張り詰める東
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実際の所、母親になることについては何も感じていない、と思う。実感を伴って、ただ事実だけが身体にある。それは喜ばしく、また僅かに煩わしくもある。この世界では道理が通らないことを、既に知ってしまっているから。
 
靄がかった思考を振り払って、エージェント・東風浦は完全に目を覚ました。妊娠が発覚してから10日が経過している。そこは寝室で、彼女は庶民染みた下着姿で昼食後の午睡に浸っていたらしい。棚からいくつかそれらしいものを見繕って、取り敢えず窓を開けても困らない程度の服装へ着替える。

黒というより藍に近い衣服を東風浦は好んだが、それは教育の結果なのか、元々の自分の好みなのかは分からない。路傍の石であれと常に言われた。周囲より少しだけ貧しく、謙虚で、かつ明るく振る舞う人間を模倣する癖がついていた。周囲への対応であれ、部屋着のセンスであれ、街を歩く時の姿勢であれ普段は「そう」あろうとした。優越感が最も人間に隙を与えることを東風浦は経験から知っていた。

東風浦は休暇の最中である。

そこら中にあるセーフハウスのうちの一つ、適度に古びたアパートの一室に東風浦は滞在していた。彼女以外誰もいないが、鼻から下を布で覆い隠した。実用性というより安心感を求めて、東風浦は顔を隠す。

唇に当たる布の感触は彼女を外界から庇護するかに思えた。目覚ましを兼ねて、軽く運動をすることを決める。アパートの天井に釘を一本だけ、斜めに打ち込んである。

硬貨を財布から摘み上げるような気軽さを纏って、彼女は指2本で体を天井に繋ぎ止めた。彼女の軸とも言うべき技術の基本としてこれがある。徹底した食事制限を含む訓練の成果は、今日も隅々まで彼女の体に行き渡っている。その細腕には汗の一滴も無い。釘の頭は指に食い込むが、薄い手袋が痛みを防ぐ。通常のエージェントに支給される、各種耐性を持ち合わせながら、物理的にも手を保護するものだ。東風浦はこれを、任務外でもなるべく常用するように努めていた。

日常の一環として鍛錬を積んできた彼女は、同世代のエージェントと経験面で大きな差がある。それはある時は長所として、またある時は短所として機能したが、東風浦はそれについて何も思わなかった。どんな場面であれ思考する前に体は動く。そうなって一人前だと、彼女の家族からは教えられている。単独で仕事を任せられるようになって随分経ち、未熟な時分の苦い経験は現実味を失いながら風化していく。

釘に体重を預けている。血液は徐々に下に溜まっていく。どれだけ腕を鍛え込んでも、血流まで支配下に置ける訳ではない。ぶら下がり続ける行為には、明確な限界が存在する。鈍い痛みが指に蓄えられ始める。だが、まだ限界ではない。限界が迫っているのを感じるが、限界ではない。

東風浦家は血筋には拘らない方であり、子供を持つように強制する暗黙のルールは無い。ただ、東風浦が勝手に、子供が欲しいと思っているように振る舞えば最も不自然でないだろうという推測を持ってしまっていて、それは恐らくは正しかった。平凡に抱かれる願望、もしくは周囲からの平凡な同調圧力により抱かされる願望もどき、それさえも東風浦は再現してみせた。一山いくらの凡人にいつでも成り下がることができる、ということが一種の能力だと認められる世界はそう広くはない。

規定の時間を過ぎたことを感じ、東風浦は親指と人差し指を壁に打ち込んだ五寸釘から離す。膝を使って衝撃は吸収され、室内は無音のままに保たれる。わずかに血液が循環する。

安っぽいチャイムの音がする。いつもならその音は東風浦には少々耳障りに聞こえただろうが、今日は不思議と若干の丸みを帯びているように思えた。天井に打ち込んだものとは別の釘を軽くハンカチで包み、懐に入れて扉へ向かう。

チャイムがもう一度鳴る。チェーンを外してから鍵を開け、取っ手を引く。立っていたのは背が低い、色白の若い男だった。その肌はやたらと弾力がありそうに見え、あちこちが丸い顔は愛嬌と同時にスパイスのような、ほんの僅かな悪意を感じさせた。その悪意はまた彼の魅力を増すように思えた。

那澤なごむだった。

「ども」

東風浦は那澤の無造作に投げ出された両手を見てからドアを開ける。那澤は右足をわずかに回し込むようにして入って来た。それが侵入を拒絶された時の対策であり、那澤が無意識にその動きをしてしまうことを東風浦は知っていた。ある種の人がしばしば、その動きに魅了されるのも知っていた。暴力的に自分の存在を欲されることへ、快楽を感じる人々だ。

那澤は首元が露わになったシャツを着ている。ネックレスはしておらず、ピアスも外している。着こなしはどちらかと言えば女に会う時の格好に見えたが、彼ならそのまま男に会っても用事を済ませてしまうだろう、と東風浦は考えた。那澤はおそらくは全く意識せずに、笑みを浮かべながら東風浦の空間に侵入した。その瞬間、狭いアパートは東風浦と那澤の空間に変貌した。

東風浦は数週間前から、那澤の主張とも言うべき急な接近に気付いていた。その接近は着々と、また確実に行われている。それが何を意図するのかは未だに分からない。略奪愛を特別に好む人種が一定数居ることを東風浦は経験から理解していたが、那澤がそうであるとはあまり思えなかった。しかし、思ってみれば那澤は常に東風浦と連絡を保とうとしていた。この職種において人間関係ほど軽いものはない。

東風浦自身は特に那澤を嫌わなかったし、また好いてもいないと思っている。那澤はその才能から、東風浦は経験から好意のすり替えや見せかけには慣れていた。その慣れが任務外での好意の取扱いに支障をきたすことを東風浦は理解している。那澤はどうだろうか。好意を持て余し、行き場のない衝動をどうすることもできずにただ眺める時がこの男にあるだろうか?

那澤は手土産として上等の醤油を東風浦に渡し、祝いの言葉を述べる。東風浦は軽く会釈して感謝を示した。

東風浦と那澤は他人からは仲が良いように見えるが、実際の所は分からない。両者に「仲が良い」という概念が内包されているのかさえ定かではない。少なくとも、東風浦の方はその概念に対する付き合い方を未だ理解しきれずにいた。昔から、彼女の家の人間は  特に女は、自らの精神をルービックキューブのように組み換えることを強いられたという。あらゆる職業における性差は縮まりつつあるが、工作員のそれは女を解放せず、ただ男を女と同じように締め付けるのみである。

那澤はアパートに入ると少しだけ周囲を見回し、悪戯っぽい笑みを崩さないままに椅子へ座り、間もなく東風浦へ妊娠の話題を振った。基本的にそれは祝福と労いを混ぜたものだったが、所々に棘のような、苦味を帯びた何かがあるのを東風浦は感じ取った。

東風浦はテーブルで茶を飲んでいる那澤を眺める。元々アクセサリーに頼るのを良しとはしない彼だったが、腕時計もしていないのは微量の違和感を伴った。視線に気付いたのか、なごむがこちらを見て目だけを微笑ませる。茶菓子をいくつか持ってテーブルへ持って行く。なごむの視線が一瞬東風浦の身体へ揺れたのを感じる。何故か不快でないのは彼の才能か、東風浦自身の心情か。

しばらく、表面上の談笑があった。そして、おそらくは双方が、これが何かの前段階であることを察知していた。菓子を食べる那澤の首筋を見て、茶を飲む自らの手の甲に視線を感じて、場は滑るような違和感に侵食されながら段階が進んでいく。リビングが少し暗くなっていく気さえする。

「東風浦さんて」

那澤が薄い唇を開いて声を発す。茶菓子はもう無い。夕暮れの微睡むような光が室内を暖めながら満たしていく。わずかに身じろぎするが、那澤はその態度を変えてこない。足を組み替える。那澤が意識的にその声色を変えていることに、随分前から気付いている。熱が身体に滲むように広がっていき、自分の輪郭が明確に意識される。微量の汗を肌に感じる。

「実はけっこう冷たいですよね」

調味料を取るかのような自然な仕草で、那澤が東風浦の手の甲に触れる。軽く身を引こうとしたが、何故かできなかった。身体が強張っているのを感じる。鼓動が速くなる。那澤の肌は生娘のように柔らかいが、同時にこちらへも食い込むような、有無を言わせない強引な張りを見せた。熱を持っているのが露見しただろうか、と不安になる。すぐ近くにある那澤の瞳を見つめるのが、とても恐ろしい。

「身体が?」

「心が。なんか、優しく見えるんですけど、そうじゃないっていうか」

なごむの手に、もう一方の手で触れる。引き剥がすのではなく、手を慈しむように動いてしまう。陶器のような美しさと危うさがそこにある。場は転げ落ちるように加速しながら、夕陽に照らされてただそこにある。何故か、カーテンを閉める必要がある気がする。緩慢な動きで脱がされる手袋を見ながらそう思う。

いつの間にか、那澤は側面に回り込んでいる。心臓を中心として、身体がゆっくりと、さらに熱くなっていく。那澤の顔が横から近付くのを感じる。吐息がそこにあるような気がする。訓練で過敏になった感覚が、那澤なごむで満たされてゆく。那澤の唇が薄く開いているのがわかる。

ただ、それだけだった。そこから先はなかった。東風浦は体が熱されるのを感じながらも、脳を冷静に維持することに成功していたし、行動は即座に実行された。それはあくまで正確無比に、何ら無駄がなく完了している。東風浦は徐ろに立ち上がる。


那澤は後退した。しくじった、と思った。状況は最初から自分のものではなかったし、そもそも任務を間違えていた。その事実は、釘に貫かれた頬の痛みが如実に物語っている。

東風浦の妊娠は速やかに財団へ共有され、いくつかの任務計画は変更された。那澤は東風浦が子供を欲しがっているようにはどうしても思えずに、表面を幸福であるかのように取り繕う東風浦を眺める日々を過ごした。その振る舞い、不透明性から二重スパイの疑いがあるとして、東風浦に対する調査任務を受けたのは吉報のすぐ後のことだ。財団職員に対するこの手の任務は初めてだったが、那澤は特別な感情を抱くことはなかった。

東風浦がもし正常な状態であれば、間違いなく釘はもっと上、頭部のどこかに突き刺さっていただろう。、彼女が那澤へ打ち込んだ釘はなかなか取り除けず、喉を刺さないようにしながら痛みに悶えて床へ倒れるのが精一杯だった。階下の部隊が異常を察知して登ってくるまであと何十秒あるか、考えたくもなかった。

立ち上がった東風浦は息を荒くしながらしきりに何かを呟いていた。口元を覆う布のせいで内容はよく聞こえない。既に那澤に関心が無いのか、その視線は微妙にズレた点に縫い止められている。身体の芯さえ傾いでいるように見え、子供の作った人形のように不安定に揺らぐ。

懐の得物が意識の中でその存在を増していく。下手な銃器を持っていくと所作で勘付かれるかもしれないからと司令部から支給された、本当に小さな一発限りのスタンガンである。余りに頼りなかったが、物質的なスイッチの感触は那澤を落ち着かせるには多少の効果を持っていた。那澤はその塊を意識しながら、何より目の前の事象を記憶しようと努めた。

口内に広がる鉄の味、弾けるような痛みのみが那澤を押し留める。舌を冷たい釘の先が裂かないよう注意を払う。呻きとも囁きとも取れぬような東風浦の声が奇妙に室内を支配する。釘は柔らかな頬肉に絡まってまだ那澤にある。

東風浦の瞳が意志を持って動いた。那澤はそれを明確な殺意かと思ったが、どうやら違うようだった。どちらかと言えば、何かを恐れるように瞳を揺らしている。そのまま、東風浦は手を口元へ寄せる。既に布で覆い隠された口元を、更に庇うように手が重なる。嗚咽するかのように喉が鳴っているが、那澤はそれがそんな感情から来るものでないことを、もっと別の現象から知った。

醜い、と感じた。それは那澤が初めて接するタイプの醜さだった。

事前情報による思い込みか、那澤はそれを何故か「子供だ」と思った。もしかしたらそう発声したかもしれない。そう思わされるほど強烈にそれは鼓動しながら東風浦の腹に有り、今なお急速に成長を続けていた。膨れ上がる腹は容易に東風浦の部屋着を持ち上げ、その一部をちらちらと那澤に晒している。伸びたへそが叫んでいるように見える。

那澤はいくらかの妊婦を見たことがあったが、はっきりと胎児が暴れながら成長を続けるのを観察したことはなかった。暴力的な子供の足、そのシルエットが柔らかい皮膚を引き伸ばし、青く血管を浮かせている様子は妊婦の腹のそれでは無い。那澤はフローリングの冷たい感触を頬に受けながら、瞬きを忘れてその膨張を見た。

憶えなければ。憶えて、持ち帰らなければ、と那澤は思考した。東風浦の腹は風船を連想させたが、それにしてはあまりに歪過ぎる形の皺を刻んでいる。

東風浦が口を抑えていたのは、胎児の暴力的な膨張で押し戻される多様な液体を抑えていたのである。今や東風浦はその膨張を抑え切れず、唇の端からは黄土や赤を帯びた粘質な液体が漏れ出していたが、その目は四方八方に揺れながらまだ何かを待っていた。

胎児はいよいよ皮膚の膨張限界を越えようとしている。その影は異様にごつごつとしているように映った。腹が床に落とす影はやけに色濃く見えた。東風浦は既に、意識を失うかのように目を剥いている。胎児はますますもって元気良く暴れる。それは無邪気なようにも、悪意を持って動くようにも見えた。

腐った蜜柑の皮を剥ぐように、東風浦の腹はだらしなく破れた。いくつかの肉の束が床に落ちるのをなごむは眺めた。床の上を多様な体液が流れてくる。東風浦は足を震えさせながらも、ほとんど失神するようにしてまだ立っている。対して、赤子はその足に確固たる意志を持って床に立った。先程落ちた肉の束の1つが赤子だった。

赤子は人というより、獣というより、異形として立っていた。

左右の脚はわずかに異なる長さだった。全身に那澤の爪ほどの長さの黒々とした毛をもち、それでもなおわかるほど分厚い筋肉に覆われていた。足の甲は赤子相応に小さかったが、爪は異様に鋭い。爪先に引っ掛かっているのは東風浦の腹の皮膚だろうか。脚の間には何も無いが、一際毛が濃かった。

腹はでっぷりと肥っていて、首はほとんどない。猿の顔を真正面から叩き潰せばこの子のような顔になるだろう。ただし、目には虹彩の類がなく、黄色く濁っているのみだ。口は横に長く、厚い唇をわずかに開けて歯を見せていた。

腕はかなり短く、かつ最も特徴的だった。腕の先、本来手があるべき場所には1つの小さな穴が空いており、粘液で濡れていた。穴は収縮や膨張といったような目立った動きは見せずにそこにあったが、数秒の間を置いて一本の紐のような肉が出てきた。那澤はいつか見たアリクイの舌を連想した。肉はてらてらと光りながらうねるようにして蠢いた。

赤子は少しの間立っているだけだったが、やがて那澤に向かって歩き出した。那澤は咄嗟に動こうとしたが、突き刺さった釘はそう容易には抜けなかったし、突き刺さったまま逃げることには失敗した。結果として、那澤の頬に刺さった釘は正確に那澤の舌を貫いた。立ち上がろうと試みた那澤はもう一度床に倒れ、悶絶しながら自らへ近づいてくる異形の赤子を見た。赤子は歩く度に東風浦の体液を体から撒き散らし、床を汚した。

赤子は徐々に那澤へ近付く。那澤は両手を使って釘を引き抜こうとしたが、何か表面に細工でもしてあるのか、焦るあまりに手が滑っているのか、行動はほとんど逆効果だった。涙は出ないが、顔から吹き出す汗を明確に感じ取った。粘着質な音を立てて、赤子は那澤へ近付く。那澤は背後の出口へ向かおうと試みる。赤子は不自然なほどに速く歩く。

そして、赤子はそのまま、那澤の顔の横を通り過ぎた。那澤は赤子の臭いを嗅いだが、それはとてつもなく醜悪で、かつ非常に暴力的な魅力をもって那澤へ突き刺さった。那澤は赤子が出口へ向かうのを見ながら、出口の先で赤子を迎える誰かの存在を見た。それは高い身長を持ち、一見すると男のように見えたが、床に倒れているのと、赤子の臭いが目にも刺さっているのとでよく見えなかった。その影はおそろしく速く動いて、赤子を包み込むように抱えて消えた。

東風浦は、そこでようやく真正面から倒れ伏した。硬質な音が鳴ったのは鼻が折れたのだろうか。

那澤は東風浦の手袋を脱がせて確認したダイヤのタトゥーを思い出しながら、残された赤子の臭いで緩やかに嘔吐していた。

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