を寄越した私の表情が今どんななのかは、この男の知るところではない。私は最大限不貞不貞しい表情でいようと決心して、背もたれに肘をかける。少し古い椅子は不安な音を立てた。

「男の子だと聞きましたけど、名前は?」

 随分耳が早いな、と思ったのは単に私が迂闊であった。もう息子の出産からは五日が過ぎようとしている。決して狭くはないサイト-8181だが、既に端々にまでこの情報が広まっていてもおかしくはない。マオは興味津々と言った様子でこちらを覗き込んでいるが、その視線はやはり私の目には合わせられていない。唐揚げとしての私に視線を合わせているせいで、どこかあらぬ方向を向いているのだ。

「ええ。一応、名前は決まってますよ」

「本当ですか。なんて付けるご予定なんです?」

「月餅。月に、餅です」

 それを聞いたとたん、マオは俯いて喉を鳴らすように笑い出した。フォークを皿の上に投げ出して目尻を拭うエージェントに憮然とした私は「そんなにおかしいですか?」と、それなりに怒気を含ませた調子で問う。マオは首を振ってそれに答えようとしていたが、笑いが収まらないらしく言葉が続かない。

「……い、いえ、あの……ふふ、はは」氷の溶けかけたお冷やを飲み下したマオは、ようやく落ち着きを取り戻す。「……う、"ういろう"と"すあま"の子供が"げっぺい"なんて、なかなか、聞かない冗談ですよ」

「……人のネーミングにケチを付けないでください」私はそこで、初めてアイスコーヒーに手を伸ばす。「もう役所にはそれで提出してるんですから」

「もう提出してしまったんですか」

 肩をすくめたマオは、額に皺を寄せて驚いた振りをする。馬鹿にされていることは明らかだったが、虎屋家の掟の上でこの名前は必定とも言える訳で、それを部外者のこの男に非難される謂われは本来無いはずなのだ。にもかかわらず癪に障るということは、少なからず自分にもこの名前に対する後ろめたさがあったのかもしれない。とはいえ、後ろめたさで子供の名前を変えてくれるほど役所も暇ではない。

 私が――おそらく相手には伝わらないだろうが――不機嫌そうに黙っていると、マオは「すみません」と少し頭を低くして謝ってきた。

「別に怒っていませんよ」

 それはよかった、とマオは安心したように軽く数度頷く。いつの間にか皿の上のモンブランは跡形もなくなっていて、先程の誠意ある謝罪に疑問符がつく。

「……一つお聞きしても?」

 紙ナプキンで口を拭いたマオは、急に声を低めた。私はただならぬ雰囲気を感じ取って、背もたれにあった肘を机の上に載せた。

「なんです?」

「虎屋博士が、実はまだご子息と一度も顔を合わせていないと聞いたんですが」

 マオの顔を凝視する私は、一方でこの男の言い方からして深い事情について知らないのであろうことを直感しつつも、また異常な不安に駆られ始める。すぐには適切な答えが浮かばず、私は押し黙るほかない。

「………………」

「何も、問題なかったんですよね? お子さんには」

 たぶん、妻を経由して得た情報なのだろう。マオの妻は去年に第一子となる女の子を出産していて、うちの妻の先輩ということになるのだ。私が顔を出さないうちに、色々相談に乗ってもらっていたということがあったのかも知れない。

「なにか不味いことを聞きましたか」

 マオはいつになく私に気遣いを見せた。そんなにひどい反応をしていたかと自分の顔に手をやって、自分が今唐揚げであることを思い出す。マオの問いはごく自然なものだ。一昨日の琳谷博士との面談でも同じことを聞かれて、同じように私は返答に窮した。

「色々、忙しいことが重なっていて」

 妻にしたのと同じ言い訳を使うことが、いかにまずいかは知っていた。マオは妻と違って私の仕事量を知りうるのだから、この言い訳が実際の事情と異なる"表向きの意味"として捉えられかねない。マオはそれを知ってか知らずか、「そうですか」と簡単に納得して見せた。

「お互い家族には自由に会えない身ですからね」

 娘のいる託児所に入り浸って業務をさぼるエージェントにしては随分偉そうな物言いだと私は内心皮肉ったが、話題を逸らすにももう少し穏便な方法というものがあり、ここでは口をつぐんでおく。

「ところで、マオさん」

「はい?」

「託児所って今空きあるんですか」

「どうだったかな」マオは少し考え込むように首を傾ける。「……小豆ちゃんに聞いてみましょうか?」

「いえ、それは申し訳ないので」

「お忙しいのでしょう?」

「大丈夫ですよ」

 当てつけなのかどうかは判然としないが、私は断っておくことにする。渉外のエージェントだけあって会話に隙がない。残りのアイスコーヒーを全部飲み干すと、急に腹の底が冷えてくる。

「お時間、大丈夫ですか」

「あ、いえ――そうですね、確かに」

 机の下に置いてあったブリーフケースを取り上げて席を立つと、マオもそれに追随する。伝票に伸ばした手が空をつかみ、マオがにやりと笑う。

「これは私のおごりです。その代わり、息子さんに会いに行ってあげてください」


「虎屋です」

 妻の病院に来るのはこれでもう何度目か分からない。だが、出産後に来るのは初めてだった。

「こちらですよ」

 案内をするベテランと思しき看護師は、さっきから私の奇妙な出で立ちに違和感を隠せない様子でいる。ぼそりと「本当に狐なの……」と呟いたのが辛うじて私にも聞き取れていて、妻が私の恰好について触れ回っているのであろうことは容易に見当が付く。

「今はお昼寝中ですね。普段は人一倍動くんですけど」

「そうなんですか」

 ほかの子供が泣き叫ぶ声が充満する部屋にあって、看護師は慣れた様子で歩を進めて行く。私は初めて入る新生児室の雰囲気に気圧されて、落ち着きなく周囲を見回している。並ぶ子供の顔がすべて我が子のように思われ、首を振って正気を繋ぎとめる。

「ほら、月餅くんですよ」

 看護師の左手の先には、小さなベッドに横たわる小さな赤子がいる。その両目はぴったりと閉じられていて、四肢は胴に比してまだ伸び切っておらず、その眠る姿は安寧を体現するかのごとくある。感動のあまり隣にいる看護師に振り向くと、ぎょっとした様子で視線をそらされた。

「お父さん、ここに来るのは初めてなんですよね」

「……は、はい」

 責め立てている、というような発音ではなかった。にもかかわらず、私はあからさまな動揺を以て看護師の問いに答える。看護師はふっと慈しむような笑みを見せて、数度頷く。

「そういうお父さん、時折いるんですよ」大抵は、一度来れば治るんですがね――と付け加えた看護師は、メモパッドに視線を落とす。「もう次行かなきゃ――じゃあごゆっくり。三時からは授乳の時間なので一度出た方がいいです。それじゃ」

 早口に言い終えるが早いか、看護師は小走りに駆けて行ってしまう。その背中を呆然と見送った私は、なす術なく立ち尽くすことになった。ベッドの上で無防備に眠りこけている息子に再び目をやると、先ほどと同様の感動が再び沸き起こってくる。私はもっとよく見ようと狐面を取ろうとして、思いとどまった。

 もし息子が目を覚ましたら。

 忘れていた危惧が心中を支配する。どす黒く渦巻く悪夢は息子を前に消えたわけではなく、まだ現実的な危惧としてその灯火を維持している。視界の狭隘さは幻視を防ぐに足るものだったが、それでは息子の姿がよく見えない。

 さっきから眠っていたはずの隣の子が、私の狐面を見て泣き声を上げ始めた。慌てた私は息子のベッドから後ずさるが、そんなことは意に介さず月餅は眠り続けている。窓の向こうの親御さんらしき人が非難の視線を私に送ってきたが、そんなことに構っていられるほど私は冷静ではいられなかった。

「どうしたら」

「なにやってるの、あなた」

 その声には聞き覚えがあった。




「うちの旦那、外郎さんが亡くなったって聞いた途端急に引きこもってしまって」

 ████さんが昔を振り返るときには、必ず顎に手を当てている。もう何度目か聞くお話を聞き流しながら、僕はそんなどうでもいい手癖に気が付いた。何故か家族みんなから『マオ』というあだ名を与えられている████家の大黒柱は、今はもうずいぶんと出世して、家族ですらその所在をつかめないほど遠くに単身赴任中なのだという。

「あ、でも舞奈ちゃんはほんとに小さかった頃、外郎さんに会ってるのよ?」

 え、そうなの?――僕が振り返ると、舞奈は「うーん」と首を傾げた。小さかった頃といっても、僕と舞奈は一歳差なのだからたぶん舞奈が生まれた直後ぐらいのことのはずだ。覚えていようはずがない。

「なんか、こう。断片的には覚えてるんだけど」

「どんなだった?」

「なんだろうな、うん、唐揚げ?」

「は」

 途端に母親二人は席を立った。

「ああ、そうだった。今日の晩御飯は唐揚げなんだった」

「手伝います」

「あれ。今日はカレーって」

 舞奈が怪訝そうに尋ねたのを、████さんはぶんぶんと首を振って否定した。

「実は小麦粉が余ってたの! ちょうどいいから使っちゃう!」

「そうなの? 手伝うよ」

「あ、僕も」

 あからさまに二人は何かに動揺している様子だったが、さっぱり見当もつかない。

 けどまあ、唐揚げは好きだから問題ないのだけど。




「もう、来るなら来るって一言連絡入れてよ」

「ごめん」

 頭を掻いている私にそっと微笑みかけた妻――寿甘は、私の顔に手を伸ばして狐の面を取り外した。マスクをした素顔が露わになると、窓の外の人が騒ぎ立て始める。

「手、握って。そうじゃないと顔、見えないから」

 このところの入院生活で少し顔のふっくらした妻は、少し恥ずかしそうに手を差し出してくる。私は年甲斐もなくどぎまぎして、人目を憚るように差し出されたその指先をつかむ。

「これで落ち着く」寿甘は私の頬が赤いのに目敏く気が付き、悪戯っぽく相好を崩す。「熱でもあるの?」

「いいや」

 すると、急に笑い声が聞こえてきた。視線を落とすと、月餅が眠ったまま笑っている。

「月餅は、手をつなげば見えるようになるかな」

「……分からない」可能性は、決して高くはないだろう。寿甘が不安そうな顔をしたが、嘘は吐けなかった。「この子には、幸せになってほしい」

「私たちだって幸せでしょう」

「そうだね。でも――」

 私は妻と息子の顔を、交互に見つめている。

「……パパはお前たちと、普通に暮らしたかった」


特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。