猫の目も借りたい
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「目を見るんですな。あいつらを見分けるコツってのはそこです」

剃り込みの入った角刈りの男、山口はそう言いながら前を歩いていく。雑居ビルの立ち並ぶごみごみとした裏道。体のラインを強調しないフォーマルなスーツ、肩から下げられているのはキャリーバッグ。その重さを感じさせない足取りで梅田はその後を追う。

「目ですか」
「おう、あの連中はね、人の目をしていないんです。狂った犬の目をしているんですよ。自分以外は全部敵、あるのは自分より上か下か」

ヤニの混じったねちゃりとした濁声。山口は油断なく周囲を嗅ぎ回った。───正確には嗅ぎ回るように梅田の目には映った。優秀な人間なのだろう。その眼には迷いなく、しかし確実に周囲の異常、変化を探し、網膜へ焼き付けている。

自分以外を敵だと認識することを犬の目と呼ぶのであれば、それは山口にも当てはまるのだろう。もっとも、犬は仲間意識の強い生物だ。この例えならば猫のほうがやや正しいかもしれない。

「おう、すいませんな。四課ってえのはついつい街を見る癖がありまして。あの連中のシノギの気配がすればそれなりに顔を出さにゃならん。ええっと、何を話してましたかな」
「犬の目の話を」
「ああ、すいませんな、畑違いの人に講釈垂れちゃって。まあ、だから、そういう連中と話すコツってのは舐められんことですよ」

山口は一通り周囲を嗅ぎ回ると頷き、耳の後ろを掻く。そこで2人は道の先、表通りから来る長身の影に気が付いた。

「そら、来ましたよ」

棒のように伸びた背筋。骨ばった輪郭で黒髪を無造作に掻き上げている。一見すれば仕事を始めようとするホストに見えないこともないが、山口の言う通り確かに眼が違っていた。暴力の匂いがする。その眼が山口と梅田を捉えた。表通りの日向から裏道の日陰へとやってきた男は手を挙げて挨拶する。

「どうも、山口さん」
「おう、呼びつけて悪かったな、福島」

にこりと笑みを浮かべる男。福島辰巳、関東一帯に影響力を持つ暴力団、"有村組"の若手幹部であるその男へ、"財団"のエージェントである梅田は臆することなく向かい合った。アドバイスが役に立ったと思ったのか、山口が小さく頷いた。

「そちらの方は?」
「初めまして、八王子警察署警備課の御堂筋と申します」
「警備課、なんだってそんな人を連れてきたんです? 山口さん」

偽の身分証を福島はしげしげと見つめる。公安系の仕事が多い警備課が一体何の用なのか、福島は言外にそれを尋ねている。

「進藤のことで聞きたいことがあるんだと」
「進藤? あいつはもう俺の組からは破門にされてますが」

進藤裕一郎。有村組直系葛城組の舎弟頭、すなわち葛城組の№2だった男。梅田はその情報を脳内で整理し、手帳を開く。自分より頭一つ高い福島へ目線を向けるために若干上目遣いになった。

「事実確認を行います。進藤裕一郎、有村組直系葛城組の舎弟頭であり、現在は組でご法度の覚醒剤に手を出し破門されていますね?」
「ええ、そうです。他の組じゃ建前になってることも多いですが、有村の系列では完全に禁止してますんで。…ただ、進藤に関しては本当にやってたのかどうか、有村の中でも意見が分かれているところですがね。確かに動きはクスリのそれですが、周囲にそれらは見つかってないわけですし」
「その進藤ですが、私たちの調査していた団体との接触が確認されたため、情報を集めているところです」

梅田の提示した情報に福島は唸りながらようやく頷いた。長身の福島が頷く姿は玩具の水飲み鳥を思わせた。唸り声を止めると福島は梅田へ目を合わせた。梅田は福島と目線が初めて会ったことに気が付いた。二重瞼に長い睫毛、虹彩は明るい茶色で、僅かに充血が見て取られた。そこに混乱はなかった。

「なるほど、そこで俺ですか。確かに葛城の兄貴やその組に関連することなら、俺が一番口が軽いと思われても仕方がない」
「話せる限りで構いません、彼に関しての情報を提供していただけますか?」
「分かりました、ただし、話せる限りです。そちらの望んだ話が出ないこともありますんで」

福島が胸元から折り畳みの携帯電話を取り出し、視線を外す。梅田はふっと息を吐き、福島はどこかへ小声で電話をかけ終わるとまた唸りながら頷いた。

「じゃあ、場所を変えましょう。もちろん山口さんも一緒に来てください。あとで何かあって痛くもない腹を探られるのは困りますからね」
「何処に行く気だ?」
「『オッカム』ですよ、八島の父っあんなら秘密は聞きませんし漏らしません」

何かの店の名前か、山口も確かにと頷き、梅田に目線で合図を送る。梅田はキャリーバッグの紐を肩へかけなおす。先頭の福島が表通りへと歩を向けたとき、裏道の出口に一人の男が立っていた。似合わないジャンパーを羽織った短髪の男。小刻みに震え、地面を変質的にくたびれたスニーカーの踵で叩いている。目は泳ぎ、怯えきった子犬を思わせた。福島は男を一瞥すると、少し唸り目を開く。

「あ? お前、葛城兄貴のとこの久住…、だったか?」
「福島の叔父貴、…すんません、進藤が、進藤が悪いんです」
「何の話をしてやがる、震えてないではっきり言いやがれ」

要領を得ない久住の言動に福島はその肩を軽く小突いた。じゃれあいのようなその行動に、久住の体は大きくぶれ、そのまま後ろへ倒れ込もうとして。

───血を噴き出して、独楽のように回って、どちゃりと、粘性の音を立てて、3つに裂けた。

全員が硬直した。その硬直を高い唸り声が動かした。その数は2つ。梅田が叫ぶ。

「屈んで!」

その声に従い、福島は転ぶように地面へ屈む。しかし、山口は一拍遅れ、その顔面に5本の筋が走った。筋から噴出したのは赤と黄色。断末魔をあげる間もなく山口の顔は寸断された。

「山口さん!」

梅田と福島が駆け寄る。既に呼吸はなく、明らかに致命傷。福島が首を振り、梅田へ視線を移す。

「…ダメだな、死んでる。御堂筋さん、何か見えたんですか?」
「分かりません、でもとにかくこの路地から抜けましょう。何かここには…、右です!」

高い唸り声が響く。その数は2つ、1つは声に応えて跳んだ福島をかすめ、走る5本の線。もう1つの出所は梅田の肩から下げられたキャリーバッグ。梅田はちらりとそれへ目をやり、軽くねぎらうように叩く。福島は周囲へ視線を巡らせた。姿はない、だが確かに何かがいる。その証拠とばかりに、久住の死体は分断されたときの半分にその量を減らしていた。食われている、と呟いたのは2人のどちらか、あるいは両方か。表通りの喧騒はまだこの惨状に気が付いていないようだった。

「見えない何かがいるってことらしいな。どうしますか、御堂筋さん」
「今のところ私たち、正確にはあなたを標的にしているのでしょう。まずは距離を稼ぎたい」
「分かりました、とりあえずここら辺の地理なら俺のほうが詳しい、なるべく大通りに」
「ダメです、通行人が巻き込まれてしまう」
「…なら人がいない広い場所か、港のほうへ行きましょう。知り合いの使っている倉庫がある」
「そのためにはここから逃げる必要があります」

早口でやり取りをする2人の視点は再度周囲へ向けられる。久住の死体はもはや僅かに手足を残すだけ。互いの鼓動すらも感じられるような緊迫感。

「それに関しては一つ思い当たることがあります。御堂筋さん、どうもあなたは、というよりそのキャリーバッグは相手の動きを俺よりも先に気付けている。次に来る場所を教えてください」

それ以上の言葉は交わさない。2人は最初からそうだったように頷いた。高い唸り声が響く。5本線が走る。

「左です」
「了解」

皮1枚で跳ぶ福島。透明な小瓶を放り投げる。落下した瓶は弾けて割れ、爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。唸る声。福島が梅田の手を掴み、大通りとは別の方向へ走る。息を切らし走る2人、その背に筋が走ることはなかった。


2人は福島の案内した倉庫で荒い息を吐いていた。キャリーバッグを地面に置いた梅田は表情こそ変わらないものの、髪は乱れ、全身からの汗にシャツがじっとりと濡れている。しゃがみこんだ福島も同様に整えていた髪が千々に乱れ、胸元を大きく開いている。一通り呼吸を整え、梅田が福島へ問いかけた。

「さっきのは?」
「ああ、久住と山口さんの傷なんですがね、猫のひっかき傷に似ているとは思いませんでしたか?」
「確かにそう言われてみれば、飼っていた猫にひっかかれたとき似たような傷が」
「あなたも飼ってますか。猫はいいですね、特に目がいい。俺も1匹大きいのを飼ってまして。で、話を戻しますか。さっきのはオレンジの匂いがする香水です。しつけスプレー代わりに使っていたのを思い出しまして。相手がもし猫であれば効くだろうと」

福島の息はまだわずかに乱れている。周囲の気配に気を配りながら、梅田は福島にペットボトルの水を渡す。喉を鳴らし、福島は一息にペットボトルを飲み干した。

「水、ありがとうございました」
「猫に襲われる心当たりは?」
「ありませんね、…いや、おそらくは葛城の兄貴か」
「やはりそうですか。何か不利益なことを?」

息を大きく吐き、福島は立ち上がった。長い手で壁の側面をなぞりながら一回視線を爪先へ送り梅田へ向き直った。

「葛城の兄貴はクスリに手を出してましてね、進藤はその使い走りでトカゲの尻尾。俺はそれを他の兄弟に隠して親分に伝えようとしていた」
「なるほど、そこであなたを襲った、と」
「ええ、そんなところでしょう。まさかこんな直接来るとは思ってませんでしたが」

福島は梅田の顔から視線を動かさない。視線はただひたすらに梅田の顔を見つめている。先に目を逸らしたのは梅田だった。福島へ背を向け、キャリーバッグを軽く撫で、側面の端末を取り出す。操作するその指を、福島は見続けている。倉庫の窓から漏れた光が顔の左半分だけを照らしていた。左眉の少し上に、白くなった切り傷があることに梅田はそのとき気が付いた。

「応援を要請しました、あとは到着するまで時間を稼ぎましょう。もっとも、私たちを追いかけてくるかは」

梅田の声に続け、キャリーケースからわずかな唸り声が響く。呼応するように大きな唸り声が倉庫へ響いた。威嚇だ。

「来たようですね」
「…その応援ってのは猫相手に動いてくれるんですかねえ」

軽い福島の言葉。だが、その声は今までと明らかにトーンが下がっていた。福島は壁を背にそろりと立ち上がる。梅田もまた半身にし、周囲へ目を配った。そのまま背後の福島へ低く声をかける。

「明らかに相手の猫はあなたを狙っています、福島さん。何か、マークになるものに心当たりはありませんか? 進藤や久住、葛城から何かを貰っただとか」
「いや、そう言われても…、ちょっと待ってくださいよ」

張り詰めた空気の中、梅田の背後で何かを探る気配だけがある。梅田はそれに気が付いた。すなわち、福島の気配だけしかしない、ということに。高く大きな鳴き声が響く。それは上からだった。見えない5本の線が、死神の鎌が、福島もろとも梅田に降りかかる。

小さな唸り声が響いた。

「え?」
「御堂筋さん!」

反応できたのは声だけだ。山口の発せなかった断末魔が梅田の口から絞り出された。福島が梅田を突き飛ばした。それは間に合わないはずの手だった。爪が、見えない猫の手が一瞬遅れていた2人が絡み合いながら転がる。覆いかぶさった福島の匂いは汗と血の匂い。慌てて立ち上がり、僅かに爪の遅れた理由を梅田は見る。キャリーバッグの蓋が開いていた。

キャリーバッグの中身は飛び出し、低く唸っていた。

二股に分かれた尾を逆立て、黒の斑点を浮かべた白い小さなその体躯。不可視の猫へ猫叉が唸る。青い目を爛々と光らせて。

バニラ!」

猫叉、Aアイテム、梅田の呼ぶバニラは唸る。自らの発するより遥かに大きい相手の声に臆することなく唸っている。2本の尾は逆立ち、鎌首をもたげた蛇のように揺れている。その姿に梅田は初めて感情を露わにして叫んだ。

「バニラ、ダメ、敵いっこない! 逃げなさい!」

駆け寄ろうとした梅田の肩を、がっしりとした腕が止める。振りはらおうとしたが、福島は強い力で胸元へ引き寄せ、そのまま抱きしめた。その目線は二股の尾へ向けられている。目尻が僅かに下がっていた。

「アンタの猫か、御堂筋さん」
「離してください」
「アンタの猫か」
「私の猫じゃない、でも」

腕の中でもがく梅田をよそに、福島は低く唸るとズボンのポケットを探り、1枚のくすんだ紙を取り出した。

猫たちの唸り声は交互に、高く響き、今にも破裂しそうなほど。

「思い出した、御堂筋さん、これです」

福島がマッチを擦る。その火が紙を赤く染めた。黒い煙。硫黄が燃える嫌な臭い。燃え尽きる紙にはわずかに何かの図面が彫っているのが見て取れた。紙片が灰になっていくにつれ、大きな方の唸り声が徐々に落ち着いていく。紙が燃え尽きる寸前、唸り声は止まり、燃え尽きると同時に喉を鳴らす音が。気配は消えた。後に残ったのは燃え滓と匂い。そして2人と、座り込んだバニラ。

福島が腕を離す。もはやそれも気にならないように梅田はバニラへ飛びついた。バニラは梅田の胸元で喉を鳴らす。

「バニラ、バニラ!」

ただひたすらにその名前を呼び梅田はバニラを抱きしめる。
福島はその光景を微笑んで見つめていた。そしてゆっくりと崩れ落ちる。
その音にようやく梅田がバニラを離した。同時に、黒づくめの部隊が倉庫へなだれ込む。その中心を割るようにグレースーツの男がゆっくりと歩を進める。痩身の男は倒れた福島を避け、梅田の肩に手を置いた。

「無事ですか、A.梅田」
「神山さん」

神山は穏やかな笑みを浮かべ、表情を変えず梅田の抱きかかえたバニラへ視線を動かした。

「…Aアイテム使用試験、これでは凍結せざるを得ませんね」
「もうしわけありません、私の不注意です」
「いえ、過ぎたことです。もともと私の上の人間が無理にねじ込んだこと。その中で、そこにいる気配察知に優れた猫叉を初期テストケースとして適任だと判断したのもその人間です。むしろそのAアイテムが無事であったことを喜びましょう。もちろん、あなたには処罰が下らないよううまく調整しておきますよ。ただ、そのAアイテムに関しては」

梅田は言葉を濁す神山に小さく頷き、同行した機動部隊員へ大人しくバニラを預けた。バニラはややむずがりつつも、キャリーバッグの中へと戻っていく。名残惜し気にその背を見送り、梅田は封鎖を始める機動部隊員に視点を移す。彼らに回収される福島の姿へ。

「福島さんは」
「麻酔を行っているだけです。目覚め次第簡易調査を行い、おそらくは記憶処理ののちカバーストーリー、この場合被害者は2人で1人は反社会勢力構成員ですから、彼に罪を着せて、おしまい。福島さん自体は解放でしょう」
「…そうですか」

梅田はもう一度福島を見つめる。その眼は。




「いらっしゃい」

私、梅田綾が扉を開けるとカラン、と音が迎えた。『オッカム』の広くない店内にはテーブルが2つにカウンターが5席ほど。カウンターの年老いたバーテンが静かに振るシェイカーと微かに聞こえるジャズ。客はカウンターに1人のみ。静かにカクテルを啜る長身の男。この前とは違い、黒いスーツを着込み、落ち着いた印象がある。その横へ座り、声をかけた。

「はじめまして、福島辰巳さん」

私の声に福島は目を丸め、唸り声を。考えるときの癖らしい。しばらく唸るとお手上げというように両手を上へ向けた。

「どこかで会ったかね。アンタみたいな目の女は忘れることはないと思うんだけど」

数日前、共に丁々発止を繰り広げ、私からまたバニラを奪った男はすっかり私のことを忘れているようだった。記憶処理は滞りなく行われているようだ。改めて顔を見ると良く整っている。野趣あふれる中に子供のような人好きのする印象だ。人間に興味がない私でもそういった分析ができる以上、ほだされた人間も多いだろう。プライベートでは割と砕けた言葉遣い…、というよりもこっちのほうが本質なのだろう。久住に話しかけたような口調が本当の福島なのだ。そこで思考を切り上げ、単刀直入に私は本題を切り出した。

「あなたは、知っていたんですね」
「唐突に何だ」
「知らないのなら結構です。これからは一方的に話しますので」
「…了解」

有無を言わせない私の言葉に、福島は何かを察したようだ。なかなかに勘の鋭い男。キャリーバッグからいくつかの資料を取り出し、カウンターに広げる。いつの間にかシェイカーの音は止み、バーテンは姿を消していた。なるほど、弁えているわけだ。広げた資料の1枚目、進藤裕一郎、久住啓二、葛城祐の名前と現状の調書を示した。

「進藤の覚醒剤疑惑に加え、子分の久住が警察殺しを行ったことで葛城は完全に失脚した。有村組の跡目の可能性がある人数は確実に1人減った」
「…まあ、そういうことだわな、でも俺には無理だ、そういう話じゃなかったか?」

そう、無理だ。今回の事件は久住単独による警察殺し、そういう話になった。これに福島は関係なく、もちろん、見えない巨大な猫らしき生物なども存在しない。世間一般にも、福島にとっても、そういう話になっている。

「これはあなたを狙ったことによる偶発的なものだ。だが、葛城がこのタイミングであなたを狙う必要があったのか? ただでさえ子分の進藤が本家から目をつけられることを行った。そのタイミングで」
「その理由があるとしたら? 俺は」
「葛城にかかっていた覚醒剤売買の疑惑が、偽であるとしたら?」

遮るように放った言葉に福島の目が細められた。私をバニラから引き離した時と同じ目だ。悔しいが、恐ろしい気はしない。目線を逸らし、新たな資料を見せる。

「"東京刺青三代目燈彫"」

広げた資料の中心には見事な入れ墨。SCP-1266-JP、有村組が所有しているとされていた異常技術。1992年2月以降、その技術は確認されていなかったが、久住や山口の死体からは大量のトキソプラズマが検出された他、死体の表面にはイエネコの唾液と体毛が確認されている。トキソプラズマ症に類似した異常行動、加えてイエネコ。今回の事案に共通する要素を多く持つ。これらを以って財団は今回の事案にSCP-1266-JPが関与していると結論付けた。

その線で探るにあたって、最も有力な候補こそが目の前にいる男。進藤、久住を唆し、覚醒剤を捌かせたうえでそれを自ら葛城の仕業だと告発する。あとは口封じのためSCP-1266-JPを施術し、さらにはそれに財団すら巻き込み、自らの記憶ごと全てを消し去ったのではないか。それがたどり着いた推論だった。

「全てを仕組んでいたのは、あなたなのではないですか?」
「さて、何の話か分からねえな。少なくとも俺にはよ」

私の追及に福島はゆっくりとグラスを傾ける。苛立つことはない。そう、すべて推論に過ぎない。もう既に財団は処理を終えてしまった。つまり、もう既にそういう話になってしまったのだ。都合よく、すべては福島の手の上で。あの時燃やされた、おそらくは人の皮のように。だから私はその目を見つめ、聞きたいことを聞いた。

「…ならば一つだけ教えてください、あなたは何故、そういったものに関わったのですか?」

福島は少し唸り、トントンとカウンターを指で叩く。答えは期待していない。だが、予想に反して福島は口を開いた。

「…そうだな、そういうものに関わる人間が嫌いだから、で答えになるか?」
「そういうものの存在を認めるんですね」

次の問いに福島は答えなかった。その代わりに立ち上がるとカウンターの中へ入り、シェイカーを手にとった。

「嫌いなんだよ、俺の知らないところで俺の知らないことが起こるってのがクソほど嫌なんだ。平気の平左で暮らしてる街を勝手に弄られているのが。だから組織とか、突き詰めて言えば人間は嫌いだし、信用してない。信用できるのは猫と、…あとはまあ、有村の親父くらいか」
「…では、もし仮にそういう人間が、あなたの知らないところで世界を動かす人間がいるとして、あなたはどうやってそれを見分けるんです?」
「簡単さ」

いくつかのボトルを空け、氷を砕く。その手を止めて、私の目を見た。

「目をな、目を見るんだよ」

聞いた言葉だ。犬の目、猫の目、違う、この男の目は。

「山口さんもよく言ってたが、人の中には犬の目を持ってる奴がいる。それが狂犬かチワワかは知らねえがろくなもんじゃねえだろうさ」
「では、あなたの言う人たちは犬の目をしていたと?」
「いや」

福島は笑う。アイスピックが氷を2つに割った。

「虫の目をしてるんだよ。人をただ見てるだけの虫の目をな」

ぞわりと背中の毛が逆立った。あの見えない猫と対峙した時もこんなことはなかった。でも、目をそらすことはできなかった。私の頭の中に1つのイメージが浮かぶ。そのイメージを振り払うため、必死にバニラの顔をイメージした。この男は私からバニラを奪ったのだ。それがバニラの意思によるものだとしても。永遠にも感じる時間、私たち2人は互いの目を映していた。福島が氷へ視線を戻し、私はそこでようやく息を詰めていたことに気が付いた。

「俺はそうなりたくねえもんだ」
「残念ながら、私にはあなたが蜘蛛に見えますよ」

頭の中のイメージ。蜘蛛に絡めとられる蛾。私はそのイメージを思わずぶつける。福島はこちらを見ずにアイスピックを止め、くつくつと笑う。そういえば初めてこの男の笑い声を聞いた。

「蜘蛛と来たか。ゴキブリと呼ばれたことはあるが。…じゃあ、同じ虫どうし、仲良くやろうじゃないか」
「虫の目は嫌いなのでは?」
「アンタは特別だ。アンタはいい女だし、それに猫が好きなんだろ?」

硬直する。私は猫の話などしていない。前回のことは何も、この男は何も覚えていないはずなのに。もちろん、今回の訪問後も記憶処理を行う準備はある。だが。停止した思考を蜘蛛の目が見つめている。網が絡めとられるイメージが浮かぶ。

───猫の鳴き声が聞こえた気がした。蜘蛛の網を猫の爪が切り裂いた。福島の目が閉じられていた。

───同じものを聞いたのか。

「そんな驚くなよ。アンタのことを俺は知らねえさ。気付いたのはスーツに猫の毛がついてるからだ。俺も猫は好きでね」

心地よいシェイカーの音がいつの間にか響いていた。どれくらい茫然としていたのだろう、福島が器用にシェイカーを振り、グラスに手際よくその中身を注いでいる。オレンジ、パイナップル、グレープフルーツ、そしてグレナデン。最後にフルーツを飾り付け、私の目の前に差し出した。

「帰る前に一杯飲んでいけよ、俺が奢るから」

猫の嫌いな柑橘系の匂い。オレンジ色のカクテルが光を反射している。グラスに私と福島の目が映っていた。一息に飲み干し、静かに返し立ち上がる。

「失礼します」
「最後に名前だけ聞かせてくれ。俺だけ知られてるのはフェアじゃない」
「…梅田綾です。それと、もう猫は飼っていません」
「綾ね、分かった。またどこかで会う気がする、アンタは猫みたいに綺麗だから」

カウンターの中から手を振る福島。またどこかで会う気がする。私もそう思う。

その目と私の目は同じだろうか。人をただ見つめる虫の目。バニラを奪ったのは福島じゃない。世界のためにバニラを閉じ込めたのは私だ。猫は虫を殺すものだ、それもときにはいたぶって。ドアを閉じる瞬間、にゃおんという鳴き声が聞こえた気がした。それがバニラのものか、あるいは福島の飼い猫か。私には分からなかった。分かるはずがなかった。


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