きみは、世界で一番の
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がたん、と開かれた窓から微かに湿っぽい風が流れ込んできた。今日も良い天気だがここ最近は雨が降っていない。もしかしたら午後は断水になるかもね、とアイリが言っていたのはいつだったか。まだ断水とやらになったことは無いが、いつそうなってもおかしくないらしい。しかし朝涼みにはちょうど良い気温だ。だいぶ伸びた庭の雑草を眺めていると、窓際の花瓶の水を替えたアイリが淡い水色のソファに腰掛けた。

「ヤドカリさん」
「アイリ。私の名前は『深き海とそびえる山を統べる偉大なる王』だ」

何度この訂正をしただろうか。だが一度としてアイリは私のこの偉大なる名を呼ばなかった。今は正直もう諦めているが、条件反射と言うやつだ。しかしどうしたものか、話しかけてきた割にじっと黙り込んで机の端の方を見つめているアイリに違和感を覚えて声をかける。

「どうした」
「…わたしね」

伏せられていた顔がゆっくりと上がり、大きな瞳がこちらを見た。

「結婚するの」

一年ほど前にアイリと一緒に選んだ白いレースのカーテンが、風に煽られて静かに揺れる。きっとこれから昼にかけて気温は上がっていくだろう。今朝、アイリと一緒に見た天気予報では最高気温はいくつだと言っていただろうか。30度は悠に超えるはずだ。時計の短い針がいやに耳に付く音を立てて進む。

「前に紹介した人がいたでしょ?昨日、プロポーズされたの」

目を細めて微笑んだアイリは、ほんのりと頬を染めて幸せそうに言った。テーブルに乗せられた左手の薬指には、私の何万分の一程度しか価値のないような輪っかがはめられている。アイリはあんな装飾品を持っていただろうか。あまり貴金属に興味はなかったはずだが、いつのまに買ったのだろう。

「結婚式、来てくれる?」

少し首をかしげたアイリが私を見上げる。

けっこん。

けっこんしき。

その言葉を、まるで言葉を覚えたての赤子のように繰り返し反芻してからゆっくり目を閉じた。庭の木々がざわめく音が聞こえる。アイリと一緒に植えたトマトは、きっと真っ赤に熟れた実をつけているだろう。それから、アサガオにひまわり。昔、ひまわりを初めて植えたアイリに「ヤドカリさんって、ひまわりの種たべる?」と聞かれたのが懐かしい。あれはまあ、不味くはなかったが美味くもなかった。

もう一度目を開く。そこには先程と同じように私を見上げているアイリの姿があった。

ああそうだ。私はその意味を知っている。

あの指にはめられた輪っかの意味も、その価値も、知っている。

なぜなら私は、総理大臣よりも大統領よりも偉いのだから。私が知らないことなどこの世にありはしない。そう、結婚。至って簡単な話だ。アイリは結婚する。愛する人間が出来て、これから先の人生を一緒に生きることを誓う。真っ白なウエディングドレスという服を着て、教会という場所で誓いを立てる。きっとあの海岸の教会だ。高く聳える白い外壁に包まれたあの場所で、真っ赤な道を歩いた先に立つ男と祝福の式を挙げるのだ。ああ、行こうじゃないか。24800人の家来を引き連れて必ず行こう。真っ白なウエディングドレスはきっと今のアイリに良く似合うに違いない。しかしどうしたものか、先ほどから頭の中にはどんどん先の考えが溢れてくるのに肝心の言葉が一つも出てこない。そんな私を不思議に思ったのか、ソファから立ち上がったアイリは私がいる棚の傍に来て言った。

「ヤドカリさん?どうしたの?」

私は今、口にするべき言葉を知っている。そして、アイリが理解出来る言葉で話すことが出来る。だから私は、いつものように口を開いてそれを言えばいいだけなのだ。

「お腹空いた?何か作る?」

言えばいいだけだ。

「私、卵焼き上手になったのよ」

口にするべき言葉を。

「それから、イチゴの「おめでとう、アイリ」

思ったより、うまく言えた。きっとなんの不自然もなかったろう。当然だ。何回練習したと思っている。暫くの間自分の下にある柔らかなクッションを見つめてからアイリを見る。私を見上げたアイリは微かに目を見開き驚いたような表情をしていた。まあ、驚きもするだろう。アイリが以前に相手の男を連れてきたとき、私はその男と一言も口を利かなかったのだから。今思えばもっと考えて接するべきだったかもしれない。あの男はなんという名前で、どういう性格なのだろう。アイリに相応しい男だろうか。

過去を思い返し珍しくも私が生まれてこの方数えられるほどしかしたことのない後悔をしていると、黙ったまま二、三度瞬きをしたアイリの瞳に透き通った膜が張った。ほんの少し眉根が寄せられ、その口が一瞬引き結ばれる。しかし俯きかけたアイリは再び顔を上げると、真っ直ぐに私を見ながら昔のように無邪気に笑って見せた。

「ありがとう、ヤドカリさん」

ぽろ、と、その白い頬を水滴が伝う。それを見てしまえば、もう、言葉なんてものは出なかった。

おめでとう。おめでとう、アイリ。私の、世界で一番の…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふっと意識が浮上した。

眩い光に少し目を細め、辺りを見渡す。先程まで目の前にいたはずのアイリはどこにもいない。視界に映っているのは分厚いガラスだ。開いた窓から流れ込んでくる湿っぽい外気なんてものもなく、室温も湿度も快適と言って差し支えない。

そう、此処は四方をガラスに囲まれた私の今の住処だ。アイリは学校から帰ってきただろうか。時計がないのでなんともいえない。今度、私に相応しい時計を用意させよう。

『わたしね、結婚するの』

ふと、先程のアイリの言葉が蘇る。結婚。結婚をしたら、子供を生むのだろうか。じっと考える。

私にもし、時を止めることができたなら。勿論空想だ。私に時を止める力はない。しかしもしも私が時を操れるのであれば、私は時を止めるだろう。だが、それはまやかしだ。時が止まった世界でずっと彼女といる。それは、果たして如何程の意味がある幸せなのだろうか。…誰の幸せなのだろうか。

アイリが大人になったとき、彼女の思い出にはどれほどのものが詰まっているだろう。きっと彼女の思い出は素晴らしい。透き通った結晶の中に花がちりばめられたように、色鮮やかで華やかで、そして温かいに違いない。そこにどれだけ私との記憶があるだろう。アイリは私を忘れないだろうか。…忘れないだろう。きっとアイリは、私を忘れない。けれど必ず時間は過ぎる。今日が思い出になって、いつかが今日になる。例え算数のテストで25点しか取れなくとも、リコーダーを上手く吹くことができなくとも、人は必ず年をとる。それくらいのことならば、総理大臣や大統領じゃなくたって誰でも知っているのだ。ここにいるサルどもも、アイリも、そして勿論私も知っている。
 
 
 
 
 
きみはいつか大人になる。
 
 
 
私にどれほどの価値があっても、それを止めることはできないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「…紙と、ペンを用意しろ」
 

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