全国高等学校獅子王戦 初戦
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右前方に置かれたチェスクロックが自分にもう持ち時間がないことを告げる。

パチ……コツ……パチ……コツ……

駒音が響く。

自玉は相手駒に追い立てられ、既に逃げ場を失っていた。どこで間違えた?こんなことになるなんて全く想像していなかった。

全国高等学校獅子王戦。日本中の高校生が集う大規模な将棋の大会だ。去年の大会で惜しくも優勝を逃した俺は、今年こそはと意気込んで将棋の研究に励んでいた。その大会の初戦で、俺はずいぶんと珍妙な相手と当たることになった。190cmはあろう巨躯に、鍛え上げられた筋肉。馬ヅラの顔面に、黒く、何を考えているかわからない瞳。棋道ではなく柔道でもやったほうがいいんじゃないかと思われる印象的な見た目だが、彼の姿を今まで見たことがない。おそらくこれが大会初出場なのだろう。どんな将棋を指すか予想もつかない。だがまあ、今まで名前も聞いたことない選手なのだ。変に気負わず、自分の将棋を指せば勝てるだろうと、そう思っていた。

パチ……コツ……パチ……コツ……

駒音が響く。

強い。序盤の駒組から全く隙が無い。じっくりとした重厚な棋風で、手が進むほどにこちらがじわじわ悪くなる。開戦したころにはすでにこちらが不利になっていた。「角」が成り込み「馬」になるとその攻撃は激しさを増した。相手の駒が自陣に殺到する。相手の「馬」が盤上で躍動し、自陣の囲いを荒らしていく。だが、ここで簡単にやられるほど俺はヤワじゃない。持ち駒を投じて全力で受ける。少なくとも目の前にいる馬ヅラのためではないが、俺は今日のために死ぬ気で準備して来たんだ。

パチ……コツッ!……パチッ!……コツッ!……

駒音はだんだん激しくなり対局は終盤に差し掛かる。

防戦が続いていた。将棋において一手のミスは致命傷だ。持ち時間の30分をフルに使って慎重に指す。相手の苛烈な攻撃で自陣はかなり乱れている。だが、一度しのいでしまえば次はこちらの番だ。向こうが攻めに投じた駒を使って一気に迫ってやる。相手の攻めもやや細くなってきた。互いに持ち時間を使い切り、30秒の秒読みに入る。流れはこちら側、後は落ち着いて指し回せば……

その時だった。なんと大駒の「飛車」を無理やりぶった切って攻めを継続してきやがった。通常なら考えられない勝負手だ。ゆっくりと考える時間さえあれば対処できただろう。だが、一手に30秒しかかけられないこの状況。マズい。読みが間に合わない。自玉はまだ安全だが一手間違えるだけですぐに崩壊する。汗が噴き出す。駒を持つ手が震える。「金」でとるか?「銀」でとるか?どっちだ?それとも別の手があるのか?

チェスクロックが残り時間5秒を告げる。

クソ、もう時間がない。指すしかない。同じく「金」だ!俺は駒を盤に叩きつけた。

駒から手を離した瞬間気付いた。これ……詰んでないか?今打った「金」を「桂馬」で取って……そうだ、最後に「馬」を引いて逃げたところに、今取った「金」を打って詰む。きっちり17手。

コツ……

相手が一手指す。同じく「桂馬」で「金」を取る。

やってしまった……最後の最後で。落ち着いて考えればすぐにわかったことなのに。相手は当然詰みに気付いているだろう。自分の負けはほとんど確実だ。

パチ……

弱々しく一手指す。

将棋は自分で自分の負けを宣言しなくてはならない競技だ。「負けました」と、その言葉を言うのには気持ちの整理がいる。そのための時間稼ぎとして、もう少し、詰みの直前まで指そうと、そう思った。

コツ……パチ……コツ……

駒音が響く。

どこから間違っていたのだろう。序盤か?それとも終盤の入り口あたりか?いや、もしかしたら試合の前から、心構えで俺は負けていたのかもしれない。俺はこの試合は当然勝つものと思っていた。名前も聞いたことない初出場の選手に、負けることなんてないと高を括っていたんだ。どんな相手にも全力でぶつかるという気持ち。対局してくれる相手への敬意。そんな当たり前のものが、俺には不足していたんだろう。そして、それが一番の敗着だった。

パチ……コツ……パチ……

手が進む。相手の手番だ。後は玉の前に「馬」を引いて、それを俺が取ろうが逃げようが詰む。ここまで来たら、もう間違えないだろう。気持ちの整理もついた。後一手、相手が指したら投了しよう。初戦敗退。厳しい結果だが、得られるものはあった。ここからまたスタートし直そう。

コツ……

響いたその音は駒音ではなかった。

相手が自分の玉頭に手を置いた。文字通り。比喩ではなく、自分の手、そのものを盤に置いたのだ。そして反対の手でチェスクロックをたたく。

……いや、何してんの?

呆然として、相手のほうを見る。彼は、なんで俺が次の手を指すでも投了するでもなく、こっちを見ているのかわからないといった表情だ。いや、困惑してるのはこっちだよ。将棋のルール上、自分の手番では必ず一手指さなくてはならない。一手指さずにチェスクロックを押す、つまり相手に手番を渡すという行為は当然反則だ。

依然として彼は玉の前に手を置き続けている。いや、だから何してんだよ。せめて何か一手指せよ。うん、確かにその地点に「馬」を打てば俺は詰むよ?でもさ、そこに置いてるお前の手は「馬」じゃないじゃん。さっきとは別の意味で気持ちの整理がつかなくなってきた。ちょうどその時審判が近くを通った。

「あ、あの、自分の手番で一手打たずにチェスクロック押した場合って反則ですよね?」

「え、まあ……そうですよ。そんなの今まで見たことないですけど……」

……結論から言えば俺は勝った。相手の反則負けで。彼は対局終了後、審判に何か抗議していたが、最後の展開がいろいろと衝撃的過ぎてその内容なんて覚えていない。

対局が終わった後、しばらく考えていた。彼は結局、何がしたかったんだろうか。もしかして、俺が勝つ気満々で挑んできていたのを知って、あんな釈然としない、まるでこちらを馬鹿にするような終わらせ方をしたのだろうか。それとも別の意図があったのだろうか。いずれにせよ、その真意はわからない。だが、自分にとっていい薬になった。対局終了後、しばらくは彼の蹄音みたいな駒音が頭の中で響いて辛かった。それでも、あの試合は自分の弱さを思い出させてくれるいい機会になったと思う。次の試合からはもう一度、一戦一戦誠意をもって対局できそうだ。

それから、彼の名前もきちんと覚えた。「暗星 豪」。それが彼の名前だ。棋譜はちゃんと残してある。もし次の機会、彼と対戦できる時が来たら、俺の成長を見せつけてやろう。


事案973-JP-███

20██/██/██
大会・競技会名: 全国高等学校獅子王戦
種目: 将棋
結果: 反則負けにより初戦敗退。
消失時間: 1日
補足: いろいろツッコミどころは多いが、まずどうやってコイツは駒を打ってたんだ? -エージェント・███

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