駅員の憂鬱

 

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 男は数分の間、血管のように張り巡らされた複雑怪奇な路線図を見つめていた。感情の剥がれ落ちた顔は、経年劣化というだけでは説明がつかないほど疲弊した様相を示している。やがて、無意識に左頬を撫でる癖が始まると、彼は思い出したように次の駅までの切符を買った。
 駅はほとんど無人だった。平日の午前中に、この路線を使う人間といえばたいていは年寄りで、男は自分もまた老境に差し掛かりつつあることを自覚している。彼は義務感にも似た直感に従って、左から三番目の改札を抜ける。下り方面の二番ホームには、大体はやさしげな色調のポスターがいろいろと貼ってあった。
 しかしそんなものは男の視界には入らず、いまや彼の情調は世界のほとんどに対して興味と関心を失っていた。今度の通過電車が来るのは三分後。それが彼に残されたこの世との惜別の時間だった。
 線路に配置された黄色いパトランプが──人生の幕引きに際した景気づけとでも言うように──回転を始める。駅の手前の踏切が警告音を鳴らし、やがて線路へ車両の放つ不規則な振動を伝えてくる。男はあまりにも無自覚に、ともすればこのまま電車を見送るのではないかと心配されるほどに、その様子をただ傍観していた。
 黄色い車体が姿を現す。彼を迎えにやってきたあの世行きの列車は、スピードをほんの少しずつ緩めながらホームへ進入してくる。黄色い線を踏み越えている彼に警笛を鳴らしながら、列車が近づく。ことここにいたるまで半ば他人事のように行為を進めてきた彼は、ようやく自らの意思で目的を成す必要に迫られた。
 一歩を、踏み出せばいい。まるでホームが続いているかのように、そこに唯一の安息があるとでもいうように。そう、一歩を──!
 左足が黄色のタイルを離れ、美しい運動曲線を描いて──彼の体を後方へ転倒させた。
 やがて、待ち構えていたかのように駅員が二人やって来る。足に力の入らなくなってしまった彼を抱え上げ、彼の質問に一切答えることなく駅員室とは別のドアを開く。そこは殺風景な六畳間で、中央に机と何らかの書類一式が置かれている。
「あなたは自殺を図った」
 二人の駅員のうち老けた方が、男を座らせるとすぐに話を始めた。有無を言わさぬその口調に少し怯えつつ、男は無言のうちにうなずきでもってそれに答える。いやに短い鎖でつながれたボールペンを抜いた老けた駅員は、それを男に持たせる。
「どうせ死ぬなら、わたしたちに協力していただけませんか」
「な、なんなんだ……あんたら……」
「ここにサインを」
 書類の束から一枚を取り出すと、老けた駅員は身を乗り出して名前を書く欄を示した。後ろでその様子を見守っていた若い駅員は、急に机の横にやってくると目で合図を送る。すると老けた駅員は急に姿勢を元に戻して、ため息をついた。
「名前を書くだけで結構です。印鑑は必要ありません」
「……説明してくれよ」
「サインをしたらしますよ」
「うそだ、生きたまま内臓でも売っ払うってのか」
「わたしたちは犯罪組織ではありません」
 それまで黙っていた若い駅員が、急に机に手を置いた。急な動きに驚いたのは、男だけではなかった。老けた駅員もふと顔を上げ、若い駅員の無表情に不満そうな視線で抗議した。それを見て見ぬ振りをして、若い駅員は言う。
「あなたはここで死ぬことができなかった。もう一度やっても、絶対に同じ結果に終わります。外に出てもう一度やりますか? ここにサインしてもらえれば、いつでもあなたは死ねるようになる」
「鉄砲玉にしようってのか知らないけどな、おれは余命三ヶ月なんだ」
 自棄的にペンを投げ出した男は、勝ち誇ったというには程遠い笑顔を若い駅員へと向けた。無表情をあくまで維持し続ける若い駅員は、投げ出されたペンを拾い上げた。
「三ヶ月、結構です。なんなら一ヶ月だけでもいいんです。──大丈夫。わたしたちはあなたが想像しているような組織じゃありませんよ」
「信用できねえ」
「何ならもう一度飛べるか試してきてからでも結構です。でもきっとできないでしょう」
 どうしてこの駅員にそんな自信があるのかが、男にはわからなかった。だが、あの飛翔に失敗した瞬間を思い返すと、この怪しい駅員たちの話にも多少の真実味があった。男は間違いなく自殺に成功したと確信していた──左足がタイルを離れたその瞬間までは。
「金は出るのか」
「報酬ですか? 働きによっては。でも心配は要りません。衣食住をこちらで提供します」
「外と連絡は」
「できません。仕事内容によっては外に出ることもあります」
 老けた駅員はぶすっとした表情のままでいたが、徐々に男が乗り気であるような様子を見せると、余計に複雑そうな顔つきに変わっていった。当の男は徐々に彼らの言うあやしい仕事の内容について興味を持ち始めていた。
「やめたくなったらいつでも足を洗えるのか」
「足を洗うだなんて。なにも違法なことはしません」
「いいから、やめられるのか」
「では、まず一月だけの契約ということにしましょう」
 男は、細かい文字で書かれた契約書を読み始める。上から順に文字を読んでいくと、一瞬、視界がゆがんだかのような感覚にとらわれた。急に文字がまともに読めなくなった男は、次のページをめくる。またしても脳梁を灼き切らんという文字列が彼を襲い、次、その次、そのまた次──とページをめくり続けていくうちに、やがて諦念かそれに近い情動が彼を支配する。
「……ご協力ありがとうございます。財団はあなたを歓迎し、必ず有効に利用します」
 署名を終えた男に切っ先の光るボールペンを突きつけながら、どちらかの駅員が言った。

 

「おはようございます」
 目の下に大きいクマを作っている高田は、のんきに出勤してきた三歳年下のエージェントを一瞥すると、首をあらぬほうへ向ける。
「よくもまあ、こう毎朝やってられるな。"先輩"」
「仕事ですから」
 もう何度目かのやり取りに、年下の先輩は少しの微笑もなく短く答える。
 自分よりも三つも若いくせに、私情と仕事を隔てることに長けている先輩エージェントの馬場は、素早く駅員の制服を着込むと事務所を出て行った。
 自分と同じように斯様な汚れ仕事を請け負っていながら、馬場がどうして5時間きちっと寝て出勤してこれるのかが、高田にとっては不思議でならない。単に勤続年数だけではなく、気質的かつ器質的な問題が彼と自分との間に横たわっている。近頃高田はそう考えるようになっていたが、まだここに配属されて一ヶ月では、結論にしても性急過ぎるというものだった。
 以前、"初仕事"を終えた日、高田は馬場をさしで酒の席へ誘ったことがある。
 財団フロント企業傘下の店舗のうちのいくつかは、職員からのみ予約を受け付けるというような、事実上"専用の店"も存在する。理由は単純で、職員に対する情報収集を防ぐためだ。
「……ぼくはそういう人間ですから」
 なんらかの断定的な表現を避けるような、歯切れの悪い婉曲さ。酒が入った馬場はいつもより口数が増えていたはずだが、己のこととなると戒律的に口をつぐむ。
「自殺するような手合いはたいてい子供か、あるいは働き盛り、もしくは負債を負った経営者や投資家なんかです。市場に動きがあった次の日は忙しい」
 無表情にそんなことが言える彼を、高田は尊敬もしていた反面軽蔑もしていた。人間性を切り売りしてまで、この仕事に意義を見出すことはそういう人間でない高田には難しい話だった。
「お前よ、おれみたいに懲罰人事でここに来たってのなら分かるが、どうして」
「適材適所ということです」
 そう言われれば、なるほどな、とうなずくしかない。馬場のグラスはさっきからほとんど減っていなかった。
「日本に死刑囚がどのぐらいいるかご存知ですか」
 急に馬場は講義のようなものを始め、高田は思わず威儀を正した。邪魔だとでも言いたげに紫色のグラスを脇に置いて、記憶をたどっている後輩の顔を覗き込んでいる。
「たしか……120ちょっとじゃなかったか」
「ご明察です。いかに財団がDクラスを有効利用しても、これは足りない。だからぼくらがやっている」
「自殺者は死刑囚の250倍もいるからな」
 我が意を得たりというようにうなずいてみせる馬場は、周りを見回してから少し声を抑える。
「電車への飛び込みなどまだ楽な方です。首吊りなど日に何件回らなければならないか」
 高田は驚きに身を乗り出す。
「あれ助けられるのか。どうやって」
「大抵は無理です。自殺予告などをしているSNSアカウントなどを探し出して、住所を割り出します。ごくまれに生きているので、それを狙うんです」
「せっかく生き延びても、な」
 ひときわ大きなため息をついた若手の先輩は、ふと腕時計に目を落とす。すでに日付が変わろうとしている。
「これで納得がいきましたか」
「今日のところはそういうことにしておいてやるよ」
 高田は食い下がる馬場を抑えて会計を済ませると、
「貸しだからな」
「じゃあ、次はぼくが出します」
「次?」
「どっちかが辞める日です」
「縁起でもねえ」

 

 毎朝自殺する人間の挙動を掣肘するでもなく、そのまま飛び降りる神経があるかどうかを見定める。自殺志願者が迷わないように、駅構内に張り巡らされたミームは特定の場所へと誘う。床に点々とミーメティックな効用を持つフェロモンを落としていくのは、経験豊富な先輩の役割だった。
 そして列車がやってくる。飛び降りポイントには、脳へ影響する特定の周波数の音が指向的にセッティングされていて、飛び降り動作をしようとした人間は必ずその場にへたり込んで動けなくなる。
 高田はその光景を見るたびに祈った。どうか、そのまま回れ右をして帰れ。
 たいてい、この駅に来るような人間はやめずに死のうとし──へなへな、と失敗する。
 そうなると、そこからはエージェントたちの仕事だ。へたり込んだ志願者を別室へ連れて行き、自殺の意思を確認すると書類へのサインを強要する。志願者の中には、自分が動けなくなったことを怖気づいたと勘違いして、帰らせてほしいと懇願する者もいる。だが、あの場所でへたり込んだ人間は、捨ておけばそのまま死んでいたはずの人間たちに他ならない。
 率直なことを言えば、部屋に入った時点で、書類上──これは法的という意味でもある──彼ら自殺志願者は、もう志願者ではなくなっている。自殺者、別の言い方をすれば、Dクラス予備職員候補。
 飛び降りようとしたその寸前、彼らの肉体はホームの上にとどまった。だが、彼ら自身の基本的人権は電車に轢かれて粉々になったのだ。そうして、エージェントたちは事務的に"自殺者"を護送車へ詰めて毎日送り出す。
「前、自分の先輩から聞いた話なんですが」
 そのとき馬場は、薄い表情をかすかに笑顔に変えたように見えた。
「おれたちは、自殺志願の人を殺してるわけじゃないんです。ただ、その人の死因を、飛び込み自殺からほかのやり方に変えているだけだ、と」
 鼻持ちならない台詞だと初め高田は思っていたはずだが、仕事を始めて一月たった今の自身には必要不可欠なものになっている。

 

 馬場は自分の仕事について、一言も文句や愚痴を言うことはなかった。自殺者を目の前で見守り続け、詐欺同然にDクラス雇用契約を結ばせる。いかに財団の仕事が汚れているからといって、これほど不愉快な業務はなかなか存在しない。
「また来ましたよ。行きましょう」
「……ああ」
 監視カメラ映像を見つめたまま、馬場が言う。自殺ルートに乗った人間が、今にも線路内に飛び込もうとしている。高田が一瞬だけ画面から目を離した隙に、もう倒れ込んでいた。馬場はすっくと席を立ち、早歩きに行ってしまう。対して高田は大儀そうに立ち上がり、できるだけ職務の遂行をしたくないというように遅く歩く。
 高田はまだ研修期間の身だった。元はフィールドエージェントだったが、命令無視や諸々の懲戒対象事由が重なり、懲罰的な人事異動によってここへ送られてきた。
 この機械みたいな男と自分は違うのだ──高田はそう割り切って、年下の先輩のあとをついて行く。
 監視カメラの画質が悪すぎたのだろう。最低限人間がいるかどうかが分かるのみのカメラでは、飛び込もうとしている人間の人となりまでは判別できない。
 ホームへ降り立った彼らは、不意に立ち止まる。
「……おい」新人の駅員は、信じられないといった様子でその場に立ち尽くす。「子供じゃねえか」
 飛び込みポイントでへたり込んでいたのは、黒いランドセルを背負った少年だった。ランドセルはまだ真新しいようにも見え、高田は胸の奥が凍りつくような感覚にとらわれる。
「何してるんですか高田さん。ほら、連れて行かないと」
 馬場はランドセルを呆然としている後輩に預け、軽々と抱き上げた。少年は不気味なほど無反応で、馬場に体を預けてしまっている。
 このガキは死のうとしたのだ、と高田はその様子を見て思い知らされる。飛び込もうとしない限り、あの音波に運動制御を奪われることはない。
「おい……」ランドセルを担ぎながら、高田は問う。「その子をどうする気だ」
「まず部屋に運びましょう」
「どうする気だって聞いてんだよ」
「高田さん。これは研修です。こういう時にどうすればいいかということも教えますから、今は指示を順守してください」
 それ以上聞いてくれるなというように、馬場は早足に"別室"のドアを開く。少しかび臭い六畳間には、例の机と書類が安置されている。血管が破裂するのではないかというほど拍動が速まり、高田は少年を座らせる悪魔を睨んだ。
「名前は──」
「馬場!」
 少年が身体をこわばらせ、不安そうに高田を見上げた。うるさげなエージェントからの非難の視線は、まるでこの場の悪役が高田であるかのようだった。
「馬場、お前その子をどうするつもりだ」
「なにか勘違いをしていませんか、高田さん」
「勘違いなんてしてねえよ。お前が血の通ってる人間かどうか確かめてるだけだ」
 馬場は眉だけを動かして、語気を強める高田の危惧に対する答えとする。
「きみは家へ帰れる。ご両親の名前は」
 後ろで驚きを露わにしている後輩を置いて、馬場は淡々と事務処理を進めていく。小学生の家族を照会すると、高田は電話をかけるよう指示を受けた。
「その……なんていうか」
 口ごもる壮年の元エージェントのプライドは、あくまでも先輩におもねるような言い方を許さなかった。無表情な馬場は受話器を置くと、「気にしていません」とだけ告げる。
「倫理委員会決議に、日本において16歳以下の少年をDクラス雇用する旨を禁じるというものがあります」
 いつもの馬場だった。意図的に人の心情というものを無視して、無機質な話題へ振り向ける。彼なりにこの一件を許そうということなのだと解釈した高田は、少しだけ笑顔を見せて、あとは反省に時間を費やすことにした。
「しかし」うつむいていた高田は、自分から話を始めた馬場に驚いて顔を上げる。「高田さん、あなたは正しい」
「なあ、埋め合わせといっちゃ何だが」
 ぎこちない笑みの意味を、馬場は理解しかねた。財布から居酒屋の割引クーポンを取り出してきたとき、若い先輩はようやくその理由を悟る。高田の照れくさそうな表情を見て、無碍に断ることに良心が納得を示さないだろう。

「わかりました」

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 図らずも二度目の酒席が設けられたが、前回と同じく今回も高田が一方的に話す状態に終始した。高田は始めこそ馬場に気を遣って静かに飲んでいたが、酒が回り始めると徐々に大胆さを取り戻していった。馬場は依然として水と酒を等量ずつ飲みながら、真っ白い顔で話に耳を傾け続けている。
「お前がなんでこんな"駅"で"調達係"なんてやってるのか知らないけどな」
 それを枕詞にして、彼は次々と自分の過去の遍歴を先輩へ向かって語る。
「おれは少し前まで"営業職"だったんだ。細かいことはみんな、忘れさせられたんだけどな」
 高田がもう何度か話している話題にも、馬場は機械的にうなずいている。
「今日、おれがお前についつっかかって行ったのは、そのせいなんだと思う」
 やっぱりそのときもガキだった、と高田が言ったのを馬場は聞き逃さない。グラスを持ち上げていた手を止め、高田に話の続きを促した。珍しく興味ありげな反応を示した若手に気をよくした高田は、必死に継ぎ接ぎだらけの記憶をたどり始める。
「あれは……三年前だったかな、いや、二年前だったかも。とにかく、おれがまだ営業1をやっていた時分のことだ、そんなに古い話じゃない。そのとき、どこかの取引先2のお得意様3を追ってたんだが、トレースをやってた事務所4連中がミスりやがったんだ。
 おかげで"お得意様"には逃げられてよ、手がかりが一切なくなった。とんでもないことをしでかしてくれたと思ったよ、これじゃ全員クビ切りじゃないのかって。だがな、しばらくすると"事務所"が新しい情報線・兼・デコイだって寄越してきたものがあったんだ。──まだ七歳のガキだった」
「七歳の子供を雇用するのは、倫理規定に違反するのでは」
「ん? ああ、"事務所"のやつは外部協力者に年齢制限はどうこうなんて言ってたかな……」
「なるほど」
 馬場のグラスを傾ける手は止まっていた。それが水の入ったものなのか、焼酎の入ったものなのかは判然としない。高田は様子のおかしい同僚を見て不審がったが、それでも少しすれば元の調子を思い出したように飲み始める。
「……覚えている限り、あのガキはお得意様の家の息子の一人だった。どうやらその子から情報を引き出して、あわよくば両親をあぶりだす餌にするつもりだったらしい。おれは反対したんだ、一介の平社員の分際で。もちろん"事務所"は突っぱねたし、"社外監査5"の許可は得てるの一点張りだった。信じられるか? 連中の仕事は中身を読まずに申請書へ判子を押すことなんだ。
 ……よく覚えていないが、その後おれは営業の仕事をやめることになった。案件の成否は知らない。きっとうまく行ったんだろうよ、"事務所"はそこまで馬鹿の集まりじゃない」
「その子は賢い子でしたか」
 話の流れを読んでいるようで微妙に読めていない、そんな質問を馬場は発した。高田はきれいさっぱり洗い流されている脳みそをさらいながら、大真面目にその質問について検討し始める。
「思い出せない。けど、"事務所"の連中はそんな風にも言っていたような気がする」
「そうですか。なぜ、高田さんは逆らったんです?」
「そりゃあお前、いくら"社外"の連中に認められてるからって、ガキをおとりに使うなんざ会社6のすることじゃないだろう」
 なるほど、と馬場はグラスを机の上に置いた。その顔はなぜか上気していて、高田は馬場が水を飲み忘れているという事実に気がついた。
「あのガキはどうなるんだろうな」
「ちゃんと親元へ送り返すと言っていましたよ」
「それなら安心だ。──悪かったな、あんな大声なんか出して」
「いえ……」
 馬場は小さく笑った。
 翌朝、高田はその顔をよく覚えていなかったが、なんとなくそれが不気味に映っていたことだけは思い出すことができた。

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 研修の最後の日。馬場は出勤してこなかった。
「あいつ、どうした」
 頭の中に原子時計が入っているのだと噂されていた馬場が、出勤時間に遅れるなど異常事態も異常事態だった。
「改めて思うけどよ、エージェント・馬場あいつも人間だったんだな」
 そんな暴言で同僚から笑いを取った高田は、しかしどこかで心寒さを感じていた。
 昼を過ぎたころ、馬場は急に駅に現れた。いつもと変わらない私服を着て、いつもどおりの様子で歩いている。だがひとつだけ、普段と違う点があった。彼は関係者入り口を素通りして、改札を──左から三番目の改札を──通り抜ける。それを偶然の産物とするには、高田はあまりに死を間近に感じすぎていた。
「誰かやつを──」
 モニター前の席を蹴って、高田は走り出す。今朝は高田が落とした誘導フェロモンにしたがって、馬場は悠然と歩いていく。その姿はまるでエスコートを受ける淑女のそれのように予定調和的なもので、とても死を前にした人間が取るものではない。
「馬場──馬場! お前!」
 電車はすでに、駅の前の踏み切りへと差し掛かっている。飛び込みポイントへあと数歩に迫った馬場は、舞台に立つ俳優のような堂々さで歩みを続ける。無様に脚本へ乱入しつつある高田は、振り返った馬場の笑顔を見て背筋に氷の矢を受けた。あの顔は死にに行く人間の顔ではない。
「待てっ」
 電車がやってくる。黄色い線から離れるようにアナウンスが入り、馬場はすでに完全に準備を整えていた。高田がその場に追いつくまでにあと十歩を要していたが、そのわずかな差は生と死の間に横たわる決定的な溝渠としては十分だった。
 やがて、馬場は左足を踏み込んで飛ぶ。高田の設置したスピーカーは問題なくその務めを果たし、馬場の身体はその場に崩れ落ちた。

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「こんな日が来るなんてな」
 本来研修の終わりを告げていたはずの教官が、六畳間の真ん中に座らされている。
「ぼくにとっては、待ち望んでいた瞬間でした」
 高田の前で馬場が自らに言及するのは、これが初めてのことだった。あるいはそうでもなかったかもしれないが、今の高田にとってはそんなことは些事にすぎない。
「なぜあんな真似を」
「死にたかったからです。ただ、死ぬぐらいならあなたがたの役に立ちたかった」
 予想通りも、ここまでくれば人を白けさせるに足る。元"営業"の高田は、自らを叱咤して目の前の不遜な自殺志願者から事情を聴取しようと試みる。
「残念だが、お前があの場で倒れたとしてもそのままDクラス雇用とは行かん」
「結構です」
「記憶処理をして、またここに戻されるか、あるいはもっとひどい場所に移されるか」
「なんでもいい。今のぼくじゃなくなるならそれでも十分です」
「質問に答えろ」
 卓上のスタンドライトで馬場の顔を照らすと、余計にその笑みが不気味に浮かび上がるだけだった。うんざりしていることを隠そうともせずに、高田は狂人と成り果てた先輩を見下ろす。
「あのガキのことか? ひょっとしてなにかあったのか」
「いえ、あの少年はきちんと親元へ帰されるでしょう」
「じゃあ、なんだ───」
「二年前、」馬場は堰を切ったように、突然口を大きく開いた。そして血走った目で後輩を見上げる。「あの少年を"調達"したのはぼくでした」
「なに……」
 思いもがけない言葉が、今馬場の規則的な唇の動きに従ってつむぎだされている。二、三歩後ずさりをして高田はもう一度その言葉を繰り返した。
「二年前、ぼくはこの駅に配属されて間もなかった。駅員からエージェント雇用を受けたぼくは、ちょうど今の高田さんのようにD予備の調達を任されていたのです。あんなに心をおかしくする仕事はない。誘拐と詐欺と殺人をいっぺんにやっているようなものだ。……それまでだって、時折学生を扱うことだってあった。でもその日やってきたのは、まだぴかぴかのランドセルを背負った少年だったんです。
 もちろんいつもどおり、彼を親元へ帰せるとぼくは確信していました。高田さんがあんなに騒いだとき、ぼくはとても不思議だった。でも、今ならわかります。高田さんはあの彼を知っていたのだから。あんな反応をするのは当たり前です。そして忘れているようですが、あの彼──その最期も、あなたは知っていた」
 最期、と無意義に反芻した高田を置いて、馬場は語調に熱をこめてなおも語り続ける。
「彼を止めずに、あの時電車に轢かれさせていれば。あの少年が、実の親に殺されるようなことはなかったはずです。どのみちぼくは罪を負うべき存在だった。子供を自殺から救っておきながら、子供が親に殺される要因を作ったのもぼくだ」
「どうしてお前が、今まで精神疾患検査にかからなかったのかが不思議だよ」
 高田の精一杯の皮肉では、狂気へと変身を遂げた悔恨へ対抗するのはいささか難しい。もはや馬場を止めうるものはなく、二年のうちに滞留していたものは無法に決壊していた。
「器質的なものでしょう。ぼくは別に、あの少年や親に同情しているわけではないのですから」
 ただただ、個人的な事情が彼をここまで駆り立てた。そう結論付けてよいものか、調書を取る高田は迷っていた。今自分が聞いている話は、間接的ながらセキュリティ・クリアランスに抵触する事実に他ならなかった。
 馬場は胸ポケットからある紙片を取り出した。それは皺の寄ったメモ書きで、狂人はそれを高田の方へ差し出す。
「当時のぼくはこのことを忘れまいと誓っていたようです」
 古くなったメモ書きには、彼の言ったことそのままの内容が事細かに記されている。偏執的なほど細かな内容は、しかし彼の筆跡に間違いない。
「この内容を信じたのか」
「あなたの話を聞いて、ますます真実なのだと思いました」
「……お前はもっと機械みたいなやつだと思っていた」
「人間は機械ですよ」
 話をどこへ持っていっても、きっと馬場から許しを乞う言葉を聞くことはできない。淡々としたいつもの表情へ戻っていく男を観察しながら、そのように高田は結論付けた。
「これはおれへの呪いなのか」
「そうなってしまったことを謝罪します。人に死を強要してきた者は、やがて自らをもその範疇に入れるのかも」
「……内部保安部門へお前を送る」
 手錠をはめられて、とぼとぼと歩く背中を見送る。高田は幾度も、D予備の人員に対してそうしてきた。あの馬場の後姿が、決して他人事でないということもわかっていた。財団は、奴を最期まで有効に活用するだろう。それを生命に対する責任だと勘違いしているからだ。
 これから別人になりに行く彼は、最後に一度だけ振り返った。
「あとは、お願いします」
 やっぱり呪いなのだと、高田は思った。託しうる人間を見つけた彼は、一足先に死ぬことでその重圧から解放されようというのだ。あの調子では、いずれ馬場はDクラスに落ちても不思議ではない。
 高田は、足もとを走る線路を見下ろした。どうしても彼には、そこに希望や安息があるようには思えなかった。

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