異海観航
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 肉塊の船が液体の中を進んでいた。液体は粘度が水と同じくらいで、人が浴びても直ちに死に至ることは無い、という以外には何も分かっていないし、今のところ分かる必要があるとも思われていない。
 肉塊は昔の人が蛭子と呼んでいた、元が何の動物だったかわからないくらいに崩壊し、水を吸ってぶよぶよに膨れ上がった死体に似ていた。しかし、その進行方向には明らかな人工の光が放たれており、そしてその側面には強化ガラスの窓がいくつも横に並んでいた。

 光は肉塊の前方で泳ぐ、ほとんど裸の男を捉えていた。男は簡素な布を腰に巻きつけているだけの出で立ちであったが、その2 mはあろうかという褐色の長身には全身くまなく、まるで男を食らい尽くすかのようにどす黒い刺青が施されており、よほど目を凝らさない限り、それが生きているギリシャ彫刻のような、非常に磨き抜かれた男性の裸体であると気づくことは困難であろう。
 正体不明の液体で満たされた空間の中で、男は平然と、上と思しき方へ泳いでいく。いや、明らかに男の泳ぎよりも速いスピードで、男は上へと引き上げられていくようだった。男の顔は右半分がひしゃげて見え、頬の部分に穴が開いていた。長尺のナイフを口の中へ突っ込まれ、頬を貫かれているような状態だった。しかしなぜか、その穴から血煙が散開することはない。顔の左半分で、男は暗く笑っていた。
 男の体は「水」面から上に飛び上った。そこには空気、少なくとも人を生存させられるであろう気体が充満していた。
 その空間は発生源の分からない光で四方が照らされており、それなりに構造を観察する事ができた。そこは一見すると地底湖を取り囲む洞窟のようだった。壁や地面は明らかに人工のものではない黄土色の素材で構成されており、全体的に湿っていて、生暖かく、絶えず低い雷鳴のような音が響いていた。耳に指を突っ込むと聞こえてくる体内の音を、増幅したような響きが。
 男の身体は「湖」の「岸」に佇む三つの影へと投げ出されていった。
 その者たちは巨大な人型で、リーダーと思しき特大の存在に至っては身の丈10 mはあるように見えた。彼らは一見すると金属片を敷き詰めた鎧(スケイルアーマー)を纏っているように思われたが、実のところその胴を覆っているのは橙色の光沢を放つ「うろこ」であり、緑色をした両手両足の指には水かきがついていた。
 彼らを人間と区別する最も大きな特徴はその顔である。彼らは魚だ。ここは半魚人による人間釣堀だった。
 男を釣り上げたのはリーダーではない、小柄な半魚人のうち片方であった。それでも身長7 mは下らない巨体のもとへ、男は無抵抗で飛び込んでいくかに見えた。だが、アンコウの頭部を腐らせたような醜悪な顔の目と鼻?の先で男は体の自由を取り戻し、両手両足で受け身を取って綺麗に半魚人の正面へと着地した。
 次の瞬間、男を釣った半魚人の頸部らしき部位から黒い液体が噴出した。倒れ込む半魚人とは逆にゆっくりと立ち上がる男の右手には、いつの間にか液体を滴らせる、黒く、男の背丈ほどもある、恐らくは刃物が握られていた。そして男の精悍な顔からは、いつの間にか透明な「釣り針」の跡は消えていた。

 彼らはかつて危険の極北、Keterと呼ばれたものたちである。Keter、それは「財団」が名付けた区分。超常の存在を封印する組織であった「財団」は、封印の特別に難しいもの、あるいは特別に危険なものをKeterと呼んでいた。
 しかし、かつては既存の技術による封印を徹底していた財団が、超常による超常の封印をためらわなくなったとき、Keterの分類は大きく崩れることになった。極めて危険または邪悪であるが場合によっては有効になるかもしれないいくつかのものは、制御可能となることで完全な救済の「道具」、Thaumielとなった。他の、数多くの例は、Euclid――制御手段の明確な猛獣程度の存在として、扱われるようになった。
 格下げを受けた元Keterの多くは、危険度、というか封印のための煩雑さが、財産や研究素材としての価値を上回った。だが、その中で実際に破壊されたオブジェクトはごく僅かだった。財団の「保護」のモットーが失われていなかったから、という訳ではない。貴重品ではなくなり、かといって兵器としての有用さにもいまいち欠けるものたちが新たに得た存在価値、それは。

 仲間の一体を屠った男を、残る半魚人たちは目を見開いて見つめ、しかし次の瞬間には、残るもう一体の小柄な個体が男へと襲いかかっていった。
 「水」面から肉塊がその「船」体を浮上させ、「窓」を戦いの場へと向けていた。その中では、正装の男女数名が横一列の椅子に座り、片手に真っ赤なオーガニックティーの注がれたカップを持ち、もう片方の手でオペラグラスを掲げて窓の外を凝視していた。殆どは成人していたが、端から二番目には年端もいかない少女が一人、座っていた。
 一番端に居た西洋人の男が、少女に話しかける。
 「さあお嬢様、大立ち回りが始まりましたよ」

 それなりに強力だが財団にとっての価値は少ないオブジェクト達がたどり着いたのは、見世物としての立場だった。同様にそれほどの価値を感じられない未確保のオブジェクトを制圧する際に、わざわざ価値ある兵力を割くことなく、しかもエンターテインメント性という付加価値を発生させうるものとして、かれらは駆り出された。
 この(財団が言うには)極上のショーを楽しめるのは、一部の特権階級だけだ。上級の財団職員か、あるいは、財団が地球を支配した際に強大な権力を持っていた一般市民たちを、財団(もしくはその内のある派閥)は定期的にこのような場へ招待した。
 少女の両親もまた、権力者の一員である。超常のオブジェクトを手に入れたことによって、小さな製薬会社から急成長を遂げた大財閥。少女はその令嬢であった。財閥は財団による支配が始まっていち早く、所有していた複数のオブジェクトを財団へと提供し、新たな世界においても強大な権力を継続したのである。
 巨大な組織の長とは多忙なものであるが、世界の支配者が開く社交の場には欠席するわけにはいかない。そうして少女は、ここに遣わされることとなった。生き物から機械を作っていたという旧き種族の遺産、との説が有力なオブジェクト、通称「サメマリン」に対する倫理を排した研究によって完成した、生きる遊覧潜水艦の乗員として。艦の船体は「不浄」と呼ばれる異世界の怪物を基本の素材としていた。この興業は艦の試運転と、財団が持つ技術と力のデモンストレーションをも兼ねていた。
 両親は少女を安心してそこへ送り出した。それは彼らが保護者として同行させた執事の優秀さ故――いや、優秀というよりも、その執事もまた、財団への協力に対する見返りに貸与された、超常の存在であったのだ。

 次に男と対峙した半魚人は四肢を人間ではありえない方向にくねらせながら予想外の方向より攻撃し、広げた手で男の胸板を引き裂き、間髪を入れずに扁平な足で男の全身を蹴り飛ばした。普通の人間ならば胸板を斬られた段階で両断され、蹴られたならば爆発四散していたはずだが、吹き飛ばされたその男は地面に叩きつけられるや否や、次の瞬間には臨戦態勢を再開していた。

 男はへらへらと笑いながら何やらがなり立て始めた。見物人の中にその言語を理解できる者はいなかった。

 男が非常な手練れだと知ったリーダーの半魚人は、再び繰り広げられた戦いに加勢した。四方から襲いくる異形の腕と脚を、男は殆ど回避するか、もしくは、人体を粉微塵にするはずの一撃を食らい、見た目にはその通りの損傷を受けているようであったとしても、それをものともせずに立ち向かった。最初の攻撃を受けた段階で、男は半魚人たちの奇怪な動きが、彼らにとっての戦闘の型である事を見抜いていた。

 ――てめえらがどんな神かは知らねえ。だがな、俺の親父は言ったのさ。

 半魚人たちの攻撃一、二発ごとに、まずは小柄な方の個体から、身体の切り傷が増えていった。最初の方で付けられた傷は小さく、その個体は気にせず攻撃を続けていたが、エイを縦に膨らませたようなその顔の片目を吹き飛ばされたとき、彼は初めて、自分の意志で胴体を動かせないことに気が付いた。自身の体は幾度となく刃を貫通させられ、頭以外にはどこにも神経が通らなくなっていたのだ。そして男は動きを止めた半魚人の脇腹を蹴り飛ばした。大きさの比率で見ればそれは、半魚人の方にとっては指で小突かれた程度の衝撃であったはずだが、半魚人の体は無数の切り身となって破裂した。破片は勢いよく飛んでいき、見物人たちが乗る船の近くにも半魚人のぶつ切りが血飛沫とともにいくつも落下していった。

 ――てめえらみてえな奴らを排斥して、侵略しろってな!

 生き残ったリーダーの半魚人は、ずっと、できる限り落ち着いて状況を分析しようとしていた。そして現状において最善と思われる結論を出した。咄嗟に飛びずさり、そして男に背を向けて駆け出した。リーダーの巨体を人間が見ても全く想像がつかない事だが、リーダー自身はその脚力が男の全速力を凌ぐことを理解していた。しかし走り出してすぐ、既に人間の腱にあたる部分が切断されていたことに気が付いた。そして動きを止めた一瞬の間に、背中に縦一閃の斬撃が入ったのを感じた。だがその一撃は大きな背びれに阻まれて決定打とはならなかった。
 リーダーは金目鯛を鬼の形相にしたようなその顔を、男に向けた。動きづらくなった片足と、二度と背後に回られてはいけない状況の中で、彼は男との戦闘を再開した。最善手が逃亡だったというだけで、勝ち目がなかった訳ではない。男の体が十分に疲弊していることも、リーダーは看破していた。
 しばらくの間、素人目にもギリギリの攻防戦と分かる様相が展開されていた。男が押されているように見えた。しかしリーダーの半魚人は気づいていた。この男は敢えて苦戦するような闘い方を選んでいるのだと。手加減をしている訳ではない。最初の一体をあっさり終わらせてしまったのが惜しかったから、じわじわと痛めつけながら殺していく戦法に、男は切り替えたのだ。
 リーダーは決して油断はしなかったし、その精神は屈しなかった。ただ、心の中のほんの少しの隙間に、目の前の殺人鬼に対する恐怖が入り込んだその一瞬が、男に必殺のチャンスを与えたのだった。
 心臓に相当する器官を貫かれて、全身にできた傷から血を噴き出したリーダーは、最期に思った。逃げられなかったんじゃない。逃げようと思ったこと自体が失敗だった。

 ――そして、今の「飼い主」が考えてることも、何も変わっちゃいねえのさ。

 肉塊の船内では、拍手喝采が巻き起こった。
 「……なかなかの見ものでございましたね。私も傍観者として彼の戦いを見られる日が来るなどとは……お嬢様? お嬢様、いかがなさいましたか?」
 少女は隣の西洋人――彼女の執事に呼びかけけられても、何も反応しない。
 ただ、歯ぎしりをしながら、無残な敗者の死体と、激しい消耗で膝から崩れ落ちていく勝者の姿を、オペラグラスで見つめ続けていた。もう片方の手はティーカップを手放し、握り拳を、ぶるぶると震わせていた。


 少女が執事と共に、未だ両親の帰らない屋敷に着いたときは、もう夜になっていた。

 庶民の一軒家が丸ごと入るほどの広さを持つ部屋の中で、パジャマ姿の少女が執事に抱き着いて、激しく泣きじゃくっていた。
 「ひどい、ひどいわ! あんまりよ、あんまりだわ、あんなもの!」
 「お嬢様、よくぞ、よくぞ耐えられました」
 執事は少女の背中をさすりながら、落ち着いた声で語りかける。
 「あんなに、殺して、殺すばかりなんて……!」
 「お嬢様、お嬢様はよく頑張りました。あの場所で『催し物』の事を悪く言ったりなんてしたら、財閥にどんな危険が及んでしまうか分かりませんでしたから」
 「ショー」の目的は、単なる娯楽の提供ではない。あれを楽しみ、そして楽しませてくれた財団に感謝をするような価値観を招待客たちがきちんと持ち続けているかどうか、彼らが傍に置いておくに足る者たちで居続けているかどうか。それを定期的に確認する事こそが、あの空間の意義なのだ。
 少女は執事の胸から顔を離し、涙をいっぱいに浮かべて訴える。
 「我慢しているのは私だけじゃないわ! ワンダはあの人たちをクソッタレと言っていたわ。おともだちが心をバラバラにされたみたいに、ブッ壊されたって」
 「お嬢様、汚い言葉を使ってはなりません」
 執事はそう諌めながら、少女をベッドに座らせた。
 「みんな、可哀そうよ。殺されて、……殺さなければならないなんて。ずっとずっと……!」
 「お嬢様はお優しい。怪物だけではなく、アベルの方もお気になさるとは」
 そして執事は少女と話しつつ、手慣れた動きで少女を寝かせ、布団を掛けていく。
 「だって、あの人も、すごくつらそうな目をしていたわ」
 オペラグラス越しに見えた男、Keterの戦士(あるいはかつてそうであった者)アベルの目は、疲弊と絶望でひどく濁っていて、まるで灰色の瞳をもっているように、少女には思えたのだった。
 「ねえデーズ、どうしてあの怪物さんたちは殺されなければならなかったの? どうして――あの黒い男の人は、みんなを殺さなくてはならなかったの? 見かけが恐ろしいから? 悪い事をしたから?」
 少女は掛け布団から首と片腕を出して、傍で立っている執事デーズの手を握りながら、彼との会話を続ける。
 「両方でございます、お嬢様――魚の怪物は人間と同じ知恵を持ってはいますが、人間を食べて暮らしているとも言われています。アベルは人殺しの男で、見た目は人間ですが、何度死んでも蘇る、普通の人間とは違う力を持っています。どちらも人間とは身体も考え方も違っていて、そのために人間にとっては都合が悪いのです。だから人間は、彼らを殺し合わせるのですよ」
 かつては都合が悪くても人間は勝つことはできなかったが。しかし、今は違う。
 「人間と違うから、違うからって、それがいけないの……? それなら……」
 少女はデーズに頭を撫でられながら、内面の世界へと降りていった。が、すぐにぱちりと目を開け、デーズの方を向き、彼を見つめながら聞いた。
 「ねえデーズ、みんなの顔を全部一緒にしちゃう魔法ってある?」
 少女は魔法と言った。それが絵空事でない事は、もう誰もが知っている時代である。
 「顔を同じに……ですか。確か、写真機を使った魔術にそのようなものがあったと記憶しています。そのような感染症があったとも」
 少女が布団から身を乗り出した。
 「みんな、みんな、一緒にすればいいのよ! 顔も、それだけじゃないわ、身体の大きさも、形も、強さも、生きる早さも、考え方まで、全部、みんな同じに、一緒になっちゃえばいいのよ!」
 「全部一緒に、でございますか?」
 「殺すことも、いじめることも、貧しさも、全部の格差は『違う』ことから生まれてくるのよ。みんなが同じになってしまえば、そんなものは全部なくなってしまうわ!」
 「お嬢様はとても聡明で――頭が良くていらっしゃいますね」
 デーズは微笑んでそう言った。心からの賞賛だった。
 「時にお嬢様、私も『同じ』にされてしまうのですか」
 「そうね、できれば、あんまり無理強いはしたくないわ。世界中を勝手に『同じ』にしちゃったら、あの人たちのやった事と変わらないもの。きっと大多数の人が賛成してくれるだけでも、大きな効果になるわ。だからデーズ、あなたも、絶対に『同じ』にならなければならないという事はないの。特にあなたの事は、私が勝手に決めて良いものではないわ。だって――あなたは私だけの執事ではないんだもの。……でも、でもね」
 少女はデーズの手を両手で掴み、彼の目をまっすぐ見て言った。
 「もし……貴方が今、幸せでないのなら、『同じ』の中に入ることを、私は強くお勧めするわ」
 「……ミヨコお嬢様」
 少女ミヨコの真剣な眼差しは、デーズの目もまた、アベルと同じ灰色に淀んでいることを見抜いていた。デーズはどのような苦痛や死を与えられようとも、「ベル」によって召喚されれば生きた健康な姿で現れる。「ベル」を鳴らした者であれば、どんな主人の前にでも。「今の」財団が彼のことをどう扱ってきたか――幼いミヨコでも、ある程度の想像はつく。
 デーズはしばし思案した後、ミヨコの小さな両手を握り返して、返答をした。
 「正直に申しまして――私は自分がどうしたいのか、すぐには分かりかねます。ですがお嬢様、そのお気持ちは、本当に、本当にありがたく、頂戴いたします」

 彼女にとって冴えた発想を思いつくことのできたミヨコは、その後、すとんと眠りに落ちてしまった。安らかな寝顔を見ながら、デーズは、自分たち異形の者について思いを馳せていた。

 ――いつか、皆に伝書鳩で伝えよう。平和の象徴であるハトならば、きっと財団の暴力を掻い潜って、必ずメッセージを届けてくれるはず。ハトで仲間たちに伝えよう。

 反逆の狼煙は未だ立たぬ。
 だが種火は点っている。
 着実に――

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