オリンポスの斜面にて
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かつてアンドリュー・マクレガーと呼ばれた新たなる神が次元の裂け目から落ち、山間に荒々しく衝突した。彼は心を落ち着かせ、立ち上がった。太陽と月に呼びかけ、自らの力の源に手を伸ばしたが、何かが遮った。空中に層がある―かの神はほんの数秒しか顕現していなかったが、人間界を十二分に理解していた。しかし、彼の目論見を阻止したのは、軍靴を響かす一隊ではなかった。

人の子らが接近した―彼に似た者達が。小隊は銃を携え静かに歩み寄った。如何にして銃なるものを知ったのか。如何にして自問なる営みを覚えたのか。

何故天に希うこと能わぬのか?

進軍、停止、散開。兵士達はその間も敬遠し続けていた。兵のリーダーが小型の黒箱を取り出し、身体の前に掲げた。箱は彼の聞きなれぬ言葉で矢継ぎ早に話し始めた。…否、それはただ一言だった。幾つもの言語で繰り返し、繰り返し。ようやく彼はその言葉を理解した。「ハロー」と。

「ハロー」戸惑いつつも彼は応えた。

女隊長は箱を再び掲げてその中に話しかけた。「多くの疑問を抱えておいででしょう。ついて来てください。我々がお答えしましょう」箱は単調にそう話した。

「選択肢があるとは思えん」と彼は口にした。箱は彼の言葉をブーブー鳴り散らす喚き声に訳した。

兵士長は耳を傾け、ヘルメットを取って艶やかな笑顔を露わにした。「ではこれより友として、貴方を安全な場所へお連れしますね」彼女は通信機を介してそう言った。

この日がアンドリュー・マクレガーの、神としての幕開け。 彼はオリンポス山に降臨し、自ら収容を受け入れた。
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「ま、コイツは駄目ね」マリア・アルバラード博士はスクリーンに渋い顔を写した。「fMRIでも通常人類との差異はほぼ見当たらない…。ここをご覧なさい、扁桃体に横紋がある…って言っても、ウチが探しているのはこんなのじゃないけど」

分厚いガラスを隔てた先で、画像形成機は緑色の線を出力し、壁掛け式現実錨が絶えずパルスを放っている。解析室は窮屈で、SRAが低く唸りながら熱を発しているようだった。マリア博士とその研修生は揃って汗を滲ませた。

ガース・クリステンセン博士は、出力された情報とマリアに渡された標本のグラフとを照らし合わせた。「それで、このデータは、彼が志願者となるのに必要な異常性質の最低値を示しているのですね」

そいつにはキミが見てるデータほどの化け物になる必要はないわ。まあ、そうねえ、せめてその10%以内は欲しいわね。自信がないなら上にはこう報告なさい。利用可能なタイプ・グリーンをみすみす取り逃がすよりも、予備の収容房に資金をかけるべきでしょう、とね」

「分かりました。それで、より良質な志願者がやって来るまで現状維持、ということですね」

「まあそうね。私が収容手順をこの手で発表するチャンスが来るまでは、あなたにここを出て行かれるのは忍びないわね。しばらく私に従ってもらっちゃうけど」

「いえ、先生がここにいてくださって良かったです」

マリア博士はにかりと笑った。「機動部隊にいるあなたのお友達が私をどんな風に見ているかは知ってるわ。彼らには今すぐ私を消すことは出来ないもの。私がその気なら彼らの脳髄をごっそり取り出したいものだと、皆そう思ってるのよね」

「そんな、何をおっしゃいます。彼らは間違いなくそのようなことはー」

「間違ってないわよ、彼らは」マリア博士は口角をさらに上げ、柔和に微笑んだ。ガース助手にとって冗談には思えない笑みだった。
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かつてD-822-46と呼ばれた新たなる神が次元の裂け目の外に浮かび上がり、山間に降臨して雪面上を低空浮遊した。女神に具わる兎耳がぴくりと回転した。沈黙があった。

兎耳が引っ込み、女神の顔は鼻の下まで縦に裂けた。かの舌は三つ叉に解かれて蔓状に形を変え、空気の揺らぎを吟味した。何者かが周囲の丘に居るのだと。

隊は雪の下に潜んでいたのだが、女神は彼らの全てを舌で嗅ぎつけていた。防護服に身を包んだ、女隊長と同じように。彼らには恐怖の臭いも怒りのハムノイズも届かなかった。彼らにはただただ覚悟が決まっていた。狩りに来たのだ。

女神は尊顔を元に戻し、前線に立つ隊員の位置に意識を向けた。狩人は躍り上がり、銃を放った。弾丸は湖に落つ玉石のように、彼女の身体をさざめかせ、殺意なくかき消えた。隊に広がる動揺の味が、彼女の血を滾らせた。

女神はパン、と狩人を野イチゴのように四散させ、圧搾乾燥し、彼の体内の液体を自らの周囲に渦巻かせた。女神は次なる敵目掛けて跳躍した。血と粘液がたなびいて彼のヘルメットへと放たれ、内側に漲り、彼の鼻と口から怒涛の如く逆流し、破裂するまで彼の肺を満たした。女神は仰け反って甲高く歓喜の声を上げた。

重低音が山間をこだました。その時、―あの女神にとってさえ―否定し得ぬものが、地面へと殺到した。その力は遅々たるものだった。女神は凄まじい喜色を纏い、風に向かって疾走した。

何者かが女神の身体を押した。それは虚空へと向かう引力。女神は子供の取っ組み合いのようにそれを振り払った。引力は本物だった。女神の持つ力に似ていた。彼女がかつて力の器から飲み干し、自らの身体に収めた力。

女神は彼女を無力化せんと試みていた者を急襲した。歯を剥き、女神の念が戦士を上回り、昂ぶり。戦士が女神を変えることは叶わなかった。破顔一笑、女神は螺旋を描いて急加速し、隊員達の肉体を白雪の上に四散させるほどの力を衝突させた。残存兵達は隊列を崩し、一斉突撃にかかった。女神は勝利を確信した。女神は業火に身を包み、彼らを竦ませた。

ある者は地を駆け、またある者は女神がそうしたように空を一直線に飛翔して、女神に接近した。女神は兵達の持つ機器から発され、空気を漂っていく言葉に気がついた。何と言っているか、彼女は理解しなかったが、その意味することは感じ取れた。捨て鉢、という作戦を。

岩石が地より立ち出でて女神を襲った。彼女は手のひらをさざめかせ、兵士達を飛び彷徨う蛾の群れに変えた。この女神狩りのインシデントにおいて、隊の中で唯一人、念を女神の胸の中に至らせ、引力を発した勇士がいた。女神は自らの身体が破り開かれるのを感じた。捻れ、引き裂かれ、骨が露出し、心臓が刺すような冷気に曝された。

されど、かの女が身は、この国の人にもあらず。俗世の理は女神を縛らない。肋骨が打ち開き、伸長、命中した。勇士の同胞達が半ば命を請うてバタバタと事切れるまで、それは続いた。

女神は、勇士の体内に突き刺さった骨を通して、彼の絶叫を聞いた。女神は彼を手繰り寄せ、彼の形態をヒトに戻し、自らと彼の身体を再形成した。女神は彼の身体を自身に取り込んだ。そして隊員達を、魂魄を、目にした全ての人間を自らの中に取り込んだ。他に誰もいなくなるまで。唯一存在する生命が女神の中で息づくまで―

その時、巨大な鉄網が死屍累々の上に降ってきた。女神がそれを消し去るより先に、あの重低音が再び迫り、止め処なき力が彼女の脚にぶち当たり、大腿より下を刈り取った。女神は絶叫した。突如、彼女は身体に無数のダーツの矢を生やした。女神は地に堕ち、槍に貫かれた。槍は彼女を肉塊に変えるほどの稲妻を浴びせた。

女神は再び慟哭し、苦悶が混沌の花を咲かせた。鋭利な骨が地面から次々に飛び出した。蛇の怪物が山間から咆哮した。歯と棘の嵐が女神の周囲で吹き荒れた。

隊は散開したが、速やかに再編成し、訓練通りの陣形に展開した。隊長が怪物に向けて反抗の声を上げた。彼女は自らが横たわっていた場所から、女性用ヘルメットを通してでさえ、怪物の所在を聞き分けてみせたのだ。蛇のクリーチャーは踠き、鱗が綻び、筋肉は即座に灰と化し、黒染めの骨格が地に崩れ落ちた。隊の一人は時間の流れそのものを緩めて女神の発射物の弾速をのろのろと遅め、その隙に別の隊員がそれらの弾を柔らかくも哀しげな歌を奏でる睡蓮の花弁に変えた。

女神は自らの再構築に努めたが、傷は余りに深かった。女神の身体を貫く銛が再びバチバチと音を立て、そして何もなくなった。

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マリア博士は骨鋸を置いた。彼女の軍手、エプロン、それからマスクは、いずれも神の血で斑紋が付いていた。

かのクラスⅤ現実改変実体は鉄棺の中、青褪めた裸体を晒し横たわっていた。それが意識を失って以後、その身体はヒトの形を取り戻した―膝がある筈の位置のすぐ上から引き千切られた両脚を除いては。アキレウスの踵が使用した銅ウラン合金製砲弾は、撃ち損じた場合ですら、標的の周囲の局所的現実性を強めるようだった。

クラスⅤの頭蓋骨の頭頂部もまた失われていたが、これはマリア博士の手でなされたのだった。彼女はむき出しの脳へと消息子を几帳面に挿し込み、実験の各段階についてガース助手に説明しつつ、壁掛けスクリーンに映し出されるfMRIの出力映像を時折一瞥した。

「プロジェクトの発足当初は、何処に手がかりを置くか探るために、刺激への反応を利用する必要があったそうよ。つまり、こうしている間にタイプ・グリーン達に話しかける必要があったの。想像できる?

ガース助手はマリアの手から視線を決して離さず、彼女がケーブルを脳組織に挿し込む時も、只管そのケーブルを見ていた。「それで、基本的にはシステムの指示通りの場所に分流器を設置するだけですが、コンピューターを停止しましょうか」

「うん。『これは脳外科ではない』と言うべきでしょうね。ただ…そう、ソレを除けばね。でも最終的に生命維持装置に繋ぐのとはわけが違うの。右にプラグを挿してみて」マリア博士は微笑し、彼女自身の無頓着さにガース助手が身震いするのを眺めた。嗚呼、ここらが潮時ね。私はこの哀れな僻地から出ていきましょう。ガース博士なら自分なりの持論を持ってここに居座れるでしょうし。

「挿しました。おや、これは見たことがあります。かなり単純に見えますが。導線と生命維持装置を準備しましょうか」

「しめたわね。なら彼らを集めなさい。ここの収容房は彼らを留めるのに72時間しか保たないけど、それだけあればサイト-48への移送には充分。そこで処理を終わらせて、彼ら全員をブチ込むわ。何か質問は?」

「何故我々はこれほど多くの者を求めるのです?何故これほどまでに強力な者を?我々はここで、本当は何をしているのでしょう?オルフェウスについては存じておりますが、何故彼らは70年を経てなお、私をここに割り当てたのでしょう?」

マリア博士は眉を顰めた。「それ、大事なこと?」

「私にとって重要なのです」

マリア博士は嘆息を噛み殺した。「オルフェウス計画の当初のコンセプトはね、世界の維持保全だった。けれど私達は今や、あまりに多くのものに直面していることを悟った。我々にはもっと長い射程が必要なの」

「宇宙のリセットボタンですか」

「もっとよ」

マリアが作業を終えるまで、長い沈黙が流れた。「僕達は、神を演じたり、神の御業を丸ごと奪ったりするよりも、さらに一歩足を踏み入れてしまった」天罰に対するよりも深い畏れが彼の声色に表れていた。

「神様なんて居眠り運転犯よ」マリアはかの女神の頭蓋を手に取り、元の位置に優しくあてがった。「縫合器、取ってくれる?」

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