前原博士の降格
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「度重なる越権行為、規則違反。その上に職務怠慢」
 冷たい声が暗い室内に響き渡る。
 聴衆はただ一人。拘束着に身を包んだ女性だけだ。
「特別査問会は前原愛をDクラスへの降格処分とし、以後はD-5014と呼称する」
 女性はぼんやりとスピーカーを見上げながら、ぽつりと呟く。
「あー……お酒、飲めなくなっちゃうな……」
 それと同時に、全ての照明がシャットアウトされた。

 武装セキュリティ数名に護送され、Dクラス職員となった前原博士は別棟へと送致される。
 それに同行しているのは、エージェント・速水だ。
 彼は沈痛な表情をして、かつての上司に話しかける。
「前原博士……こんなことになってしまって、残念です」
 だがD-5014となった彼女は、寂しげに微笑むだけだった。
「あなたが気にすることじゃないわ。何なら、私を逃がしてくれる?」
「それは……」
 速水は一瞬口ごもる。武装セキュリティたちの歩みが、微かに乱れた。
 だが速水はきっぱりと言う。
「それはできません」
「そう、それでいいのよ」
 分厚いシャッターの前で立ち止まると、D-5014は速水に頭を下げた。
「ありがとう、ここまで送ってくれて。じゃあ、またね」
「前原博士……」
 速水が何か言う前に、彼女の姿は隔壁の向こうへと消えた。

 それから一週間、D-5014はSCP-163-JPの収容室保守作業に割り当てられた。
 別室からアンモニアガスの補充をしている間、常にどこからか視線を感じたが、彼女はあまり気にしなかった。

「へえ、アンタって元はここのお偉いさんだったの?」
 Dクラス職員の女子棟で、D-5014はすぐに仲間を見つけた。
 D-4974。目つきの鋭い、だが愛想の良い娘だ。
 彼女は前原の肩にもたれかかりながら、気安い口調で話しかける。
「なんかやらかした訳?」
「何にもしてないわ。たぶんね」
 前原はD-4974の手を振りほどくが、彼女はしつこくつきまとう。
「ね、いいじゃんいいじゃん。もっとお話聞かせてよ。ここの連中、まともな会話ができるのが少なくてさ。あんたの前任も馬鹿だったせいで、目ん玉えぐられてそれっきりよ」
「今は勤務中よ」
 二人は今、『クラスC重汚染廃棄物』と書かれたコンテナを押して、どこかの地下通路を歩いている。
 D-4974は笑って、壁にもたれかかった。
「心配しなくても、こんなとこまで監視してないよ。このへんの監視カメラ、全部ダミーだもん」
「へえ、そうなのね」
 前原は薄暗い通路を振り返るが、そもそもカメラらしきものが見つからない。
 D-4974は肩をすくめてみせた。
「このコンテナ、中身を見ない方がいい代物も入ってるからね。警備員がモニター越しに見ないよう、監視はしてないの」
「なるほど」
 前原はコンテナから、微かなアンモニア臭が漂ってくるのを確かめた。
「それにしても、ずいぶん詳しいのね?」
 するとD-4974はクスクス笑った。
「ここで何の研究をしてるのかは知らないけど、機密に関してはザルもいいとこね。おかげで逃げ出す算段も整ったわ」
「逃げる?」
 前原が驚いたように尋ねると、D-4974はスッと前原に顔を近づけた。
 互いの吐息が感じられるほどの距離で、D-4974は囁く。
「ねえ……連れてってあげようか?」
「どこに?」
 するとD-4974は前原の前髪を弄びながら、目を細めた。
「あなたを正しく値踏みしてくれるところ、かな?」

 その月の終わりに、Dクラス職員の月例終了が始まる。
 Dクラスの女子職員たちに、スピーカーからアナウンスが流れる。
「みなさん、一ヶ月間お疲れ様でした。この後、簡単な予防接種を受けてもらい、その後で皆さんを解放します」
 ほっとしたような顔をするDクラス職員たち。無理もない、この一ヶ月で何人かが戻ってこなかったのだ。
 緊張が解けているDクラス職員たちに、スピーカーからのアナウンスが続く。
「来月からの新しい人生を、心より祝福いたします。……それでは、順番に隣の部屋に入って下さい」

 地下通路を歩きながら、前原は傍らの女に問いかける。
「D-4974、あんたはどうして毎月の終了を潜り抜けてきたのかしら?」
 するとD-4974は振り返りながら、こう答えた。
「その忌々しい名はよしてよ」
 D-4974は地下通路の配管に触れると、その裏側を探った。
「私は短時間だけ、触覚による認識災害を引き起こせる。だからあの『予防接種』のときも、職員を騙して無事でいられたのさ」
「どうやって?」
「それは言えない。でも、私たちの仲間になるのなら、いろいろ教えてあげる」
 そう言って、D-4974は配管の裏側から鍵を取り出した。
「よし、買収しといた甲斐があったね。さ、行きましょ」

『串間監察官に通達。プロトコルB』
『了解です』

 長い長い地下通路と下水道を歩いた二人は、見知らぬ公園の芝生に腰を下ろしていた。汚泥に濡れた手足が、冷たい夜風にかじかむ。
「おつかれさま。後はここで待機していれば、回収してくれるさ」
 D-4974が言うと、前原は周囲を見回した。
「本当に脱出できちゃうなんて、びっくりしたわ」
「ははは、これぐらい造作もないね。アンタたちは知らないだろうけど、前からずっと、こうして潜入を繰り返していたんだから」
 D-4974だった女は笑って、ゆっくりと立ち上がる。彼女は前原に手を差し出した。
「アンタのことは調べがついてる。歓迎するよ、前原愛博士」
「それは困りますね」
 別方向から声がしたのと、闇夜に白銀の軌跡が描かれたのが同時だった。
「はっ!」
 D-4974は背後からの鋭い攻撃を前転でかわす。続けざまに薙刀が繰り出されるが、柄の部分を拳で受け流し、斬撃をかわした。
 女は身構え、襲撃者と対峙した。
 薙刀を構えた串間監察官は、八相の構えでゆっくりと距離を詰めてくる。
「なかなかのお手前ですね。古流柔術とお見受けしますが」
「そっちは古流薙刀だな。楊心流……いや、違うな。どこの手の者だ?」
 女の質問に、串間は攻撃で返答した。猛烈な振りおろしから、間髪入れず横に薙ぐ。さらに突いた。
 その全てをアクロバティックな動きで回避し、着地する女。
 しかしその着地した瞬間を狙って、薙刀が女の脛を狙う。
「ちいっ!」
 よろめきながらも、とっさに上に跳躍する女。同時に懐から黒い布を取り出す。
「かくなる上は……」
 その瞬間。
「がら空きよ」
 猛烈な右中段逆突きが、女を吹き飛ばした。

 前原博士は速水の差し出したタオルで手を拭きながら、駆けつけてきた武装セキュリティたちに告げる。
「そいつ、接触すると認識災害起こせるみたいだわ。拘束するときは気をつけて。あとそいつが持ってる黒い布、なんか特異性がありそうだから気をつけて」
 それから前原は周囲を見回したが、あの薙刀女はどこにも見当たらなかった。
「どっかで見たような顔だったんだけど、誰だったかしら」
 首を傾げていると、がんじがらめに拘束されたD-4974が連行されてきた。どこか骨折したらしく、担架に乗せられている。
 それを見て、前原は苦笑いした。
「ごめん、骨まで折る気はなかったのよ?」
「知るか! そんなことより、どうしてお前が拘束されない!?」
 D-4974の問いかけに、前原は速水と顔を見合わせる。
「あんなこと言ってるわ」
「そりゃ言うでしょうよ」
 速水が呆れるが、D-4974は止まらない。
「我々はお前たちの連絡も逐次監視していた! これが囮捜査のはずはない! お前は一度も、そんな指示は受けていなかった!」
「うん」
 白衣に着替えながら、前原はこっくりとうなずく。
 D-4974はなおも追求する。
「Dクラスに降格されてからも、お前は危険な任務に投入されていた! 何かあれば、お前は眼球を摘出されているか、その場で終了させられていたんだ!」
「そうみたいね。ありがと」
 速水が差し出した缶コーヒーを受け取って、前原は笑う。
「でもおかげで、長いこと見つけられなかったスパイを捕まえたわ。見つからないはずよね、Dクラス職員の中にいたんだもん」
 あっけらかんとしている前原に、D-4974の声は次第に力を失っていく。
「なぜ……なぜ、そんなことができる……?」
 前原は不思議そうに首を傾げた。
「なぜって言われてもね。普段通りに楽しく仕事してたら、いきなりDクラス降格だもの。何かあるってわかるわよ?」
「俺はわからなかったですよ!?」
 速水が叫ぶが、前原は笑ったままだ。
「じゃあ次からはわかるわよね。財団にようこそ!」
「そういう問題じゃねえ!」
 叫ぶ速水をほっといて、前原は仰向けになったD-4974に顔を近づける。
 互いの吐息がかかるほどの距離で、前原愛はそっと囁いた。
「これがね、私を正しく値踏みしてくれる場所なのよ。これぐらいわかってくれるし、やってくれる。私のことをそう信じてくれる場所が、私の居場所なの」
 何も言い返せず黙ってしまったD-4974に小さく手を振って、前原博士は速水に向き直った。
「さー久しぶりに今夜は飲むわよ。あんたも付き合いなさい!」

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