桜花
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ある屈強な一人の男が女の屍骸を横抱きにし、桜の小道を通っている時のことでした。桜花は満開でぽそぽそと花弁が散っていました。時折聞こえるのは男の息と、屍骸の髪の一房がはらはらと乱れる音だけです。

桜の小道は美しい場所ですが、禁足地でした。この小道は不可解なことに、人が二人訪れると、必ず片方は幸せそうに塵となって消えてしまう恐ろしい場所だったのです。この道を好んで通るのは、死体置き場に困った殺人者か、亡骸の処理が面倒になった葬儀屋といった限られた人たちです。

男は葬儀屋でも悪党でもなく、どちらかというと善良な人間ですが、腕の内にある屍骸は自身が首を絞め、殺めたものです。男は身勝手な恋慕の果てに、己を見てくれぬ女を殺してしまったのです。男は罪咎と屍骸を抱え、神隠しの小道に訪れました。あわよくば何もかも消してくれる事を願って……。

男は桜の小道を歩む以前、己の行なった行為や行動を大いに恐怖し、大変に後悔していました。最初、女の死骸を小道に放置してすぐ帰るつもりでしたが、桜の木下闇に立ち入った瞬間、胸の内にある悲しみが全て幸福に変わりました。胸が高鳴り、心が踊るのです。思えば、冷たく堅い死体を抱いている惨状は男にとって幸福の重みそのものでしたし、二人一緒という現状は至福であったのです。

一歩一歩二人が進むたび、両腕に抱えた女の屍骸が揺れ、指先がハラハラと散っていきました。どっとと小道の果てから、花弁を乗せクルクル乱れる強い一陣の風が吹いたとき、脆くなった女の首はごろりと外れ、木の根元にぶつかりました。カッと両目を見開いたかと思うと、みるみる粉となって消えていきました。女の身体も同様に、男が強く手繰り寄せている所為でバラバラと四肢が砕け散り、肢体そのものが失われました。男は蹲り、一人になった恐怖においおい泣きましたが、女と同様につま先から塵となっていきます。

やがて小高く降り積もった桜の花弁の上に二人分の服だけを残し、女の腹の中に眠っていた赤ん坊だけが取り残されました。赤ん坊は母親を呼ぶように、微かな泣き声を上げましたが、びゅうびゅうと鳴る風の音にかき消されてしまいます。赤子の口の上にバラバラと花弁が降り積もり、息の根を止めているようでした。短く太い手足を動かす姿はいじらしくもありました。無垢な姿に無情な人でも微笑むでしょう。しかし赤子の命はそう長く続きません。

赤子の身体を半分以上花弁が積もったとき、小道に足を踏み入る者がいます。それは殺された女の夫でした。夫は幸せをかみ締めながら小道を走りました。桜花に埋もれた女の服を掴んだとき、横たわる赤ん坊の存在に気がつきました。恐る恐る、赤子に降り積もった桜の花を手で払い除けた瞬間、赤ん坊は風に掻き消えました。もしかしたら母親が連れ去ったのかもしれません。

男は夢から醒めたようにゆらりと立ち上がり、周囲を見回しました。男はたった独りになっていたのです。風が吹き渡りましたが、男は消えません。彼は果てのない恐怖を自覚し口惜しさの余り、血の塊を吐くような裂帛の声を轟かせました。女の着物の裾を強く握り、ホロホロと涙を落とします。人のいないこの小道で、誰が男に同情致しましょう。ただ……爛漫の桜花が陽気に散り散りになっていくだけで……。

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