2020年8月7日 2時00分33秒17 |
国立競技場〈オリンピックスタジアム〉 "新国立競技場" |
国立競技場の駐車場に1台の車が止まっている。その車から一人の男が降りた。男は長い髪の毛を後頭部で纏めていて、無精髭を生やしている。口にくわえていた煙草を地面に落とすと、スニーカーの踵で踏みつけた。
その男、 割橋洋二わりはしようじは深夜のスタジアムの中へと入った。正面から入ったが入場口は開放されていた。スタジアムのナイター照明はおろか、通路の電灯すら点灯していない。割橋はしばらく暗黒の中を進み、競技フィールドの中央付近で止まった。
「誰だ?俺をここに呼んだのは?」
暗黒に向かって叫んだ。闇の中に割橋の声の残響が溶けていった。
「……ふふふ」
背後から笑い声が聞こえた。その直後、フィールド上の全ての照明が一斉に点灯した。あまりの眩しさに、割橋は思わず目を瞑った。
「待ってたぜ…割橋洋二……」
割橋が振り向くと、そこには小太りの男がいた。目が離れていて小さな口が突き出ている。一言で言えば魚顔の醜い男だ。
「本当は豊洲死場で会いたかったんだがな。この前の一件であそこは壊滅しちまったからしょうがなくここに呼んだんだ」
男はわざとらしく残念そうなジェスチャーをして見せた。
「なんだ?俺のファンなのか?そこまで有名になった覚えはないが」
割橋はシニカルに笑って見せた。だが、その目はじっと魚顔の男を睨みつけていた。
「いや。アンタは有名人だよ。俺ら闇寿司の中じゃ知らない奴の方が珍しいね」
魚顔の男は大きく深呼吸をし、それから静かに言った。
「割橋洋二。俺はアンタと戦いたい。」
その声は、痺れるような異様な緊張感を孕んでいる。
「見せてくれよ。アンタの"テトロドラグーン"を」
男が言い終えると、割橋はゆっくりとポケットから一貫の寿司を取りだした。薄らと桃色がかった白い肉質。その色と形は、それが魚類の臓器であることを示していた。艶やかに輝く純白のシャリと鮮度の良い柔らかな肉質には、並大抵ではない高級感と品格が漂っている。その寿司を見た男はやや興奮気味に目を見開いた。
「フグの肝だ!やはり"不敗の割橋"は本物だったって訳か」
フグの肝と卵巣にはテトロドトキシンという毒が存在する。テトロドトキシンはビブリオ属やシュードモナス属などの一部の真正細菌によって生産されるアルカロイド系毒物で致死性の極めて強い毒物である。いわゆる神経毒で、神経細胞や筋繊維の細胞膜に作用することで細胞膜に存在する電位依存性ナトリウムチャネルを抑制し麻痺を引き起こすのだ。一度体内に入れば解毒は不可能。痺れ、運動麻痺や知覚麻痺を経て意識を喪失し呼吸停止に至る。
スシブレードは原則として敗北者は自らの寿司を喰らわなければならない。つまりこの寿司を使う以上、敗北は許されない。テトロドラグーンを使う割橋にとって、敗北は即ち死を意味するのだ。だが割橋は愛寿司であるテトロドラグーンを15年以上使い続けている。割橋は15年以上、誰にも負けていない。それこそが彼が"不敗の割橋"と呼ばれる所以なのだ。
無論。この寿司の毒は攻撃にも利用出来る。敵ブレーダーに直接テトロドラグーンで攻撃を仕掛ければ、傷口から浸潤するテトロドトキシンで相手を殺害する事など造作もない。だが、それは邪道の手段だ。スシブレードのルールを破り、対人にスシを使うということは闇寿司に手を染めた事と同義だ。フグの肝の握りは、闇寿司でこそ本来の力を発揮出来る寿司なのだ。だが、割橋は過去15年間たったの一度もテトロドラグーンを対人に使ったことがない。闇に手を染めれば絶大な力を利用出来る。割橋はその強力な力の誘惑を正道を貫く信念で克服したのだ。
闇に手を染めねば本来の力は得られず、だからといって敗北は許されない。このある種の自己矛盾と背水の陣こそが、割橋を"不敗の割橋"たらしめているのだ。
割橋はフンと鼻を鳴らし、テトロドラグーンを掴んだ手を前に突き出した。
「俺と戦いたいんだろ?見せてみろよ。お前の寿司を」
割橋からは覇気とも言うべき尋常ならざる気高さが溢れている。後ろで結んだ長い髪の毛と無精髭も相まって、その姿はさながら合戦に臨む武士のようですらある。
「いいさ見せてやるよ……見て驚くなよ……」
魚顔の男は醜い顔を一層歪め、懐から一貫の寿司を取りだした。その寿司の姿は何故か割橋のテトロドラグーンと似ていた。
いや、それはまさにテトロドラグーンと全く同じである。予想外の自体に割橋も動揺していた。スシブレーダーになって15年。割橋は自分以外にフグの肝の握りを使うスシブレーダーを見た事がなかったのだ。
「驚いただろう?俺もアンタと同じ、フグの肝の握りの使い手だよ。…だがな、俺はアンタと違ってフグの毒は最大限使わせてもらってるよ」
「俺のフグの肝の握りはなァ、もう何十人も毒死させてるんだよ」
「女も、子供も関係ない。俺が殺したいと思ったやつは尽く毒殺だ。こいつで殺せば、原因不明の単なる食中毒だ。誰も、寿司で人間を殺せるなんて思ってやしないからバレることもない」
割橋は歯を噛み締め、相手を睨んだまま怒りに顔を顰めた。
「貴様…!」
怒気のこもった唸るような声だった。
「毒ってのは何かを殺す為の道具なんだよ。その本来の使い方をしてやらなきゃ、毒も泣いちまうってもんなんだよ」
男は顎を突き上げ、割橋を見下ろすようにして言った。わざと割橋の信念を逆撫でするような事を口にして彼を挑発していたのだ。
「割橋洋二。お前は今日ここで死ぬ。だがそれはお前が自分のテトロドラグーンを食べるからでは無い」
「お前は、俺のフグの肝の握りでじわじわと毒殺されるんだよ」
魚顔の男はまるで子供のようにケタケタと笑っていた。
「……黙れ」
割橋は側頭部に青筋を浮かべながら呟いた。自らの信念を否定し、自らの寿司と同じものを使って伝統的で崇高なスシブレードを穢す邪悪な男。それを前にした割橋の中で、今まで抱いた事がないような凶悪な攻撃欲が膨らんでいた。それはまさに闇が孕む感情、"殺意"だった。魚顔の男が割橋を煽った一連のパフォーマンスの意図はそこにあった。つまりは割橋にテトロドラグーンを"殺害手段"として使わせ、闇に引き込むのだ。もし割橋が敗北して死んだとしても別に問題ない。この男は、単に割橋が絶望に溺れて堕ちていく過程を眺めたいだけなのだ。愉しめるのなら、割橋が死のうが生きようが別にどうでもいいのだ。
「さぁ。試合を始めようか」
魚顔の男はそう言うと割橋の向かい側に立った。両者はゆっくりと割り箸を取り出し、割って寿司を挟んだ。睨みつける割橋に対して男はにやにやとしている。丸く見開かれた目の中には人の堕落を望む悪意に満ちた光が宿っている。
両者の湯呑みが高く振り上げられた。
「3…2…1…」
「へいらっしゃいッ!!」
2つの猛毒が互いの顔めがけて放たれる。同斜線上の寿司は互いに空中で衝突し、競技場の広大なフィールドの上に着地した。両寿司は猛烈な回転を行いながら陸上競技場のフィールドを駆ける。割橋と魚顔の男もまた互いにフィールド上を走り始めた。
「ははは!お前!!今!!俺に向かって"へいらっしゃい"しただろう!?」
「黙れ!」
割橋はそう叫ぶとポケットの中へと手を突っ込んだ。割橋のポケットの中には酢飯とフグの肝の切り身が入っている。これは予期せぬトラブルや寿司の汚損のために用意していたメンテナンス用の素材だった。だが、もはや割橋は新たなテトロドラグーンを拵え始めた。魚顔の男は予め用意しておいた別のフグの肝の握りを取り出し、躊躇なく射出する。
「行け…テトロドラグーン!」
割橋も新たに握ったテトロドラグーンを、反対側のフィールドを走る男に向けて発射した。近強く打ち付けられた湯呑みによって、テトロドラグーンは異常とも言える速度で男の元へと向かった。
「はっ!!クソッ!!」
テトロドラグーンが着弾し、男の足元の地面が爆ぜる。明らかに、普通のスシブレードの威力ではなかった。着弾したテトロドラグーンは地面を抉り半ば陥没しつつあった。
「こっ…これは…まさか…」
男は割橋の方を見た。彼の目に飛び込んできたのは、今にも裂けんばりに盛り上がった割橋の右腕だった。割橋が"不敗の割橋"と呼ばれる所以、それは単なる精神性だけではなかった。鍛え抜かれた屈強な肉体。割橋の実力は確固たるフィジカルの上に成り立っていたのだ。普段はその絶大な筋力を、台上での寿司の制御のために駆使していたのだ。だが、今の割橋は違う。今の彼は暴力的な衝動に任せて筋力を全力で発揮している。そうして撃ち出された寿司は、もはや兵器の域に達している。
「ふっ…面白い!!本気で殺したくなってきたんだな!!割橋!!」
男は割橋に向けて新たな寿司を放った。寿司は素早くフィールド上を駆け、真っ直ぐに割橋の元へと向かっていく。
「ちィ……!!」
割橋は急ごしらえでテトロドラグーンを握る。男の寿司が眼前までやってきたところで、ようやくテトロドラグーンを放った。両寿司は衝突と同時に混ざり合い、シャリを飛び散らせながら崩壊する。
「あ…危なかった」
寿司に気を取られていた次の瞬間、割橋の体が不意に浮いた。割橋が咄嗟に振り向くとそこには魚顔の男がいた。それと同時に急激に視界が降下し、地面に体を打ち付けられた。ややあって割橋は自分が背負い投げされたということに気がついた。男は全くの隙を見せずに今度は割橋に固め技を仕掛けた。
「アンタの筋力は恐ろしいが…俺は柔道をやってたんだ…単純な筋力じゃ負けるかもしれんが……俺には技術がある!」
「ク…クソ…」
割橋は男の腕を掴んで脱出しようと試みた。だがいくら力を込めてもその腕は緩みそうもない。首にかけられた腕が徐々に強く食い込んでくる。その時、割橋はフィールド上を駆ける一貫の寿司を見た。それは最初に放ったテトロドラグーンだった。それが、こちらに向かって突っ込んで来る。
「う……うおお!」
割橋は叫び声を上げ、渾身の力で体を捩った。覆い被さるように固めていた男はバランスを崩し、ちょうどテトロドラグーンの射線上へと倒れた。あと数メートルでテトロドラグーンが男に接触する。
その時、すぐそこまで来ていたテトロドラグーンが突然に爆ぜた。シャリと肉片が飛び散る中、そこには回転するもう1つのフグの肝の握りがあった。
「残念だったな割橋……俺はな、さっきお前の後ろに回り込む前に自分で最初に発射したフグの肝の握りの進路を、割り箸で突き飛ばして変更しておいたんだよ。ちょうど、お前のテトロドラグーンがやってくる時にぶち当たるようにな……」
男は割橋を固めながら自慢げに言った。
「……ない」
割橋が何かを呟いた。
「俺が狙ってたのは、それじゃない」
「お前、何を言って-」
男が言いかけたその刹那。男の体は何かに下方から突き上げられた。体が宙を舞い、視界の上下が反転する。割橋はその隙をついて男の腕から逃れ、地面に着地した。それに続いて爆裂した地面と共に男が落下した。割橋は服に付いた汚れを叩きながら男に近づいた。
「俺が狙ってたのは……さっき地面に撃ち込んだ2発目のテトロドラグーンだ。お前の体を倒して、ちょうどテトロドラグーンが地面を抉り進む場所に動かしたんだ」
「ク……クソォォ……」
男は心底悔しそうな面持ちで割橋を見上げていた。爆裂した地面に巻き込まれたせいで、彼の四肢は形が変わる程に折れ曲がっている。
「トドメを……刺せよ……」
「お前の勝ちだぜ割橋。だから……俺を……テトロドラグーンで……殺せ!」
殺せと言っておきながら、魚顔の男には余裕があった。というのも、実はこの男はテトロドトキシンを克服しているのである。闇寿司の力に手を染めた者の中には、力に呑まれるあまり肉体の形態がその寿司の素材となった生物に近いものへと変異する事がある。この男もまたそうした変異した者の1人だ。この男の元来の顔は今のような醜い離れた目、尖った口では無かったが、フグの肝の握りを使って殺人を繰り返すうちにその力に呑まれていったのだ。いまや彼の変異は魚類を彷彿とさせる頭部だけに留まらない。彼の場合、肝臓つまりは自身の"肝"も変異している。彼の肝はフグと同様の肝機能を有していて、テトロドトキシンを無害化、排泄する機構が成立しているのだ。彼はそう言う保険をかけておいて、割橋がスシブレードで"殺人を試みた"という事実をつきつけようとしているのだ。
割橋は男の前で目を閉じると、静かにため息をついた。
「お前は許せない」
「だが、お前は殺さない」
男は目を丸くした。先程まで確かに抱かれていたはずの殺意が何故か今の割橋の中には見られなかった。
「嫌だ……何故……何故だ」
男はガチガチと歯を鳴らしながら小さいさな声で呟いた。割橋は冷たく男を見下ろして口を開いた。
「殺す価値もない」
割橋はそう吐き捨てると、くるりと方向を変えてスタジアムの出口へと向かった。
「愉しくない……愉しくない……」
「こんなの愉しくない!!殺せ!!殺せよ!!割橋!!おい!!てめぇ、 侍を気取りやがって!!マゾ野郎!!おい!!てめぇ!!」
男は折れた手足で這いずりながら割橋に罵声を浴びせ続けた。割橋は歩みを止めず、そのままスタジアムを後にした。
駐車場に出ると、割橋は自分の車に寄りかかってタバコを吸い始めた。タバコを吸いながら、彼はスマートフォンに話しかけた。
「もしもし?あの、国立競技場に怪しい男が入っていくのを見たんですけど-」
「なんなんだ……これは……?」
通報を受けてやってきた警官達はあまりに奇々怪々な国立競技場の状態に呆然としていた。所々がひっくり返っているフィールド。何故か散乱している米と魚の内臓。そしてフィールドの真ん中あたりで「殺せ」と喚き散らす男。
何もかもがおかしい現場だった。
来て早々対応しかねると判断した警官は、無線機に手を伸ばした。
『至急、至急。新宿PSより増援要請。国立競技場にて怪我を負った男性1名発見、また、国立競技場内に施設を……破壊?したと思われる痕跡あり。……その……なんかこう……白米が…………散ら…いや……うーん…………詳細不明!…以上!!』