虫が単に鳴く如く、雨の降る時を視よ
評価: +17+x

通達


インシデント-E56Z9による鳴蝉 時雨主任研究員の死亡を確認した為、財団は同氏の保有していた全ての資産・権限を直ちに停止します。氏の担当・関連研究プロジェクトを管轄する人事課職員は、48時間以内に人員の配置換えを完了させてください。

サイト-8189管理者 加羅百菜


 
 
 
風が流れているような気がする。それは単に、私が前へ歩いているからに過ぎない。この廊下を歩いていると、私が、鳴蝉雨彦という一人の人間が薄れていくような気がする。

所々に配置された控えめな装飾はある程度五感を誤魔化してくれるが、やはり密閉された地下だというのに変わりはない。私は磨かれた床に跳ね返されてくる私の体重を感じながら、長方形の空間を独りで歩いている。

前にも後ろにも人が居ない。普段私が働いている区画に密接するほど近いはずなのに、パスコード一つで世界が変わる。財団と『外』がそうであるように、財団の中にも隔壁がある。そして私は、これからその一つ奥へ向かおうとしている。

私は今から向かう倫理委員会について、全貌を掴みきれずにいた。
 
 
 
こんな妙な時間の中では母を思い出す。母とは二度離別している。

一度目は七歳の時だ。特に思い出がないのは幸運だったのかもしれない。母はたった七年でその息子の人生から姿を消し、そのまま薄れていった。研究職についていた(らしい)母はいつも不規則な時間に家にいて(いたらしく)、彼女が一体どういう人物なのかは幼い私には分かっていなかったようだ。

母のことを静止画でしか思い出すことが出来なかった。アルバムの中の彼女が歩いたり笑ったり、料理をしているのを思い浮かべられなかった。母が私の話を聞く時に私を覗き込む、その顔だけが私の中に焼き付けられたまま残っていた。母は丸く大きな眼を私に向け、子供が虫籠へ向ける庇護欲にも似たものを瞳に載せていた。

七歳を過ぎた頃、私がはっきり記憶している世界からは母は消えていた。後になってから言い訳のような交通事故という死因を聞かされたが、それは薄汚れて萎んだゴムボールのように私の中で転がったまま、今日まで放置されている。

対照的に、その後いつの間にか現れた父のことはよく覚えている。ちらちらと姿を現しては、私に若干の気まずさを残してまたどこかへ行ってしまう。父の生活リズムと常識は幼い私と全くズレてしまっていたし、父は限りなく子供というものが苦手らしかった。朝に布団を畳んで夜に敷く、その繰り返しを死ぬまで続けることに、父は何の疑問も抱きたくなかったのだと思う。私とてそれはそうだったが、父にとって私は不確定因子として生活に居座ってしまっていたらしい。

私の知る母の情報は、ほとんどが家に訪れる祖母から聞いたものだ。幼い私は頭の中で固定された母の姿を、祖母の話に合わせてぎこちないマネキンのように動かしてみた。結局その頃の私は、努めて母のことを意識から外し、祖母の話を聞き流すようになった。祖母は明らかに「母を失った息子」を哀れんでいて、私は母のことを考えるのが一体何になるのか分からなくなっていたからだ。

私の精神がもう少し成熟した頃、日常の中の僅かな時間に母の部屋だった空間を眺めた。母のことを考えるというより、記憶の断片から組み上げた歪なイメージを頭に流していた。母が私に料理をしたことがあったのか? 寝る前に私に布団の中で話をしたことがあったか? 家でどんな時間を過ごしたのか?

私を愛していたのか?
 
 
 
規則的に立ち並ぶドアの一つを開けて室内に入る。ドアプレートには何も書かれていなかった。

幼い女が封筒を抱えてひとりで座っていて、私に振り向いて「どうも」と言う。その声は妙にねたねたと鼓膜に絡みついてくる。女は僅かに寂しく笑うような、無表情に近いよくわからない表情をしている。

ランドセルと黄色い帽子が最適な年齢に見えるその女は、身体に不釣合いなソファに座って私を待っていたようだった。女は棒切れのような頼りない足をぶらつかせることもなく、かといって揃えることもなくただ脱力していた。外見相応の活力や元気さといったものは、彼女の手足から全く欠けているように見えた。

その部屋は財団のほとんどの部屋と同じように白を基調としていて、部屋というよりは箱に見えた。誰かが誰かと話すための部屋という風でもない。外のように雰囲気を和らげる最低限の装飾すら無く、四角い空間に換気用の穴を空けて、適当なソファとテーブルを置いただけの場所。もしかしたら以前は何かの収容房だったのかもしれないし、オフィスだったのかもしれないし、給湯室だったのかもしれなかった。何かの拍子にここにソファとテーブルが置かれ、そのまま今日まで放置されてきたかのような雰囲気がした。

軽く会釈をしてから、彼女の向かいにあるソファに座る。私は長年このサイトに勤めているが、今までこの部屋がある区画に入ったこともなければ、存在も知らなかった。目の前に座る女と話したのも、一週間前が初めてだ。名前は冴場と言うらしい。

空気清浄の効いた室内は外よりも物の輪郭がくっきりして見えた。冴場は背筋を少し正して、半秒黙った。彼女の小さな唇がきゅっと引き締まる様子はどうも見慣れない。視界の端に見える私のがさがさした手と、テーブルを挟んで向かいにある彼女の手は、あからさまに彼女の方が深い陰をたたえていた。

「まずは、謝らなければいけませんね」

再び冴場が口を開いた。何の話だろう。私は謝られるような覚えはないし、ここに呼ばれたのは単に倫理委員会の最終面接を受けるためだ。

「これは自己満足に近い謝罪ですが、それでも謝る必要があるでしょう。倫理委員会が何をするかは教えましたね」

彼女は何を言っているんだろう? 私はほとんど反射的に口を開く。

「倫理委員会は、財団の行動の全てを知る必要があります」

「そう、全てです。財団がやらなくてはならないこと、やってきたこと、これからやることの全ては、私達が裁くのです。ですから、知る必要があります」

冴場は続けて口を開きかけて、閉じた。私の見る限りでは、それは溜息を吐く前の動作に見えた。あらゆる動作は女の外見に見合わない年月を感じさせた。

私は彼女について大したことを知らないが、少なくとも年齢通りの少女でないことはわかっていた。財団で超若年層の雇用が認められたという話は聞かないし、ある種の保証さえされていれば外見は大した問題ではない。私は大抵のことを納得できる人間だった。この職場には向いていた。

「今から実例を見せることになります。これが最終面接です。同意書を」

冴場は二枚持っていた封筒の片方に薄い手を乗せて、ボールペンと一緒にこちらへ押した。私が中身を改めると、書類は一枚しか入っていなかった。文章に目は通したが、これまでに書いてきたものと違いがない。「何があるかわからない」のは、いつだってそうだ。

私が同意書を読んでサインをしている間、冴場は唇を結んでいた。口元だけを見れば、玩具が手に入らない不満気な子供にも見える。ただ、子供は大人の目をこんな風に見たりはしないものだ。少女はその指の腹を合わせ、僅かに瞼を下げ、首を固定してこちらを見る。身長差から見上げられているのは確かだったが、同じ高さで視線を交差させているようにすら感じる。

私が書き終わると冴場はソファを立ち、もう一つの封筒を私へ手渡し、後程確認を、と言った。冴場は小さな手を上げてドアノブを掴んだ。ロックは既に開いているようだった。
 
 
  
メーカーへ事務職で就職して何年目かのある日、私は異動を告げられた。社内セキュリティの一環であるカードキーを新しいものに更新させられ、明日挨拶をするように、と言われた。私もその部署がどこにあるかは知っていたから、何も疑問を抱かずにカードキーを受け取り、翌朝その部署があるはずの場所へ向かった。

着くと、そこは妙な所だった。他の場所と同じように、デスクの並んだ空間で各人が作業をしていた。ただ、その部署は一見穏やかでありながら、微かな不和を発していた。それはじっくりと見なければ気が付かないようなものだったが、部屋の雰囲気は何となく纏まっていなかった。何かに向かって共に進むというより、そこにいることが意味のあるかのような動作の集合でその空間は構成されていた。

私は少しの間、若干の困惑に包まれて立っていた。例えるならば、そこは私にとって怪しい地下の会員制クラブとも等しい所だった。胡散臭い水煙草が香るような息苦しさと、くらくらしそうな違和感が今にも私を酔わせようとしていた。

ぼうっと立っている私の存在に気がつくと一人の若い男がにこにこしながら近付いてきて、仕事内容を説明するから別室へ来るようにと言った。

実際、別室という言葉に偽りはなかった。私が毎日出勤する建物の地上部分、その数倍ある広大な地下収容施設を部屋と呼べるなら、それは別室へ来たことになるだろう。それから男は様々な話をした。一日で聞くには受け入れ難い、長すぎる話だった。その後数日、私が出社すると男は地下へ私を呼び、組織について、世界についての話をし、私に様々なものを見せた。そしてひどく真っ直ぐに見える目で、私にここで働かないかと提示していた。

結果的に私はそれを受け入れ、契約書にサインをしたが、今に至るまで何故私が選ばれたのかは分からないままだ。私は今人事課に勤めてはいないし、あまり知りたいとも思わない。

ともあれ、私はこの組織で働くことになった。表面上は何も変わらない。出勤し、自分の部署へ向かい、カードキーを差し込む。そこに、見取り図に載っていないエレベーターへ乗り込む過程を混ぜただけだ。そこで私は様々な奇妙な物、恐ろしい物、信じられない物を見て、常識を毎週そっくり取り替えてしまわなければならなかった。

財団に入って、受け取る金の額は若干増え、私の頭の中は他人に決して話せない秘密でいっぱいになった。父にも祖母にも頼る年ではないし、人付き合いが得意な方でもなく、何もかもを投げ出すほどにつらくもなかった。私の毎日はゆっくりと腐っていくようなものから、辛うじて鈍色に光を反射するものになった。幸いにも、刺激にだけは事欠かない職場だ。私の権限は低く、関われる人間も事例も少ないが、それでも余りあるほどに衝撃的な何かが沢山あった。

私が毎日のように乗り込む広いエレベーターは建物の東端で、会社のダミーの部署と区画に囲われていた。サイトへ入るルートはいくつかあったが、人間が乗り込むのには専らこのエレベーターが使われた。エレベーターで私は時々同僚と会ったが、大抵の場合話などしなかった。それは私にとって気まずさというより、溜息もつけないような緊張感であった。縦横数メートルの直方体に入った瞬間、私は何物にも頼れないような気持ちになっていた。

組織に入って間もないある日、私はいくつかのAnomalousアイテムについて、提出された実験記録をまとめる仕事を任された。その一つ一つがまだ若かった私にとって衝撃的なことであるのは違いなかったが、私はとにかくがむしゃらに、私なりに激流に慣れようとしていた。

若干早足でエレベーターに乗り込むと、私が「閉」ボタンを押す前に白衣の女性が乗り込んできた。その女性は私より少し小柄で、財団の関係者であるのは違いなかった。私はボタンの前の空間で少し身体をずらして、ボタンを押す女性の顔を見た。誓って言えば、私は特に彼女のことを注視したつもりはない。それはただ単に、彼女の方から視界に入り込んできたに過ぎなかった。

だというのに、私の息はそこで止まってしまった。後頭部にある何かの栓を抜くようにして、今まで全く意識したことのない血液が循環を始めるのがはっきりとわかった。私は自分の脳がどんな風に動き始めるのかを完全に意識して、頭の中の母の静止画と彼女をぴたりと一致させていた。首から背中の内側にかけては熱を帯びた体液が体内で流れ落ち、心臓がそれに応えて早鐘を打ち始めた。単に母に似ている、では到底済まされないほど、彼女はそのまま母だった。錆びついた南京錠にするりと鍵が滑り込んだような気分を、私は数瞬体験した。

細かい記憶はまだ曖昧にぼやけていたが、立て付けの悪い扉を無理にこじ開けたようにして、母の生き生きとした姿は私の中に溢れ出してきていた。母が私にとってどんなに安心する居場所であったか、明確に脳の芯が思い出していた。表情筋と声帯を思うようにできずに、彼女の顔を見てしどろもどろに何かを言おうとしたが、失敗を重ね続けた。目の前にいる彼女は私が何やら動かないのに気づくと、顔を上げて私の目を見た。それは紛れもない、私が覚えている大人の表情だった。

「どうか、されましたか?」

私がそれを聞きながら全身を硬直させているのを見ても、彼女は昔のように優しく微笑みはしなかった。彼女が母であるはずがないのは分かっていたが、私は震えを止めることはできなかった。その時の私は、エレベーターが止まらなければいい、とさえ思えた。このままずっと降り続けていればいいのに。そうすれば、この偽りの暖かさを感じ続けていられるのに、と。いつか止まってしまうエレベーターの中で、彼女は私が首から下げているダミーの社員証をちらりと見てから、もう一度私の目を見た。彼女もまた一瞬硬直したように見えたが、あまびこ、と私の名前を呼んでからの記憶が無い。彼女の声は私の耳から侵入し、そのまま網膜を真っ白に塗り潰していった。

ともかく、エレベーターはその宿命通りにどこかの階で止まり、私と彼女は降りたはずだ。そして私は顔のぼやけきった誰かから、彼女が私の実母であることを聞いたはずだ。でなければ、その後の私の様子があんなに落ち着いているはずはないのだから。

再び記憶が再開するのは、意外なことにサイト内の喫煙スペースだった。あのスペースは煙草を吸っていても不気味なぐらい空気が澄んでいて、私と母が吐き出した煙は瞬く間に薄れていったのを覚えている。どちらが喫煙を提案したのかはわからない。そこには私と母しかおらず、母は当時私のポケットによく入っていた甘ったるい煙草を吸っていた。おそらく火も私が着けたのだろう。煙草吸ってたの、と聞くと、あなたを産むずっと前に少し、と返ってきた。力なくゆっくりと煙を吐く母の姿は、私の中の彼女から極端にズレていた。ただその煙は途方もなく甘く見えて、暖かく私の胸を満たしてくれる気さえした。許されるなら、その煙だけを吸っていたかった。

今にして思えば、私より母の方が困惑し、動揺していたはずだ。私は母の外面に意識を囚われてそこまで気が回らなかったが、私にとっての母はそのままで、母にとっての私は全く違った見た目をしていた。母の中の七歳の私がこれまで果たしてきた何かを私は粉々に打ち砕いたはずだ。だが、私が煙草を少し呑んで落ち着きを取り戻すと、「聞きたいことは?」とだけ母は言った。それはやはり、大人の態度だった。私はほとんど縋り付くように言葉を絞り出した。

「お母さん?」

「はい」

「嘘だ。俺を、ふうっ。騙している。もしくは、俺が」

私はそこまで言って、母の目を見てから、何も言えなくなってしまった。質問するべきことは山とあった。ただ、私は既に財団を知っていたし、母が着ている白衣を見れば彼女が研究員であることは明らかだった。そしてそう、母は、確か、蝉が好きだった。たまの散歩で私が蝉の抜け殻を黙々と木から剥がしているのを、母が少し嬉しそうに眺めていた。それで、それが? それを思い出して、それを私は得た。十分ではないか。財団と、ひいてはその奥のものが私と母の足元に重く絡みついているのを感じた。私は煙を深く吸い込まずに、口の中に含んでは吐き出すことを繰り返していた。

「私は」母が口を開いた。「親子というものがわからないんです」重いガラスの灰皿が光を屈折させているのを見ながら、私は声を受け入れた。もっと落ち着いてくると、私は母を直視することも難しかった。母の細い指が頼りなく煙草を挟んでいることを認識しようとすると、母が消えてしまうのではないかと思った。これが、単なる化物の悪戯なのではないかと。

「あなたの子供は?」と母が私に問い、私は力なく首を振った。母は最初の一回を除いて、私を名前で呼ばなかった、そして、母と私は会話などしていなかった。そう、と囁くように声が流れ、母は煙草を灰皿から持ち上げた。私の視線はまだ灰皿の上を這い回っていた。この時間の記憶は、私の中に鮮明に残っている。再会が幸福だったのか不幸だったのかもわからず、ただ母を思い出しながら、目の前の母を認めたくない時間。

母の目は丸く大きい以外に大した特徴のあるものではなかったが、よくわからない目の動きをしていた。私は母が考えていることを読み取れたことがなかった。幼い頃ならば年齢の壁が私と母を隔てていたが、今や大人になった私にその壁が機能しているはずはなかった。私達の足元に泥のごとく堆積しているおぞましい何かがあり、母は私より長くそれを見つめている、ただそれだけが私と母を遠く引き離しているような気がして、私はかえって母を母として見ることができた。子供の目で母として見るには、母と私は遠く離れている必要があった。彼女は大人の目で静かに私を見ながら、こちらの頭に温い湯を注ぐように声を紡いでいた。私はその断片しか思い出すことが出来ない。

「私達は親子でしょうか? 私は確かに、あなたがひとりの人間になる過程に付き添いました。でも、それだけで親子なんでしょうか。私は母で、あなたは息子でしょうか」

いくつかの言葉の後、これを聞いて私は顔を上げたと思う。自分では全く意識していなかったが、顔を上げた直後に、それが急激な勢いを伴った動作であることに気づいていた。私はとっくに煙草の火を揉み消していて、口には何も含んでいなかったが、舌が思い通りに動かなかった。目の前の愚かな母に、私の今の気分を伝えるべきだと思った。乾き切って私自身気づかなかった空洞に、母が満たした粘性の液体のようなもののことを言うべきだった。でも、私にはその資格がないような気もした。私は思い出の中の母を目の前の女性に引っ被せて、ただ今の自分にない居場所を希求しているだけだと考えることもできた。母にとっても私にとっても、私は十分に成人であった。私は母に、言葉を続ける時間を与えてしまった。

「私はあなたと、何を以て繋がっているんですか?」
 
私と母はそのまま黙り、おそらくはいつかの時点であの空間を去った。結局、私達はお互いから曖昧に遠ざかる選択をした。
  
  
  
冴場があまりに小さな歩幅で歩くから、私は彼女の後をついてゆくのにそこそこの神経を使わなくてはならない。私の知らない区画を自然に歩いていく少女を眺めていると、いつの間にか若干思考が浮いてしまう。すると私は冴場に追いつきそうになるから、またゆっくりと歩幅を狭め、少し後ろをついていくことになる。

なぜ歩く必要があるのだろう。 これまでの面接では器具を持って来ることはあっても、私が直接何処かへ行くことはなかった。前で歩く女の頭頂部を見る。娘を持つ母親の視点はこんな風だろうか? なるほど、人間未満である子供の体格というやつはあまりに頼りない歩き方をする。ぴったりと付き添うか、若干離れてしまうかは人それぞれにしても、進んで後ろを歩きたくはない。かといって前を歩いていても不安だろう。できれば横に並んで、手を繋いで歩きたくなるだろう。もし私が父親になり、娘を持てばの話だが。

母は私をどう見ただろう。どう思って死んだのだろう。寄り添おうと思っただろうか。一人でも生きて行けると思っただろうか。

私は、より知りたかった。母が生きなかった先を見て、いつか母についてより多くを知ろうと思っていた。財団における人間とは何なのかを、もっと正確に見つめてみたかった。倫理委員会からのスカウトの意図は掴みきれないままだが、それこそが私にとってどうでも良いものだという気がした。私は何であれ、見つめることができると思った。

すぐに、一枚の分厚い電動ドアの前に着いた。このドアが区画全体から見てどこにあるのかは見当もつかない。ここまでの廊下では誰ともすれ違わなかったが、他の部屋には何が詰まっているのだろうか。冴場がスロットにIDカードを差し込んで手の平を画面に押し付けると、淡白に扉が開いた。開かなければいいのに、と思えた。少なくともバースデーケーキが待っていることはないだろうから。
 
 
 
母は全国を転々としていたから、同じサイトにいたのは数ヶ月だけだった。

私は依然財団のことを把握しきれていなかったが、扱える情報の端々には今迄私が関わったこともないようなスケールのものが見えた。かと思えば、拍子抜けするような地味な業務もあった。あちらで直径数キロの電子レンジの山を処理したかと思えば、こちらである町内における万引き犯の分布を調べる、とか、例えるならそんな風に落差があった。私はがむしゃらになるでもなく、適当にするでもなく、淡々と情報を処理した。それにどれだけ非論理的なことが書かれていても、母に優る理不尽は私に叩き付けられてこないような気がしていた。

本音を言えば、いや明らかに、私は母と話がしたかった。私は連絡しようと思えばいつでも彼女にすることができたし、彼女がそれを拒むようなことは無いと思い込んでいた。だが私は、喫煙スペースでの曖昧な言葉のやり取り以外で、あの後数十年間言葉を交わせなかった。それはひとえに、私が連絡をしなかったせいだ。

一つには、私は無力を感じていた。完全に成人した孤独者である私が彼女と話をすることで、一体何が得られるというのだろう? 私は今や不自然な忘却の彼方から母の記憶をいくらか取り戻し、蝉の抜け殻を見る度に母を思い出すことが出来た。私はそれを細やかな幸福として生きることに何ら不満を抱きたくなかった。母は明らかに異常だったが、そこに私が踏み入ることで得する者は誰もいないような気がしていた。私の仕事は何だ? 少なくとも研究員ではない。母を支えることもできそうにないし、鳴蝉時雨という一人の人間にさえ、私は全く近付けずにいる。それには母が邪魔をしている。私が彼女にできることは無い。

今になってからだから確信できることだが、私は明らかに、何か不自然な手段で、母の記憶を劣化させられていた。数十年前の財団によるものであって欲しいと私は願っている。そして私は、恐らくは現在の私が想像もできないほどに母を頼りにする子供だった。その空白を私自身で埋めたように自らを錯覚させていたから、誤魔化しながら風化させていた空白に突然注がれたものに対して、全く私は対応できなかった。呆然とそれを享受して良しとする以外に、私はどうしようとも思えなかった。

もう一つには、私は怖かった。

それは他でもない母への、私の人生で類を見ないほどの強烈な怖れだった。私は大人だったせいで、私をある程度客観的に見つめることが出来てしまっていた。私は母に対して無邪気な愛を期待できるほどに幼くなかった。経緯はどうあれ、母は結果的には私を置き去りにしてこちらへ来ているという事実が私の胸の端に転がっていた。そこに何らかの強制的な事情や、財団の根に染み渡っているこの粘ついた理不尽が関わっている可能性は限りなく高く、母はそれを通過しているに違いなかった。母の内面は、私の知る母と全く異なる人間になっているかもしれなかった。あの喫煙スペースの中で、母は私を気遣って必死に取り繕っていたかもしれないのだ。

あるいは、そんなことがなくても母は私という人間にそこまで執着していないかもしれなかった。単に母は、人間をひとり作り上げるという行為に疲れたのではないか、という想像が私の頭蓋骨の内側を跳ね回り、その度に私は自分の幼児性を抑えつけて思考を進めなければならなかった。

私がなぜ母に頼らなくてはならないのか? 昔の母は過去の人で、今の母は遠くの人だ。馬鹿馬鹿しい、母の側からも、こんな人間の世話を今更しようなどとは思わないだろう、と自分へ刻み込んだ。先んじてそう考えることで、傷口を狭める行為に私の思考は終始した。実際、当然の考えだった筈だ。大人として。

だが私は、今になってこの判断を悔やんでいる。私の脳の一部は危惧した通りやはり幼いままで止まっていたし、母を特別視していた。であればせめて、もう一度話をしておくべきだった。三日でも四日でもかけて、いくらでも母と私の記憶を擦り合わせるべきだったのだ。

私はそのままこのサイトから動かずに、やがて母の死亡通知を受け取ることになる。二度目の別れだ。
  
  
  
簡単な検査と私のIDカードの登録を済ませると、私と冴場は更にもう一つ奥の扉へ進んだ。そこは典型的な生体オブジェクトの収容区画だったが、水族館のように分厚いアクリル製の壁で収容房の中がそのまま見えるようになっていた。なぜ監視カメラを使わないのだろう、という私の疑問は、実際に収容房の前に立ち、冴場と共にそれを見ることで掻き消された。

何と言えば良いだろうか。渦? 嵐? いいや、それには動きが遅すぎる。この檻の中にあるものを何と表現すればいい? 表現することに意味があるのかも定かではない。

敢えて私の中から語彙を引っ張り出すのなら、それは蝉の対流だった。夥しい数の蝉達は破裂するような生命の薫りを感じさせずに、本来よりずっと鈍く収容房の中を飛んでいた。それはまさしく水槽の中で見る魚の群体に近く、蝉に感じるようなあの必死な煩さを微塵も醸し出すこと無く、ただ緩やかに飛んでいた。ある種の諦めさえたたえた複眼で、数千の蝉はこちらを見た。中にカメラを設置しても無駄なことは一目でわかった。内壁にびっしりと張り付いた蝉は、強引に強化アクリルで区切ってもなおその中央を覆い隠そうとしていた。カメラのレンズは茶色くゆっくりと移動する彼らの腹しか映し出すことが叶わないだろう。

蝉達は空間全体としては本来の生態に似合わずに愚鈍に対流していたが、私から見て手前の方は全く別だった。そこで蝉達は全ての生を使い果たすように激しく翅と脚をばたつかせて何かを試みていた。アクリルの壁は蝉達が群がるそれを見られるようにそれに密着して設置され、蝉は透明な境界線に阻まれてそれを覆い隠せずにいた。

私は息を呑むとか目を見開くとか、そういう行動を一切しなかった。ただ静かに、出来得る限り母がそうしたようにそれに視線を投げた。私は大人でありたかった。蝉が立てているはずの音は分厚いアクリルに跳ね返されて、一切私には届かなかった。

「研究班は、異次元間転送現象であると認識していましてね」

冴場は見計らったように私へ告げた。蝉のちらつかせる影が彼女の身体の上を這い回っていた。彼女はもう謝ろうという素振りを見せず、いつの間にか用意された大きなタブレット端末を見ながら私に話をしていた。倫理、と私は口の中で呟いた。それが彼女なりの倫理なのだろうか。それとも、財団の倫理だろうか。

対流の中央で倒れている母は、どうやら薄汚れた白衣とスーツを着たままのようだった。それは蝉が生を懸けて振り回す脚と翅の隙間から見える色彩を、私が勝手に分析したに過ぎない。母の全貌はわからなかったが、何かで床に固定された上で蝉を吐き出し続けていた。室内加湿器が噴霧するように、母は全身から蝉を吐いていた。蝉は顎の外れた母の口から飛び出しているものがかなり多かったが、耳から這い出るものもあれば不気味に大きく膨らんだ服の下から弾け出す幼虫も見え、皮膚の下から体毛のごとく生えてくるものもあった。蝉が通り抜けると、皮膚はまるでそれが役割であると言わんばかりに収縮して穴を塞ぎ、また新たな蝉を排出しにかかるのだった。

より特異なのは、蝉達が母から産まれ出づることではなく、母へ戻ることだった。蝉は暫し母の周辺で力の限りを尽くして暴れ、そこから翅の動きを弱めて空中へ飛ぶ。同じように疲れた仲間達としばらくゆったりと飛んだ後、落ちるように母の元へ向かい、力を振り絞って暴れ、また母へ戻る。喉へ、皮膚の下へ、服の下へ。蝉は潜り込み、突き進み、帰る。母の身体はそれを受け入れて常に拡大と縮小を繰り返す。みぢみぢ、みぢみぢと、母の皮膚は蝉を呑み、また吐く。母の目がどうなっているのかは、蝉に覆われてしまっている。

「現在まで、咽頭、汗腺、ある程度の太さの血管、いくつかのリンパ管が基底次元外からのセミの転送機能を確認されています。そして、我々には特に重要な事ですが」

冴場が一旦間を置いた。私は目の端で、母の身体に潰された蝉の脚がまだ動いているのを捉えた。何故かその蝉の死骸は、全く儚く見えなかった。蝉達の姿は全て、母に輝きを奪われて堕落したかに見えた。

「今の彼女に論理的な思考は期待できませんが、意識は確かにあります。そして、我々の有するいかなる麻酔手段を持っても、昏睡させることはできません。彼女が栄養不足や転送現象による身体的な損傷で死亡することも、観測結果では有り得ないと考えられている」

私は何も言えなかった。研究職ではないし、ただ冴場の言葉を一つ一つ嚥下していくことが精一杯のできる作業で、その先でできることが思い浮かばなかった。母には意識がある、と言う事実が頭に刻み込まれた。今全身を収縮させて蝉を送り出した母は、これを知っている。自分がどこにいるのか。

「彼女はかなり丈夫な架け橋です。脳機能と身体機能が異次元ゼミに利用されているのは間違いない。逆手に取って彼女を『加工』した方が、リスクの高い異次元存在の長期的な収容には良いという話が持ち上がっていまして」

私はそこで冴場を見た。冴場は背筋を伸ばしてタブレットから視線を外していた。私は不思議と落ち着いていて、汗の一滴も額に浮かんでいなかった。私は最初に渡された資料が、どういった意味を持つのかを認識し始めていた。この情報は母についてか、もしくは、母にされる行いについてか。どちらかだ。私の唇は油でもさしたように、驚くほど滑らかに動いてくれた。「審査ですか」

冴場は今日、初めて少し微笑みを見せた。やはりそれは少女には似合わず、私が娘を持ったとしたら絶対にして欲しくない笑い方だった。「ええ。勿論、私が話したことが全てでもありません。我々は今から、我々が今後彼女に行う行為の全てを、検閲に守られずに聞き出します。彼女の姿をもう一度、よく見てください」

私は振り向いて、母に視線を飛ばした。絶え間なく蠢き続ける蝉の隙間から一瞬だけ瞳が見えた。母は目を閉じていなかった。相変わらずどこを見ているのかはわからず、明白に私と母はアクリルで隔てられ、その距離は無限にも等しかったが、母は確実にそこに居た。 

私は冴場の方へ踵を返すと、収容房を満たしているであろう鳴き声から背を向けて歩き出した。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。