末摘花京子の人間まんざい
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ここは誰もが知っている大企業の会議室だ。カーテンが閉められて薄暗い。部屋内には6名ほどの男性が席に座している。その6人はいずれも「佐藤ハムホールディングス」「折長乳業」「二輪ビール」といった知らない人間はいないであろう大企業の重鎮であり、紛れもなく日本の食品業界を動かしている人物たちだ。まさに日本の旧・財閥の面々がここに集まっていた。彼らの顔つきはまさに本物の経済人であることが窺える。まさに何千もの社員の生活を保証する──会社の中心部とも言えるだろう。そのような男らが6人も集まれば如何様にも厳粛な雰囲気にもなる。しかし彼らは平日の昼間から集まって何を話そうとしているのだろうか。その秘密はこの場に似つかわしくない1人の少女が鍵を握っていた。

少女はおそらく中学生にもならないだろう。会議室の奥に立ってパワーポイントを使って何かの説明をしているようだった。いや、説明というよりかそれは「講義」という方が正確を期していた。それはスシのことについてだった。歴史、どんな保存食品がその起源となったか、どのような人物によりどのような言及をされたか、そして現在それはどのように変化していくのか。驚きなのは男たちが年端のいかない少女の話を真剣に聞いていたということだ。おそらくは食の真髄を極めるための講義。あるいは会議。

「『栽培植物と農耕の起源』などの文献群によれば、寿司の起源は東南アジアの保存食品にあると考えられています。主にラオスの山地に住む人々が川魚を長く保存することができないかと考えた結果、炊いた米など穀類を壺に混ぜて発酵させました…」

「日本には西暦718年頃から見られるようになります。‪『養老令』‬などに見られるよう…」

これは末摘花京子の10年前の記憶。


僕は「人生何が起こるか分からない」という言葉の意味を強くかみしめていた。ことわざを考えた人は実際にそんな状況に直面して、それをぴったり表すために「馬の耳に念仏」だとか「豚に真珠」とか荒唐無稽で一見意味のないことを比喩として使ったのだろうか?そうだとしたら、今この状況もシュールな言い回しを用いて表現してみたくなる。「寿司を回せばダツに当たる」とかどうだろう。実際、僕の荒唐無稽な考えは現実逃避だ。ダツだけならばよかったのにと心底思う。あの荒唐無稽な出来事から、僕はさらにおかしな世界に巻き込まれていくのだった。

「いいですか?妹は体が弱いんですからね?10分経ったら強制的に出しますから。それに妹が会いたいと言ったからこそここに入れていることを忘れないように。特別中の特別ですからね。」

結局彼女を連れてきてしまった。末摘花京子、地下闘技場で「スシを回し」ていた僕の目の前に現れたアカデミアなる団体の所属者を名乗る女性。年は僕と同じかそれより少し上といったところだろうか。くじらちゃんとは正反対に真っ黒な髪を持っていてそれをポニーテールにまとめている。その黒髪は長く彼女の身長の半分もあろうかというほどだった。少なくとも僕にとって外見的には好ましい見た目をしていた。

「何度も言わなくてもわかっている。しかしまさか引きこもりとは思わなかったがな。」
「僕も京子さんがあそこまで粘ると思いませんでしたがね。」
「追跡の技術はアカデミアでも習うんでな。」
「最近のスシの学校はそういうことも習うんですね。」

そして多良場可児の頭部を一瞬で破壊した存在。もし敵対したら逆らうことはできないだろう。それだけに戦闘力がある。しかし、くじらちゃんの事を尊敬しているような事ばかり言うし、彼女の標的には僕たちは入っていないようなのでとりあえず安心した。

あの衝撃的な事件の後、くじらちゃんにLINEで連絡を入れた。とりあえず闘技場の写真をあちこちとって、多良場可児とスシの勝負をしたことを伝えた。僕はそのスシの勝負に勝った上で──拐われた女性がどこに行ったか聞き出そうとしていたが、肝心なところで彼が死んでしまったのでそれを聞き出すこともできなかった。京子さんから「闇寿司」という団体の概要を聞く。

「闇寿司は勝つためなら方法を選ばない。といったとりわけ偏った思想を持つスシブレーダーの集団だな。あんたもそれを体感しただろう。多良場可児のやつはリミテッドフォーマットのネタを自分で用意したんだぞ。初心者のお前につけ込んで。局所に悪いネタを混ぜると言う念の入り用だ。そして最後にゃカニカマときた。」
「さっきから僕の把握できないまま話が進んでいますが…スシブレードという競技については理解しましたが、闇寿司やあなたの所属する団体以外にもスシブレードをしようという団体はあるんですか?」
「ああ、スシブレードの世界は案外広い。回らない寿司協会の調査によると、スシブレードの認定団体は全国で1500以上存在する。ちなみに、認定団体にはお前の知ってる有名企業も沢山ある。あの有名な"二輪ビール"とかもスシブレードをやっているんだ。」
「あたかもスシブレードという競技を行う世界が存在し様々な集団がそのために全てを捧げていそうな言い方をしていますね。」
「そうなんだもん。仕方ないだろう。スシブレードの起源は江戸時代までに遡ることができる。その時から日本の社会構造に根付いているといっても過言ではない。日本の伝統的な食にはそういった側面もある。」

さらにその社会における闇寿司について補足する。

「闇寿司はその性質上、様々団体から敵対されている。テロリストみたいな扱いかな。当然だ。あんな敵ばかり増やしていくようなやり方では四面楚歌にもなるだろう。まあ、最近は彼らに与するものもいるとかいないとか…。」

僕は木製のトビラをノックする。かわいらしい声で入れ、と簡潔に帰ってくる。

くじらちゃんの部屋はあらゆるものが乱雑に散らかされた地獄のような様相を呈していた。少し前に僕が片付けたばかりなので、そこからすぐに物を散らかしたのだろう。ここまで圧倒的に散らかされていれば、片付けする気もなくす。なにぶん物が膨大にあるのでまず捨てるものと取っておく物を選ばないといけない。そのたびにくじらちゃんにこれは捨てていものかと問うのは、綺麗好きな僕でも匙を投げるほどの非常な手間である。物、物、物ばかり。特に目を引くのは難解な本の数々だ。本というのはどうしても場所を取る。本棚に入らなくなってからは、プラスチックケースに乱雑に仕舞い込まれてるのが現状だ。その奥の多面ディスプレイで何かの映像を見ていたのがくじらちゃんだ。とても美味しそうに缶コーヒーを飲んでいる。

「おはよう、くじらちゃん。僕の隣にいるのが末摘花京子さんだ。」
「お前妹のことちゃんづけで呼んでんの?」
「いいじゃないですか。それで京子さん。こっちが私の愛すべき妹──白乃瀬鯨です。」

くじらちゃんは回転できる椅子でクルクル回ってから飛び降り、めまいに一度ふらついてから体勢を直して京子さんの目を見る。その姿は、表情に乏しいくじらちゃんが茶目っ気のある性格を十分に示すための動作にも思えた。一連の動作は無表情に行われたため、無意味なシュール感が漂っているがこれはうまく感情を示した方だ。ナイストライ。

「よろしく。」

素っ気なく言う。

「おう、あんたが《白鯨》?ホンモノを見てるととってもかわいい子供じゃないか。」
「京子さん、妹を手籠にするのはやめてくださいよ。」
「いやいや、私はロリコンじゃないんでね。その体でアカデミアの捜索を掻い潜ったっていうのか?」
「くじらちゃんはこの家から1度も動いていませんよ。あなた方の捜索能力の限界では?」
「違う……………。1回出たことある。6ヶ月前、コンビニまで弁当を買いに行った。兄は早く訂正をしろ。くじらの名誉のために。」
「だそうです。」

くじらちゃんは椅子に座り直して一旦コーヒーを飲む。これで飲み切れるらしく最後の1滴まで逃さぬように缶を真っ逆さまにして飲んだ。途端、くじらちゃんは目を見開いてコンピューターに向かう。彼女が開いたページは何かの動画だった。

「あ…………。あっあっあっあっ。」

マズい。くじらちゃんのコミュ症が発動してしまった。若い女性なら少しは話せるかと思ったが、そして調子が良さそうな今ならいけるかもと思ったが、ダメだったようだ。京子さんは何か只者ではない雰囲気があるし、もしかしたらそれに怯えているのかもしれない。

「京子さん。この部屋から出ていきません?」
「なんで入ってきたばっかなのに出なきゃならないんだよ。まだ、3分も経ってないぞ。」

くじらちゃんはしっかりと京子さんの方に向き直す──そしてもう1度話をしようとする。懸命に会話を試みた。

「ごめんなさい。いっ………まから説明…を…。」
「くじらちゃん、無理しなくても。」
「いや、説明する。」

やはりやめておくべきだったか、しかしここからつまづいていたら外に出ることもできない。いずれ、外に出るためにもまずはこの環境で話せるようになってもらわないと。

「大丈夫。大丈夫。わ、くじらは超常寿司界隈の薄暗い闇について調べている。アカデミアの末摘花に会えてとても嬉しい。」
「こちらこそ嬉しいよ。そう言ってくれてありがとう。何か私に聞きたいことでもあるのかな?」
「そう、まさにその話。」

くじらちゃんは画面の再生ボタンをクリックする。すると3分程度の動画が始まる。民間人が撮ったようなスマホの動画だった。おそらく東京のマンションから空を撮ったのだろう。複数人の男女が興奮を露わにした声が混ざっている。その内1人は小さな子供の声だ。よく画面の中央を見ると大きな魚が飛んでいた。撮影者によって、ズームが始まりその輪郭がはっきりとしていく。その魚はマグロだった。マグロは空気中であるのにも関わらず、まるで自分の故郷の海の中を泳いでいるみたいにスイスイと進んでいく。よく見てみると空をのびのびと泳いでいるのはマグロだけではなかった。タイやヒラメの舞踊り、といえばそこが魚類の楽園であるかの如く情景は伝わるだろうか。竜宮城、ではないが遠くのビル群が山のようになっている風景から、無数の魚が飛んできて群れを成していた。それらは撮影者の興奮を沸かせ驚かせるのに十分な性質を持っていた。こうして、くじらちゃんから見せられた画質の悪いその映像は、まさしくこの奇妙な珍景が存在していた証拠なんだろう。ここで疑問が残る。こんな奇天烈な風景が仮にも都会であったことならば、なぜ少しも話題にならなかったのだろう。僕は毎日新聞も読むしテレビのニュース番組は必ず目を通しているが、ここ最近で目立ったニュースの中に「空飛ぶ魚群」なんて話題は1度もなかった。そう思って僕はくじらちゃんにそのわけを聞いた。

「くじらちゃん、この映像はどうしたの?まさか動画に空飛ぶ魚を入れることができるようになったから、僕たちに見せたわけじゃないよね?」
「うん…。これはもちろんCGでもなければ偽物でもない。魚の形をした風船が大量に逃げ出したわけでもない。」

くじらちゃんはいよいよ最後の在庫になる缶コーヒーを開けた。コーヒーは月に一度ネット通販で大量に購入されるが、今月の使い切りはそこそこ早いようにも思える。さらに言葉をつぐ。

「この動画は2029/6/9の午後2時3分ごろTwitterに投稿された。東京都練馬区のマンションに住む男性がこの動画を撮影し、その配偶者であるアカウント名@kaneno_yuukiが投稿を行ったと考えられる。30分で500いいね、56リツイートまで拡散されたが、その直後にこの動画は消されている。投稿者本人ではなく特別に作られたTwitterの管理者権限で…。」

なぜくじらちゃんがそんな一瞬のうちしか残らなかった動画を持っているのかは置いておいて確かに疑問に残ることも多い。なぜTwitterの「管理者」はこの動画を消したのか?そもそもこの魚類はどのような存在なのか?一般的にこのような存在は幽霊や地球外生命体と結びつけられることが多い気がする。それならば、マグロの幽霊?マグロの宇宙人が地球を支配しにきたというのか?

「僕にはよくわからないけど、マグロの宇宙人が地球を支配しにきたのかな?」
「なんでその結論に至ったよ。考えてることわかんないなお前。」
「空を飛ぶマグロって荒唐無稽な存在に対して真摯に向き合っているだけですよ。」
「まだ奇妙なことはたくさんある。1週間以内の東京都の行方不明者だけでも18件ある。これらの事例は近辺にある寿司屋と結びつけられた。」

なるほど。これは「闇寿司」の仕業だということなのか。しかしTwitterの投稿を削除するというのは寿司屋のやることだとは思えない。

「前述のTwitterの動画削除と闇寿司の関連性は不明。ただ、それらの寿司屋を調べた結果いくつかの企業とつながりがあることが判明した。」
「ちょっと待ってくれ、それはどうやって調べたんだ?」
「報告書にアクセスした。」
「いったい全体何の報告書にアクセスすればその情報が手に入るんだ?アカデミアだって無能じゃない、それくらいのことはやってみせるさ。ただな、問題は闇寿司がネットワークに情報を保存する律儀な団体じゃないってことなんだ。アナログ故にそこが強い。情報の機密性に関してはバッチリなはずなんだ。」
「くじらは…あなたがそれを知ることについて生じるリスクを回避したいと思っている。」
「どうしてもか?」
「うん。これはTwitterの動画削除にも繋がるはずだけど…まだ話す時じゃない。胡太郎にはその内話すかもしれないから、その時胡太郎に聞いてくれ。」

はて、くじらちゃんは何のことを言っているのか?京子さんの言ってることは大体わかったと思う。だけれども、例えば闇寿司の関連団体にもその情報はあるかもしれないわけで完璧にアナログであるというのはあり得ないはずだ。闇寿司はいくつかの"企業"とつながりがあると言った。それこそくじらちゃんが手にした情報の元はそこにあるのかと思っていた。くじらちゃんはあえて情報源のことを「報告書」と言った。他の団体が存在して、それが闇寿司を報告したみたいなニュアンスを感じさせる。

「そこで胡太郎に頼み事がある。」

ここから本題に入るみたいだ。

「闇寿司とつながっている企業。今のところ2社がとても怪しい。聞いて驚くな。「折長乳業」と「二輪ビール」だ。」

「折長乳業」は業界2位の一大企業だ。皆が知っているところで言えばプリンが有名だろう。子供の頃の思い出の話になった時、折長プリンを食べたということをあげる人はかなり多いだろう。かくいう僕も折長乳業のプリンが好きだし、さっきまでくじらちゃんが飲んでいたコーヒーも折長乳業の関連企業が販売しているものだ。それだけに巨大な存在である。

「二輪ビール」はかなり大きな企業じゃないのか?と言っても僕はビールを飲んだことがないのでわからない。未成年なので当然だね。だけども、この前アニメ作品のキャラを起用したCMを放映してこれは果たして未成年への悪影響が存在するのか?と言った内容で話題になっていたことを思い出した。僕はそのアニメを知らなかったので特に悪影響を受けていなかった。

「これは不審な資金源の存在を遡って見つけたにすぎない。そのさらに上に「カントリー」という巨大企業が待ち構えている。つまり、胡太郎にはこれを調査してもらいたい。」
「それはわかったけど…。ただの高校生の僕がどうやって調査するというんだ、くじらちゃん。」
「末摘花についていけばいい。」

?それはいったいどういう意味だ。今の話と京子さんのパーソナリティにどのような関係があるおいうのか。まさかくじらちゃんは最初からこれを見越して彼女を呼んだんじゃあないだろうな。さすがに先見の明が強すぎる。

「あー、さすが《白鯨》だ。別に隠してたわけじゃないんだけどさ…。闇寿司とつながってるって初めて聞いたから、どうにも言い出せなくて。」

そうだとするといくつかのパターンがある。
1、彼女が3つのうちいずれかの企業の社長の娘。あるいは関係者。
2、彼女の持つ暴力的な力で本社ビルを制圧する。
3、彼女は闇寿司の手先だ。

「確かに折長乳業、私の父さんの会社だ。だけどこれにはのっぴきならない事情があって…母方の末摘花の名前を名乗ってるのもちょっと面倒でさ、別に折長乳業が嫌いってわけじゃなくてまあ家族的、そして私の将来的な問題にも関わってくる話でもあるんだけど…。」
「うん。その話は興味深い。だけど今はあまり時間がない。末摘花と胡太郎にはカントリーがスポンサーのスシブレード大会に出てもらう。」


そのビルは大都市の一角にちゃんと存在していた。東京と言っても僕の住む場所はさほど都会ではないので自分が都会に住んでいるという自覚はないが、ここまでくるとさすがに都会に来てるという感覚がやっともてるのであった。他の地域と違い、ここは純然たるサラリーマンの聖地とも言える場所であったので、当然人通りは男性労働者が多い。「折長乳業」は雨後の筍のようにあまた生えたビルの中でも、とりわけ大きなうちの1つだった。エントランスがまずでかい。これより奥に入るためには改札口のような通路を通る必要があるらしい。京子さんは受付の女性に何か耳打ちすると会社の中に入らせてもらった。

「お嬢様、そこの男性は…?」
「気にしないで…いや、それが今回父親に話すといったことに関係してきててさ。こいつの分まで入館証作ってくれない?」

そうしてもらった入館証は紙製のプレートだった。水色のロゴで「折長乳業」と書いている。

「まあ、つまりだな。最初に父さんを説得すること以外に道はないんだ。なんか《白鯨》の口車に乗せられてあんたも私も来ちまったけどよ。自分の父の会社は別に闇寿司じゃないんだぜ。そう信じてる。」

僕も同感だ。寿司屋と清涼飲料水のメーカーが手を取り合う理由がわからない。まさかコラボするわけじゃあるまいし。

エレベーターで最上階まで登ると陽の光が外から差し込んでくる廊下に出た。この気取らないけど強さを主張してくるデザインの建物は、確かに清涼飲料水の企業というイメージにぴったりだった。ここで1人、あらゆる労働者を見下ろしながら。

今度は京子さんがトビラを開ける側だった。装飾がややある金色のドアノブをつかみながら、僕に警告する。

「あらかじめ約束をしてある。でも彼は忙しいからあまり長い時間居られないかもしれない。」

そう言って彼女はトビラを開けた。一面ガラス張りの壁が主張している部屋は明らかに業務用だ。少なくとも居住のためのものではないだろう。椅子に座っているのはすごい、すごいでかい男性だ。体長2mはあろうかという巨体!巨軀!筋肉も申し分ない。大胸筋はいまやスーツがはちきれそうなほどあるし、上腕二頭筋がその腕の暴力的な強さを示していた。彼に殴られたらひとたまりもないだろう。そんな、筋肉至上主義のような見た目に反して、彼の表情は穏やかに笑っていた。若い時に抱えた苦労ゆえ、大きなシワが刻まれているがそれも彼のほろ苦い魅力のひとつに感じることができる。僕らを見てにっこりと笑った。

「京子じゃないか!待っていたぞ愛しの我が娘よ。」
「お父様こそご機嫌麗しゅう。」

ご機嫌麗しゅう?そんな言葉少女マンガでも使ってるところ見たことないぞ???いやはや、会って1日目だけれども、知り合いがえげつない敬語を使っているのは気持ち悪いなぁ…。だけれども単純に、彼女の育った境遇が推測された。京子さんの口は僕から見ても少し悪いし…これは厳しく育てた親への反抗という面で見ても妥当なんだろう。厳しく育てられたからこそ、口が悪くなってしまうのもある。

「こちらが話にあった通り、白乃瀬胡太郎でございます。ええ、はい。例の仕事の最中に偶然立ち会ったのですが…。」
「まだそんなことをやっているのか?やっぱりあんなところに娘をやるわけにはいかなかったか。お前が寿司屋になりたいと言わなければ…。」

そして京子さんは所在なさげに気まずそうに目の前の人物を紹介する。

「こちらが折長乳業社長、折長右京です。」
「京子さん、なんで急に敬語になったんでっ…ぶっ」

吐きかけた言葉は京子さんの手に押さえられる。

「おいおいこっちは、親の前ではいい子ちゃんにしなきゃいけないの。だから乗ってくれ、いい?」
「OK、わかりました。」

なかなか面倒なご家族だな。と思いながら話を続ける。

「折長さん、ご紹介の通り僕は白乃瀬胡太郎というものです。よろしくお願いします。」
「ハハハ、こちらこそよろしく頼むよ。胡太郎くん。これは我が社の製品だ。まあ、宣伝を兼ねた手土産だから受け取ってくれ。」

と言って渡されたのは折長乳業のコーヒー牛乳とジュース数種だ。最近の折長乳業は、牛乳を使ったジュースの発売を始めており、その味のバリエーションは多岐にわたる。今回渡されたのは一番オーソドックスなプレーン味とチョコレート味だった。そうすると折長さんは京子さんの方を向いて厳しい顔で話し始めた。それは複雑な親子関係を象徴するようなものであったし、折長さんと「末摘花」という親子で食い違った名字の説明にもなりそうな話だ。

「お前が家を出てから私はいつも思っている。未来ある一人娘がスシブレードなんてつまらないことに時間を費やしているのが我慢ならないのだ。ああ、確かに見識を深めろとは俺も言ったさ、だがなお前にはもっとやるべきことがあるだろう。」
「ええ、それは知っております。その上で私はスシブレードをやっていけると判断しました。まだ時間はあります。私がアカデミアを卒業するまではいわゆる猶予期間、待ってくれるというのは嘘でしたか?」
「無論それは待つ。俺は商人さ。約束はもちろん守ろうとも。しかしそれは相手が約束を同じように守ってこそだ。」
「私はスシブレードがつまらないものだというあなたの考え方に反対します。今は佳境なのです…全ての寿司団体を巻き込んで何かが起きる予兆が確実にあります。そしてアカデミアは悲願の闇寿司討伐を成し遂げるのです。考えるのはそれからで大丈夫です。」
「違う。スシブレーダーはいつも商人の手足だったという話をしているんだ。俺は京子、お前が会社を継いでもいいようにいつも教えてきた。人の動かし方、振る舞い方、騙されないための方法、それは人の上に立ってこそ存分に振るえるものだ。断じてスシブレードなんてやらせるために育てたわけじゃない。あいつらは物事を勝敗でしか決められない「戦争」の世界の住人だ。そんなところに行って欲しくないんだよ。」
「「戦争」を避けたとしてもそこにあるのはまた別の戦場です…「生存」に生きるあなたならばわかるでしょうか」
「わかってくれ、戦わせたくないんだ。」
「それでも私はやらなければいけないのです…。」

折長さんは深く深く悩ましそうにため息をつき額に手を当てて大袈裟なジェスチャーをした。

「末摘花なんぞ名前を名乗りおって…」

やはり彼と彼女の間には尋常ならざる関係があるようだった。順当に考えるならば、彼女の母が「末摘花」姓を持っていて、そちらを京子さんは名乗るように決めたということなのだろう。それには、折長乳業の名を避けたという意図が少なからずあるに違いない。

「で、そこの彼を連れてきたのも何か用事があるからなのだろう。さっさと話してくれ。」
「ご理解いただきありがとうございます。実はこのものを「カントリー」の大会に出したいのです。」
「彼がスシブレードをやるというのか?そうは見えないな…。」
「いや、彼はすごいんです。初めて戦ったのにも関わらず、闇寿司と対等に渡り合えていましたし、それに《白鯨》の血縁者です。何より大会までの特訓ならこの私が直々にやります。それならよろしいでしょう。」

長い沈黙が訪れる。この間は中学の時の英語の授業でtakeの過去形をtakedと言ってしまった時のようだった。僕は沈黙が苦手だ。どちらかといえばしゃべり続けていく事を好むタイプ。それでは質問しよう。ぺちゃくちゃ喋って話をどんどん進めるのだ。

「重苦しいところすいません。さっきから気にしていたのですが、戦争と生存ってなんですか?」
「うん?ああ、いきなりわけのわからないことを言い出してすまないね。京子が説明してたかと思ったんだが。」

そうすると彼はしばらく考えて

「これはつまり業界用語みたいなものなんだ。私たちの尺度で言えば世界は2つに分かれているといってもいい。商人はその中でも「生存」の方に属している。例えば君が八百屋を開くとする、目の前には別の八百屋が店を構えている。もし君がもっと野菜を売りたいと考えていたらどうすればいい?」
「何って…目の前に八百屋があるところで八百屋を開いたのが間違いじゃないですか?さっさっと引っ越しますよ。」
「それも正しい。私がいいたいのは商人としてやっていく場合「生存」してればよいということなのだ。「生存」というのは最終的に自分が生きていけばそれで良いのだ。もちろん生存が楽だとはいわない。だが京子には「生存」で生きていくよう育ててきたしこの考えを変える気はない。」
「なるほど。では「戦争」は?」
「「戦争」、それは本当に苦しい世界だよ。逃げることは許されず勝敗のみによって全てが決まる世界だ。スシブレードもそうだが、スポーツの競技選手や警察、ヤクザものたちもそういう世界で生きている。試合に勝ったところで得られるのは次に戦う権利だ。この世界において戦いから逃れることはできない。」

僕はその説明を受けて納得した。何もこれは僕らから遠く離れた関係のない世界の説明ではない。「生存」と「戦争」は生まれた時から当たり前のように強いられてきたものだ。くじらちゃんが引きこもり始めたのは学校生活という「生存」の勝負に負けたからだとも言えるはずなのだ。それはごく当たり前のことを述べている。どんな時も僕たちは生き残らなければいけないのだ。まるで戦争みたいな世界だ。

「お父様、説明が終わったならばこちらからお願いしてもいいでしょうか。」

京子さんは覚悟を決めて言った。

「カントリーの今度開かれる大会に折長乳業の代表として出して欲しいのです。」


この後の実に32分と30秒にも及ぶ長い交渉は割愛しよう。結果から言えば僕は折長乳業の名義を背負って大会に出ることとなったし、京子さんは彼との取引の条件として己の退学を賭けることとなった。目標は最近関東に進出してきた「暗寿司」の代表を食い止めることだ。この大会は単なるスシブレードの競技会ではなく、会社の代表と代表が戦ってその後の力関係を決める場でもあるそうだ。そのため、食品産業を扱う企業は皆専属のスシブレーダーを雇っている。しかし、折長乳業の専属スシブレーダーは先月複雑骨折したばかりだ。何も証拠は残っていないが、被害者の言によればそれは極めて卓越した暗殺寿司の使い手による犯行であり、大会への出場を阻止するためこのような行為を行ったそうだ。まったく警察は何をしているのだろうかという無法っぷりだが、それは各々の業界に各々の法があるからであり、それは策略と謀略に満ち溢れた世界なのだ。しかし僕らがこの大地に生きている以上、戦争からは逃れられないというのもまた事実なのかもしれない。


10人くらいの屈強な男性の集団が軍隊のように闇の中を歩いている。あたりは暗く男性らも周りが見えていないに違いない。彼らはこの行軍の最終的な目標をある場所に据えた。ここは東京のどこかに存在する山である。それほど高くはないため、休日のハイキングには人気の場所だ。しかしいくらハイキングに向いている場所とは言えども、奥まったところはあるしそこに入れば迷ってしまうだろう。まさにその男たちはそんな場所を歩いていたのだ。彼らの目標についてだが、それはおそらく仲間との合流だ。彼らは口々に語る。

「ボス。この先にいるって言う"暗黒寿司商會"のやつらですが本当に信じられるんですかい?こっから先に罠をかけられてたりしたら冗談じゃないっすよ。」
「大丈夫だ。あいつらは商売──ことさら信用がものをいうこの世界での立ち回りを心得てるからな。俺らも割りと良い顧客だ。雑には扱わないだろう。」
「ぐへへへへ。しばらく食ってねえし任務終わったら寿司屋行きてえな。」
「黙れケビン。お前の笑い声は気持ち悪い上にうるさいんだよ。」
「なんだとウィル。ワサビつけねえおこちゃまのくせによ。」
「お前ら黙れ。寿司なら俺の奢りだ。」

彼らはイギリスの強大なチェーン店ビック・フォーの一角を占める「ヨウ!スシ(Yo!Sushi)」から派遣されたスシ軍隊である。今回は日本の寿司屋と取引をするために来たようだ。高いスシ戦闘力を持つ彼らは荒事の多いこの界隈でなにかと重宝される。

彼らは山の奥まった領域までたどり着いた。近くに川があるのだろうか。水の音が聞こえる。

「確かこの辺の約束なはずですが…。」
「先方より早くついたからかもしれないな。今日の装備軽かったろ?」
「ぐへへ。確かにそうだな。」

彼らは近くに人がいないか探し回っていた。ボスの近くをなるべく離れないようあたりを警戒しながら。

「おい。あれを見てくれ。」

ケビンと呼ばれた男が指したのは巨大なマグロだった。しかも、マグロは空を飛んでいる!

「ありゃクロマグロか?さすが日本。マグロはああやって空を回遊してるんだな。」
「ちげえよバカ。マグロは海に住んでるに決まってんだろ。」
「じゃあなんで空飛んでるんだよ。」
「知らねえよ。何かおかしいんだろ?」

この状況が何を意味しているのか真剣に考えていたのは隊長であるエレンだけだった。ケビンはバカみたいなことを喋っているだけだし、ウィルはそのマグロを見てその裏に何があるかなど考えもしなかった。そのマグロはスシ軍隊の面々をみやり────と言ってもマグロがスシ軍隊にどんな感情を抱いたかは分からないが、怪しい眼光を目玉の奥に光らせた。そして、爆発した。


折長乳業のスシブレーダー代表となった僕はとてもとてもつらい特訓の日々を送ることとなった。京子さんは人にものを教えるのがうまかったが、非常に極端なスパルタ方式で一見してスシブレードと何の関係があるのかわからないような訓練もした。例えばつなわたりや反復横跳びなど。それはスシを回すときの動作とよく似ているらしい。最近はあまり運動していなかった僕だが、かなりの運動量を消化することを強いられた。

「1回戦の相手は紅葉水産所属の《特性のない男》」

特性のない男ってタイトルの本はどこかで見たことがある。

「《特性のない男》?くじらちゃんの《白鯨》といいなんとも文学的な通り名ですね。」
「こういう本名が分かっていないやつはスシブレードの界隈に多くてな。奴の顔を見たことのあるやつはどこにもいない。故に特性のない男という通り名を持っているんだ。」

多良場可児は《蟹工船》とかだろうか。

「それはどういうことなんですかね?顔を何かで隠してたりとかしてるんですか?」
「あーいうのはイスラム教の服装なのかな?私にはよくわらないけども。」
「彼はどんな戦い方をするのですか?」
「私も一度戦ったことがある。それについては通り名の通りだ。特性のなさというか、アイツにはなんのポリシーも主義主張もない。言われたことをこなすだけだ。ある意味で闇寿司っぽいやつだとも言えそうだけどな。彼がどの程度闇に関わっているかはわからない。」
「全く不明ですか、それはそれで良いですけどね。」
「さすがお前と言った感じだよ。」

京子さんは僕を軽く褒めたあと説明する。

「前回戦ったときはタコを使ってきた。イキのいいタコはまだ触手を伸ばす事ができて遠距離からの攻撃がやっかいだった。」

やっぱり僕の知る世界とは違うスシの話をしているらしい。スシのタコはもう動いたりしないとばかり思っていたが、スシが回る世界となると話が違う。そう考えていると京子さんのiPhoneが着信を告げる。京子さんは「ちょっと待ってろ」と言ってからその場を立って行った。

5分くらい待つこととなり、くじらちゃんのことを考えていることにした。くじらちゃんはあのとき「報告書」のことを言いかけて京子さんに秘匿した。そうだろう。もし命が惜しいのならばそれは話してはいけないことだ。知ったことを知られただけで殺されるほどの極秘。現実にある地獄。京子さんは僕に「戦闘」と「生存」の世界があることを示してくれた。もとからそこにそれらがあったと、明らかにしてくれた。僕たちが持つその秘密も紛れもなく、実在する最悪の「世界」についてのことでそいつらはスシブレードも何もかもを観察している。今の状況だって彼らに見られているかもしれないのだ。おそらくは報告書に書き記すため。………財団という言葉は聞いたことがあるだろうか?元々の言葉の意味は「強大な資金源をベースとして活動を行う団体」といったことか。この単語は極めて広義的な意味を持ち、一言財団といってもいろいろあるだろう。例えば「アルコー延命財団」あと「日本財団」なんてものもある。だけどそういうことを言いたいのではないんだ。とある世界で「財団」と言えばただ一つの団体を指す。なぜなら、それが唯一とも言えるほどの力と規模を持っているからだ。その名前は「SCP財団」。巨大で不気味で異常な監獄。そして僕らの大事な人を殺した悪の集団。

順番に説明して行こうかと思う。あれはくじらちゃんがまだ引きこもる前のとき。僕がイキがった中学生でくじらちゃんが小学生の時だ。正真正銘僕たちは2人兄妹だったことは間違いがない。だけど、僕たちにはそれとは別に精神的な結びつきを強くしたお兄ちゃんとも呼べる人が1人いる。彼の名前は何といったかわからない。普段は彼のことをついばみ兄ちゃんとか、単に兄ちゃんとか、と言っていて名前は対して重要じゃなかったのだ。くじらちゃんと僕は小さい頃彼と遊んでいた。公園の下水道を舞台にして探検を行ったり、行ってはいけないと言われていた廃墟にガラクタのパーツを探しに行ったりした。お兄ちゃんは紛れもなく僕たちのお兄ちゃんだった。お兄ちゃんはその頃もうすでに高校生であり、中学生に絡んでいるような歳でもなかったとは思うけれど、とても頼りになる年上の存在を僕たちは好んでいた。

「事故」が起こったのは夏休み、バーベキューと言って奥まった山の方まで行った時のことだ。その山では都会で見られない鳥を観察したり、野草の名前を教えてもらったりして楽しかった。僕はくじらちゃんから目を離すことができない。だから彼は割と僕らから離れて行動することもあったのだ。夜、同伴した親たちが寝静まった頃だ。多分その時に彼はトイレへ行くなりして一旦テントから出たんだと思う。その時懐中電灯を持って行ったのでそのことはわかっていたし、両親もわかっていると思っていた。だけど、お兄ちゃんは帰ってくることがなかった。まさか高校生のお兄ちゃんが遭難するなんて思っていなかったよ?くじらちゃんもそのことは考えていなかった。警察に連絡した。それからついばみ兄ちゃんには2度と会うことはなかった。

くじらちゃんによればニュースが流れることもなかったらしい。人が1人行方不明になっているというのにどこもそれを報道することはなかった。でも僕らはその理由を知っている。見ていたからだ。

夜、寝ている時に僕を起こしにきたのはくじらちゃんだった。「胡太郎。ついばみ兄がいない。」確かそんなことを言っていたんだと思う。くじらちゃんは彼がトイレに行ったのならば、あっちの方にいるはずだと手を引いた。めずらしく──くじらちゃんが取り乱しているようだったので僕もただ事ではない雰囲気を察することはできた。道なき道を行って、ガケを登ってまで連れて行ったのは山の稜線にある池。その頃のくじらちゃんは今より体力があったからそういうこともできたのだ。くじらちゃんが僕を連れてきた池は肉が刺さっているとしか言いようがない構造を有していた。肉が池から生えてきていて、その先端についばみ兄ちゃんが捕まえられていた。肉は一般的に触手というようなものとは異なっていた。触手というよりかは、動物と樹木が合成されたかのような物体。残念なことにその後の記憶を僕は持っていない。くじらちゃんはそのあと救出を断念し、テントまで逃げ出してただ、ついばみ兄ちゃんがいなくなったことを両親に伝えたのだという。

僕には…何もわからない。それに財団某が関わっていたこととか、記憶処理とか報道規制とかくじらちゃんみたいにすぱっと理解できるほど柔軟な思考をしていない。だけれども、それが残酷な世界の裏側であることは恐ろしい程よくわかるのだ…。ついばみ兄ちゃんは単なる遭難として伝えられた。

くじらちゃんはネット上で何かによって消された痕跡を見つけては証拠をかき集めている。それが唯一ついばみ兄ちゃんの行方の手がかりだからだ。わかったことは1つだけ。この世界に管理者がいるとすれば、彼らだ。とてつもなく強大な集団。街一つなら今すぐにでも制圧できる組織がそこにいる。毎年行方不明者として知られている人間がその団体と関わっている。そういう恐怖を僕は感じていた。くじらちゃんがそれをどのように思っているかは知らない。僕はもうついばみ兄ちゃんのことは忘れた方がいいと言っているが、くじらちゃんはまだ彼の痕跡を探してネットの海を彷徨っている。

そうこう考えているうちに京子さんが奥の方から走ってきているのに気付いた。

「胡太郎!おい……聞いてくれ…。」

息も絶え絶えで言う。

「さっき話してた《特性のない男》だがな、さっき死亡が確認された。お前は不戦勝で繰り上がりだ。」

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