洗浄の為に使用した溶剤により皮膚表面の若干の腫れが確認され痒みを訴えた為、軟膏が二週間分処方され完全に落ちるまでには延べ三日間の
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僅かに朝の時間を外しつつある財団日本支部、サイト-8181内。そのテーブルの上に乗せられた皿には、焦げ目無くつるりと仕上げられた黄金色のオムレツが堂々と鎮座していた。
脂で光沢を帯びたウインナーは皮が弾ける寸前まで焼かれて程良い焦げ目も付いている。傍らに並んだ平皿に表面が僅かに狐色になるまで焼かれたトーストが数枚、小皿の上にはバターとジャム。
早速とばかりにオムレツの上には鮮烈な赤色と独特の臭気が僅かに溢れる。粘性を僅かに帯びた「調味料」は、オムレツの上で実に食欲が沸き立つコントラストを創り上げている。

「……急ぎの依頼ですか?」「ああ。多分簡単なものになると思うから、無理には言わな」
赤色に続いて、オムレツの上には鮮明な青色がぶちまけられた。それだけで皿の上には食事とは思い難い色鮮やかな恐怖が出来上がり、赤色の物体もまた同じく絵の具という事を知らしめる。
「別に今は構いませんよ。それで何を塗装すれば良いんです?」「……えーと」
目の前の光景のインパクトに、本来の目的を一瞬忘れそうになりながらも、彼女は――茅野きさらは言葉を放とうとして、トーストの表面を滑るクレヨンの姿から目が離せなくなっていた。ほんの僅かな希望も、画材独特の香りに掻き消える。
「僕の作品に塗装をお願いしたいんだ。被害が出ない様に」「ああ、話はまあ…色々と聞いてます……食事が済んでから、当たらせて貰いますんで……」
各所に色染みの付着した白衣を身に纏う彼――色敷弦下は、そう言葉を残して紫色に片面を塗り潰したトーストにバターを乗せ、実に美味そうに齧り付き始めた。
 
 
 
「普通の食べ物も、食べられるのかい?」
「月に何度かと、期間限定メニューの中で食べてみたいなーってのがあったりしたら、ですかね」
片や実年齢よりもその顔立ちや見た目から幼く見えるとされる女性。片や黒々としたどす黒く真っ黒に埋め尽くされた瞳と無精髭から実年齢より老けて見える男性。二人の共通点としては、先ずは財団に携わっている事、次にはそれぞれが美術的な方面に関わりのある事が挙げられるものだろう。方向性の違いは、相違点としては十分だ。

茅野博士は彼女自体の持ち得る特性から機動部隊まで率いている程、そういった方面の任務に借り出される事も決して少なくは無い。
色敷研究員は彼に備わった特性から、専らは財団職員の個人的な、または上からの依頼の元美術的な方面に関わっている。

「それで、本当に塗ってしまって良いんですね?」「構わないさ、好きにやって欲しい……出来るのであれば、元の色を遵守して欲しくもあるけどね」
その左耳に嵌められ歩く度に揺れ動く赤色のイヤリングを見ながらの色敷研究員の問いに対して、のんびりとした口調で茅野博士は答えた。彼女は趣味の一環としての絵画、彫刻、曲まで作るという事は色敷研究員もよく知っている。合わせて"作品被害"の事に関しても。
破壊された、燃えた、爆発四散した、爆発四散して燃えた等々、形はどうあれ茅野博士の作品は何かしらの被害に遭ってしまうのであり、茅野博士本人どころかその近辺の人まで巻き込む事も決して珍しくは無いものだと聞いたのだ。Euclidクラスオブジェクトだの何だのといった噂話は意識せずとも色敷研究員に届いているのだから、茅野博士も知っている事だろう。
色敷研究員は一方で自ら積極的に作品を作り出す事は、財団内ではあまり確認されていない。彼はあくまで"塗装"を主立った活動を行っており、シャツの染め直しから建物の塗装まで請け負うだけではなく、異常性までも発生させる事が出来る。
一時的に視覚と聴覚との共感覚を引き起こす漫画本から、精神的な圧迫の調整、財団施設の隠蔽まで確かな実績があった。結果的に異常性を抑える塗装も、経験があった。

「今思ったんですが、塗って本当に抑制になるんですかね?」「少なくともオブジェクトに間違われて破壊されたり、勝手に燃やされたり…そんな事が無い様にして欲しいな……さ、この画なんだけど」
通路を並んでしばらく歩いた末、茅野博士のオフィスに辿り着く。最初に色敷研究員が感じるのは絵の具独特の慣れ親しんだ、しかし何処か洗練された匂いだった。描いている途中であるらしいイーゼルに掛けられた絵画に視線を向ける。水彩画だった。
「なる程……まあ、やってみま」

数歩画へと近付いた色敷研究員を音源とした破裂音が響く。その場で彼は崩れ落ちながらオフィス内と絵画、茅野博士にまで叩き付けられる様に浴びせられたのは、紛れも無い鮮明な紅色だった。
 


"作品被害"-███
色敷研究員の所持していたスプレー缶合計█本が破裂、作品と茅野博士が巻き込まれ塗料を浴びた。


 
「この前はすいませんね」「いや、良いんだ、塗料で良かった……本当に……」
█日後、色敷研究員は改めて茅野博士のオフィスへと向かって謝罪を告げた。胸元での衝撃に気絶して居る間に何が起こったのかは、当時博士が呼んだらしい医療スタッフからたっぷりと聞かされている。普段通りに彼女は振舞っていたが、精神的な療法を受けたとは耳にしている。
またしてもこうしてやって来たのは、スタッフを通しての伝言を聞き入れたからである。時間があったらで良いのだから、またオフィスに来ての依頼は継続させて欲しいのだと。
ついでにスタッフからはこう言われた。幸運を祈ります、ベッドの空きは用意します、薬物の処方は全力を尽くします、と。その瞳はまるで世界崩壊シナリオを目の当たりにした何の変哲も力も無い一般人の様にも見えた。
 
「以前の作品は、処分されてしまったんですね」「スプレー缶の破片が突き刺さっちゃっててね…と、今回はこれを塗って欲しいんだ」
自分が無傷だったのは有る意味で幸運だったのかもしれないと思う間に、茅野博士が差し出したのはちょうど掌に乗る程度の大きさをした粘土細工だった。まだ何を模しているかも分からないのは、まだ何も塗装が施されてない真っ白であるからだろう。
「色をどう塗るかは全部君に任せるよ。合作とも言えるだろうね」「なる程……それなら上手くいく…かも、しれませんね……」
 
若干のぎこちない言葉尻と共に手渡された作品。色敷研究員は硬さを軽く確めてからポケットに無造作にではなく懐から取り出した煙草の箱を開く。
「おっと、ここで喫煙は控えて貰え」
箱の中に詰まっていた数本のチョークを纏めて口へと咥え込み、箱自体の形状を歪ませながら粘土細工を箱の中へと収めた。がりり、とチョークは軋み、相当な間抜けか、それとも異常に見える。
「やってみまふ」「……うん」
去り行く後姿に何処か違和感を感じながらも、茅野博士は彼の後ろ姿を見送るのであった。
 
 
 
「……さて」
本日の業務を済ませた後、右手で握り締めた「つや出し用ニス(小)」の包装を開き、小瓶を掲げながら粘性を帯びた中身を全て喉を鳴らして飲み干してしまう。独特の香気とかっと身体の奥が熱くなるのが、同時に日中の業務によって重なる疲れが吹き飛ぶのを感じる。集中力を絶やさない為の手段の一つである。
煙草の中から作品を引っ張り出し、机の上で塗料と絵筆、エアブラシ諸々の道具を用意して、いざ塗装を開始。まずはブラシ、カラースプレーを使って下地を全体に拭き付ける。次には複数本のサイズの異なる筆や竹串を使って、作品に相応しい色を、色を、色を
 
「あっ」
 


"作品被害"-███
色敷研究員が塗装作業中、粘土細工だった作品が完全に溶解した。


 
 
「…………」「…………」
翌日、色敷研究員によって差し出されたのは、紙の上に乗った色染みだけだった。それが立体物だった作品の成れの果てというのであるから、茅野博士も無言で固まるしか無い。が、茅野博士が何より恐ろしく感じたのは、報告が正しければ彼が塗装中に作品が溶解したという事だ。
異常性の抑制の為の塗装の最中に異常が発生したのであるならばもう手の施しようが無いでは無いか。このまま作品が████だの何だの言われるかもしれないと、思いながらも色敷研究員が小脇に抱えた存在に気が付いてもいた。曰く、やられっぱなしでは性に合わないとの話で。
黒々とした暗い色合いで塗り潰された画板であった。茅野博士も使った経験は数えられもしない程の、その色以外は在り来たりな物。尋ねるより先に、色敷研究員はにっと微笑みを浮かべ、幾分か目に光が宿っていない分茅野博士の恐怖心をやや煽った。
 
「この画板を使った作品は、認識そのものが希薄になる様にしました。オブジェクトに間違われたり動物に感付かれたりとか、そんな事は無くなる筈です…多分」
「本当かい?」
「まあ、副作用と言いますかそういう作用もあるにはあります。油彩でも水彩でも、モザイクを造ったとしてもこの画材で出来るのは『作品』以外の何ものでも有りません。多分茅野博士本人でも、メモでも無ければ『この画板で作品を創った』という事しか思い出せなくなります」
「それでも構わないよ。こんなに頑張ってくれたのならば、僕はそれに応えたい」「博士……」
 
普段は閉じられた目蓋に隠れて見えないその瞳が、熱気を孕み爛々と輝いている様子がはっきりと目にする事が出来た。その手には既に絵筆が握り締められている。深く頭を下げて、小走りに色敷研究員は去っていった。閉じられた扉の奥で何が起こるのかは、見ずとも解った。
 
 
 
 


 
 
 
 
数日振りに小皿に盛られた漬物をいつもの様にエージェント・蓼上へと手渡してから、色敷研究員は食堂で朝食と向き合っていた。まずは白米の上へと岩絵具を振り掛ける事から始まる。本来の湯気にふわりと蒸らされて溶けていく間に、鉢の中の山芋に紫色のアクリル絵の具を加えて丹念に混ぜ練り込んで行く。
「やあ、今日も健康的だね、色敷君」「ああ、茅野博士、進捗は…………」
ちょうど米の上に絵の具が十分に練り込まれ薄紫色になった山芋を落とし始めたその時、突如としてその隣の席にやって来た茅野博士に気付いた。やがて茶碗からこぼれた山芋がテーブルを汚し始める。
「作品は無事に出来て、何も被害は無いんだよ。あの画材があったからこそ、とも言うのかな」「ああー…そう、ですね……」
「今度は正式に合作なんてのはどうかな?お互いに下書きをしてから、二人で塗って行くんだ」「えーと…戦車戦の色塗りが有るんで、遠慮しておきます」「ああ、残念だね。それでもいつか」
 
そこで茅野博士は、食堂に突入してきた部隊によって取り押さえられた。
どれだけ自分の塗装が効果を齎したのか、それとも全くの無駄骨だったのだろうか。
色敷研究員はぼんやりと考えながら、湯気の立つすまし汁をずずずと音を立てて飲み始めた。
 


"作品被害"-███
紙に描いた作品が茅野博士の身体の表面に「移動」した。指摘されるまで本人は異常に気付かなかった。


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