「   」の中の楽園
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あのね。
僕はさあ。
いや、君たちがどう思うのかは分からないし。
僕にはそれが正しいのかどうかなんて全然知る由もないんだけれど。
僕は、凄く懐かしかったんだ。
僕はこうして人生の終わりが近付いていて、勿論それだけの時間を生きてきた。
そうしてるとさあ、なんというか。
思い出すのさ、時々。
時々、昔の事を思い出すことがあるんだ。
僕の生まれた処はね、まあその時代は何処もそうだったんだけど、
今みたいに、こう、きちっとはしてなかったんだよ。
道路にも車なんて殆ど通ってなくてね、子供が普通に落書きなんてしててさ。遊び場だったんだね。
何処に行っても子供が居たよ。今みたいな、洒落て垢抜けた感じなんて全然無くて、
服も安っぽい、色褪せた生地のやつばっかりでさ。靴も履いてないようなのもいたんだよ。
そんなんだから、遊びもなんか乱暴でねえ。
これくらいの大きさの、白いような茶色いような石が転がっててね。
それを道路とかにがりがりってやるとね、こう、チョークみたいな塩梅で、削れていくのさ。
結構力が居るんだけどね。力加減なんて分からないからすぐ手に跡が残ってた。
僕らはオエカキイシなんて呼んでたけど。
何時間も遊んでたなあ。
今は中々無いよね、そういうのって。
僕もだけど、何というか、すぐ飽きるようになっちゃった。
小石一つとか、枝一本とか。
そんなので、あんなに汗だくになって遊んでいたんだね。
別に約束した訳じゃなくても、公園に行ったら皆が居てね。
毎日毎日毎日、飽きもせず。
何が面白くて、ああしてたんだろうね。
それ自体は他愛も無い日常の内だし、何も思わないけど。
今はもう、その時の遊びも、一緒に遊んでた、友達の顔さえ。
分からないよ。
忘れちゃった。
でもね。あそこに行ったとき、思ったんだ。
嗚呼、懐かしい、って。
まあそもそも、僕はあそこに思い出なんか無いんだ。
僕が生まれた、その時の町なんだしね。
物心なんて勿論無いさ。
でも。わかるんだよ。なんとなく。
余りにも鮮明で、胸が苦しくなって仕舞いそうなほどに。
僕は この家のお母さんに抱っこされて、子守唄を聴いたんだ。
僕は この公園に沢山咲いてる芹で、冠を作ってもらったんだ。
僕は この駄菓子屋のお姉ちゃんと一緒に、お昼寝をしたんだ。
僕は この公園にある象の滑り台が怖いって、大泣きしたんだ。
何でだろうね。知らないけど、覚えてるんだ。
色も姿も匂いも、はっきりと、思い出せるよ。
少し掠れた優しい歌声も。
くすぐったい草の感触も。
縁側で鳴った風鈴の音も。
絵の具が剥げた象の目も。
見えるんだ。ああ、見えるよ。
余りにも、鮮やかだったんだ。
ほら、あれは――――僕の家だ。
ぼうっと、薄ぐらく、照らされてる。
茜色の夕陽だね。
その下に。
門の処に、大きな猫が居るだろう。
いつからか住み着いていたんだね。
そういうの、あっただろう。
犬とか猫とか、動物なんかそこら中にいてさ。
なんか、近かったよね。そういうものとの、距離感っていうか。
それで門を通って踏締めるのも、でこぼこした石と、土でしょ。
庭なんて綺麗なもんじゃないよ。虫なんか一杯いたんだ。
団子虫とか、蟋蟀こおろぎとか、蟷螂かまきりとか。今は触れもしないけど。
例えば昔の電気。今とは違って、何というか、ぼやっとしてたのさ。
僕は、小さかったからね。見るもの全部、そりゃあ大きいんだけど。
でも、なんか、近かったんだ。
全部のものが。
そして、光。
光がさあ。
今みたいに高層ビルとか中々無いから。
遮る物が無かったから、陽の光って。
家も人も、低いところに在ったけど、それは。
その遥か上に。
もう、何処までも、広がっててさ。
家も。人も。土も。
全部が、あの優しいオレンジで、包まれてるみたいに。
凄かったなあ。
凄かったよね。
温かくて、強くて、優しくて。
綺麗というより、うん。
優しかった。
優しくて。懐かしくて。
不思議な気持ちだったよ。あの頃は。それと―――。
あの場所は。
人間味があるというかね。
ほら、あんまりはっきりと照らされてるとさ、落ち着かないじゃない。
ねえ、先生。
私の見た、おばあちゃんはさあ。
あの、懐かしい、おばあちゃんは。
"ほんとう"じゃあ、なかったのかなあ。
いや、先生達みたいに頭の良い人たちに向かって言うことじゃないかもしれないけど。
ゆうれいとか、おばけとか。
いや、こういう言い方は好きじゃないなあ。
そういうんじゃあ、無いんだよ。多分。
僕は頭も悪いし、判ることも少ないんだけど。
そうじゃないんだよね。
あれは、ほんとうじゃあ、なかったけれど―――、
思い出、なんだよ。きっと。
そんな感じの、頼りない光の中でさ。
いや、思い出なんてものはね、曖昧ですよ。実体もないし確証もない。
僕だってそうだし、まだ若い先生だってそうでしょう。
乾いて、霞んで、殆ど見えないんだよね。時間が経てば。
実体が無くて、えなくて、でも見えて。
ゆうれいではないけど。
かすかではあるんだろうかねえ。
ほら、今は、ゆうれいとか言っちゃうとさ。
恐ろしくて、怖いものじゃない。
でも、思い出は。視えないけど。幽かだけど。曖昧だけど。
優しいから。
ほら、先刻さっき言ったじゃない。近かったのさ。色んなものとの距離が。
何て言うかなあ。
自分とか、皆とか。
此岸しがんとか、彼岸とか。
人間とか――思い出とか。
家族みんなで集まって、まあ過ごしてるだけなんだけどそれでも。
包み込んでるっていうか、そんな感じなのさ。あの場所は。
そっと、優しく。安心できたなあ。
まあ、そんなこと言ったら、又怒られちゃうんだろうけどさ。
僕の思い出の中の、おばあちゃんに。
いや、勿論、分かってるよ。
なにか"こわいもの"――それこそ、ゆうれいみたいなものが化けてたのかもしれないさ。
思い出っていうのは、そんなに綺麗なものでは、無いのかもしれない。
あそこまで鮮やかに、鮮やかに見てたらさ。
でも。
ゆうれいでも、こわいものでも。
ひょっとしたら、思い出の、その中に生きている人たちは。
何かの気紛れに、優しくしてくれるかもしれないから。
あの頃の空を照らしてた、ひかりみたいに。
朦朧ぼんやりとだけど、温かい陽が。
包み込んでるみたいに。
だからさ。
違うのさ。きっと。
こわくても。
こわいものでも。
恐ろしくはない。
おそろしいものでは―――ない。
で、それはきっと―――
変わらない。
何って、僕たちにさ。
僕たちは、こうしている今も、どんどん死に近づいてる。
此岸と彼岸は、隣合せに在る。そう思うんだ。
ああ、良いなあ、って。
だから、いっしょに居る内に。思い出の隣で過ごしてる内に。
僕らもどんどんと、彼方側に。
思い出に、かわっていくんだよ。
だから、変わらない。おそろしくない。
だから―――懐かしい。
そんなもんなのさ。
あそこに居た人だって。
きっと、本当は、なんにも変わらない。
良かったのかもなあって、そう思っちゃうよねえ。
―――何でこの話を先生にしたかって?
うん、何でだろうねえ。
僕にも分からないや、はは。
突然に――というより、うん。
何となく、思ったのさ。
思い出したのさ。それだけ。
でも――――何だろう。何か、
不安になったのかもしれない。上手く言えないけど。
もう、思い出せないんじゃないかって。
もう、二度と、会えないんじゃないかって。
――何でだろうね。
――見た時から、なのかなあ。
でも、そう。見ちゃったんだ。
先生が持ってる、その注射器の針を。
それを見ちゃってから、僕は。
いや、疑ってるとか、そういうんじゃなくて。
ああ、いやいや、違うんだよ。一寸ちょっと思っただけのことだから。
気を悪くしてしまったかなあ。申し訳ない。
そう?
そうかい。
なら良いんだけど。
え?
いえいえ、有難いですよ。
やっぱり疲れていたんだろうね、最近良く眠れてないんだ。
助かるよ。ありがとう。
うん、うん。大丈夫。
大丈夫。―――そうだよね。うん、大丈夫、なんだ。
ああ、でも。もしかしたら。
思い出が。
会いに来てくれたのかもしれないねえ。
もう居い誰かを、誰かとの思い出を、思い出すということは。
そのひとと、彼岸あっちの世界と、繋がることだと思うから。
だから、会いたい人に逢えない時でも。
思い出せば。
思い出の中で、うことは、出来るのかもしれないね。
そうだといいなあ。
だから、僕はあの時。
あの、懐かしい家。
懐かしい街の中。
優しい茜色の。
夕陽の下で。
ちゃんと。
聞いて。
見て。
感じて。
思い出に。
あのひとに。
少しの間でも。
あの時だけでも。
僕の大好きな人に。
きっと、大丈夫さ。
逢えていたのなら。
僕たちは、忘れられない。
嬉しいねえ。
そうだと良いなあ。
  そうだとしたら、僕は―――
ああ、ごめんね。長々と話しちゃって。
こんな年寄りの話なんて、すぐ忘れちゃうだろうね。
僕?僕は―――そうだなあ。
昔のことなんて、箪笥の中に仕舞い込んだ葉書みたいに。
焼けしちゃって、字なんかも滲んで殆ど見えなくて。
もう、何か、ぼろぼろになってるけど。
その全部を忘れることは、無いんじゃないかなあ。
僕の、思い出だからね。
誰かのじゃなくて。
僕の。
忘れないさ。
だって。
伝言も預かってるんだから。

ああ、いや。
何でもないや。
―――まあ。
まあ今度、話すよ。
ああ、そろそろ始めるかい?
腕?ああ、はいはい、袖を捲らなきゃね。
それじゃあ、
お願いします。

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