スピリットダスト
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もうすぐだ。

カオルは慎重にスプーンを小さなライターへと近づけた。腕時計を確かめ、小さな包み紙を左手で開き、右手ではスプーンとその大事な中身を慎重に持っていた。

若い男は包み紙の中身をスプーンにふりかけた。氷のような結晶がスプーンの中の液体と交わると、シュッとかすかな音がし、一筋の小さな煙が立ち昇った。

カオルは深く胸いっぱい、煙を吸い込んだ。芳香が彼の体中に押し寄せ、彼は笑みを浮かべた。彼には感じられた。力強い物質の到来の兆候に彼の体は垂涎した。彼はその通過に身を震わせた。待ちかねていた。

はやる思いで、少年は注射針を手に持ち、貪欲に液体を吸い上げた。そして彼は慎重に二の腕を縛ると、まっすぐと腕へ注射針を刺し入れた。

液状のエクスタシーが静脈を通り抜け、心臓に届き、そこからまっすぐ脳へと広がっていき、彼の目は大きく開かれる。薬物がぶつかり、神経細胞は激しく火花を吹き、活動電位は軸索を駆け下り、神経伝達物質はシナプスを飛び越える。

彼には自分の脳が膨んでいくように感じられた。世界そのものが形を変え、ひずみ、ねじれ、まばゆい光や音や色彩と交わっていった。彼は痙攣し始め、彼の脳が純粋な喜びに縁取られた苦痛の爆発に溢れていくのに合わせて口から泡を吹いた。

その感覚は筆舌に尽くしがたいものであった。それはまるで全身の筋肉が力強くかき鳴らされているようであった。身体の表面すべてが浄化される感じを受けた。世界は彼が扱い、彼の好みに合わせるためのカンバスであった。

カオルは立ち上がり、独り笑みを浮かべながら腕を振るった。彼の友人が部屋に飛び込んできた。

「カオル! 何やってんだ? 言ったはずだぞ、これ以上使――」

友人の動揺を伴う叱責は妨げられ、その声は締め付けられたような喘ぎへと変わっていった。カオルが手を上げ虚空を握るのに合わせてその声は変わっていき、やがてカオルの友人は息の根を止めていった。友人はその目を純粋で酷で動物的な恐怖と共に見開きながら、無意味に首を掻きむしった。彼を迎える目は大きく、広く、色鮮やかに煌めいていた。その色彩は踊り揺らぎ、一つの色にとどまることは無かった。

急に藻掻きが止まり彼はくずおれたが、身体は宙に浮かんだままであった。カオルは彼が冷たくなるまで手を握りしめ続けた。かつてはおとなしい大学生であった彼、カオルは振り返り、ちょうど部屋に入ってきたガールフレンドを、蒼白な顔を浮かべた彼女を見た。

「カ、カオル?」

彼はクスクスと笑い始めた。彼女は悲鳴を上げ始めた。


相棒のユーダイが車を運転する隣、タナカ・カツオ刑事はシートにもたれて走査機に聞き入っていた。

「近所の者から騒動として通報がありましたが、いくつかの遺体が発見されました。初動の班がすでに目撃者と近所の者をおさえています」

「わかった。おれ達が片付けてくる」とカツオが応答した。

福岡の街路を駆け抜けながら、カツオは窓の外をせわしなく流れる光と音の残像に一瞥をくれた。日本の夜の街の喧騒やスリルは団地で起きる惨劇とは不釣り合いであった。

警察車両が目に触るランプを掲げて建物の入り口にたむろしていた。警察官が周囲に立ち、周囲の混乱に目を光らせていた。カツオは車から降り、マンションに目をやった。特徴もなくありふれた建物であり、この程度の安マンションは街のそこらでいくらでも見つけられそうだった。カツオは相棒に向かってうなづき、共にマンションに入っていった。

初動の捜査人員たちはすでに警察封鎖下に配置されていた。何人かの警官が興味本位の見物人を追い払う中、二人の警部は封鎖の中へと入っていった。入るとすぐ、制服の巡査が駆け寄ってきた。

「刑事の方ですか?こっちです、来てください」

エレベーターの中、カツオは手帳を取り出し質問を始めた。

「で、あんたが初動で現場に行ったのか? 何があったんだ?」

巡査は首を撫でながら吐息をついた。「ええ、近くで騒ぎが起きてるって通報が。来てみると中から返事はなくて。通報した近所の住人が合鍵を持ってて、それで入ってみても、だれも反応しないもんで」

「そこで中の仏を見つけたのか?」カツオはノートに書き留めた。

音と共にエレベーターの扉が開いた。その階には多くの警官が溢れており、近所の者は全員が各々の部屋で事情聴取を受けていた。タナカ刑事は相棒や巡査と共に人混みを縫うように通り抜けた。

「はい、遺体がここに。すぐに応援を呼びました。五つの遺体がここに。私が知るかぎり、誰も出入りしてません」

カツオは部屋への入り口を見つけるとうなづいた。ドアは開いており、鑑識員がすでに標本の採取や捜査を行っていた。

ユーダイは二人が入ると目に見えて後ずさりをした。壁は血塗れて縞を描き、すべての物がなぎ倒されていた。喉の壊された死体が戸口の前で潰れていた。かつては可憐な少女であったものは深々と切りつけられ、その血は壁を彩っていた。彼女の喉は裂かれ、胸板は切り開かれていた。

部屋の真中には、細身で上半身裸の男が横たわっていた。他の者と異なり、体に傷を負っていなかった。彼はそこに、冷たく生気なく横たわっていた。

タナカは血みどろの景色を無視し、すぐに証拠探しを始めた。まだ調子を取り戻せていないユーダイは少ししてその後を追った。

先輩の刑事がソファーの近くで膝をついた。カツオは顔をしかめて滅菌グローブを付け、床に転がっている捨てられた注射器と手のひらサイズの紙包を拾い上げた。包みを開くと、その底には少しだけ緑色の結晶がこびりついていた。

「謎の緑の粉に、注射器か。薬でもやったのか? この部屋の住人については何か分かってないのか?」

「全員、大学生です。薬物がらみの前科はないです」と巡査は答えた。

「じゃあ、何で真ん中で死んでる奴には傷がないんだ?」カツオは膝をついたまま顎をこすった。少年の肌は冷たく、鼓動はなかった。

「なぜ――」

突然、少年は目を開き、腕を振った。空気が外向きに爆発し、その力はカツオを後ろ向きに吹き飛ばした。ユーダイは素早く飛びのき、そのまま銃を抜いた。他の警官たちもそれに続いた。

細身の少年は立ち上がった。目さえなければ、彼は普通の姿に見えただろう。彼の瞳は暗い茶色から輝く山吹色から鈍い藤色と瞬く間に色を変えていた。そして、瞬く間に色を変えながらも、その目は昏く生気を伝えることはなかった。

少年は警官たちへ笑みを向けた。

ユーダイが喋り始めた。「あの、とりあ――」

少年が軽く手を振ると、ユーダイは後ろ向きに弾かれ、巡査は壁に打ち付けられた。巡査はどさりと地面に倒れた。

室内の警官たちは先ほどまで死んでいた若者に発砲し始めた。弾丸は空中で止まり、回転を遅め、やがて床へと転がった。少年は再び笑い、腕を上げた。

警官たちは痙攣と身悶えをしながら空中へ浮かび上がった。少年の手振りに合わせて彼らの胸は外へ破裂し、部屋に血と血のにわか雨を降らせた。タナカの横たわる床に巡査も転がり、刑事を見ると恐怖で目を見開いた。

カツオはピストルを抜き少年へ向けて撃った。弾丸は空中で止まり、役を果たすことなく地面へと転がった。少年は無防備な刑事に頭を向けた。

「僕が下に降りるまで少しばかり時間を稼げたようだな。楽しいだろ?」少年は目に見えて身震いをしており、顔には歯の剥き出た狂気の笑みを浮かべていた。

少年は腕を出して倒れた刑事を指さした。

突然、圧倒的な圧力の波がカツオの頭蓋骨を打ち付け始めた。それはあたかも象が彼の頭にのしかかっているような感覚で、強くなる一方だった。刑事は叫び始めた。

「頭が弾けたらどうなっちゃうと思う?」少年はカツオに目をやった。「きっと面白いと思うよ」

抑えきれない笑い。

タナカは頭を抱え、体を丸めて叫んだ。圧力がのしかかってくるのが感じられた。限界点を超え、激しく打ち付けるような音が聞こえた。

すると圧力が消え去った。

タナカが顔を上げると、少年は地面に倒れ、頭の残骸から床に血の池を広げていた。部屋の向かいでは、ユーダイが銃を構えたまま立っていた。

カツオは後ろに倒れ、息を吐いた。強く目を閉じると、脈打つような痛みがまだ頭蓋骨を通るのが感じられた。しばらくして、痛みもまだ残る中、彼は立ち上がった。

ゆっくりと、刑事はコートのポケットから小さなリモコンを取り出した。タナカはボタンを押すとマイクに向かって言った。「異常存在の出現を確認。掃除のチームを要請する」


「司令官! 大分県で有害な異常存在が報告されました!」不安を抱えた若い研修生が駆け込んで叫ぶと、イワタ・ミノリはオフィス中に通るように活発に怒鳴った。

「収容班こ-3を展開。清掃班も控えさせて」彼女は答え、彼を退けた。

「了解しました!」オフィスの職員は慌てて動き始めた。

イワタはため息をついた。これは彼女ではなく、各県に配置された指揮官の裁量でやるべき事であった。彼女は首を振りながら、下級職員を危うく打ち倒しそうになりながらオフィス中を練り歩いた。

異常存在の出現が報告された地域にピンの刺された巨大な九州の地図の貼られた掲示板の前を彼女は通り過ぎた。作業員や研究者そして守衛はみな日本最大級のサイトの中のあちこちを忙しなく行き交った。

そしてイワタは大きな会議室にたどり着き、室内に押し入っていった。中では日本地域の各収容班、地域活動集団、そして機動部隊の代表者たちが揃っており、話し合っていた。イワタの姿を目にすると、すぐに全員が話を止めた。

イワタは素早く着席した。彼女の前には「イワタ・ミノリ、九州地域収容活動司令官」と記された小奇麗なプラカードが置かれていた。

彼女は咳払いをした。「遅刻したことをお詫びします。少し立てこんでおりました。この緊急会合にご足労いただき感謝します。始めましょう」

イワタは起立し、電子プレゼンテーションを起動した。そして部屋の前側へと進んでいった。

「今月初頭、福岡県内にて現実歪曲事件の報告がありました。我々は他と同様にその事件に対処し、それで終わったと思っていました。しかしながら、同じ福岡にて同様の事件が再び発生しました。そしてまた一件と、また一件と続いていったのです」

彼女は立ち止まり、聴衆のほうを向いた。

「多くの地域では、年に多くとも二回程度しか現実歪曲事件を経験しませんでした。福岡県では月に五回です。しかし、今まで発生する理由も、関連性さえも見つけられなかったこれらに対して、我々はとうとう最新の事件においてすべてを繋ぐものを見つけ出したのです」

「昨日、現場エージェントのタナカ・カツオとシバタ・ユーダイがその事件の渦中にいました。五名の市民、そして四名の警官が死亡しました。しかし、彼らはとうとう尋問において突破口を開いたのです」

「事件の対象人物の友人によると、対象は数週間にわたって薬物を入手していました。おそらく、その薬物、『スピリットダスト』と呼ばれる緑の粉末は使用者に対して一時的に特異な能力を与えるものと推定されます。薬物の供給者? 堂仁会という、福岡に本部を構えるヤクザです」

鋭く息を呑む音が聴衆から聞こえてきた。ヤクザは日本において組織的犯罪を引き起こす主要な勢力である。堂仁会は旧態を脱し薬物の不正取引を活発に行っていることで知られている。他の組と同じく、彼らは無慈悲で、巧みで、極めて危険である。

イワタ・ミノリはボタンを押してプレゼンテーションを終わらせると聴衆の方を向き、「129022」と大きくスタンプの押された職員関係書類を取り出した。

「堂仁会には我々のエージェントが潜り込んでいます。彼の名はコガ・ナオキです」


コガ・ナオキは街を散策していた。彼は襟が高くシワの無いビジネススーツに身を包んでいた。通りを歩けば、大勢の人は彼をただの体格の良い若者として見た。この土地に詳しい者は努めて目を合わせないようにするか、できるだけ彼の通り道から離れようとした。

コガはポケットに手をつっこみ、平然としていた。彼は自分から隠れようとする人の波には気付いていないようだった。もし敢えて彼に目を向ければ、おそらくなんだか才気溢れて深みのある色男が目に入るだろう。もっとも、これは本人の求めるような人格では全くないのだが。

彼は横断歩道に着いた。彼方と此方に目を向け、彼は小さなコンビニに向かって歩道を渡っていった。そして後ろで結んだ髪を静かに伸ばしながら、ブラブラと中へ入っていった。

店員が彼に目をやった。ナオキの無表情な顔を見ると、店員は顔を青くし深々と頭を下げた。コガは小さく会釈を返し、脇を通って店の奥へと入っていった。彼は店の者の休憩室になっているバックルームに入っていった。

少しの歓迎や挨拶がコガに投げかけられ、コガもそれに応えた。コガが休憩室の奥に進むと、リクライニングチェアに腰掛け本を読んでいる男がいた。

「こんにちは、ヨシダさん」コガはそう言い、頭を下げた。

「おい敬語はよせよナオキ。俺ら友達だろう?」サトルの顔は満面の笑みを浮かべていた。彼はメガネを上げ、少し汗の付いた顔を見せた。

「んで、お前さんみたいな大物がこんなチンケな場所に何の用だ?」

「ちょっと尋ねたいことがあってな。『スピリットダスト』ってのを聞いたことはないか?」

ヨシダの顔は凍りついたが、すぐに前のような軽薄な笑顔を取り戻した。「ああ、それがどうかしたのか?」

「知ってることを話してくれないか? オレ達の支部も知りたがってるんだ」とヨシダの目を静かに見ながらナオキは言った。

「わかった。いやなあ、こいつは新しく料理されたブツで、あっという間に売れやがるんだよ。こっちだ」

ヨシダは積み上げられた箱の方に歩き、ナオキも近くに来るよう促した。売人が箱を開けると、小さな紙包が山積みにされていた。彼が紙包を少し振ると、ナオキには中の粉がサラサラと音を出すのが聞こえた。

「こいつだよ。一本いくらかって? 一万一千円だ」

ナオキは口笛を吹いた。「高えな。どんな物なんだ」

ヨシダは肩をすくめた。「こいつは触ったことがない。聞くところ、だいたいの奴はヘロインと一緒に打つそうだ」体重過剰の禿げ男が身を寄せてきた。

「どうやら、こいつは……魔法の力を与えるらしい」

コガは笑って頭をのけぞらせた。「ふざけんな、ヨシダ。冗談きついぞ」

ヨシダは顔をしかめ、シャツから小さなお守りを取り出した。「分かんないやつだな。お前も他の奴と同じで、信心が無え」

「神とか魂とかを信じるのは子供の頃に辞めたんでな」

「とにかく、それがこの薬の噂だ。俺は知らん。ただ売るだけ」

ナオキはうなづいた。頭を下げ、部屋にいるほかのヤクザに別れを告げると、彼はコンビニを去っていった。そして頭を低くし、平坦なスマートフォンを取り出し、素早く文を打ち込んだ。

「129022。追跡中の異常存在を確認」

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