金魚の収容
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そのエリアオフィス-81KA-B-021はほとんど完璧だった。
どこからどう見ても興味をそそらない小企業の事務所のなりをしながら、煙一筋通さない堅牢なセキュリティと強固な現実性を保ち、最新型を3世代ほどすっ飛ばした最先端端末と専用回線、それと何より強力な空調システムを備えていた。
エージェント桜木は、真夏の暑さの中でも均一に冷えたこの新しい職場にほとんど満足していた。
足りないのは自分の実績だけだった。それは研修後に配属されて1か月間、先輩エージェントと一緒にエリア内を駆けずり回っても落ちてはいなかった。
だから彼は今日も早朝から難しい資料に取り組んで、眉間にしわを寄せていた。

「おはよー。」

背後からけだるげな声と共に湯気の立つコーヒーの入ったピンクのマグカップが差し出され、桜木は慌てて礼を言った。マグカップを受け取ると、指先に伝わる熱でまだ眠たい頭が覚めた。

「おはようございます。チョミさん早いっすね。」

エージェント千代巳は桜木の先輩で、OJT2担当でもあり、このエリアのバディエージェントでもある。桜木は他の皆と同じように、チョミさんと呼んでいた。

「目ぇ覚めちゃって。何読んでんの。」

「報告書と、こっちは日本支部月報3っす。」

桜木は報告書の初期収容記録4の束と分厚い冊子を広げて見せた。

「あー、今日は月初か。誰か死んだ?」

「サイトじゃ今月は誰も。事故はありましたけど。ってか縁起悪い事言わないでくださいよ。綿森博士5も存命っすよ。」

「おー、そりゃ何より、何より。」

1リットルの牛乳パックを机に置いて、エージェント千代巳がだらりと椅子に体重を預ける。
長い黒髪がわかれ、白い耳と大量のピアスがちらりと顔を見せた。

「報告書はどれ読んでるんだ。」

SCP-058-JPの初期収容記録6っすね。今は収容記録058-JP-10-0005です。ちょっとこの量は心折れそうす。後は新人エージェント教育用の…。」

「あー。マニュアルはサっとで良いよ、お作法だけ覚えりゃ良い。初期収容記録は片っ端から読むべきだ、死にたくなきゃ。」

えらいえらい、と呟きながら千代巳は牛乳片手に月報を読み始める。

毎日こんな感じだ。紙の知識は確かに蓄積され、エリアパトロールで土地勘も醸成されるが、心霊スポットや廃墟7に二人で向かってカント計数機の目盛りとにらめっこする仕事は、桜木が想像していたフィールドエージェントの仕事から幾分か乖離していた。一つ溜息をついた後、桜木は焦りを奮起に切り替えて、冗談のように分厚い収容記録と格闘を再開した。
 


 
お昼ご飯を食べ終えて桜木がもう一度報告書に取り組み始めた時、エリアオフィスの端末からうるさい呼び出し音が響いた。千代巳がオフィス通信のマイクスイッチを入れて通話ボタンを押す。

「はい、エリア8120-B-02、エージェント千代巳です。」

『お疲れ様です、サテライト8120-B、オペレーター黒谷です。今しがたサイト情報部から連絡が入りました。エージェントの緊急出動をお願いします。』

「オッケー、場所だけお願い。内容は車で聞くね。サクラギ、機材セット8持ってって。」

「了解っす。」

黒谷が住所を読み上げるのを背中で聞きながら、オフィスのロッカーにカードを通して機材セットを取り出す。異常性の無い普通の機材は車に積みっぱなしだ。桜木が荷物を載せてエンジンをかけると助手席に千代巳が滑り込んでくる。

「運転頼むな。初の緊急出動、緊張してる?」

「そりゃしてますよ。訓練はあっても、実地は初めてなんで。」

「運転はミスんなよ。じゃクロ、続きどうぞ。」

千代巳は携帯端末を車に接続する。マイク機能が有効化され、黒谷の音声がスピーカーから流れる。

『はい。場所はさっきの住所のマンション3階302号室です。借主の男性と連絡が取れなくなって3日経ったため、鍵を管理していた賃貸会社の社員2名が部屋の鍵をあけて片方が中に入ったところ、その社員が消えたとのこと。消えた社員はすぐに廊下に現れ、もう片方の社員が中に入るも同様の現象が再現。パニックになり会社にかけた通話内容の異常性が自動傍受9され、情報部が回線の奪取に成功。警察の特殊組織を名乗って虚偽説明、説得と異常性の確認を行いました。現在該当の社員は指示通りマンション入り口まで避難、待機状態です。』

「オーケー。詳しい事情説明を聞いて一般人は記憶処理、オブジェクトの初期調査が任務かな。」

『その通りです。既にオブジェクト番号は仮発番済10ですので、この通信がそのまま初期収容ログに残せます。4922-JPです』

「さすが!封鎖状況は?あと、通話記録で何か気になったキーワードはある?」

『賃貸会社への虚偽説明と周辺一帯の交通規制の為に機動部隊が警察に偽装して出動します。念のためマンションから半径1キロの通信にディレイ11をかけて情報検閲中です。どちらも情報部封鎖班で指揮、対応中です。その他もいつも通りですね。キーワードは、そうですね…』

淀みなく話していた黒谷が一瞬考える。

『部屋には金魚が居た、とのこと。』

「金魚。」

千代巳は繰り返し、ふーんと頷いた。

「何か解ったんすか。」

桜木の質問に千代巳はいいや何も、と笑った。

「いや、ただ夏っぽいなって。お祭りで買った金魚を思い出すなー、すぐ死んじゃったけど。」

桜木は納得いかないような顔をしながら、千代巳と同じように金魚、と呟いた。
マンションが近い。
 


 
賃貸会社の社員二人組はかわいそうになるほど怯えきっていた。無理もない、と桜木は思った。なんの前触れもなしに信じていた世界のルールが壊れたのだから。
桜木はマニュアル通りに警察の特殊組織を名乗り、偽造の警察手帳を見せる。二人は幾分か安堵し、車で話をすることに同意してくれたが、暑いからと車で待っていたピアスだらけの千代巳を見て再び不安な表情になっていた。
千代巳が薄い唇を舌で湿らせる。舌のピアスがちらりと見え、更に二人の表情は陰った。

「ンじゃゆっくり落ち着いて。どちらが杉原さんですかね、経緯を話して貰えますか。何故あの部屋に?」

年配の男性が額の汗を拭いながら私です、と手をあげて答える。

「え、ええ、はい。借主の方の会社から当方に連絡がありまして、数日前から顔色が悪く、ここ3日無断欠勤が続いているから部屋を見て欲しいと。どうも上司の方も訪れたようなんですが返事が無かったとのことでして、万一を考えて確認しに来たんですが。」

「それで一人が急に見えなくなった、と。」

「ええ、ええ、そうなんです。部屋の鍵を開けて中に入ろうとしたこちらの三井が突然、消えてしまいまして。呼んでも返事もなくて。」

「三井さんは、何か違和感はありましたか。」

「いえ、私はそんなことには気付かず…ただ、部屋の中の確認で頭が一杯で。呼ばれていたのも全く聞こえませんでした。色々人が居そうなところを見て、誰もいないことを確認してから、杉原さんが居ないことに気付きました。あぁ、部屋に金魚の入った鉢がありましたね。それ以外には特に」

「で、家の外に出たら杉原さんが居たと。」

「はい。」

「あのう、私は三井がいきなり玄関前に現れたように見えたんです。」

杉原がまだ困惑したような表情で証言する。

「なるほど。で、今度は杉原さんが入ってみたと。」

「三井が私のいう事を信じなかったもので、見間違いなら、と思ったんですが。」

「はい、杉原さんが消えてしまって。声も姿も。これは本当だと…まぁすぐに元に戻ったんですけどね。」

「それで会社に電話をかけたんですね。」

「はい、いやでもまさかこんな変な通話に対応される警察部署があるとは思いませんでした、はは。」

千代巳は話を聞きながら、桜木に手の形で暗号を送った。記憶処理の準備だ。今は興奮して偽装の警官の事を信じてくれているが、疑心暗鬼でパニックになられると面倒だ。

「そうですね。驚かれたと思います。…金魚におかしな点はありましたか?」

「いえ、特には。きれいな金魚でした。」

「借主の名前は?」

「名前は…言って良いんですかね、…花山さんです」

杉原は警察手帳をちらりと見て、借主の名前を告げる。

「花山さんのことはご存知ですか?」

「いえ、特には。…あぁ、一度だけお隣の奥さんから苦情というか、何というか。独身のはずだが部屋に誰か連れ込んでいるのでは、と連絡がありました。毎朝仕事前に誰もいないはずの家に向かって挨拶していて気味が悪いと…でもまぁ金魚が居たんで、きっとあの子に言ってたんですねぇ。他には…特には。」

「なるほど。大変参考になりました。ところで、こちらなんですが」

千代巳がふいに手で桜木の方を指し示す。桜木は専用端末のミーム映像12を起動した。不意打ちを食らった賃貸会社の二人は音もなく座席に崩れ落ちる。気絶している間に安全な方法で記憶処理を行う、最新手順だ。

「手早くパッチ13当てて、あとは機動部隊に任せよう。クロちゃんお願い。」

『承知しました、封鎖班から機動部隊に引き継ぎます。』

二人の腕に記憶処理用のパッチを当てている間に、警官の恰好をした機動部隊隊員が車に近づいてきた。この二人には彼らから無難な説明がされ、通話履歴は削除されることだろう。

「んじゃ、メインディッシュに行こう。今回は正式発番まで行くぞ。ウチの勘だけど」

「っすね。さっさと金魚見に行きましょう」
 


 
「簡単に整理しとこう」

302号室の前で立ち止まり、千代巳は桜木に自分の端末のデータを見せた。先程の会話ログが書き起こされ、重要ポイントがマークされている。

「借主は行方不明。二人の話から、異常性の見立ては?」

「異常空間のオブジェクトで、家の中に入ると他の人から見えなくなり、声も聞こえなくなる。家の外に出ると元に戻る、ですかね。」

桜木はすぐに答えた。車の中から散々考えていたことだった。

「借主はどうなった?」

「家の中で何らかの原因で死亡し、異常性によって今も見えていないのかと。異常原因での死亡じゃないように思います。」

「三日経ってて、この暑さだ。臭いはどうなった?」

桜木は言葉に詰まる。そうか、もし中で死んでいたら異臭がするはずだ。

「それは…見えなくなるんじゃなくて、認識できなくなる、または別の空間に行ったことになる?だから見えなくて声も聞こえなかった。」

千代巳は後輩の回答に満足げに頷く。

「そんなとこじゃないかな。ウチもそう思う。用語はまたちゃんと調べよう、博士達に話すときはそっちの方が早い。サクラギはもうSCP-231014の報告書は読んでたっけ。」

「まだっす。」

「今度読んどいて。サラパーマー事件、家に入ったら人格が上書きされるオブジェクトだ。実質死んだようなもんだ。こんなのもあるから、こういう部屋や家とかの場所系のオブジェクトは現場保存だけしてDクラスに調査させることも多い。それもリスクだけどな。」

端末も見ずに千代巳はそのオブジェクトについて語る。桜木はオブジェクト番号を端末に入力し、「後で読む」タグのつけられた大量の番号の中に高優先度で放り込んだ。

「でも今回はあの杉原さんと三井さんがもう入ってますよね。」

「そう。証言と異常現象のネタもあるから、今回はウチらも中に入って内部調査で良いと思う。だよね、クロ?」

『そうですね。チョミさんとサクラギくんにはオブジェクトの初期調査をお願いします。何かあればバックアップを送ります。』

端末から黒谷の声が聞こえる。

「記憶処理とかのプロトコルチェックも兼ねてるから、こんな感じでオペレータとの通話は基本繋げっぱなしで良い。やってないと後で面倒だし。さっきみたいにログも残るしな。」

「了解っす。あのー、チョミさん。」

「ん、なんだ」

桜木は不安と自信の混じった表情で千代巳を見た。

「初期調査、行って良いっすか。」

千代巳はニヤリと笑いながら、困ったように眉根を上げた。

「んー、まずはウチから入ってみる。サクラギは初調査だしな。でもその積極性は買いだ。ウチがなんともなかったら入ってみ。」

予想された答えだった。それでも実地でオブジェクトに触れる機会は早々ないのだ。二番手で我慢するしかない。

「多分ウチは見えなくなると思うから、5分経って戻ってこなかったら……聞いてると思うけどクロに連絡、クロの判断でバックアップ呼んで。」

『承知しました。』

「了解っす。」

桜木は気持ちを切り替えてすぐに端末の時計を確認し、玄関前で千代巳の調査開始を待った。千代巳はんじゃーね、と手をひらひら振って部屋のドアを開け、固定する。

「ドア開けただけじゃ何ともないな。」

そう言って千代巳は玄関に一歩入る。まだ見えている。
二歩。体全部が玄関の中に入った。

「ありゃ。どこまで入れば見えなくなるんだ?」

「チョミさん、まだ見えてますし声も聞こえます。」

「再現性が無いのかな、誤情報15じゃないんだと思うんだけど、」

千代巳は続けて何か言おうとしたのだろうが、その前に千代巳の姿は元々そこに居なかったかのように消えていた。

「チョミさん?」

『チョミさんの端末にも応答がないね。サクラギくん、俺も見てるけど5分計ってくれ。』

「あっと、はい。」

桜木は端末のタイマーをセットする。本当に見えない。声も聞こえない。解ってはいたが不思議な光景だった。

「あと4分です。」

玄関に向かって呼びかけるが、返事はない。

「チョミさん、後2分。」

全く何の物音もしない。桜木はだんだん不安になってきた。聞いていた異常性や、予想していた異常性とまったく違う異常に遭遇することだってままある。もしかしてこのまま戻ってこないんじゃないかと思い始めた頃、突然玄関前に千代巳が現れた。

「ただいま。」

「うわ、びっくりした。…どうでしたか。」

千代巳はけろっとした表情で両手を広げる。

「中には本当に誰もいないね、証言通り。ただ、消える条件は家に入る事じゃなくて、家の中の金魚を見ることだったっぽい。あの時どれだけ玄関に入ったら消えるか確かめたくて下を向いてたから、玄関入っても金魚を見てなかった。顔を上げて金魚が見えた瞬間にサクラギとクロの声が聞こえなくなった。端末も応答なし。」

「部屋から出ると、元に戻ったってことですかね。」

「そうだね。一応他の部屋も全部見たけど、金魚以外特に変わったことは無かった。一応金魚鉢は持てたけど、持ったまま家を出たらどうなるか解らないからそのままにしといた。オブジェクトは、空間じゃなくてきっと金魚だ。」

「収容が面倒そうですね、それ。見たら消えちゃうんですし。金魚鉢はどこにあったんですか?」

「玄関すぐ部屋の左手の机の上だ。ガラスの丸いやつな。」

千代巳は端末に簡単な見取り図を描いて桜木に見せる。

「俺も行ってみても良いですか。」

「良いよ、鉢は持ち出しちゃ駄目だぞ。何となく。んじゃ見えなくなってから5分な。」

よし、と桜木は内心喜んだ。初の実地調査だ。何か掴めるものがあるかもしれない。

「それじゃ、金魚を見ないようにして中に入ってみます。チョミさん達とやり取りしながら、結構中まで入れるかもしれないですし。」

「なるほど。良い考えだな。やってみ。後写真撮影と録音も。いつもならウチがやるけど今回はサクラギに任せる。」

任せる。簡単な作業だが、それでも自然と桜木の四肢に力が入った。桜木は玄関前に立って装備を確認する。

左に金魚。右を向いて進めばいい。
玄関の中に入る。右向き。目の前には壁、靴箱。

「チョミさん。」

「見えてるし聞こえてるよ。」

左手を前方に伸ばしてぶつからないようにする。
カニ歩きで金魚を見ないように、部屋に土足で上がりこむ。

「まだ大丈夫っすね」

「見えてるし聞こえてる。そのまま2歩進んで、左に2歩で金魚だ。ここからじゃ金魚は見えないからな。」

「一応見ずに触って金魚の位置確認します。」

「了解、水こぼすなよ。」

右を見ながら2歩進み、前を向く。金魚は左。そのまま目を閉じて手を左に伸ばす。
滑らかな感触は木製の机だ。見取り図通り。そのまま手を左に伝わせると、机の上にある何かに手が触れた。

違和感が、ゆっくりと首をもたげた。

「チョミさん。」

「どうした。」

「机の上には他に物はありましたか?」

「いいや。金魚鉢だけだったけど。」

じゃぁ、机の上のこれは何だ。金魚鉢じゃない。球体のような形じゃない。薄い。ガラスというより、陶器のような手触り。

「金魚鉢、ガラス製で丸いやつ、って言ってましたよね。」

「……まさか、違うのか。」

「はい。どんな金魚鉢でした?」

「消えてたときに見たのは、ガラスの丸い、チューリップみたいな形の、上部に穴のある金魚鉢。中に水と白石、水草。金魚は赤色で三匹だ。」

桜木は生唾を飲み込んだ。

「了解っす。俺が触ってるのはその金魚鉢じゃなさそうです。見てみても良いですか。」

「……解った。見たら消えるから、ウチらの声も聞こえなくなると思う。注意して、5分以内に戻れよ。」

「了解っす。金魚見てみます。」

話している間も、桜木の左手の感触はガラスのまるい鉢と全く違うものを伝え続けていた。
金魚鉢を見るはずなのに、桜木には今触っているものが途端に得体のしれない何かに思えた。

振り返って、そこにいるのは本当に金魚なんだろうか?

これは恐怖だ、と桜木は思う。恐怖は自覚し、行動によって捻じ伏せられる。研修で学んだことだ。

「見ます。」

何度目かの金魚を見る宣言をしても、千代巳は笑わなかった。

「あいよ。」

桜木は覚悟を決めて、勢いよく左を向いた。触っていたそれは、陶器の、和風の意匠を凝らした大きな皿だった。淵は青赤に大胆に塗られ、中央は丸く深く、そこに水が張ってある。薄い水色の模様があり、水の中には。

「黒い、出目金…。」

一匹の、千代巳の報告とは明らかに違う金魚が皿の水の中をゆらゆらと泳いでいた。少なくとも桜木にはそう見えた。

「チョミさん。」

一瞬違和感があり、すぐに桜木は千代巳の声が聞こえないことに気付いた。桜木は千代巳や黒谷の世界から「消えた」のだ。なら残り5分で部屋を出る前に出来ることをしなければ。

桜木は金魚の写真を撮影した。少し予想外だったが、出目金は普通に写真に写っていた。他にも部屋の内観等を撮影し、録音も行う。研修で習ったこと、自分が必要だと思ったことを手早く済ませていく。

カーテンを開けて窓の外も撮影しようか、と桜木が考えていた時だった。

ガチャ、と玄関から音が聞こえた。桜木は振り向いて、玄関のドアが閉じたことに気付いた。

「あれ?」

ドアは開けた状態で固定していたはずだ。桜木はドアに駆け寄った。イレギュラーな事態だ。仕方がない。時間をたっぷり残しているのに情けないが、千代巳達に報告するために一旦玄関から出なければ、と桜木はドアノブに手をかけた。

「チョミさん、ドアが勝手に」

桜木の予想では、ドアが開き部屋の外に、日常に戻れるはずだった。
ドアは開かなかった。

やばい。

振り返ると、金魚はこちらを向いて漂っていた。ぽこ、と泡が水面を揺らす。

ドアを叩く。微動だにしない。ドアノブを回す。何も起こらない。金魚は漂っている。無音の部屋に金属音だけがむなしく響く。鍵を閉める。ドアは開かない。鍵をもう一度開ける、ドアは開かない。金魚は変わらずに漂っている。黒の出目金。

やばい、やばい。部屋から出られない。世界から消えたまま、誰にも伝えられない。

「そうだ、窓。」

窓からなら外に出られるかもしれない。桜木は部屋の逆側まで走り、カーテンを勢いよく開いた。普通の景色だがどこか違和感がある。前の通りを封鎖しているはずの機動部隊の姿が見えない。それどころか、まったく人の、生き物の気配がない。風も音もない。向かいのマンションのベランダに干された洗濯物は、張り付いたように微動だにしない。

窓の外にも、人は誰もいなかった。

呆然としながら、桜木は鍵をはずして窓を開けた。玄関のドアと違い、あっさりと窓は開いた。きゅるきゅる、と気の抜けたような音が鳴る。ベランダに出ても、何も起きない。

「チョミさん!」

叫んだ声は、こだまになって戻ってきた。自分の声以外何の音も聞こえない。桜木はひとりぼっちだった。ここから外に出て下に降りても、千代巳達のいる日常には戻れそうもなかった。

「ここから出せよ!」

思わず桜木は金魚に向かって声を荒げた。あれだけ色々な状況をシミュレーションしていたのに、桜木の精神は一瞬にして消耗してしまっていた。もしかして借主もこうしていなくなったのか、等と膨らむ嫌な想像を、研修で培った論理と手順で塗り潰す。

何かヒントは無いか。何かヒント。ドアは何故勝手に閉まったんだ。ドアは?

桜木は急いでドアに向かった。日常は、桜木が戻るべき世界はこのドアの向こうにしかないと何となく解っていた。でも、ドアは開かない。すがる様に閉じたドアに両手をついて、しばらくして、そして気付いた。

振動している。

深い水の底から伝わってくるように、鈍く、それでもこのドアは振動している。
定期的だ。いや、間隔があいた。リズムのように。
音はしないが、振動が小さく響いてくる。

「チョミさん。」

これは信号だ。振動の間隔……これは、モールス信号。千代巳達もドアが閉まるのを見て、異変に気付いたのか。桜木は薄いドア一枚でと元の世界と繋がっていた。
モールス、そうだ、解読しなければ。チョミさんは何て言ってる?

桜木はドアに手を当てて振動の信号を読み取る。
振動、振動、振動、空白、振動、空白、振動、長い空白。
・・---の2、または・・--・の半濁点。いや、次の信号が来た。2、3秒後だ。送信完了から2秒空けるという意味の2じゃないか。これで最後の振動がトンツーどちらか判別できる。いくつか振動を聞き逃した。

-・-・-
サ。

・--・
次、ツ。

・・---
次、2。間隔を伝えるものだからおそらく文頭か文末。

--・--
次、ア。

・-
次、イ。
また、サ。ツ。

「挨拶。」

挨拶ってなんだ、と桜木は自問した。
金魚に丁寧に頼めばいいのか?

桜木の思考が加速する。

挨拶。借主に挨拶?借主の挨拶。花山さん。花山さんの情報。近所の人から苦情。家から出る時に挨拶していた。誰に?誰も連れ込んでない、だって花山さんには金魚が居たから。金魚に挨拶。出掛けるときに挨拶。ドアが閉まったのは?出れないのは?意志、閉じ込める、行ってほしくないから。誰が?金魚が。金魚は動けないから。不安だから。安心させる挨拶。ここに戻ってくると。

桜木は気がついた。

部屋から出せ、じゃない。

金魚にとっては、部屋から出ることは元の世界に「戻る」ことじゃない。こことは別の世界に「行く」んだ。金魚にはこの部屋、この世界しかないから。部屋から出せ、ではなくこの部屋から行くと言わなければならない。部屋を出る時は、花山さんは、きっと金魚にこう言っていたんじゃないか。

桜木は深呼吸して、ドアノブに手をかけた。振り返る。黒い出目金の口からまた、ぷか、と泡が吐かれた。

言うべき言葉は決まった。少し置いていくけど、ごめんな。

「行ってきます。」

ドアが開いた。
ぶわ、と音と風が戻ってきた。
そして叩いていたドアが突然開いてよろけた千代巳が居た。

「うおっ。」

『サクラギくん、無事か?』

クロさんの声が端末から心配そうに呼びかけた。

「ただいまっす、チョミさん、クロさん。」

そういって桜木は力なく笑った。

「おかえり。ジャスト5分。良く帰ってきた。」

ほっとした表情で千代巳が言う。千代巳の両手は赤くなっていた。

「ご迷惑おかけしました。」

「良いィよ。」

千代巳はカラカラと笑った。
 


 
「気に入られたんじゃねぇかな、金魚に。」

車に戻った途端に千代巳は桜木にそんなことを言った。

「冗談やめてください、ほんとにもう戻れないかと思ったんですから。」

「いや、こっちも驚いたよ。まさかドアに干渉してくるとは思わなかった。収容プロトコルに記載が必要だな。」

端末をいじりながら千代巳は何かメモして、そして桜木の肩を叩く。

「よく挨拶でアレが解ったな。声は聞こえてたのか?」

「いえ、声は聞こえてませんでしたがモールスは届いてました。ドアが隔離された空間の境目だったから、お互い干渉出来たんすかね。チョミさんはどうやって挨拶に気付いたんです?」

「勘、って言ったらダメか。借主…花山は結構前にお隣さんから苦情受けてたんだろ。花山があの金魚を前から飼ってたんなら、きっとさっきみたいなドアが開かなくなる異常だってあったはずなんだよ。その時に花山が経験から会得した、ウチらでいうプロトコル、みたいなものが、家を出るときの金魚への挨拶だったんじゃないのかな。」

「すごいっすね。」

「想像だよ。金魚って言うのは、人に見られてなんぼの生き物だろ。だから見てくれる人を求めたんじゃないか、とか。ドアを閉めるっていう干渉は、鑑賞者である人間への独占とか、嫉妬とか、寂しさみたいな…そういうのを感じた。だから、ここから出るって言うんじゃなくて、金魚の側に立って、行ってきますとか、また戻るとか、そういう言葉が必要なのかもな。」

千代巳の薄い唇が裂けて、細い舌がちろ、と出てくる。

舌のピアスを噛むのはチョミさんの癖だ。気分がのってる時の癖。チョミさんは10歳くらい年上だけど、案外子供っぽい。

「マジで助かりました。」

「いいよいいよ、ウチも想像できてなかったし悪かった。頑張ったな。ちなみに、どうだった。」

「金魚っすか。和風の大皿の窪みに黒の出目金一匹っす。」

「やっぱりか。鉢まで違うんだもんな。部屋ごと保存する手もあるけど、ドアの件があるから怖いな。」

「二人で見てるものも違うんで、持ち出すと面倒かもしれませんね。」

「クロ、これ発番いけるよね?」

『そうですね、Anomalousじゃないでしょうね。一旦現場保存して、初見報告書16上げて正式発番にしてから、回収手順17作りましょう。』

「んじゃ報告書と手順以降の手続きはクロに任せていい?」

『承知しました。報告書は今日中にお願いします。街中なんで、早めに収容しきりたいです。』

「はいよ。サクラギ、初見報告書書いてみ。余力があれば回収手順案付きなら喜ばれる。」

「マジっすか。頑張ります。」

機動部隊の隊員に挨拶して、現場の部屋の保全をお願いする。

「えーっと、帰ったら報告書書いて、出来れば回収手順案も書くんすね。帰れなくなりかけたってのに。」

愚痴っぽく千代巳に話す。財団は良い職場だ、少々求められる仕事の量が多く質が高いだけで。

「良い仕事だろ。」

「はい。やりがいはありますね。」

桜木はニヤリと笑って舌を出し、軽く噛んだ。

「サクラギ、なんだそれ。」

「チョミさんの真似っす。」

「え、ウチそんなことする?」

「しますします。」

笑いながら、桜木はアクセルを踏んだ。

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