金縛りが科学的な現象だと身をもって理解したのは大学2年の時だ。
勿論、体験しはじめた頃は、ついに心霊現象に遭遇する事ができたのだと思っていた。しかし何度か経験を重ねていくうちにある「傾向」に気づいたとき、自分の思考はこれ以上ないくらい納得のいく答えに出会ってしまった。
それはほぼ例外なく、寝すぎた時に寝ようとすると起こっていた。
夢を見るのは浅い眠りのときだという。
昼寝で充分な睡眠をとってしまったから、身体が先に寝てしまっても脳は意識を失えないという中途半端な事態に陥るのだ。大学に入って暇をもてあます機会が増え、惰眠をむさぼるようになってからこの「金縛り」の遭遇回数が著しく増えたことも、自分の思考の根拠を更に強固なものにしていった。
そう、そして、今夜も。
今日は4時間も昼寝したから、日付が変わる前になんて寝たらきっと「遭う」だろうなあ、と思いながらも、やる事もなくて枕に顔をうずめている内に、しばらくして手足が動かせなくなるのを感じてきた。しかし今はもう、その程度じゃ何の感動もなかった。
やがて、頭のあたりを中心として全身が、ゆるく前後に押したり引いたりされるような感覚が始まる。次第にそれは身体のどこか一点へと集中していき、腕や足を掴まれて、引っ張られたり、背中に何かが乗って揺すられたりするような力の動きが、明確に伝わってくるようになる。
今日も全くその通りになった。
そんな、ぐわんぐわんした感覚がしばらく続いた後、次に、幻聴がやってくる。何を言っているかは分からない囁き声や、支離滅裂だが音楽を奏でているらしいように思える何か、等。
今回聞こえてきた、足音、というのも、たぶん初めて耳にする類じゃない。
コツ、コツ、コツ、といっても、ハイヒールのような靴とは違う。正装の男性が履く革靴という感じの、あまり硬い音でもなく、ぱた、ぱた、と形容してもいいかもしれない音だが、別にバタバタと急いでいるような印象は全然ない、落ち着いた歩みの音が、ベッドの傍をあてどもなくうろついているようだ。
ほら、コツ、コツ、コツ、コツ。
都会の雑踏ではなく、ひとり分と分かる、それこそホラーやサスペンスで警備員が廊下を歩いているような足音が、耳元にちょっと近づいてきたり、ちょっと遠ざかったり。部屋の床にはマットが敷いてあって、そんなはっきりした靴の音なんて立たないはずなのに。リアリティなんて何の考慮にも値しない、夢なのだから。
コツ、コツ、コツ、コツ。
でも、幻聴と分かっていても、何度も経験していても、……やはり。怖いものは怖い。少なくとも不快だ。このまま眠れても寝覚めが悪くなりそうだ。
だから今日も、脳から必死に神経へと命令を送って、全身の、半分だけでいいから、持ち上げようと集中する。
そして、強く寝返りをうった。
幻聴はふっ、と消えた。
いつもこうだ。
枕もとのスマホを起動して、周囲の暗闇へ画面の明かりを向ける。
足音の主の青白い顔がぼうっと照らし出される、わけもなく、タンスやら押し入れの戸やらが自分以外の不在を主張するだけだった。
こうして全身を覚醒させた後も怪異を見ていられた事なんて一度もない。
結局は、夢だったのだ。
……部屋の外で物音がした、が、それは夜の12時半程度じゃよくある事だ。日中仕事をしている父がまだ自由時間を謳歌していたり、母がまだ日々の生活のための何がしかを頑張っていたりしても全然不思議じゃない。
寧ろ、自分が小さい頃はそういう生活の音を聞いて、夜の静寂の恐怖をやわらげたりしていたものだ。
今も聞こえている、扉を開けて、閉める音、廊下と階段とを行き来する、さっきの不自然な音とは比べ物にもならない、何の違和感もない、くぐもった足音なんかを。
失望とともに再び目を閉じて、全身の力を抜いていく。一度あれを体験した後は、その夜は正しく寝直せるのだ。気疲れした脳が、充分に眠くなってくれているのだろう。
そうして、じきに明日の世界がワープしてくるのだ。ちゃんとした睡眠がとれた時に、意識がなくなる瞬間なんて認識できた事はない。いつも、いつか分からない間に、「飛んで」いるのだった。
……
気がつくと、違う場所にいた――夢を見た。
珍しい。夜中に夢から覚めた後は良く眠れる事が多かったのに。
とはいってもその夢の中では、夢を見ているという自覚はなかった。
白い部屋にいた。生活感のない、何かの施設だ。
白衣を着た二人が並んで、巨大なガラス窓かモニターか、映るものを見ていた。
二人のどちらかが自分だったか、あるいは二人を後ろで見る視点で夢は進行していたと思う。
「ハングドマン?」
片方の白衣が問いかけた。
「ああ、こいつは宙吊りにして、ボタボタ垂らしておくようにしなきゃならない」
ガラス窓の向こうかモニターには、長袖の、淡い感じの色のパジャマが、洗濯されているかのように両腕を横に広げさせられ、吊り下げられていた。パジャマには中身があるようだが、夢では顔は見えなかった。性別もいまいち判別しがたい。
「何がボタボタ垂れてるかっていうとな、小麦粉と、卵と、牛乳と、要するにホットケーキの材料みたいなもんだ」
夢では「ボタボタ垂れてる」様子は見えなかった、というか夢の映像ではガラスかモニターの人影は膝下あたりまでしか見えなかった気がするのだが、何故か自分は、そいつの足は黒い革靴になっていて、その靴から「ボタボタ」が分泌されている事を認識していた。夢では良くあることだ。
「なるほど、蜂蜜とバターが欲しくなるな」
「だが、このホットケーキミックスが床に垂れたその後に、もう一度こいつに踏ませちゃならない。だからこいつは吊るしておいて、分泌物と足が接触しないようにしなきゃいけないんだ」
「接触したらどうなるんだ。ドカン、とかなるのか」
きっと警備の厳重な秘密の施設で、怪物的なものを前に話しているのに、妙に二人の会話が軽い感じがするのも、夢ならではの適当さだ。
「それがな、ドカンなんてもんじゃない。こいつの足と接触した分泌物は、まず、赤い警戒色に変化する。俺に触るとヤバいぜ! ってな。そしてその、赤くなった『足跡』に触れるとだな、そしたらもうヤバいってもんじゃない、良いか、よく聞けよ……」
その肝心な所で、認識が曖昧になる。まあ、いつもの事だ。夢は夢なのだから核心には触れない。食べる夢を見たって現実には食べられないように。
「ふむ、歩き回られないように、吊るしておかなければならないという事か。それは分かったが、それで、なんでこいつはあんな地下深くに置いておかなければならないんだ?」
「こいつはな、他人の家に入り込んで、家の中だけを歩き回るのが趣味なんだ。ここは俺の家だ! って主張するみたいに、そこかしこに赤い足跡を撒き散らしながら、な。こいつを建物の外に出したら終わりだ。すぐにいなくなって、どこかの家に現れる。そして侵入者も元の家主も排除する、万全のセキュリティを張り巡らすって訳さ。だが、今のこいつは、コンテナから出てもまだ地下ユニットの中だ。地上に上がってきてもまだ『センター』の中だ。外に出させちゃいけないって事は、深い深い入れ子の奥に押し込めておくのがいいのさ」
「赤い足跡、ねえ……」
怪物の説明を受けた方の白衣が、ガラスだかモニターだかに映るものに目をやった。
その、頭と足が見切れている人影を見た次の瞬間か、あるいは、しばらくそれをじっと見続けていたか、
少なくとも最後に何か気付いた気がする――ああ、あのパジャマって、
……
うだるような暑さと、体にねばつく汗の気持ち悪さで目が覚めた。
あれ、エアコンを止めるタイマーの設定なんてしていないのに。
頭上を手探りで、電気の紐を探す。
引っ張る。電気がついた。
ベッドの外に目をやる。
エアコンの電源は止まっていた。
真っ赤な足跡が床一面に散乱していた。
部屋の外で物音がする。