冬の非正規労働者
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「寒いな、クソがよ……」
 雑に敷かれた段ボールの上で毛布に包まりながら、俺はブルブルと震えていた。
 1月、ひどく冷え込むこの季節は、俺のような家無しにとっては厳しい季節だ。まして、今日は雪までちらついている。道を行くスーツ野郎どもにとっては出社の障害になる程度だろうが、こっちにとっては死活問題だ。
 俺を苛立たせるのは寒さだけではない。目の前に置かれた3枚の10円硬貨、言い換えるなら俺の全財産。これだけじゃあネットカフェにも泊まれやしない。あったかい飯なんてもってのほかだ。この前拾った金はこの毛布と、後は酒とパチンコに使ってしまった。あのパチンコは惜しかった。あともう2万もあれば、一山当ててこんなところとはおさらばしていたはずだ。
 このままでは凍え死ぬしかない。そうなる前に、他のホームレス連中にペコペコ頭を下げて寒さをしのげる場所を探すか? それだけは御免だ。俺はたまたま運が悪かったせいでこうしているだけであって、あんな人生の負け組どもとは違うんだ。そんな奴らが集まるところにわざわざ頭を下げてまで出向くなんて、考えられたものじゃない。
「……とりあえず雪を避けられる場所を探さんとな」
 小さく舌打ちをして立ち上がる。公園のベンチに付けられた隙間の空いた屋根では雪を防ぐことはできない。先客がいるかもしれないが、橋の下なら雪を避けるには十分だろう。そうと決まればあとは早い。俺は段ボールと毛布を抱えて、人通りの少ない道を進む。公園を出てマンションとコンビニの間の細い路地を通り抜ければ、目の前には都会の汚い川が流れている。河川敷を少し歩けば、すぐにお目当ての橋が見えた。
「おお、ラッキー」
 橋の下に先客はいなかった。これで無駄に気を使う必要もない。ほんの少しの安堵と共に、段ボールを広げて横になる。
 雪に直接触れない分さっきよりもマシだが、冬の寒さはあいもかわらず肌を刺す。移動で無駄に体力も使ってしまった。そのうち他の奴らのように、しっかり屋根までつけた段ボールハウスを作らなければいけないかもしれない。……いやいや、その頃には俺もこんな生活をやめて、どっかに再就職できてるはずだ。
 未来のことを考えると、不安ばかりが浮かんでくる。本当に仕事は見つかるのか? いつまでこの生活が続くんだ? そもそもこの冬を生き抜けるのか? もしこのまま何も変わらなかったとしたら――
「お忙しいところすいません」
「うわっ!」
 突然声をかけられ声がうわずる。目の前に立っているのは忌々しくスーツを着込んだ男だ。清潔感のある髪型で、恵まれた生活を送っているのだろうことが予想できた。
 大方、役所の調査か何かだろう。面倒だ。調査につかう金があるならそれを俺に寄越してくれ。
「……見たことない顔だけど、俺に何の用?」
 ぶっきらぼうな返答に、男は少し悲しげな微笑みを浮かべて言った。
「少し仕事のご協力をしていただきたくて」
「あ? 仕事?」
「はい。1ヶ月間の短期労働です。内容と契約書はこちらです」
 男が差し出した薄い紙ペラをやや乱暴に奪いとる。内容を2回読み返し、思わず唾を飲んだ。給料も破格の高値、しかもそれとは別に労働期間中は完全な衣食住が提供されるらしい。
 いやいや待て、こんな美味い話があるだろうか。大方詐欺か何かだろう。俺はこんなのには――
「詐欺じゃあないですよ。本当の話です」
 俺の心を見透かしたように、男は貼り付いたような笑みを投げかける。
「信じられるかよ、こんな話」
「信じられるか、じゃないです。信じてください。それに、その給与にはちゃんと理由がありますから」
「……まあ、そうなんだろうけどな」
 仕事の内容は実験への協力。危険が伴うとも明記してある。それならばこの高額の支払いも理解できないわけではない。
 男の提案は魅力的だった。危険はあるが、それ以上に1ヶ月の衣食住と給料は魅力だ。だが、本当に受けていいのだろうか? 危険とは一体どのレベルの話なのか? 実験とは一体なんなのか?
「もし……」
「ん?」
 男が悩んでいる俺の目をまっすぐ見据える。
「もしこの仕事を終えて金を手に入れたなら、そしてあなたなら、こんな生活とはもう永遠に離れられるはずですよ」
 ……そうだ、これは一発逆転の大チャンスだ。逃すわけにはいかない。俺が他の連中とは違うってことを証明できるチャンスなんだ。
「ああ、そんなこと言われなくても、受けてやるよ。ほら、サインするからペンを貸してくれ」
 ようやくツキが回ってきた。これが俺の新しい人生の始まりだ。ここから、俺はやり直してやるんだ。
「ありがとうございます。それでは、ついてきてください」
 背を向けて歩き出す男の後ろについていく。もう必要のなくなった毛布は、その場に置き去りにした。
 
 

「あー、どこかで会ったことあるか?」
 片目の無い男は二段ベッドの上から俺を見下ろした後、やや困惑したように顎をさすった。二段ベッドと小さな本棚、オレンジ色のつなぎが詰められたクローゼットがあるだけの質素な部屋。本棚の中には男の私物だと思われる聖書が一冊だけ立てられている。
「いや、初めましてだと思いますよ。今日から相部屋ってことでお願いします」
「ああ、そうだな。よろしく。俺はニーゴーマルマルサン。お前は?」
「俺はサンマルニーハチヨンです。呼びにくいですよね、この名前」
 短期雇用の従業員はお互いを番号で呼び合い、本名は決して明かさないこと。そして自分の経歴を一切語らないこと。参加した実験の内容をだれにも明かさないこと。俺をここに連れてきたあのスーツ野郎――イトウが何度もしつこく念押ししたルールだった。仕事が仕事だけに、プライバシーには最大限の注意を払っているらしい。
「確かにそうだよな。よいしょっと」
 男は梯子を伝ってするりとベッドから降りると、俺に右手を差し出した。
「だから俺は同室の奴は番号からつけたあだ名で呼ぶことにしてるんだ。よろしくな。あー、サンマ君」
「サンマ?」
「だってサンマルニーなんとかだろ? 俺はニーゴーマルだから、ニコ丸だ。3人前の相棒がつけてくれたあだ名だな」
「ニコ丸、さんですか」
「堅苦しいなあ。呼び捨てでいいよ。これから毎日同じ部屋にいるんだからもっと気楽にいこう。な?」
「えっと……はい。それじゃあ、よろしく、ニコ丸」
「おう、よろしく! なんかゲームでもして親睦を深めたいところだが、生憎ここにそんなもんはないからよ。とりあえず、先輩への質問タイムなんてどうだ? まさか今日いきなり任務ってこともないだろうしな。もしあったらそのときは色々とあきらめてくれ」
 ニコ丸はそのたくましい腕を俺の肩に回して豪快な笑い声をあげた。彼は一目見ただけでも相当に体つきのいい男だったが、実際に触れるとその見てくれが偽物ではないことがわかる。こんなに立派な体を持っているならば、こんな実験などに参加しなくても、肉体労働で生活できるだろうに。
 俺はその日、彼との会話の中でいくつかのことを知った。自分たちの任務は科学では解決できない怪物に関する実験を手伝うこと。幸運なことに、自分たちは基本的には安全なものしか扱わないこと。そうして、実験のときには偉そうに指示を出す科学者に従うのがあらゆる意味で一番安全だということだ。
 俺が怪物と聞いて怯えながら訪ねた「死ぬことがあるのか」という質問に、彼は笑って「それなら俺はここにいないだろう」と答えた。それもそうだ。彼はみたところそれなりに長い期間この仕事をしているようだし、左目を失ったのもこの仕事を始める前だったということだ。それ以外に目立った傷も見当たらないし、想像以上に安全な実験らしい。
 そう思うと俄然元気が出てきた。正直内心ではあの高い給料の裏にどんな危険なものが隠れているのかと震えあがっていたのだが、彼の話を聞くたびにそんな不安は消し飛んでいった。夕食の時間が近づいて、一度話に区切りをつけなければいけないというときに、久しぶりに人との会話を楽しむことができている自分に気が付いた。

 

 ニコ丸と初めて会った翌日はイトウから業務内容の説明を受けた。大抵はすでにニコ丸と話した内容だったうえにイトウの抑揚のない話し方があいまって、俺は終始酷い眠気に襲われていた。
 実際の業務は、ひたすら白いだけのパズルをくみ上げる至極つまらないものから、公衆トイレで臭いオヤジが誕生する感動のショーを観察するといったわけのわからないものまでさまざまだった。実験や作業は毎日あるわけでもなく、大体三日に一度程度だったので、暇なときはニコ丸と実験の話やこの業務が終わったら何をするかという話で盛り上がった。
 自身の過去について語ることは禁止されていたが、俺とニコ丸はあたりさわりのない範囲で自分たちの話もした。ニコ丸には小さい娘がいたらしく、最近は会っていないがこの仕事が終わったら会いにいくのだと嬉しそうに語った。逆に俺の転落人生について話すと、ニコ丸はそれを豪快に笑い飛ばして、また何かいいことがあると力強く俺の肩をたたいた。
 そんな風に、公園で一日を過ごすよりはるかに楽しい日々が過ぎていき、ちょうど二週間が過ぎたころ、俺たちは映画館で二人で映画を見る仕事を任された。いつもならば、なぜそんな仕事が必要なのかと疑うところだが、このころにはもうそんな変な仕事には慣れきっていて、俺とニコ丸はただ楽しく画面に映し出されるコメディ映画を見ていた。
 映画館は貸し切りで他に気を配る必要もないので、お互いに画面を指さし大きな笑い声をあげながら、時にくだらないジョークを飛ばしながら、充実した時間を過ごした。そうして映画を一本見終えると、俺だけが別のスクリーンに連れていかれて、また違う映画が流れ始めた。先ほどとは違う映画だったが。やはりコメディ映画だった。
 先ほどの余韻に浸りながら映画を眺め10分ほど経った頃、自分が全く笑えていないことに気が付いた。それどころか、気持ちも沈む一方だった。役者の演技も素晴らしく、主人公とヒロインの話が食い違うシーンは普通なら抱腹絶倒していただろう。そこまでわかっていて、なぜか笑えなかった。
 不安ばかりが頭をよぎる。この仕事が終わったら、俺はどうなるのだろうか? 金を手に入れて、また楽しい日々を過ごせるのだろうか? もしかすると、結局何も変わらないのではないだろうか?
 依然目の前では馬鹿なコメディが垂れ流されている。主人公は寝坊してヒロインとのデートに遅刻し、必死にその弁明を試みていた。ヒロインは夏の猛暑の中で待たされて、目に見えて怒っているようだった。
「いや地下鉄が遅れてしまってね」
「あら、こんな田舎に地下鉄なんて走っていたかしら」
「いやいや、これはジョークだよ。ほらあれだ、タクシーに乗ったら運転手が道を間違えたのさ」
「でもあなた、財布を忘れたんでしょう?」
「おっと、これは昨日の話だった。えーっと、そうだ――」
 延々と問答は繰り返されて、とうとう主人公は悪徳ラクダ商人にヒトコブラクダをだまされて売られたのだといいだした。本当はフタコブラクダを買う予定で、フタコブならば余裕で間に合ったはずなのだと。そこでヒロインは呆れて笑う。
「信じてあげられなくてごめんなさい。ラクダできたなら仕方ないわね。ああ、話が長引かせてしまって申し訳ないわ。きっと冷房のために車のガソリンが無駄になってしまったでしょう?」
「いやいやご心配には及びませんよ、ここへ来る途中にしっかり給油したからね!」
 思えば、俺もこの主人公と同じだ。決して自分の非は認めず、すべて他人任せにしてきた。あいつが悪い、環境が悪い、果ては政治が悪いのだと。そのくせ選挙の日には家でビールを飲みながらネットの掲示板を無為に眺めていた。決して自分から何か変えようとすることはなく、ただ他人に罵詈雑言をまき散らして生きてきた。
 今俺が楽しんでいられているのは、そんな俺でさえ受け入れてくれるニコ丸がいるからだ。そうだ、ここから出たらまた外でニコ丸と会おう。たぶん俺のこの性根は変えられないから、それならまたニコ丸に頼ればいいのだ。彼に背中をたたかれれば、まあそれなりに社会復帰もできるだろう。
 そう思うと、急に気分が楽になってきた。すっかり不安も取り除かれて、未来が見えた気がした。映し出される映画も急に面白く思えてきて、映画が終わるころには、俺は笑いすぎて腹筋を痛めていた。

 

 映画の後、俺は一人で先に帰された。俺はそのとき、ニコ丸の方が長い映画を見ているのだろうと一人で勝手に納得していたが、その後いくら待ってもニコ丸は帰ってこなかった。俺は一人で夕食を食べ、一人でベッドの中に入った。久しぶりに、たった一人の夜だった。
 次の日、俺の部屋にイトウと、そしておそらくその部下のサカモトと名乗る細身の男が入ってきた。イトウは抑揚のない機械じみた声で、この部屋に新しい住人が来ることを告げた。そうして本棚に目を遣ると、そこに置いてあった一冊の聖書に手を伸ばし、それを持ち去ろうとした。俺はベッドから飛び上がって、イトウにつかみかかった。
「おい、どういうことだ! ニコ丸はどうした!」
 サカモトが俺を引きはがそうと駆けよるが、それよりも早くイトウは一発俺の腹にドギツイ蹴りをいれて、俺を吹き飛ばした。橋の下で俺に話しかけたときに貼り付けていた笑顔はなく、ただ無表情な顔で、イトウは俺を見下ろした。
「ニーゴーマルマルサンは死にましたよ。昨日」
「死んだ!? 嘘だろ! だって仕事は安全だって――」
「喚かないでください。まず第一に、嘘をつく理由がありません。第二に、仕事は"概ね"安全です。死の危険があることもありますが、それはしっかり説明したはずです。もっとも、あなたは寝ていて聞いていなかったかもしれませんが」
 彼は俺につかまれてゆがんだシャツの襟を整えて、出口へと歩を進める。俺は立ち上がって、イトウの肩をつかんだ。
「おい、ちょっと待てよ、やめてやるこんな仕事! 俺はもうやめる、ここから出してくれ!」
 蹴りに警戒して腹筋に力を込めたが、イトウはあっさり立ち止まって、一枚の紙を突き出した。
「では、これにサインしてください。もちろん、今日までのお給料はしっかり支払われますよ」
 俺はその場にへたり込んで、ペンと契約書を受け取った。想像以上に早くことが進みすぎて、もう辞められるのだという実感がわかなかった。それでもこの機は逃すべきではないと、俺は震える手でペンを契約書へ近づけた――
「やっぱりこうなりましたか」
 イトウが小さく呟き、ため息をついた。
「ああ?」
 すべてお見通しだった、と言わんばかりのイトウの態度に、自然と皴が眉間に寄る。
「やっぱりこうなりましたか、と言ったんです。あなたは何も変わっていない。だから、今ここから逃げ出そうとしているし、こんな契約をすることになったのも私があなたを騙したからだと思っている。本当は、あなたがしっかり話を聞いていなかっただけなのに」
「この、クソが、てめえに何がわかるってんだよ!」
「じゃあ無暗に喚かず、言い返してごらんなさい」
 イトウは冷めきった鋭い目線で俺の目を貫いた。お前には無理だ。最初から分かっていたことで、お前もわかっていることだろうと、視線だけで俺を侮蔑していた。俺はそのあまりの鋭利さ、冷たさに圧倒されて数秒身動きできなかったが、その後すぐに覚悟を決めて、ペンを投げ捨てた。
「馬鹿野郎が。言い返す必要もないだろうよ、こうすりゃ十分だ」
 俺は契約書をびりびりに引き裂いた。二つでは足りない、もう戻れないように、何度も引きちぎった。イトウはそれを見て、小さく笑ったように見えた。
「片付けはご自分でお願いしますよ」
 イトウは部屋を出る。サカモトもあわててそれを追っていった。
 ――もうやるしかない。頼れる人間もいない。俺は自分自身で変わらなければいけないんだ。
 俺は棚に残された聖書を抱えた。何度も擦り切れていて、彼がこの聖書をいかに大切にしていたかが分かった。
 ――ニコ丸、俺はあんたのことは忘れない。この聖書はあんたが生きた証として、必ず娘さんのところに届ける。それができるくらいに、俺は生まれ変わってやるぞ。そうして、あわよくばこのくそったれな組織に一発ぶちかましてやるんだ。
 俺は床に散らばった紙屑を一つ残らずゴミ箱に入れ、最後にそこに唾を吐いた。
 
 

 あの日以来、俺は真面目に業務に取り組んだ。こんな場所で死ぬわけにはいかないが、逃げ出すわけにもいかない。セサミストリートの主題歌を歌うだとか、犬っぽいタケノコを食うだとかわけのわからない仕事にも油断せずに取り組んだ。そうしていつの間にか、1ヶ月が過ぎ去った。
「おつかれさまです。これで契約の期間は終了ですね」
 イトウはあいも変わらぬ貼り付けた笑みで契約書を差し出した。
「もし継続してやっていただけるなら、こちらにサインをお願いします」
 俺は笑って契約書を押し戻した。
「バカなこと言わないでくれ。もうごめんだよ、こんな仕事。外で真っ当に生きていた方がマシだ」
「そうですか、残念です」
 彼は席を立ち、出口へと向かう。
「あとは最後に身体検査をして、そのあと施設の外までお送りします。お給料はそのあとで――」
「おい、ちょっと待て」
 俺の呼びかけに、彼は立ち止まる。
「ありがとよ、イトウさん」
 彼は不思議そうに、しかしどこか演技っぽく、首を傾げた。
「何か感謝されるようなことをした覚えはありませんが」
 俺は笑って、腹をさする。
「……いや、いい蹴りだったよ。そっち系の店で働けるんじゃないか」
「おや、そちらの趣味をお持ちでしたか。ご要望とあれば、いつでもご連絡くださいよ。少しお高いですが」
「ああ、そのときは頼むよ。じゃあな」
「ええ、それでは」
 彼は静かに扉を閉めて出て行った。
 これでこの刺激に満ちた日々も終わりだ。そしてこれから、俺はやり直すんだ。もう二度と、昔のような自分には戻らない。
 窓の外は快晴で、心地の良さそうな風が吹いている。遠くで飛んでいる小鳥が、新たな出発を祝い、歌ってくれているようだった。

 


 

「先輩、彼、何回目でしたっけ?」
 サカモトはコーヒーを淹れながら尋ねる。イトウは書類を整理しながら、サカモトには目を向けずに言った。
「それはどうでもいいことです。前回と同じように、記憶の調整を行ってくださいよ。お給料は基本プロトコル通り、道端で拾ったことにしましょう」
「どうしてここにいた全ての記憶を消すのに、律儀に給料を渡す必要があるんですかね? ここにいる期間に提供されるサービスだけでも、ああいう人間にとっては十分な報酬だと思いますが」
「本人の自由意思による雇用契約、そしてその契約の履行、契約の途中破棄も可能。これは必須条件です。あの仕事をやるか、やめるか、続けるかは本人の意思に任されているんですよ。そうしなければ、ただの人さらいや詐欺師、奴隷商と一緒ですからね」
 コーヒーを運んでいたサカモトは笑って、コーヒーの液面に小さな波がたつ。
「自由意思とはよく言ったもんですね。先輩、彼に逃げ道なんて用意してなかったじゃないですか」
 イトウはサカモトが運んできたコーヒーをすする。少しの静寂の後、彼は小さくため息をついた。
「さあ、覚えていませんね。次回彼に会いに行くときまでに思い出しておきますよ」
 酷い人だ、とサカモトはまた笑う。もう次が決まっているんですね、という言葉に、イトウはただ、コーヒーを啜った。

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