閉じゆく野
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茅野きさらは複数回の嘔吐を経た。

水滴が落ちる。

凍り付いたように音がしない金属製の尋問室で、その音は異様に響く。スチール製の机の端から、黄色がかった液体が一滴ずつ零れ落ちているのがわかる。液体の総量はそう多くはないようだったが、耐え難い異臭が鼻を突く。腹は忌々しいほど軽く、身体の前面が吐瀉物で濡れている不快感は言うべくもない。活力が流出するのを茅野は感じる。没収されたイヤリングのホールはとっくに安定しているはずだったが、刻々と痛みを増すような気がした。手足は堅く固く拘束されているのに、首だけがぐらぐらと揺れて視界を歪ませる。掻き混ぜられる景色を見て、茅野は専門分野である芸術作品のいくつかを想起した。

「茅野さん」

男の不快な声が耳から侵入する。火かき棒で暖炉をまさぐるように、男の声は茅野の意識を犯す。口にこびりついた胃酸の匂いが鼻へ通じる。湿った顎を拭きたいと思って頭を振り回すが、どの布にも顔が届かない。うっかり机の上の吐瀉物を認識し、今日支給された朝食の成れの果てを見て、また胃液がこみ上げる。喉が焼けていくのを液体の感触と共に感受する。

「ただ正直に答えてくれさえすればいいんです。あなたは言葉が通じない状態じゃない。そういうフリをしているだけ」

未消化の朝食を踏み付けて近寄ってきた男に、一枚の写真を見せられた。この空間に入れられてから手を変え品を変え、幾度も視界に入ってきて、その度に茅野は同じ答えを自らの意志で返した。喉が痛く、空気は不味い。気分は悪化の一方だ。給餌とも呼ぶべき機械的な食事はかえって意識を摩耗させ、財団の思惑通りに茅野の反抗は大きく削り取られていた。それでも、茅野は未だ服従には至っていなかった。かつての財団への忠誠は欠片も茅野の中に残されていなかった。

「あれは僕の作品だ。触るな」

「そうですか」

素早く目隠しをされた。蠢く音がする。後ろを振り返ることができない以上、その音の発生源を知ることはできない。音だけがする。水滴の音を塗り潰して、茅野の呼吸音に交じって、後ろから音がする。暗闇の中で、音は茅野の心を波立たせる。じくじくと痛む耳へ、音は近付く。

作品像を思い浮かべる。後悔はしていない。完成の瞬間、あれは確かに芸術アートであった。ただし、受け取る側に問題があった。芸術家と観衆の間に、いつの時代も越えがたい障壁があることを茅野は認識していた。その圧倒的な距離、すれ違い、差異によって今自分はこうしていると自らに説明した。音が近づく。今日の昼飯はまだ胃の中に有り、ぐるぐると回りながらその存在を主張する。茅野は芸術家で、作品についてはある程度の鑑識眼を持つと自負してもいた。この状況は芸術的でない。いや、本当にそうか?

散乱する塗料。足音。振るう筆。落ちる眼球。

そして、赤い「Are We Cool Yet?」。


「ここ空いてる?」

至極単純に、面倒臭え、という感情が針山栄治を支配していく。針山にとって夕食は数少ない安堵の機会であり、誰にも介入されたくない空間の一つだった。そして、針山は複雑な、とても複雑な紆余曲折の末に茅野を苦手としていた。茅野は許可を求めながらも針山が返事をする前に針山の向かいに着席し、真紅のイヤリングを揺らして笑いかける。針山は笑顔に反応を見せずに箸を動かした。その笑顔やイヤリングを二度と思い出したくないほどに、針山は茅野が苦手だった。

茅野はその特有の口調で針山に絡みながら、左手に細い絵筆を握り締めたまま右手のスプーンでカレーライスを口に運ぶ。その所作の一々も針山は気に障ったし、茅野もそれに気付いているはずだった。大体、茅野は夕食をサイトの食堂で摂ったりしない女だと記憶していた。空席は他にもある。わざわざ針山の前に座ること自体が、針山の神経を逆撫でする行為になっていた。

会話の内容は他愛もない業務の愚痴だったが、針山はそれから茅野に関する様々なことを連想せざるを得なかった。いくら忘れようとしても、この女のことを忘れるのは相当に難しい。偏った針山の記憶能力はこれまでも様々な方向で悪く作用してきたが、こと人間関係においてはそれが顕著になるのが常である。茅野が大きな目で瞬きをする度に針山は箸を折りそうになった。午後11時半、という時間は財団にとっては遅くも早くもなく、食堂は混んでもいなければ空いてもおらず、適度な数の食器が立てる音、皿を洗う水音、周囲の人間の話す声の中で茅野の声はガラス玉のように針山に叩き付けられる。針山はいくつか露骨な拒絶行動を示したが、茅野はそれを意に介さないどころか嬉しそうに付いてきた。針山からもう少し慈愛の心を欠落させれば、食堂に唾を吐き捨てる小柄な男性職員が監視カメラに映っただろう。

針山は会話のほぼ全てを「ああ」「はい」「そうですか」「僕の名前は針山です」だけでやり過ごした。

そして、憂鬱な食事の時間は意図的かそうでないのか、茅野と針山がほぼ同時に食べ終える形で終わった。その事実にも針山はただ苛立った。食器をトレイの上に置いて立ち上がるタイミングも同期しており、やや睨むような視線を茅野に送ると微笑みを返される。頭に血が上りそうになるのをどうにかして抑え込む。返却口への道程にも茅野はその微笑をたたえてぴったりとくっついてくる。

少しだけ荒々しく食器を返して、針山は食堂の出口へ向かうために振り返った。茅野はこちらに向かって目を細め、僅かに首を傾げるようにして針山の横を通り過ぎる。その傾きが針山への身長の配慮だと分かったのは、囁くように茅野が告げた言葉を聞いてからだった。その空気の震えは綿毛のように針山の耳をくすぐり、医療用のメスのように針山の脳へするりと刺し込まれていく。

「うちにきなよ、栄治」

瞬間、針山は様々なことを思考した。膝を半端に上げた状態で止めざるを得ず、通行の妨げにならないように若干のふらつきを伴って端に寄るのが精一杯だった。茅野の足取りはあくまで軽く、返却口を経由してそそくさと出口へ向かう背中が見える。針山は数秒逡巡してから出口へ向かった。食堂の職員からやや不審がるような視線を感じたが、それは彼女らの目の前の業務によって洗い流された。天井に設置されたレンズはそうなることなく針山を記録した。

前方の茅野の耳で揺れるイヤリングはやけに鮮明に見えて、その赤色は針山の意識に深く刻み込まれた。 
  
 
 
針山は数年振りにその寮の金属製のドアをノックした。針山は大した監視も制限も受けずに平凡なアパートを所有している。服装にはいつも通り、一切気を使わずに白衣で来た。ドアを開けた茅野の方はいつもの大量の塗料で汚れたエプロンではなく、薄いピンクのキャミソールの上に部屋着らしきパーカーを羽織り、ショートパンツを履いていた。彼女がそんな服を持っていたことにまず針山は受け入れ難い衝撃を受け、そして茅野と、それ以外の何か漠然とした物を嫌悪した。

「いらっしゃい」と言われた瞬間に不快感を持った熱が腹からこみ上げたが、なんとか「お邪魔します」と発声することができた。9月の残暑の中、じっとりとした汗を伴った腕で靴を揃える様子を茅野の細い目にちらりと見られるのが針山にはただ苦痛であった。

部屋の中は散らかっていなかった。特殊寮はそう広くないはずだったが、針山は自身のアパートよりも遥かにスペースが余っているように感じた。塗料は整然と棚に並べられ、筆は筆立てに、彫刻刀はケースに収められている。フローリングの床は特別に綺麗ではないが、針山が茅野に抱く印象にしてみれば異様に清潔だ。そのことがまた不気味な印象を与える。リビングまで誘導されたが、針山は椅子に座って話をする気にはなれないままでいた。

「用事は何ですか」

「座って。お茶も出すし」

「長引きますか?」

「さあ。どうだか」

この数秒の会話で既に針山は限界を迎えそうだったが、感情を押し殺すことで対処した。

「頼み事があるんだ」

「何でしょう」

いくつかの紙が擦れる音と共に、茅野は棚からいくつかのスケッチブックとクラフト封筒を取り出す。テーブルの上に置いてから、再度針山に座るように勧めた。針山は茅野の目を見てから、憂鬱を抱えて椅子に座った。茅野が紅茶を淹れに台所へ向かい、それを待ちがてら机上のスケッチブックを眺める。何も言われなかったので開いて良いのかも分からず、茅野相手とはいえ他人の私物を勝手に検分するのも躊躇われる。手持ち無沙汰なまま十数分が経過した。

茅野が白い陶器のポットを持って戻り、置かれたそれぞれのカップに紅茶をまわし注いでから座った。針山は一応それを口に運んだが、特に不味くも美味くもなかった。飲む様子が一々茅野の視線に晒されているようで落ち着かない。茅野がスケッチブックを開いてこちらへ見せ、パラパラとめくる。鉛筆で描かれた風景画や人物画が指の動きに合わせて明滅する。

「まあ、思い出だよ。学生時代は沢山描いたけど、その中で印象深いやつはこうして持ってる」

大きなクラフト封筒には油絵が何枚か入っていた。それも茅野は見せようとしたが、針山の表情を一瞬伺うように視線を流して、やめた。針山は自分が今どんな顔をしているのか認識できていなかったが、茅野の瞳の動きから察するに見た人間に良い印象は与えないのだろう。

「率直に言えばさ、これを貰って欲しい」

「茅野さん」

「わかってる、ちょっと待ってくれ。座って。分かってるんだ、言いたいことは。そこに座れって。座ってくれ」

針山は反射的に席を立って帰ろうとしたが、茅野の方が速い。茅野は素早く席を立ち、針山の二の腕をおそろしく強い力で掴んだ。白くなるほど握り込まれた細指は、筋肉のない針山の腕に痛みを与えるには十分だった。茅野は今にも泣き出しそうな顔で針山を椅子に座らせ、落ちるように椅子に座り込んで息を吐き出す。目元に皺が寄り、イヤリングを揺らして乱暴に頭を掻く。針山は動揺と恐怖、そして辟易を抱きながら腕の痛みを認識した。

「その、うん、ごめん。ちょっと気が動転しただけだ、大丈夫、落ち着いてる」

「そうですか」

口ではそう言ったが、針山はもはや完全に茅野への信頼を放棄していた。スケッチブックと封筒には正直もう触れたくもないが、この女と一刻も早く離れられるならいくらでも持ち帰るつもりでいた。彼の周囲では誰も口に出さなかったが、おそらく特殊寮の室内が監視されているだろうことは明白で、彼は財団が自分とこの女を二人室内に放置していることさえ恨めしく思った。認識できないカメラのレンズに向かって針山は侮蔑の視線を投げる。

「理由は聞かないでくれ。貰ってくれればそれでいいんだ。別に僕は私物の受け渡しまで財団に制限を受けてはいないし、君に不利益が及ぶこともないだろう。良い贈り物ではないけど、受け取ってくれればこの礼は」

「要りません」

女に名前を呼ばれる度に体のどこかの血管が怒張し、痛むのを感じた。今のそれは頭だった。刺されたような頭痛を抱えて、針山はスケッチブックと封筒を手元にかき集める。一回だけそれらを見て、すぐに席を立った。茅野は何か言おうとしたようだったが、かすれた母音のようなものが零れ落ちただけだった。針山が寮の出口へ向かうのを、茅野は不安げにふらふらと付いていく。それは見送りのためというよりは、不安ゆえの病的な確認作業に近いような雰囲気だった。針山は茅野を視界から外すことに専念した。

荷物を一旦横に置いて針山が靴を履くのを、茅野は微動だにせず眺めた。針山は立ち上がり、ドアに手を掛ける前にふと茅野の顔をもう一度確認した。なぜそうしたのかは自身にも理解できなかったが、視界の端に違和感があったからだと分かったのは完全に振り返ってからだった。

茅野の整った顔は何かが歪んでいた。始め、針山は茅野が何かのストレスで表情を強張らせているのかと思ったが、次に茅野の右目、その虹彩が縮んでいることに気付いた。そのまた次に、虹彩が縮んでいるのではなく白目の面積が増えていることに気付いた。そこまで針山が思考して初めて、茅野は痛みを感じたかのように口元を歪める。

何かが千切れる音がした。実際にはしていなかったかもしれないが、針山は何かが千切れたと認識した。とにかくその音と共に、茅野の右目からは涙と血の混合物が溢れ出した。もはや針山は、茅野の右の眼球が徐々に眼孔から飛び出しつつあるのを疑うことはできなかった。肉が引き裂かれる音、するかどうか分からないそんな音のような何かと共に、茅野の眼球はそのしがらみから解き放たれようともがく。その隙間からは止め処なく血液が溢れ出し、もう一方の目からも涙を流しながら、茅野は口元を歪めていた。笑おうと試みているのかもしれなかった。

機能を失ったであろう茅野の眼球はなお止まろうとしない。眼球はその半分ほどを露出させ、血管を浮き上がらせながら震えている。涙はもう一方からのみ流れ出し、蠢いている右の眼球とその眼孔からは純粋に血液が流出していた。茅野は全身を震わせながら眼球を排泄している。呻き声のようなものも針山の意識に侵入したが、針山はそれが自分のものなのか目の前の気狂いのものなのか分からなかった。頭のどこかで冷静な自分が逃走を促したが、それとは別に縫い付けられたように足が動かない。ぷちぷちとした音のようなものはまだ茅野から発せられていた。

ついに眼球はそのほとんどを茅野の顔面に露呈し、視神経らしき紐にぶらさがってその存在を主張する。針山は自らの精神が得体の知れない安堵に覆われるのを自覚したが、その安寧は茅野の左眼球の運動によって跡形もなく粉々にされた。その運動は右のそれとは違い、急速に進行した。涙が出る暇もなく、噴出する血液と共に左の眼球は眼孔から開放される。それは紐に繋がれず、茅野から拳一つ分ほどの距離を飛んで玄関の床に落ちた。茅野の背筋はぐらりと右に揺れ、振動によって右の眼球もぷつりと床に落ちた。芸術を愛した女の顔の上半分には赤黒く染まった穴が2つ穿たれ、針山はそれを息を呑んで見つめた。

数秒、穴から血が流れ落ちるだけの時間があった。

何の前触れもなく、茅野は全身をがくがくと痙攣させて、耳を裂くような声で笑った。針山は弾き飛ばされるように走り、併設されたサイトへと向かう。髑髏しゃれこうべのように顎を不安定に、涎を垂らしながら笑う茅野を一瞬だけ針山は視界に入れてしまっていた。空の眼孔は常に針山を追っていた。茅野は笑いを抑えようともせずに自室の奥に消え、針山はカメラで異常事態を察知したのであろう警備員とすれ違うようにして、サイトへ逃げた。
 
 
 


茅野は涎を拭かずに室内へ歩み出た。眼球が零れ落ちたのを視認する、という奇妙な体験はしたが、思い切り泣いた後の心地良い疲れのようなものを感じていた。室内を見渡して、暗い赤色の塗料をいくつか見繕い、持っている中で最も太い絵筆を引っ張り出す。外からは足音が聞こえる。下手くそな鼻歌さえ歌いながら、茅野は手を止めずに作品制作に取り掛かった。頭は不思議と少しだけ軽く、思うがままに筆を振るうことができそうだった。茅野は希望を持ってキャンパスに色を塗りたくっていく。

「Are We Cool Yet?」


 
 
 
「これ以上の尋問は必要ない。標準人型収容手順を適用しておけば十分だ。奴に要注意団体を引き寄せる力はない。君らの領分でさえない。私の見地からは以上だ。尋問担当の職員からも中止の要請が出ていることも報告しておこう」

屋敷信正は集まった機動部隊び-1("美術館")の面々にそれだけ告げた。彼らは設立者を失った形となるが、悲嘆はない。メンバーは尋問中の茅野の映像を終始何の感情も出さずに眺めていた。今日の屋敷はメタリックな銀色の義足を使用しており、機嫌は良くも悪くもなかった。メンバーはそれぞれ視線を交差させると、安堵したように改めて屋敷を見る。口を開いたのは、現在のリーダーらしい壮年の男だった。

「わかりますか」

「わかるとも。奴と『Are We Cool Yet?』は相容れないよ。いつまで経っても連中が迎えに来ないのもその証拠だ。あの忌々しい芸術家気取りどもは、新たな才能を捨て置くような連中かね?」

話すこと自体無駄だという風に指で机を叩いたが、機動部隊のメンバーが更なる情報交換を求めていることを察せないほど屋敷は対話能力が欠けている訳ではない。渋々、年齢相応に渇いた茶色の唇を動かす。

「奴は芸術家として認められないんだ」

「と言うと?」

「奴の芸術はもう崩壊しているよ。自分を芸術家として定義したがっているだけなんだからな。何も見ようとしないし、描こうとしない。あれが作品? 白いキャンパスに『AWCY』を描いただけで? 救いを求めるにしても、やり方が最悪だ」

「栄治博士との関係については?」

「あいつに尋問しても何も出てこなかっただろ? 単なる依存先だ。自分の眼が不安になって、作品を押し付けて踏ん切りをつけようとしてたんだ。結局欲望に負けやがった」

屋敷は悪くなかった機嫌をどんどん悪化させ、報告書に載せるにはあまりに抽象的な言語を羅列したが、機動部隊のメンバーはそれを自然に受け入れ、理解した。不条理が蔓延する業務において、少しでも道理が理解できる者が入るのはある種の救いに思えた。皆茅野に恩義があったが、映像を見た後では同情さえも難しく思えた。屋敷は自分の担当する業務内容でないことを改めて主張してから、報告書に電子サインを施して去った。白い室内に数人のメンバーが残された。

リーダーの男は白髪の混じった頭を掻きながら様々なことを考えたが、取り敢えず手元のノートパソコンを開き、財団のネットワークに接続し、IDを照合してリアルタイムで中継されているある映像を表示する。他のメンバーは無言で周囲に集まり、流れている動画を眺める。

POI-2899-JPというタイトルのウィンドウに、白い室内と床にうずくまる女らしき人影が見えた。女はあるべき眼球を喪失した眼孔をあちらこちらに向けたり、壁の一点を見つめたり、床を引っ掻いたりとせわしなく意味の無い行動を繰り返している。メンバーは茅野が眼帯やその他の眼部を保護する器具を極端に嫌うことを聞かされていた。彼女の視認機能に問題はないが、目隠しは有効であるということ、衛生上眼孔は完全に安全であるらしきことも。

壮年の男は溜め息をつき、背もたれに体を預ける。他の隊員も大方似たような反応を示し、目には虚無感を伴った失望を宿していた。屋敷博士の分析に異存はなかったが、同時に現実を受け入れるにはやや時間がかかりそうだった。メンバーのうちの2人は部隊ぐるみの記憶処置申請を考え、1人は失恋を経験し、1人は次回からの業務のことを考えた。

やがて、機動部隊び-1("美術館")のメンバーは報告書を再編集するために声も無く部屋から立ち去った。壮年の男は最後に出ようとしたが、ふと、少しだけ背後の室内を振り返った。茅野の話し声や笑う顔はいくつも思い出されたが、吸い込まれそうなほど赤黒い穴を顔に持つ茅野の笑う映像が全てを塗り潰していった。警備員を相手に涎を振りまきながら抵抗する茅野の映像記録は二度と見たくなかったし、長い財団勤務の上であれほど不快なものを見たのは二度目か、もしくは初めてかもしれない。男は茅野がよくそうしていたように目を細めて微笑み、そして表情を消して改めて歩き出した。

茅野きさらだった誰かは男の脳裏でケタケタと笑い続ける。

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