あるいは彼の一つの可能性について
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強く風が吹いていた。冬の夜の墓場は人気もなく、酷くつめたい。遠くでは除夜の鐘が響いている。
ただ一人、瀬川は一つの墓の前に立っていた。ほかの墓となんら変わるところのない、規格化された灰色の直方体。
唯一異なる点といえばそこに刻まれた名前だろう。闇の中でも、瀬川だけはその名前をみあやまることはなかった。

『田所 昌也』

生涯忘れることのないであろうその名前を見下ろして、瀬川は苦笑混じりにつぶやいた。

「お前のせいでさ、ハッピーニューイヤーなんて言葉、もう何年も言えてないんだよ」

* * *

「あっ、今年もヒーローになれなかった」

ちょうど五年前、2009年12月31日の瀬川の記憶は田所の言葉が録画ボタンを押したように、その瞬間から始まる。
普段はそこそこ賑わっているサイト-81██の談話室は、日にちと時間もあってか、瀬川と田所の貸切状態となっていた。
年末番組もあらかた放映し終わったテレビの中では、アイドルたちが今か今かと年明けを待っている。瀬川が何の気なしにその画面を眺める向かいで田所は携帯ゲーム機に興じていた。二人の挟む机の上にはカップ蕎麦の空容器と幾本かの缶ビール。
だいぶひどい大晦日だが、それでも寒いワンルームで一人きりなよりはいくらかは、ほんの少し、わずかにマシだった。
そんな停滞した空気の中、突如として田所がよくわからなことを呟いたものだから瀬川は怪訝な顔をして彼を見た。

「なに、お前、ヒーローになりたいの」
「おう」

皮肉半分に問いかけると、田所は自信満々に頷いた。その顔があまりにも真面目なものだから、瀬川は思わず「ふはっ」笑い声を漏らした。

「じゃあ俺とゴレンジャーでも組むか?」
「おい、笑い事じゃないって」

茶化せば、真剣な声が返ってきた。

「マジで?」
「マジだよ」
「ヒーローに?」
「今年こそなるつもりだったのに」
「今年こそって……お前そんな、小学生みたいな」
「だって、選ばれたと思ったんだ」

田所が囁いた。
ゲーム機を閉じ、机の上に突っ伏する。子供みたいに純粋な瞳が瀬川を見上げた。

「あの日、いつもみたいに俺はコンビニでレジ打ってて、そしたらよくわかんない化物がやってきて、ムカつく店長ぶっ殺して全部がぐちゃぐちゃになって……」
「はいはい、それで対処したエージェントに土下座して財団に入れてもらったんだろ?」

酔うと必ずこの話をするのは田所の悪い癖だった。瀬川はオチに至るまで一言一句正確に復唱できるまで、この話を聞かされていた。
瀬川は研究者時代の論文で財団に見初められたタイプの職員だったから、日常でSCPに遭遇するというイベントの重大性は想像するしかない。それは少なくとも、田所にとっては何百回話してもまだ足りないほど衝撃的であったのだろう。

「俺はその時確かにガッツポーズしたんだ。クソみたいな、なにひとつ楽しいこともない24年間はその瞬間にピリオドを打たれ、俺の本当の薔薇色の第二の人生が始まったと思ったんだ。それなのによう」

田所が缶ビールをあおる。

「なんにも始まらなかったんだ。その年はそんなもんかと思った、まだ俺は新米だからって、まだ導入部なんだって。でも次の年も、その次の年も、俺はヒーローになれなかった。そしてまた、今年もだ」

彼が彼自身の仕事に満足していないことを瀬川は知っていた。
ここ、研究サイト-81██を『財団で一番幸福に近い場所』と揶揄し始めたのは誰だったろう。
かつての名残でサイトとして扱われているが、現在オブジェクトはひとつも収容されていなくて、かつての収容室は無駄に丈夫な物置と化していた。じきにサイトですらなくなるかもしれない。 そんな施設の中で行われていることといえば単なる研究だ。それも、なんの変わったところのない、ごく一般的な。別に怪しい化合物だとか、オーバーテクノロジー的な器具を扱いもしない。なんのためにこの研究が使われているのかさえ、瀬川達には知らされない。
田所だって似たようなものだ。エージェントなんて名ばかりで、やってることはただの守衛に変わりない。
瀬川は別にそれでもよかった。他の企業に就職するよりはるかに給料はいいし、福利厚生もしっかりしている。だが田所はそうではなかった。顔を赤らめた田所が勢い良く立ち上がる。

「俺は今でも夢に見るんだ、大規模な収容違反が発生してみんなみんな逃げ惑う。そんな中俺は一人颯爽と立ち上がって命を賭して救うのさ」
「どうやって?」
「知るもんか。でもヒーローなら自然とできるはず。それかあるいはこんなでもいい、俺は一人の美女と出会うんだ。彼女はSCPの影響を受けていて、財団のエージェントが彼女を収容しようと追いかけてくる。俺はそれを蹴散らし、彼女と北へ北へと逃げるんだ。真っ白な雪原に足跡をつけて……」
「おい、ストップ。ストップだ。こんなの、上層部に聞かれでもしたら大目玉だぞ」
「わかってる、わかってるさ」

肩を揺らしながら熱く語っていた田所は、瀬川の言葉で急にクールダウンした。ため息をつき、座りなおす。

「全部、妄想だよ。小っ恥ずかしい類のな。でもさ、夢見たいんだよ、今の俺は、夢見たっていいだろ……」
「お前、今だって十分に働いてるよ。世界平和に貢献してるよ。俺だって研究、頑張ってんだからさ」
「瀬川チャンは、それでいいよ」

田所は笑った。
目尻を下げ、唇を歪めたその笑いはとても泣きそうに見えた。

「瀬川チャンはね、優秀だからさ、持ってる人間だからさ。きっとお前の研究で世界中ハッピーになれるよ。仮に財団やめたってヒーローになれるよ」
「そんなことは」
「でも俺はさぁ、なんもないから。一発逆転しなきゃダメだけど瀬川チャンなら絶対いつか、ヒーローになれるからさ。俺は命でもかけなきゃ」
「お前、酔いすぎ」

たしなめると、田所はなにか言いたげに口をもごもごさせながらも「ごめん」とだけ言って黙った。沈黙が流れる。
テレビではいつの間にかカウントダウンが始まっていた。2009年が終わるまであと30秒。29,28……。

「ほら、もうすぐ今年が終わる」
「……おう」
「今年も世界が平和であったことに感謝しようや」
「…………おう」
「少なくとも俺はさ、今の状況を幸せだと思うぜ」
「………………そっか」

田所はこくりと頷いたが、その表情はあまり納得しているようではなかった。
やや気まずい雰囲気の中、テレビの中のカウントダウンは0を迎えた。

「ほら、ハッピーニューイヤー」
「……ハッピーニューイヤー」

そういう田所は、そして瀬川も、全然ハッピーじゃなかった。瀬川は諦めたようにため息をつく。

「ほらほら、もう片付けようぜ。お前はどうする?仮眠室に泊まってく?」
「瀬川チャン!」

空き缶を集め始めた瀬川に、意を決したように田所は声をかけた。振り向き、瀬川はドキリとした。
あまりにも真っ直ぐすぎた。
強い意志を感じた。それだけじゃない、狂気と言ってもいい。視線に刺し殺されることがあるなら、きっとこんな場合だろう。

「それでもやっぱり、俺は、今年こそヒーローになるよ」

瀬川はその雰囲気に気圧されて、ただ一言「バカ」と言うことしかできなかった。

* * *

2010年12月31日、エージェント田所は死んだ。
偶然訪れていたサイト-8181で収容違反に巻き込まれたとのことだった。
瀬川にはついぞ詳しい状況が伝えられることはなかったが、まるでヒーローのごとき死に様だったと風の噂で聞いた。

* * *

「あのとき、俺が強く言い含めてたらお前は死なずに済んだのかもな」

墓を見下ろして瀬川は呟いた。風はより一層強くなり、木々をざあざあと揺らしている。何百回目かの自問自答の答えは、もうずっと前から出ていた。なぜなら、

「言えるわけがなかったんだ。だって俺も、ヒーローになりたかったから……でも、俺は臆病でそのことを口にすら出せなかった。だからお前が羨ましかった!夢を語れるお前に憧れてたし、お前が死んだと聞いた時、もう、一生追いつけないんだって、思った」

墓石はなにも答えない。
瀬川は懐から一枚の手紙を取り出した。

「俺さ、サイト-8181の研究室からスカウトされたんだ、引き抜きってやつだよ。俺の研究を見た博士が声かけてくれて……すごいだろ?すごいだろ!でも俺、悩んでるんだ」

瀬川は視線をおとした。誰かに恥じているような、そんな気持ちであった。

「だって多分今よりもずっと危険な目にあうことが多くなる。斎藤主任は別に断ってもいいって、これからの出世に響きはしないからって。俺は今のままでもいいんじゃないかって、思ってしまうんだ。情けないよなあ、臆病でさ……だからさ、お前に、ヒーロになったお前に背中を押してもらいたいんだ」

もしも田所が生きていればきっとこういったはずだ。

『すごいよ瀬川チャン、さすがだね、ヒーローになっておいでよ』

いや、それは全部都合のいい想像だ。結局のところ墓石はなにも答えない。
その代わりに、瀬川はポケットから10円硬貨を取り出した。手の内で何度か感触を確かめるように握り締める。

「表が出たら俺は1マス進む。いつ死ぬかわからない人生を歩んでいく。裏が出たら一生の『とまれ』だ。いいな?」

これが単なる五分五分の運任せであることを、瀬川は百も承知していた。それに、死んだ友人を理由として付け加えていることも。だがそうでもしないとどんな選択を取ったところで心の靄は晴れないままだろうというのも、事実だった。
右手の親指に硬貨をのせる。そのついでにチラと時計を見れば、あと30秒で年が明けるところだった。29,28……。大みそかはいつだってこんなことばっかりだ。
ピン、と硬貨が弾かれ宙を舞った。左手の甲で受け止めるつもりが目測を誤り草むらの上に落ちた。慌ててかがみ込む。

その瞬間、鳴り響いていた除夜の鐘さえ止まり、世界中すべてが静止したような感覚を瀬川は得た。

「おい、おいおいおい、嘘だろ?」

硬貨が地面にまっすぐと立っていた。
信じられない、といった顔で瀬川は硬貨を拾い上げる。まじまじと見つめるその顔は、わなわなと震えていた。

「やっぱりお前、すごい、ヒーローだよ、だって、こんな、すごい……すごいよ!」

何万分の一の確率だろう。投げたコインが地面に立つなんて、有り得るか、普通。瀬川は笑い声をあげた。遠く響くように、大きく、形振り構わず笑い、博士からの手紙を破り捨てた。

「お前は本当に先を行くんだ!ああ、クソ、追いついてやる、いや、追い越してやるよ!俺は優秀だ!今に見てろ!」

大きく腕を広げた瀬川の背後、花火が上がった。年が明けたのだ。
その大輪はまるで瀬川の新たな一歩を祝福しているかのようだった。

「ハッピーニューイヤー田所!ハッピーニューイヤー世界!ハッピーニューイヤー俺!」

彼はまことハッピーで、幸せで、楽しそうに叫んだ。

「それじゃあ俺の第二の人生…………楽しもうか!」

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