右近の橘、左近の桜
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 駅の構内。都心にほど近く、周縁部との中継地点ともなっているその駅は、ラッシュ期を過ぎたとはいえ、人波が途絶えることはない。人身事故による遅延がアナウンスされるそんな中、隅に備え付けられたコインロッカーの周囲を作業員姿の男女が点検していた。見る人間が見れば、その作業服に縫い付けられた社名に「左右田クリーンプロジェクト」の名前を確認できるだろう。男の方が一旦腰を伸ばし、女へ尋ねる。

「コインロッカーベイビーって、立花さんのときもあったんですか?」
「桜庭? コインロッカーベイベーは1970年代に流行った都市伝説だと資料に書いてあったのを忘れたってことでいいかしら?」
「何でもないです、すいません、というか、何で管理会社とか駅に連絡しないんですか? ロッカーの数なんてそっちの方が把握してるでしょ」
「知らないわよ、私たちは上の指示に従うだけ。口より先に手と目を動かしなさい」
「これだから下働きは嫌なんだ。いつか出世してやる。で、ホントにあるんですかね…」

 桜庭と呼ばれた短髪の男は、きまり悪げに次のコインロッカーへと目をやる。その様子を確認しながら、立花と呼ばれた女は肩ほどで切り揃えられた髪を掻き上げ、手際よくロッカーを確認していく。

「あ、あと新入りの子はいつ来るんですか?」
「鼻が伸びてる。…一カ月前SCP-978の件で」
「あ、もう勘弁してください。流石に前原博士再びはこりごりですから」
「そういえば、私がアレに含まれてなかった理由まだ聞いてないわよね?」
「だって適齢期完璧に過ぎてま」

 言い終る前に桜庭の脳天へ拳骨が振り落とされた。頭を押さえる桜庭を通行人が面白げに見ては過ぎる。ため息を一回漏らし、立花は何かに気づいたというように目を細めた。

「それに、アンタが期待しているような人間は来ないわよ」

 桜庭がその様子に気づき、立花と同じ方向を向く。彼らと同じ作業着を着た一人の女が新たに近づいて来ようとしているところだった。帽子を目深にかぶった女は、二人へ追いつくとどこかこもった声で遅刻を詫びる。

「すいません…、遅れました」
「仕方ないわ、交通状況の問題だしね。で、確認だけど貴女が」
「はい、エージェント・雛倉です。本日はよろしくお願いします」
「え? 雛倉? 日本人?」

 桜庭が驚いたのは無理もない。帽子を目深にかぶってはいるが、そこから溢れた髪の色はくすんだブロンド。眼鏡の下で憂鬱気に垂れ下がり、クマに覆われた目は透き通るような青色。陶磁器のように白く、その下の紅が見える肌。何処からどう見ても、彼女を日本人だと思う人間はいまい。しげしげと自分を見る桜庭に怯えたのか、雛倉は距離を取り、蚊の鳴くような声で答える。

「…はい、一応はそういう扱いになっています」
「へー…、結構美人じゃないですか! 立花さん! もう、何が」

 そこまで言うと、桜庭は立花の冷たい視線を受け、笑顔を張り付けたまま口を閉じた。桜庭の反応に満足したのか、立花は一回手を叩き、周囲に漏れないほどの声量で指示を飛ばす。

「じゃ、全員揃ったところで、もう一回確認するわよ」

 立花の言葉に桜庭と雛倉は姿勢を正した。

「今回はSCP-130-JPと思われるアノマリーの収容。各員ゴーグル確認、報告書の確認は?」
「…OKです」
「大丈夫、です」

 三人はそれぞれ、眼鏡、正確には試験的に導入されている対精神影響ゴーグルを確認し、手元の電子機器に改めて目を通す。その画面にはおよそ人間の理解を超えた何かの情報が刻まれ、彼らが何者であるかを如実に示していた。すなわち、彼らは単なる管理会社、作業員ではない。

「SCP-130-JPは周囲のコインロッカーと酷似しているものの、約款等の情報が存在しない、それを確認するように」

 人知を超える異常を確保、収容、保護の元に管轄する対異常組織、すなわち、「財団」のエージェントであった。

「了解」
「あと、一応ゴーグルは着用しているけど、内部はけして見ないように。いいわね?」
「了解」

 彼女らが現在収容を行っているオブジェクトはSCP-130-JP、都市伝説に見られるコインロッカーベイビーと似て非なるオブジェクト。内部の子を見たものに精神影響を与え、子を寄生させる郭公の如きオブジェクト。1970年代に多く確認されたそれは、現在財団の収容下に置かれていると目されていた。しかし、事ここに至って類似する事例が相次ぎ、財団が腰を上げる運びとなる。

「では、桜庭は確認及び一般人の誘導、私と雛倉で作業します。三十分ごとに確認を行い交代、発見した場合は連絡を」
「了解」

 立花が指示を終えるとそれぞれが役割を分担し、一つ一つロッカーを改めていく。約三十分ほど経っただろうか、雛倉が静かに声を上げた。

「…これ、でしょうか」

 雛倉が目を向けるそれを、立花が再度改める。

「ちょっと待ってね。…ナシ、…ナシ、…桜庭、少しこの番号問い合わせて。該当が無ければ確定よ」
「はいはい、少しお待ちを…、ああ、そうですね。該当しません」
「了解。じゃあ、簡単な封鎖を行って連絡。それで今日は終わり。さっさとやるわよ、雛倉、監視は頼むわ」

 立花が連絡を行う間、桜庭が手際よく通行止めの看板を出し、周囲のロッカーへ使用禁止の張り紙を張り出していく。駅へロッカー使用者の確認を取り終えた立花が戻ると、桜庭は作業を済ませており、戻った彼女に近づく。その動きから、雛倉には聞かせないようにしていると判断した立花は、監視を続ける雛倉を視界の端に収めながら少し距離を置いた。

「…立花さん、雛倉ちゃんって、どれくらいなんですか?」
「今日が初めてのはずよ」
「道理で」
「…珍しいわね、女とあれば見境なしのA.桜庭が」

 桜庭と言えば、財団、特に彼が務めているサイト内では無類の女好き、酷いところでは変態趣味の男と名が通っている。確かに、噂の面は否めない。だが、それを補ってなお、桜庭の観察眼、状況判断力には目を見張るものがあると立花は考えていた。事実、カマをかける様な立花の言葉に桜庭は取り合うことなく、目だけを光らせた。

「心外だなあ。俺は女の子が好きなだけでですね? …まあ、そんなことはいいんですけど、彼女、何かあるんでしょ?」
「…相変わらず、勘だけはいいわね。でも」
「分かってますよ、俺には明かされない情報なんですね。その反応だけで十分です」

 へらへらと笑う桜庭。立花は呆れたと言わんばかりに肩をすくめる。

「仲良くしてあげて、色々抱えた子だから」
「はは、みんなそうですよ」

 それもそうか、実際自分も、そこまで考えたその時、立花の目に予想外の事態が飛び込む。雛倉が監視するロッカー、その扉が大きな音を立て勝手に開く光景。立花と桜庭は瞬時に内部を目視しない位置へ移動する。だが、その眼前に立っていた雛倉は完全に目を逸らすことができず。

「…?」

 僅かに内部を確認してしまったのか、息をのみ、立ち尽くす。幸いにも完全に目視できる位置ではなかったことを確認し、立花は中を見ないよう、雛倉に近づき、その体を引き寄せ、桜庭へ叫ぶ。

「雛倉! …桜庭!」
「…今、連絡と応援を頼みました。立花さん、精神影響の確認をお願いします。俺は周囲の封鎖を徹底します」

 開いた扉を蹴り閉じ、立花は引き倒した雛倉の意識を確認する。伏し目がちだったその目は見開かれ、ただでさえ白かった肌はもはや青白いと言えるまでになっていた。パクパクと鯉のように口を開く雛倉に立花は問いかける。

「雛倉」
「立花、さん…? 赤ちゃんは」
「落ち着いて話を聞いて。貴女の名前と生年…、名前だけでいいわ」
「私、私は…」

 雛倉はその問いに答えることなく、断末魔のように眼を開き。

「私を、見ました」

 一言だけ答えると、意識を失った。


おちていく――――。

あたたかなくらやみのなかに、おかあさんのなかに。

――――おかあさん?

それはだれだ? わたしをだましたあいつらか? わたしのじんせいをのろったあいつらか?
こたえろ、わたしはなんだったんだ。わたしのじんせいはなんだったんだ!

たどりついたやみのそこで、わたしは。

――――おぎゃあ。

あかちゃんのこえをきいた。
おやからすてられたあかちゃんは、のぞまれなかったこどもは、こいんろっかーのたいないで、おかあさんをまっていた。
それはまるでじょうだんみたいで、おまえのじんせいにはいみがないとつきつけられたようなもので。
うまれたときからそうであるのと、うまれたあとでしってしまうのと、どちらがくるしいだろうか。

――――おぎゃあ。

…ああ、ちがう。

――――おぎゃあ。

あれは。

――――おぎゃあ。

わたしの。

――――おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ。

こえじゃないか。

――――………おぎゃあ。

「何で、私は産み落とされたの?」

わたしはこたえず、ただないていた。
………ああ、いとしいあかちゃん、なにもしらない。

「私」


 目を覚ました雛倉は自分がサイト内の医療室で寝ていることに気が付いた。跳ねるように起き上がる、だが、身体は鉛のように重く、油の切れたロボットのような動きしかできない。ギギギ、と軋む音を思い浮かべながら雛倉が体を持ち上げると、ベッドの横には器用に剥かれたリンゴと桜庭の姿。桜庭は雛倉が目覚めたことに気づいたのか、何処かへ軽く連絡すると、三枚目丸出しの笑顔を。

「おはよう、雛倉ちゃん」
「お、おはようございます、桜庭さん、その…」

 雛倉の言わんとしたことを察したのか、桜庭は通信機をいじりながら答える。

「本来なら即時の終了なんだけど…、何故か幼体が確認できなかった。つまり、あの中身は空だったんだよね」
「は、はい…」
「検査はしたけど精神影響はほぼ無し、特例措置でもうしばらくの入院と軽度の記憶処理で済むってさ。よかったね」
「そう、ですか」

 頷いてから、雛倉は病室に近づく足音を聞いた。それが誰かは予想が付く。慌てるように近づくその音に、桜庭は立ち上がり、病室の入口へと。そして現れた立花の手を引いた。

「立花さん、ちょっと」
「雛倉、目が覚めたって?」
「ええ、それで雛倉ちゃんについて」

 不審げな表情を浮かべる立花に、桜庭は電子端末の画面を見せる。その内容に目を通した立花は露骨に表情を歪めた。

SCP-JP-014-EX、資料は読みました。雛倉ちゃんですよね」
「…どこでその情報を?」
「あの報告書は一般に開放されているじゃないですか」
「そういう意味じゃないのは分かっているでしょう?」
「違和感がありました。SCP-130-JP内部を見た職員はその時点で終了措置、あの状況なら立花さんは銃撃の指示を出すべきだった。仮に、立花さんが判断を誤ったのだとしても、彼女が終了されない理由はない」

 淡々と推理を述べていく桜庭に立花は眉間を押さえ。

「…あの子は」
「はい、SCP-JP-014-EX-1、元、自らを魔法使いのお姫様と思いこんだ、…思いこまされた女の子」

 SCP-JP-014-EX、本来はオブジェクト指定されないExplainedクラス。その条件は背景にある法則を見破って普通のものになったか、問題が完全になくなったもはやSCPとは呼べないもの。そしてあるいは、単なるデマ、あるいは悪質な悪ふざけ。彼女が含まれるのは、最悪なことにその悪ふざけ。すなわち、人間一人の人生を、面白おかしく扱われ、常識を破壊されたなれの果て。幻想に生き、それを信じ、ただ悪趣味な娯楽のために作られた一生を壊され、潰された一人の少女。SCP-JP-014-EX-1。

 報告書内においては必要が無い限り個人情報は隠匿される傾向にある。それを突き抜け、彼女の名前を見出した、それを問う立花に桜庭は間の抜けた表情で返す。

「俺は女の子の泣き顔が好きじゃないだけですって、立花さん。…で、きっと立花さんが雛倉ちゃんの担当になったのって」

 桜庭の言葉をそこまで聞くと、立花は両手で彼を押し留めた。改めて、自覚していた自分の役割、つまりはレベルこそ違えど同類としてのそれを行う必要を理解した彼女は、怒りとも哀しみともつかない表情で拳を握りしめる。

「言わないで…、なんとなく察したから。クソ、あの管理官、今に生皮を剥いでやる」
「仕方がないでしょ、似た者同士、ある意味、一番彼女の感情が分かるかもしれない」

 それだけを吐き捨てると、立花は一回顔に両手を押し付け、表情を戻すと、桜庭をつれ病室へ入り込む。

「雛倉、無事で良かった」
「…立花さん」
「とりあえず、経過は確認した。私たちも目撃していたから、貴女が開けたわけじゃないのは知ってる。あとは担当の人間が来るからもう一回詳しく」
「…立花さん」

 橘の言葉を遮った雛倉からは剣呑な気配が漂って、立花の眉が歪み、桜庭が目を細める。それを知ってか知らずか、雛倉は震える声で。

「…私、エージェント、辞めます」
「雛倉、何で」

 留めようとした立花の言葉を雛倉が語気強く遮る。

「…私、やっぱりエージェント向いてないと思います」
「そんなことは」
「あります!」

 もはや怒気に近いその剣幕に立花と桜庭は続ける言葉を失った。

「私、あの中に入っていたアレに言われたんです、「何で、私を産み落としたの?」って」

 雛倉は、感情を抑えられないというように髪を掻き毟り、喉から声を絞り出す。

「立花さん、知ってるんでしょ? 私の過去を、あの糞野郎どもを!」

 立花は小さく頷き、雛倉の目に涙が溢れる。

「私は、死んだほうがよかったんです。あのときに、全てが嘘だと分かったあの時に」

 瞳はもはや二人を視ていない。
 彼女の言葉は既に自らへ語り掛けられるものとなり、それはおそらく自分を傷つける刃となっている。

「私って、生まれてくるべき人間だったんですか? 私って、生まれたことこそが笑い話の」

 余りにも痛々しいその叫びを見かね、立花が言葉を遮った。

「…止めなさい。…私も、分かるから」
「何が、何が分かるって言うんですか、貴女に、何が分かるっていうんですかッ!!!」

 だが、その声が届くより早く、雛倉の瞳が二人を捉えた。怒りと悲しみと、そしてそれを押さえつけるかのような困惑を孕んだその目が、徐々に狂乱へと変化していく。

「私は、私は…!」
「雛倉ちゃん、そこまで」
「うるさいっ!!!」

 桜庭の諫める声も届かない。激昂。滅多に見なくなったその感情に、桜庭は気圧された。その瞳からは涙が溢れ出し、まるで駄々をこねる子供のようにも見える。

「…私は、皇女だった、それが私のアイデンティテイーで、魔法が使えて、私の人生は」

 雛倉は感情のままに立花へ掴みかかる。彼女の人生は悪意によって塗り替えられた。コインロッカーベイビー、生まれることさえ許されなかった胎児たちと、どちらが幸せだっただろうか。

「でも、私は、人生そのものがフィクションだった! 人生全てが否定され、笑いものにされた気持ちが、お前たちに分かるかッ!!! 自分の人生を許容され、自分の信じていたことが揺らぐこともなく、ただ生きてきたお前たちにッ!!!」

 叫び声は既に喉を枯らしているのか、響くことはない。ただ、その感情の吐露を支えるだけ。彼女は問う、問い続ける。

「…私は、私は、何で生まれてきたの? 私の人生は何のためにあって、」

 弱弱しく呟くその言葉、まるで母親を求め、彷徨う幼子のように心細げなその言葉。その言葉に答えられる人物は、おそらくいまい。その言葉に返せる人間はいまい。
 だが、立花は毅然とした表情で、いや、何かを決意した顔できっと雛倉の目を見つめた。そして。

 顔を真っ赤にしながら、手を前に突き出し、雛倉を離すともう片方の手で、片目を隠しながら仁王立ちになり、叫ぶ。
 魂から漏れる様な大声で、周りの目など気にすることなく、叫ぶ。

空白

「鎮まれ、堕ちたヨハンナよ! 我が名は奈落の悪鬼、黒き翼の堕天使アイスヴァイン! コキュトースの彼方で震えて眠れッ!」

空白

 端から見れば目を覆いたくなるようなセリフを決めポーズ付きで。

 荒唐無稽、余りにも荒唐無稽なその行動。突拍子もなく、また、同時に正気を疑うその行動に、雛倉の感情は一瞬吹き飛ばされ、困惑だけが生まれる。

「…え?」
「…いよっ、流石!」

 やんややんやと手を叩く桜庭。静かな病室にその音だけが響く。その一方で、立花は顔をさらに赤くし、唇を噛みしめながらも、恥ずかしさの為かプルプルと震える手で雛倉の頭を引き寄せ、抱きしめた。雛倉は困惑で空白が埋め尽くす頭に柔らかな感触が伝わる。

「…皇女よ、貴様はしばし療養し、英気を休めよ。だから、その、…自らを否定するな、過去の貴様が何であろうと、今の貴様は今の貴様よ! …そして、出来得るならば我とその眷属を頼るがいい。その手伝いなら、いくらでもしてあげるから」

 そのまましばらく頭をさするだけの時間が過ぎる。何分経っただろうか、雛倉が落ち着いたのを見て取ると、腕を離し、雛倉の顔を見つめ。雛倉が困惑を残したまま、毒気の抜かれた表情で問う。

「今の、何です?」
「…落ち着いたみたいね」

 だが、答えることはなく、立花はそれだけ言うと雛倉に背を向け、病室の扉へと向かった。

「今の返事はしなくていい。詳しい話や記憶処理の云々はいずれする。…桜庭、後は任せた。ちょっと報告するところがある」
「はいはい、お土産お願いします」

 プラプラと手を振る桜庭を半分無視し、立花は姿を消した。残像を追うように瞬くと、先程の出来事が現実かどうかを反芻しつつ、雛倉は桜庭へと声をかける。

「…桜庭先輩」
「良いことを教えてあげよう、あの人も雛倉ちゃんの比にはならないけどね、そういう事が大嫌いな人だから」

 先程までの顔はどこへやら、三枚目といった顔に戻った桜庭はベッドを指さし、雛倉はおとなしく倒れこんだ。その様子に安心したのか、桜庭はニヤニヤとした笑みを浮かべて言葉を続ける。

「あの人もね、悪ふざけで人生を変えられた人だから。だから、少しだけわかるんじゃないかな」
「え…」
「いや、雛倉ちゃんが聞いたら、マウントで殴りつけたくなるくらいの話だけどね、半分自己責任だし」

 そしてそのまま、林檎にフォークを突き刺した。

「林檎、食べる?」

 雛倉はその光景を俯瞰するように意識を失った。意識が消える直前、コインロッカーの中に転がった何かの姿を見た気がした。


 立花は無機質な部屋の前で一つ息を吐いた。通い慣れたその場所。だが、此処に入る度彼女は言い表せない緊張感に駆られる。それは、内部で待つ人間のせいでもあるだろうし、彼女自身が純粋にこの場所を嫌っているからでもあろう。仕方ない、とばかりもう一度大きなため息をつき、ノックを鳴らし、中からの応答を待たず部屋に入り込んだ。

「エージェント・立花です。SCP-JP-014-EX-1の経過報告を」
「入ってください」

 性別を感じさせない、平坦な、それでいて弦楽器を思い出させる美しい声、一般的な会議室程の広さはありそうな部屋は、病的なまでに片付けられ、清潔感を醸し出している。全体を正確な直線と垂直によって構成され区切られている、そんな部屋の中心部に、一人の白衣を着た人間が立っていた。立花の入室に伴い、白衣の人物は機械的かつどこか優美な動きで立ち上がると、能面の小面を思わせる微笑を浮かべ、立花へ声をかける。

「彼女の様子はどうですか?」
「ご存知かと思いますが、偶発的な精神影響を受けました。SCP-130-JPの幼体は確認されなかったため…」
「聞き及んでいます。軽微だったそうですので、指定の書類を出していただければ責は問いません。で、どうですか?」
「…どう、とは?」
「何でも構いません、貴女の所感、もしくは直感、何とでも」

 男性か女性かすら分からない中性的な美貌、行動の逐一に気品が感じられる。立花はこの相手を見るたび、チャペックのロボット、あるいはシェリーの怪物を思い浮かべる。

「エージェントとしての働きは申し分ないでしょう。曝露した際、影響を最低限に抑えようとした判断力も評価できます」
「そうですか、分かりました」
「…彼女は今後、どうなるのですか?」
「ええ、その件で、貴女にこれを」

 相手が取り出した分厚い書類、その一枚目に目を通し、立花は探るような目を相手へ返す。

「…これは」
「今後、貴女とA.桜庭、A.雛倉は一つの常設チームとして行動してもらいます」
「…何故その三人なのでしょうか」
「理由の説明は必要ですか?」

 相手の笑み、それだけで意味することを理解し、その後に何が続くのかを知った。

「カナヘビさんも亡くなられて、もう何年にもなりますものね」

 それだけで言葉は十分だった。立花は思わず相手の喉元へ伸ばしかけた手を抑え込み、自分の中で怒りを殺す。その間も相手は張り付けたような笑みで立花を見つめていた。立花は蜥蜴をその嘴に咥えた山鳥を思い浮かべた。何とか感情を抑え込み、無表情のまま、立花は相手に応える。拒否権限などないと知っているから。

「…チームの件、了解です。何らかの特別な任務でしょうか?」
「ええ、特定の要注意団体に関する調査をメインに行ってもらうことになります」
「その要注意団体とは?」

 立花の問いに、相手は資料の三ページ目を開くと、彼女の前に突きつけた。

「PAMWAC、その中枢にいると思われる要注意人物を調査していただきたい。ええ、貴女方にはうってつけでしょう」

 PAMWAC、すなわち、アニメキャラクターと結婚するための研究計画局(research Projects Agency for the Marriage With Anime Characters)。浪漫を標榜し、サブカルチャーと関連の深い要注意団体。アメリカにおけるGAW、ゲーマーズ・アゲインスト・ウィードとの関係も噂される、いわゆるヲタクによる異常集団。そして、"そんなもの"を自分たちに任せるという理由を立花は苛立ちと共に理解した。加えて、逆らう意味はないのだとも。

「…調査する対象は?」
「伊集院勇太、おそらくは本名です。旧財閥に連なる一家の出身で、いわばお坊ちゃまですね。来歴その他は配布した資料を確認してください、諜報部その他にも話は回していますので」
「…アノマリー製造者ですか?」
「恐らくはその出資者、皮肉なものですね、ロマンは金で買えるというわけです」

 相手の顔が微かに歪んだ。ようやく均整を崩したその表情は、立花に嫌悪感を引き起こさせる。

「了解しました。…もう退出しても?」
「ええ、彼女をよろしくお願いします」
「はい」

 踵を返そうとして、立花は一瞬立ち止まり、相手に向き直る。一切変わらないその表情に、棘を含ませ言葉を投げつけた。

「…最後に、一つ宜しいでしょうか
「どうとでも」
「何故彼女をエージェント、それも記憶処理を行わずに? 彼女は恐らく、処置 - セキュラ…、一般社会への復帰を願っていたと推測しますが」
「ああ、そうですね」

 立花の問いに、相手は考えるようなそぶりを見せ。

「面白そうだから?」

 ぞっとするような無表情でそう答えた。立花は全身に走る悪寒と怒りを飲み込み、なんとか事務的に返す。

「ご冗談を」
「もちろん、冗談ですとも。彼女の存在の背後にはP-D/U-漂流イベントを把握している可能性を持つ人物の影がある。報告書にもその旨は記載されていますね? それ以外の理由はありませんよ」
「成程、失礼しました。…しかし、貴方にどのような思慮があるかは一エージェントに過ぎない私には分かりませんが、冗談はほどほどにした方がいいと思いますよ。戎管理官」
「ええ、そうですね。少々冗談が過ぎました。ご忠言、痛み入ります。では、あらためてよろしくお願いします、A.立花」

 西日本サイト統括管理者、戎子規は、能面のようなその顔に、一切邪気の無い微笑みを浮かべた。


おちていく――――。

あたたかなくらやみのなかに、なきごえのなかに。

――――おぎゃあ。

――――――おぎゃあ。

――――――――おぎゃあ。

うるさくない、わたしはあかちゃんのようなものだ。
わたしにはなにもない、わたしのじんせいにはなにもない。
わたしのじんせいはふぃくしょん、だれかがおもしろがってつくったものがたり

あのおぶじぇくとは、きっとそれをおしえてくれた。

「何で、私は産み落とされたの?」

わたしはこたえず、ただないていた。
………ああ、あかちゃん、あかちゃん、あかちゃん。

おかあさんは、いないのよ。おとうさんも、いないのよ。
あなたのじんせいは、わるふざけとじょうだんで。

「何で、私は産み落とされたの?」

だからもう。
おちてしまってもいいの、きえてしまっても。
わたしには、なにもないのだから。

とつぜん、あたたかなくらやみのなかに。

『我が名は奈落の悪鬼、黒き翼の堕天使アイスヴァイン!』

こえが。

ひかり、が。

うそだ、わたしは、まだ。

ああ、おちていく、おちていく、おちていく。

わたしのこえはきこえない。わたしは、ふぃくしょん。

でも、それでもと、あの人は、これから。

おちた先にあったコインロッカーから、ちいさく声がきこえた。

「そだててあげらんなくって、ごめんね」

ちがう、違うのよ、わるくない、貴女は悪くない。
夢は覚めるの、貴女は生まれたの、だから、少しだけ。
あの冗談みたいな台詞は私を変えないけど、覆せないけど、ほんの少しだけ。

コインロッカーの底で、幼い私は微笑んだ。


 昼時のランチフロアで、スパゲッティを器用に巻きながら、立花は事のあらましを桜庭、雛倉に伝えていた。その表情は明らかに不満げで、動きの一つ一つに苛立ちが滲む。

「…と、いうわけ。対象は伊集院勇太。とりあえずは2000年代前半からPAMWACの活動において目撃されるようになった」
「うえ、俺たちがチームですか?」
「そうよ、文句はないわね。私が班長、桜庭が副班長」
「…」

 その話を聞いてなお、黙った雛倉に立花はスパゲッティの巻き付いたフォークを弄びながら釘をさす。少々キツイ言い方になったその言葉を桜庭が茶化しながら続けた。

「雛倉、とりあえずは辞めないこと。これは命令。アンタがいなくなると、私たちのチームとしての動きが困る」
「そうそう、…色々あったかもしれないけどさ、俺みたいな二枚目と一緒にいれば気も晴れるでしょ」

 二人の言葉に、まだ病み上がりといった様子の雛倉は、そうと分からないほど小さく頷き。

「…分かりました」

 一言だけ返して席を立った。

「…失礼します」

 去っていくその背を見送りながら、立花はテーブルに突っ伏す。

「…はあ、とりあえずはアレで誤魔化せた? …たぶんあのまま許しても記憶処理で後戻りって感じがするし」
「ですね。…にしても妙ですね、上がそんなに一エージェントに固執するとも思えませんし。何でそういう扱いなのか、もうちょっと探ってみましょうか?」
「…クリアランスに引っかからない程度にね、私も少し、いや、かなり違和感がある。…あの蜥蜴喰い、絶対何かを隠してる」
「いやあ、あの人、顔はいいんですけどねえ。あ、それと立花さん」
「何よ、…あの、…うう、アイスヴァイン、を、まだ言う気?」

 頭を掻き毟る立花の苛立たしげな目に、桜庭はおお怖、と笑う。

「いや、実際初めて見て面白かったんですが、って、あ、止めて、首絞めないで、カナヘビさあん!
「死んだわよ、あの蜥蜴は!」

 首を絞められながらも、慌てて突き出された資料の束へ目をやった立花は、怪訝そうにその手を離した。

「…立花さん、今回のあれ、本当にSCP-130-JPですか?」
「…詳しく教えなさい」


少しだけ、もう少しだけ、この腹立たしい世界を。

『オモシロい、実にオモシロいねえ! まるで神になったようだよ!』

え。

『そう、浪漫だねえ! 陳腐だけど、これこそ浪漫だよ! ああ、僕は―――』

今の、声は―――?

雛倉は、何か大切なことを思い出したような気がした。

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