エージェントD
評価: +49+x

エージェント・Dの話をしよう。

20██年██月██日-████県██████市
深夜25時、トレーラーと20人乗りのマイクロバスがとある町で停車した。
バスはカーテンで仕切りがしてある。ナンバーを照会すれば地元のロケバスサービス会社が該当するだろう。
内部は大量の機材と10数名の人員が待機している。

Dはミント味のガムを噛み締めた。
角刈りに刈り上げた髪、スーツの下からでもそれと判る分厚い筋肉。
素人が見ても「何かやっていた」と判る体つきだ。Dはそれにふさわしい肩書を使い分ける必要があった。
格闘家、ボクサー、スポーツインストラクター、アメフト選手、そして今回はスタントマンだ。
Dの過去は抹消されている。セキュリティクリアランスレベルが2以上であれば閲覧は可能だが、ただのエージェントの過去に興味を持つ人間など居ない。
彼は多くのエージェント同様、なんらかの組織からスカウトを受けた人間だ。
「本当に命を賭ける価値のある仕事をする気はないかい?」黒スーツの男はDにそう言った。胡散臭い男だ。黒スーツは「財団」のエージェントだと名乗った

財団。
それを目の前で見るまではDの世界はつまらないものだった。フリーメイソンの陰謀だとかと同じただのオカルトか何かの比喩表現だろうと思っていた。

男というのは誰でもワルや正義の味方に憧れるものだ。
もし恋人や妻をギャングに撃ち殺されたら、もしも殺しのライセンスを持った超法規的な暗殺者だったら。
両手にピストルを握り、街の悪者どもを片っ端から皆殺しにしてやるのに。
だが現実はそうもいかない。相手が誰であれ人殺しは罪であり法によって裁かれる。そうでなくては世界はめちゃくちゃになるからだ。
だからDは黒スーツの話を信じていなかった。信じられる訳が無い。彼が実際に財団施設に訪れ、偏執的なほど厳重なチェックを受けて「見学」を行い、
マッドサイエンティストが主人公の映画のセットの様な世界を見るまでは。
自衛隊にすらありえない重装備の警備員から最新式のライフルの説明を受けるまでは。
白衣を着た女博士にスパーリングを挑まれてKOされるまでは。

Dの傍らにはチューブトップ姿の小柄な女がノートPCを叩いている。その口にはチューブ入りの練乳が咥えられていた。
15、6にしか見えない彼女がこの現場の指揮官だ。この世界では余計な事は考えるだけ無駄なのだ。

トレーラーから二台のバイクが降りた。バイクはフルフェイスのヘルメットに首まで覆うライダースーツを着込んだ男にそれぞれ引かれていった。
もちろんただのバイカーじゃない、彼らも財団のエージェントだ。
ライダースーツは衝撃吸収ゲルで覆われ、拳銃弾程度なら簡単に弾くし、有毒ガスも通さない。ヘルメットはそのままガスマスクにもなる。
世界一イカしたデザインの防護服だ。
バイクはエンジンの代わりに各種センサーや測定装置が詰め込まれている。
数千分の一秒表示できる時計、ガイガーカウンター、各種科学物質検知器、水平器、電磁波測定器、無線機、慣性計測装置、地震計、高度測定器。
考えうる限りのあらゆる機器がつめ込まれていた。そして「普通とは違う反応」を探しだすのだ。そこにSCPの存在する可能性がある。

バイクの二人が対象建造物の周囲をゆっくりと回り、途中すれ違った男に何かを手渡した。その男もまた職員だ。
彼は特殊なコネクターをもったメモリーデバイスを受け取り、トレーラーに戻る。恐ろしく冗長なプロテクトをかけられたメモリーがトレーラー内の端末にセットされた。
トレーラーには専用電源を持ったサーバーラックが備えられ、計12機のサーバーマシンが耳障りな音を立てている。室温も高く、居住性は最悪だ。
一昔前のスーパーコンピュータに匹敵する能力を持ったそのシステムの、70%以上のリソースが複雑な暗号の解析に当てられる。
白衣姿の女博士は16インチの液晶モニタをじっと見つめ、400BPMほどの速度でコマンドをタイプする。その結果は即座にロケバスに転送された。
オールグリーン。有毒ガスも、時間の乱れも、空間の歪みも、異常な電波の発生も無い。踏み込んでも突然マリアナ海溝の底に放り込まれるような事は、まぁ、多分無い。
ロケバスのメイク台の前でポーズを取っていたエージェント・餅月はノートPCから鳴らされた「You've Got Mail」に目を細め、無言のまま合図を送った。

微かに残っていた口の中のミントがトニックウォーターに変わる。Dはスーツの襟首を引き上げると静かに立ち上がった。
スーツ姿の「エキストラ」達が明らかに緊張する。
最初に「スタッフ」がマイクロバスから降り、様々な機材を用意する。傍目にはテレビの取材か、ドラマの撮影かなにかにしか見えないだろう。
様々な用途のカメラが、特大サイズのジェラルミン製レフ版が運ばれ、無数のケーブルなどがそれに続く。
わずか6分の間に十台以上の全てのカメラが接続され、レフ版の要塞がモニター郡を守る。モニタ前に座るのは指揮官である餅月と前原博士。
前原は小柄な餅月とは対照的に日本人女性としては長身だ。足をハの字に開いてモニタを覗く餅月、窮屈そうに足を組みPCとモニタを交互に見比べる前原。奇妙な光景だ。
「本番30秒前っ全員配置確認!」
餅月の声がイヤホン越しに聞こえる。エキストラ達は全部で10人。全員がグロック18Cで武装しており、もはやそれを隠そうともしていない。
最後尾にはバックアップ件偽装要員としてハンドカメラを構えた職員が続く。もし一般人に見られたとしてもドラマかPVか何かの撮影としか思わない。
平和な国だ。

「シーン16、カットなし、本番開始ー」号令と共に一糸乱れぬ歩調でエキストラはある建物に向かった。見た目はただの町工場でそれほど大きな施設ではない。
二箇所の出入り口に5人づつのエキストラが配置され、同時に突入する手はずだ。建物には明かりがともっていない。内部を指向性マイクと熱センサで確認し、さらに化学物質の検査を行う。
先頭のエキストラがドアノブの穴から暗視装置付きのピンホールカメラで内部を確かめる。異常なし。建物内部は非常用ライトが灯っている以外に人の気配も異常な反応もなかった。
だが気を抜く事はできない。相手はチンピラでもテロリストでもない。物理法則とは何か、常識とは何かと神に問わざるを得ない連中だ。
教科書通りにまず先頭の三人がドアの様子を確かめる。当然、施錠されているのは想定されている。 市街地で爆発物の類は極力避けなくてはならない、後始末に手を焼くからだ。
本番開始から15分、両チームに突入の指示が送られる。ドアの蝶番をカッターで破砕し慎重にドアを開ける。暗闇の中で身を伏せ、エージェント達は四方へ、互いの死角を気にしながら散っていく。
静かだった。
自分の鼓動と、仲間たちの微かな吐息以外に何も聞こえるものは無い。エキストラ達は慎重に、自分の演技をこなしていく。
周囲クリア。クレーン制御室、クリア。中二階、クリア。オールクリア。そこには何も無かった。電話BOXほどのサイズの金属製ロッカーを除いては。何も。
「電源を確保。・・・オールクリア。」
「オールクリアだと?がらんどうじゃないか、ここには何もない。エージェント・餅月へ、こちら████。内部の様子は見えてるな?」
Dがスーツのネクタイに付けたマイクに向かって話しかける。
「んー。暗くてよくわかんないけど、逃げられた感じ? 今、愛と一緒にそっちにいくね。」
緊張感の無い返答にDは舌打ちした。程なくして餅月と前原の2人が現場に現れた。どちらも手にLEDライトだけを持ち、ぶらぶらとそこらを散策している。
「ふーん。」
工場の中央に置かれたロッカーに興味を示したのは前原だ。近づいてしげしげと眺めるが手を触れることは無い。
「あー、電源の場所抑えてるのよね? 電源入れていいわよ。」
LEDの青白い光をロッカーに向け、何かを覗き込みながら前原は言った。直後にその顔の真下からつま先立ちで餅月が顔を出す。

プロジェクト名:カラオケBOXES

製造: 東弊重工社開発部

クライアント依頼:エンターテイメント性のある作品をお願いします。
技術的目的:空間拡張技術および言語入力された条件と投入金額を認識し、適切な空間を生成できるシステムの構築。

方向性:サイズは出来るだけ小さくする方向で。

製造過程:
19██年██月██日 初期プロトタイプ完成。金庫サイズであったがすでに重量が50キロを超えているため、持ち運びは困難。
19██年██月██日 重量問題が解決せず、金庫サイズではなくコインロッカーで再設計。
(以下、10行ほど履歴が列挙されるので編集により削除)
20██年██月██日 最終試作品完成。テスト経過は良好。

緊急連絡
財団がこの工場を察知した可能性あり。製品は第3プランで製造します。作業員はいつでも脱出できる準備と優先順位の高い順に物品の退避を。 ██月██日

思ったよりもお早いお着きですね。全物品退避が終了していませんが、我々はこの施設を放棄します。最終試作品は差し上げます。それでは。

前原は貼られていたメモをデジカメで撮影し、引き剥がした。
「これ、調査に回して。エージェントは解散しておっけ。 調査チームをすぐに呼んで徹底調査、この・・カラオケボックス?は一応爆発物の有無を確認してから調査サイトに移送。以上。」
女博士はもはや興味なさげにハイヒールを鳴らしながら工場を後にし、それを追うように餅月が、そしてエキストラ達が工場を後にした。

最後尾に居たDがふと背後を振り返る。数人の「AD」が一応の確保を周辺の確認を行っている。トレーラーに待機している調査チームが到着するまで現場を確保しておくためだ。
薄暗い工場にはそれ以外にはほとんど何も残っていなかった。古めかしい工作機械とクレーン、そしてあの妙なロッカーを除いては。
Dは暗闇に目を凝らした。意味のある行為ではない。だがそこに何かが蠢き、自分達を見ているような気がしていた。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。