Source of a Peculiar Center - ある変梃センターの起源

Source of a Peculiar Center

ある変梃センターの起源

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August,09,1975 5:38 PM
"North Atlantic"
-DAY 9-



 悲劇的な旅客船の事故から何日が経過したのか?大西洋に沈みゆく眩い夕陽に焼かれながら、残骸で構成された筏の上に私達はいる。

 栄養失調と脱水によって正常な機能を失ってしまった頭では、もはや記憶を辿ることすらままならない。来る日も来る日も、ただ何も無い大海原をこの薄汚いボロきれのような3人の仲間たちと過ごしてきたのだ。

「おぅい……ジャックゥ…??」

 ぶくぶく太った真っ黒な人形を抱いているその女性はメアリー・マックイーンという。彼女は元々とても美しい女性だったが、今となってはボサボサの金髪のせいで質の悪いホラー映画に登場するバケモノの様な風貌だ。

「おきなさぁいぃ……ジャックゥ……」

 そう言って彼女は黒い人形の顔を撫でた。撫でた彼女の指先に人形から溢れ出る汚らしい粘液が付着する。どういう訳か彼女はこの人形を彼女の息子のジャックだと思っているらしい。人形とジャックは背丈こそ同じだが、彼は細身の少年で母親似の美しい顔立ちをしていた。人形のように目玉は膨張していないし、肉が腐ったような臭いもしない筈だ。人形が身につけている衣服はまるでジャックの物をそのまま着せたようではあるが、それは多分きっと偶然の産物なのだろう。

「……おい!!………ケリー!!この………アバズレを……黙ら…せ……て…くれ!!」

 メアリーの横に寝そべっているニック・ロジャースが掠れ声で私の名前を叫ぶ。彼はミイラのような手で、両耳に蓋をしている。彼は元々不健康な痩せ型の男だったが、漂流生活が始まってからそれが悪化したように見える。破けたジーンズから覗く脛も枯れ木のようだ。彼はもはや起き上がることすら出来ない程に衰弱していて、今の叫び声も隙間風の様な弱々しい物だった。

「なぁ……!!おい……!!お前だよ……この……ア…バズレ……!!」

 ニックは骨と皮だけの腕を突き上げて顔をメアリーに向けた。ニックの瞳には光がない。焦点もまた彼女の方を向いておらず、両方がそれぞれ別の場所を向いている。彼の小さな声はメアリーには聞こえなかったらしく彼女はまだ独り言を呟きながらジャック人形を撫で回している。

「やっぱり、腐っちまう前に食べる覚悟をしておくべきだった」

 そんな彼女を悲しそうな目で見るのは我らがぼろ筏の船長にしてメアリーの夫。ノーマン・マックイーン。このガタイのいい男もここ数日の生活は流石に堪えるようで広い肩の上に乗る顔は痩せこけている。

「なぁ、船長?食べるって…何をだい?」

 私は体を起こしてノーマン船長の方を向く。この中の誰かが漏らした糞尿のせいで私のシャツは背中が床に張り付いていて、乾いたそれが起き上がるときにベリベリと音を立てた。

「ケリー。その船長って言うのをやめろ。俺はただの通信士だ。あの船の船長は、俺たちを見捨てて一足先に逃げたロックウェルのクソジジイだ。一緒にしないでくれ」

 ノーマンは無精髭の生えた顎を物憂げに撫でる。俳優顔負けの2枚目な男も筏の上ではただの絶望に直面した漂流者ドリフターに過ぎない。だが、彼は私たち4人の中では最も衰弱していない様に見える。船乗りのタフさというものは私達の想像以上のものなのだろう。

「それと……………さっきのは聞くなケリー。頼むよ、メアリーもいるんだ。言わせないでくれよ」

「おいおい、そりゃあ無いだろ?なんだよそれ?」

 ノーマンは大きな溜息をつき、じろりと私の顔を見た。その目はとても冷たく、侮蔑や哀れみに似た色を持っていた。何故彼が私をそのような目で見るのかは分からないが、心の底から話をしたくないという事だけは分かった。

「はぁ……全く…………もうマトモなのは俺だけになっちまったってのか……?」

 もうほとんど沈んでしまった夕陽を背景に、ノーマンの影が頭を抱える。

「……悪かったよ…悪気は無かったんだ……ただ、私は本当に聞きたかっただけなんだ……」

 漆黒のノーマンの影がこちらを向き、直ぐにまた下を向く。

「……あぁ、分かってるよ。ケリー。こっちこそ、悪かったよ……仕方ないよな…こんな状況じゃ…」

「…………期待するべきじゃないんだよな……もう……」

 太陽が暗黒の海に完全に沈み込み、辺りが闇に包まれる。暗黒に浮かぶ筏の上では、メアリーの声と波の音だけが鼓膜を揺らす。こうもなれば為す術は何もない。私達を見下すように鎮座する月と、その周りで見世物を面白そうに笑う星々。耐え難い夜は眠る他ない。筏の上に横になる。数日の間同じ体勢だったためか、全身が焼けるように痛い。だが、それもこれも眠ってしまえばどうということはない。私は目を瞑った。暗闇から瞼の裏へと視界が暗転・・する。飢餓状態の良いところと言えば、目を閉じれば直ぐに睡魔がやって来るという事だろう。メアリーの声とそれに呪詛に叫ぶニックのコーラスを子守唄に、私は眠りの世界へと落ちた。







August,10,1975 9:25 AM
"North Atlantic"
-DAY 10-


 目を覚まし、瞼を開く。目を潰す太陽光を警戒したが光線の代わりに、灰色の空が私達の上に覆いかぶさっていた。前方、そう遠くない所に岸壁の岩肌を思わせる分厚い雲が見えている。雲の中では稲妻が駆けているらしく、時折部分的に光を放っている。

「嵐…が、来るか……」

 私はそう呟き、重い頭を庇いながら起き上がった。ふと見ると、私の横に海面を眺めるノーマンが座っていた。

「やぁ、船長。あの天気どう思ーー」

 そこまで言いかけた時、ノーマンは私の口元に人差し指を立てた手を押し付けた。彼は元々白人だが、天候の影響も相まってか血の気の引いているように見える顔色は不気味な薄墨色をしている。

「どうしたんだい?船長?」

 ノーマンの指を退けて私が言う。

「あれ?」

 辺りを見回すと船上には私とノーマン、それから何故か泣き伏せるメアリーしかいないようだ。ニック、それからメアリーが抱きしめていたあの腐臭を発する人形は見当たらない。

「ジャック……ジャックゥゥ…………」

 メアリーの様子を見るに、彼女は人形を海に落としてしまったのだろう。涙と鼻水に濡れた垢まみれの顔はかつての美貌からは全く想像出来ない程に歪んでいる。

「船長?ニックはどこに?」

 するとノーマンは海面から目を引き剥がすようにしてこちらを向いた。そして顎で今まで彼が見ていた海面の方向をむくように促す。私は私の中で奇妙な不安感が急激に成長していることを感じながら彼の指示に従い、彼と共に海面を眺めた。灰色の海面をやや荒々しい波が覆っている。だが、それ以上のおかしな点は何も無い。

「どうしたんだい?海がどうかしたのかい?」

 その時、波と波の間を縫うようにして黒色の三角形が現れた。それは数秒間私達の筏の周りを回るようにゆっくりと遊泳し、やがて海中に消えた。私がその光景に戦慄し唖然としていると、海面を眺めたままノーマンが口を開いた。

「ケニー。アンタが寝ている間に、ニックがあのクソッタレに食われた。それと……息子はもともと死んではいたが……ジャックもだ…彼も食われた」

 その言葉に思わずノーマンの顔を見る。相変わらず彼の顔に彼自身の血色は無い。だが、彼の白かったシャツは誰のものか分からない血液によって右半分を赤黒く染めている。

「あ、あ、あれは?さ、さ、鮫?」

 声がうわずる私に、ノーマンは一言「あぁ」とだけ答えた。そうこう話している内にまたもや海面に邪悪な背ビレが現れる。空を切り裂く刃のような黒色のそれが私達の筏の方へと近づいてくる。サメのヒレは衝突まで1メートルという所まで接近すると突然に向きを変えて海中に消えた。そうかと思えば、今度は右側に再度ヒレが現れる。ヒレはまたもや筏に近づき、そして潜水した。

「あの野郎」

「探ってやがるんだ」

 ノーマンは海面から顔を背けると溜息をついて筏に座り込んだ。

「かえしてよぉ……ジャックを……かえしてよぉ……」

 泣き喚くメアリーが筏を殴りつける度に船体が振動する。暴れるメアリーを夫のノーマンは落ち着かせようとしていた。

「ジャックゥ……!ジャックゥゥゥ……!!私の…私のぉぉ!!」

「落ち着け。落ち着くんだメアリー」

 突然、メアリーが顔をあげる。その顔は相も変わらずに汚れ、歪んでいるが先程とは違い新たな感情が露呈している。憤怒。そうとしか表現出来ない激しい物が彼女から溢れ出ている。彼女の涙に濡れた瞳が見つめるのは海面。視線の先では、件のヒレがちょうど浮上していた。

「かえしてよぉ!!!!!」

 止める間もなく、ノーマンの腕から逃れた彼女は凄まじい突進を見せた。筏から足を踏み外したその瞬間、彼女の目の前の海面から滑らかな表面と無数の牙が現れた。彼女が海に着水する前に、サメは半ば飛び出す様にして彼女の下腹部に齧り付いた。彼女はほとんど金切り声を上げる間もなく海中に引きずり込まれた。

「あ、あぁ……」

「メアリー……メアリー……!!」

「あぁクソが!!!」

 ノーマンは涙を流し、感情に任せて叫んでいる。その声、顔、態度、全てが絶望に染っている。

「こんな!!こんな事が!!俺が!!メアリーが!!ジャックが!!何をしたってんだよ!!」

 ノーマンは泣き叫びながら破茶滅茶に筏を殴りつけている。そこに昨日の彼のような自信や自尊心といったものは欠片も見当たらない。ノーマンの精神が決壊したというのは私が見ても明らかだった。

 首筋に冷たい感覚が走る。続いて頬、腕。直上を見上げると、先程までの灰色の空は分厚い雲に隠されていた。雨が降り雷の轟音が付近に響き渡る。

 雨は打たれ続ける事で体力を削られる。体温を奪われまいとしても、屋根のない海上では濡れる事を防ぐ事は出来ない。まずい状況だ。だが、1つだけメリットもある。

 私は口を大きく開き、天から降り注ぐ大粒の雨を乾き切った喉に流し込んだ。1粒は僅かだが他の雨粒と1つになり、顔を伝う事で量を増していく。海水とは異なり飲んでも脱水になることはない。

 15分ほどに渡って雨水を喉に注いだ。喉乾きがだいぶ和らいだ気がする。

 あとは、時折水分補給をしながらこの雨を乗り越えるだけだ。雨が吹き荒れる海面を見ると、ちょうどヒレが海中に潜っていくのが見えた。







August,11,1975 6:46 AM
"North Atlantic"
-DAY 11-



 昨晩は雷鳴と雨によってほとんど眠ることが出来なかった。雨が恵みとして感じられたのは最初だけ、それ以降は私から体温を削り取っていく残酷な自然現象としか思えなかった。眠ろうものなら鼻や口に雨粒が侵入して噎せる。喉の渇きこそ解消されたものの、結果として体力的に追い詰められてしまった。今は雨足が弱まってきたが、これ以上強い勢力の雨が続いたならば私達は待ち望んだ水によって死に至っていたに違いない。

 ノーマンの様子は昨日よりは落ち着いた様だった。今の彼は冷ややかな表情で筏の周りを眺めている。そこには一切の望みも希望も感じられない。それはそうだろう。

 私はノーマンと同じようにして海面に目を落とした。

 いくつもの黒い影が海中を蠢いている。海のあちらこちらで憎むべき黒い三角形のヒレが現れては海中に消える。ざっと見ただけでも10数匹のサメが私達の周りを泳ぎ回っている。

「船長、上手くサメを捕まえられたら、食べられると思うかい?」

 私は冗談めかしてノーマンに訊く。だが彼はこちらを見ることもせず返事をしない。ただ黙って灰色の海と人喰いのクソッタレどもを眺めている。

「………船長。昨日は、大変だった、けど、今日はきっとなんとかなる。今日こそは助けが来てくれる……」

 やはり返事は無い。それから数十分、私達は一切の会話をなしに過ごした。その間も海のサメたちは新たな餌食を求めて機を窺い続けていた。ノーマンの異常に気がついたのはちょうどそんなサメ達を眺めていた時だった。

「……船長?」

 ノーマンは相変わらず海を眺めている。だが、彼は呼吸をしていないのだった。

「おい!!船長!ウソだろ!!」

 背中に触れると、彼の体は力なく筏の上に倒れた。首筋に手を当てると脈は無く、そこには低体温とは違う完全な死肉の冷たさがあった。

 とうとう、1人になってしまった。

 私はノーマンの死体の横で思わず涙を流してしまった。彼の死が悲しかったわけではない。ただ、自らの置かれた不条理に対して無意味に涙が湧き出てきたのだ。

 あれだけタフで、一番くたばりそうになかったノーマンが雨の中で衰弱死した。その事実は私に巨大な絶望を叩きつけた。どれだけ人間が屈強でも、希望と余裕を失った人間は体力の有無に関わらず弱いのだ。ノーマンのように、何かの支えがポッキリと折れることで風の前の蝋燭の火ように簡単に命は消されてしまう。ノーマンの場合はメアリーが、彼の愛妻が最後の支えだったのだろう。それが完全に失われてしまった事で彼は生への執着を失ったのだ。

 悪天候に伴う高波に揺られ、筏が大きく傾く。それによってノーマンの亡骸が筏の縁へと移動する。その様子を見て死骸というものはとことん物でしかないということを痛感した。

 ノーマンが海に落ちないように引っ張ろうとしたその時、あの忌々しい悪魔サメ野郎の1匹が海面から現れた。口を大きく開き、鋸のように並び立つ歯を誇示しているかのようにしてこちらへと飛び出してきた。腰を抜かした私はその場に尻餅を着いてしまう。サメはノーマンの上半身に噛みつき、そのまま体重任せに海中へと引き込もうとしている。私は咄嗟にノーマンの投げ出された左足を掴んだ。

 その行動に特別な意味があったとは思えない。ただ、彼の亡骸がサメどもに貪り食われるのだけは何故か我慢ならなかった。筏の上に体を倒し、必死に彼の足を引っ張る。サメも諦めずに噛み付いたまま頭だけを海から出している。

 突然、私は僅かな衝撃と共にサメとの綱引きから解放された。サメが諦めた物だと思い、ノーマンを引き上げようとした。見ると、そこには上半身を齧り取られたノーマンの血だらけの下半身だけがあった。

 私は彼の足からゆっくりと手を離し、眼前の悪夢に嗚咽した。

 海中では餌を貪っているのか先程よりも活発に黒い影たちが動き回っている。

 私の掌にノーマンが齧り取られる感覚がまとわりついている。僅かな衝撃。骨と臓器が出来の悪いギザギザに断裂される衝撃。それは太い木の棒を折った時のものに似ていた。

 筏の上を溜まった雨水と混ざりあったノーマンの血液が赤く染める。雨は止み、雲の切れ目から水平線に登りゆく朝日が顔を出した。今日の日も、暖かな陽は嘲笑うようにして私の頭上を通過するのだろう。

 オレンジ色の太陽を背景にサメ達のヒレが海面に出たり潜ったりしている。ノーマンの言った通り探っているのだ。不幸な漂流者の新鮮な肉を得るために、周囲の様子を探っているのだ。

 状況を整理するにつれ、私の中でふつふつとある感情が沸き立っていた。

 それは猛烈な怒り。

 サメへの怒りであり、天への怒りでもある。私達に残酷な試練を与えた全てへの怒りだ。

 何としても、奴らに一泡吹かせてやらねばならない。私は筏の上を見回した。連中に痛い目を見せてやる為に使えるものは無いだろうか。だが、筏の上にあるのは数日前に開けた缶詰の空とノーマンの下半身だけ。奴らへの攻撃に使えそうなものは何も無い。私は天を仰ぎ、そしてノーマンの死の残響が残る手をしっかりと握った。握り拳は怒りに震えている。

 あの忌々しいクソッタレの軟骨魚を粉砕せねばらない。握りしめた拳骨で奴らの鼻先を滅茶苦茶にしてやらねばならない。限りのない奴らの血濡れの歯を怒りと殴打によって除かねばならない。

 そうでなければ、私の感情は何処へも行くことが出来ない。

 殺すのだ。殴打するのだ。何度だろうと、例え奴らにこの身を食いちぎられようとも問題ではない。存在するのは怒りだ。奴らを殴ってやらねばならないという消し得ない衝動だ。

 私は筏の縁に立ち、思いっきり叫んだ。

「来やがれ!!人喰いのクソッタレどもめ!!」

 サメたちにこの声が届いたとは思わない。きっと、奴らはそこに餌がいると認識したのだろう。足元の海面が盛り上がり、例の滑らかな鼻先が現れた。その下の口には凶悪な歯が覗いている。

 私は冷静に、かつ強力な一撃を、全てのエネルギーを込めた一撃をその鼻先目掛けて放った。

 拳はサメの鼻先に炸裂した。想像以上の柔らかな感触を私の拳が感じ取る。殴られたサメは突然に向きを変え、筏の上で数回バウンドして海の中へと落下した。

 その間際、私はサメの尾ビレによって押し飛ばされた。幸い筏からの落下は防がれたものの肋骨が折れたようで耐え難い激痛が私の胸を襲う。力を使い果たした私は痛みによって意識を失いかける。

 まだ、まだ足りない。

 まだ、殴り足りない。

 こんなものでは済まない。

 奴らには、残酷な天には、精算して貰わねばならない。

 奴らを、殴り飛ばさねばならない。

 私の意識はそこで途絶えた。








August,26,1975 11:34 AM
"USA, New York City
ADOLF UNIVERSITY HOSPITAL"
-DAY 26-



「……というわけです。ケリーさん。あなたはコートジボワール船籍の漁船によって救助されてから10日間、ずっと眠ってらっしゃったというわけです」

 私のベッドの横で2人の刑事が淡々と言う。その言葉に一切の感情は無く、ただ仕事としてロボットのように発声しているに違いない。要するに職務に対しての情熱というものが感じられないのだ。私は刑事達の退屈な話を聞きながら病室の窓からニューヨークの街並みを見下ろした。都会は喧騒に飲み込まれているが、そこには規律があり秩序がある。生と死が濃密に密着したあの雰囲気は何処にも無い。

「………というわけです。あなたはイーカロス号沈没事故の被害者ですから、既にあなたがたを見捨てて逃げたロックウェル船長は裁判にかけられており……」

 窓から目線を落とし、包帯で巻かれた右手を見た。サメを殴った時に指の骨が折れたらしい、親指と人差し指以外の指の全てが折れていた。

 ふと、右の拳にあの感覚が戻った。

 ノーマンの体が林檎のように齧り取られたあの感覚が、サメの鼻先を殴り飛ばしてやったあの感触が。手を動かす事は出来ないが、確かに感じる。

「……以上です。賠償金などに関しては判決が決定してから日を改めてお伝えします」

 2人の刑事は軽く会釈をした後、気だるげな顔で病室を後にした。

 私は窓を眺めながら蘇った感覚に体を震わせていた。恐ろしかった訳では無い。ただ、それは純粋な怒りだった。

 まだ、足りない。この不条理は精算して貰わねばならない。

 世の中には存在自体が、種としての繁栄自体が許されてはならない筈の生物がいる。それがサメだ。奴らは生きるために他の生き物を喰らう。それは自然の摂理といえる。だが、奴らは決して犯してはならない禁忌を犯したのだ。

 奴らは、この私を怒らせてしまった。

 私は右手の包帯を口で噛みちぎり、握り拳を高々と頭上に突き上げた。血管が浮き出、殴るサメを求めて震えている。私の体に投与された痛み止めはとっくに切れていたが、興奮によるアドレナリンで痛みは完全に忘れられていた。

 私は点滴や包帯を全て外し、確かな足取りで病院のロビーを出た。途中何人かの医師と看護師が私に気づき病室へと連れ戻そうとしたが、私はそれらを全て殴り飛ばした。当然だ、サメを殴る行為を邪魔するものは全て殴るべきだ。病院の門の付近でさっきの2人の刑事と会った。彼らも私を連れ戻そうと飛びかかってきたので殴った。思い切り殴りすぎて片方の男の鼻頭が潰れてしまったが、罪悪感は何も無い。

 サメだ。

 殴るのだ。それだけ、それだけだ。

 私を止められるものは何も無い。もはや誰も止められない。例えばそれが警察官でも。例えばそれが神であろうとも。殴ってやる。サメの味方をするやつは、私の崇高な精神を妨害するものは何であろうと殴り飛ばしてやる。

 だが、1人でサメを殴るのでは力不足だ。まずは仲間がいる。

 サメを殴りたいという偉大なる意志を持った同胞たちでサメを殴るコミュニティ一を作らねばなるまい。

 私はサメを殴る。そのための組織を作る。

「軟骨野郎め。探し出して殴ってやる」

「全部」

「全部だ!!!」

 私の声はニューヨークの喧騒の中を轟いた。

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