My/Ur Blank
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 子供の頃の記憶があやふやだ。生まれ育った町、通った学校、好きだった絵本、家族の顔。子供だった私が経験したであろう思い出を、大人になった私はほとんど思い出せない。はっきりと残っている一番古い記憶は五歳頃のもので、そのとき私は財団の管理する孤児院にいた。何かの事件に巻き込まれて記憶処理をされたらしいと伝え聞いてはいるが、詳しい理由ははっきりしない。

 孤児院はヨーロッパの田舎にあったが、顔立ちは明らかに東洋風だし、ろくに使ったこともない日本語がなぜか話せるので、私はたぶん日本生まれだという説が個人的には有力だ。財団に加入して以来、何度かの転勤を経て、今の私の職場は香港にある。多様な人々、多様な文化が入り交じる世界有数の港町は、私のようなあやふやな人間でも馴染みやすい。職種は記憶処理技師。自分で言うのもなんだが、腕はそこそこ優秀なほうだと思う。

「機動部隊、ですか」
 ほんの数秒前に上司の口から発せられた言葉を、私は素っ頓狂な声で反復した。大した意味はない。単純にその単語に聞き馴染みがなかっただけだ。私の言葉を待たずに、没個性的な中年上司の話は続く。なんでも今回、華南地域の複数のサイトが協同で、記憶処理を専門とする小規模な機動部隊を結成し、試験運用することになったのだとか。
 その部隊の一員として私に白羽の矢が立ったらしい。これまでの高い実績が評価されたのだと、上司は讃えてくれた。私以外の部隊員は近傍のサイトから間もなく召集される。人数は二人。

 似ている。
 それが二人に実際に会ってみての第一印象だった。目の前に並び立つ二人は、二通りの意味でよく似ていた。第一に、二人それぞれがお互いによく似ていたという意味で。第二に、二人共が私自身によく似ていたという意味で。
 二人はいずれも私と同じ、東洋系の若い女性だった。それだけではなく、身長や体型、目の位置や鼻の形、身体中の細かいパーツがどことなく私に近くて、他人とは思えない雰囲気を醸し出していた。一方で最大の差異は髪型だろう。私はポニーテールを結っていたが、二人のうち一人はショートヘアで、もう一人は腰まで届きそうな髪を真っ直ぐ垂らしていた。
 初対面の三人は、誰からともなく口を開いた。
「初めまして」
「初めまして」
「初めまして」
 外見どころか声まで似ているような気がする。まるで自分が三人に増えたように錯覚して、どうにもそわそわしてしまう。
「ねえ、部隊の名前を決めない」
「そうね。何にする」
「三姉妹、っていうのはどう」
 三姉妹。うん。悪くない。他の二人も乗り気な表情をしている。互いを他人と思えずにいるのは私だけではないのかもしれない。
「じゃあ、私が長女」
「私が次女」
「私が三女」
 部隊の愛称とコードネームはこうして決まった。

 無骨なヘリコプターが轟音と共にプロペラを回し、屋上のヘリポートから空へと舞い上がった。三人はめいめいの座席に坐っている。任務開始まではあと一時間もない。だが、私には今のうちに二人に言っておきたいことがあった。
「私ね、子供の頃の記憶がないのよ」
「そうなんだ。私もよ」
「私も」
 私の告白に対して、なんともないという顔で二人は答えた。その答えは、私がうっすらと期待していた通りだった。
「だけど、少しだけ憶えていることもある。昔聴いた、短い歌のこととか」
「私も思い出せる歌があるよ。日本語の歌」
「ひとつ、ひとのよ、いきちをすすり」
 一人が歌を口遊んだ。それは私のよく知っているあの歌に間違いなかった。ひとつ。ふたつ。みっつ。数え歌のように歌い進む。さえずるような歌声は、歌の最後に達して止まる。
「たいじてくれよう、ももたろう」
「モモタロウって、なんなんだろう」
「人名だよ。日本の昔話に出てくるヒーローの名前」
 モモタロウは、三匹の家来と共に怪物を倒した正義の味方。今の私は、正義の味方だろうか。自分の記憶を失ったまま、他人の記憶を奪い続ける私は。
「不思議だね、三人ともが同じ歌を知っているなんて」
「何か意味があるのかな」
「もし、意味があるとしたら」
 こうして三人を結びつけるため。そんな台詞を喉元まで言いかけて引っ込めた。流石に穿ち過ぎな気がする。小さい頃よく耳にしていたとか、大方その程度のことだろう。
「私達、本当に姉妹なんじゃないかな」
「どうだろう。判らない」
「判らないよ。憶えていないんだもの」
 三人の出会いは、単なる偶然でも運命でもないのだろう。私達のあずかり知らぬところで、何か遠大な意思が動いている。それは間違いない。けれど、取り敢えず今は置いておこう。取り敢えず、目の前の任務が完了するまでは。
 ヘリコプターは眼下の集落にエアロゾルを散布しながら飛ぶ。ここからは私達もガスマスクが必要だ。頭部をお揃いの仮面で覆い隠すと、三人の区別はますます不明瞭になる。彼我の区別などもう必要ない。そこにいるのは三人の私。

 荒れ地の真ん中にヘリコプターが着陸する。着陸地点から数百メートル先に、目的の村が見える。
 記憶処理にはふたつの段階がある。第一段階は記憶の消去。第二段階は虚偽記憶の植え付け。前者が薬を撒くだけで済むのに対して、後者は多少のコツが必要になる。ミーム汚染の蔓延した村の住民全員へ、迅速かつ確実に虚偽記憶を植え付けるのが今回の私達の任務だ。誰でもできる仕事じゃない。一人でも間に合わない。だけど三人なら、決して難しい芸当ではない。
 ひとつ、人の世、生き血を啜り。
 いや、違う。私だったらこう歌うね。
「ひとつ、人の世、蝕む怪異」
「ふたつ、不気味な魍魎変化」
「みっつ、見るにも堪えざる闇を」
 私は正義の味方だ、誰がなんと言ったって。人々を呪う怖ろしい記憶を取り除き、後に残った空白を代わりの思い出で埋め合わせていく。私みたいに、空白のままで投げ出される人がいないように。心の寄る辺となる思い出を携えたままでいられるように。
「忘れさせましょ、三姉妹」
 プロペラの風を背後に受けながら地面に降り立つ。ガスマスク越しでも僅かに届く記憶処理剤の芳香が鼻を突く。
 さあ、思い出作りを始めよう。

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