ベクソンから来た男
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ベクソン国旗

「覚えていない」は「さよなら」の別名



20██年 5月1日 外務省大洋州局 南東アジア第二課担当官 高木善一

 
 

平成 ██年 5月1日

大洋州局 南東アジア第二課
高木善一殿

 
 

インドネシア大使からの情報照会についての回答文作成の通達

 
 

 
 

 
 

概要

 

 

20██に本邦に於いて、映画「アクトオブ・マサクル」が公開された。
これはスカルノ政権からスハルト政権への移行時に行われた虐殺を描いたものである。
本邦公開時、日本に於いてスカルノ元大統領夫人がこの映画についてのコメントを行なっている。
そのコメントの中に、当時の日本の内閣総理大臣がその虐殺の支援を行なっていたというものがある。
インドネシア大使はこの件について長年遺憾に思っており、そういった事実はないと表明している。
しかしながら上述の映画公開により、インドネシア外務省に対しマスコミからの問い合わせが絶えない。

インドネシア大使は、当省に対して以下の要求を行なっている。

1:当時の外交資料を精査し、事実関係を確認する事。
2:関連資料があった場合、その複写を譲渡する事。

 

上記の問い合わせに対し、検討し、回答文を作成する事。

 
 

以上

 

 

またか、と私はため息をついた。

たった一本の映画が、世の中の流れを変えてしまう事がある。

例えばレニ・リーフェンシュタールは「意志の勝利」によってナチスのプロパガンダをドイツに広めた。
かの映画もまた同様に、政治機構や外交に対して無視できぬほどの影響を発揮しつつあるようだ。

1965年、インドネシアのスカルノ政権は経済政策の失敗と西側諸国との関係悪化により窮地に立たされた。
その結果軍事クーデターが起き、スカルノ政権は倒れる事となった。その際発生したのが、9・30事件だ。

クーデターを起こした軍部は、多くの人間を虐殺した。
「アクトオブ・マサクル」は、それを事件の加害者の視点で描いた映画である。
本邦で公開された際には、大きな反響を呼んだ。

だが、この映画には思わぬ副産物があったのだ。
スカルノの第三夫人であった女性は日本に亡命しており、タレントとして活動していたのである。
そして彼女は試写会で、クーデー発生時の状況を生々しく語った。

その際に取り沙汰されたのは、日本政府側の対応である。
日本政府はクーデターを行なった側、つまり「虐殺した側」を支援していた、という事だ。

無論、政府側としては沈黙せざるを得ない。
たかだか映画一本で、行政側がなんらかの対応を行う事など考えられないからだ。
しかし、インドネシア政府側はその事を看過するわけには行かなかった。

なぜなら、インドネシアの権力構造には政府・民兵・黒社会という奇妙なトライアングルがあったからだ。
9・30事件の裏側には「プレマン」と呼ばれる反社会組織の存在があった。
政府はプレマンと民兵を飼い慣らし、虐殺行為に加担させていたのだ。

そして、かの映画は虐殺に加担した側に詳細なインタビューを行い、その事実を浮き彫りにしていた。
つまりインドネシア政府にとって、この映画はいわゆる「都合の悪い真実」という事になる。

この事実がある以上、プレスは日本政府側の対応についてもは取り沙汰せざるを得ない。

大使からの問い合わせは、以上のような事情によって行われていた。
この問い合わせは、私が記憶している限り3回目になる。
もう、いい加減慣れてしまったが。

どうするか、「検討中」の一文でやり過ごすほかないか。
だが問い合わせがあった以上、調べる姿勢だけは見せねばならない。

実際のところ、日本は虐殺を行なったクーデター側に支援を行なっていた。
我が国の歴史研究家は、それが概ね事実である事を突き止めていた。
そもそも記録自体、我が国の公文書館に残っているし、当時の関係者のインタビュー記録もある。
全く、この手の口伝オーラル・ヒストリーは厄介だ。

公的記録はなくとも、当時の関係者に対する詳細なインタビュー、日記の精査などによって事実は明らかとなる。
そして口伝はその記録群の裏付けともいうべき役割を果たし、重要な証拠となりうる。

しかし、口伝か。ある国の人々が殺されたとしても、必ず生き残りはいる。
そして加害者もまた生き続ける。

そういった人々の記憶を繋ぎ合わせていけば事実は明らかになってしまう。

現状、我が国はクーデター側を支援した事実については沈黙を守っている。
公文書館に記録されているものを、改めて公表するメリットは全くないからだ。

だが沈黙が長引けば、それは不誠実な印象を与え、隠蔽したという風評が出来上がってしまう。
そして厄介な事に、インドネシアは今転機を迎えていた。

インドネシア大統領、ジョコ・ウィドド。

彼は零細企業から出発した資産家であり、エリートでもなく軍人でもない。
新しいタイプのリーダーであるゆえに、回答は慎重にやらなければならなかった。

しかし、なんだか奇妙な気分だった。

インドネシアでは忌避される記録。
「なかった事」にされている記録。

それが、我が国では容易に参照できるのだから──────

私の後頭部に、奇妙な痛みが走った。偏頭痛だろうか。
私は、素早く引き出しの中の頭痛薬を取り出しつつ、思案した。

この頭痛も何度目だろう。
インドネシアから、虐殺に関する問い合わせが来るたびに頭痛が走るのだ。

何かが思い出せそうな気がするが、思い出す事ができない。

白い霧が頭の中に浮かぶ。その向こうに何かが像を結ぶような気がした。
それから、何かを引っ掻くようなキーンとした音が聞こえた気もする。

だが、それがなんなのかは分からない。

長年、内勤をしているが、こんなことは────待て。
ふと我に返り、脳裏には一つの疑問が浮かび上がる。
自分は一体どれほど長い間、本庁で内勤をしていたのだ?
必ずどこかで、国外で仕事をしていた筈だ。それなのに、どこに居たのかが思い出せない。

私は不安になり、上長に体調不良を申し出た。

今日は帰ろう。何か、何かが思い出せそうな気がする。


20██年 東京都渋谷区世田谷区下北沢 骨董屋「九文字」差前鼎蔵さしまえていぞう

落ち着いた色調の店内には、茶碗や湯呑み、木製の椅子などが所狭しと並んでいる。
木製の棚には電球の暖かな光が照らし、それが心休まる空間を演出していた。

なかなかいい店だ。

俺、こと差前鼎蔵はハンチング帽のつばをいじりつつ、この店を値踏みした。

店内を見る、左手の木製の棚には茶碗、木椀、湯呑み、急須、箸置き、バッグ、工芸品、民芸品。
左手には、折り畳まれたちゃぶ台、ガラス戸の中にはアクセサリー類などが並んでいる。

店の端には、インドネシアの工芸品が並んでいた。
俺は、そのコーナーにゆっくりと歩を進めた。

壁には木製の仮面、かご細工、その中に見慣れぬ紋章がプリントされたペン立てを見つけた。
きんぽうげの花を模した紋章。

これだ、間違いない。

俺はペン立てを取り、レジへと向かう。
レジには、もう60も過ぎているであろう老人が一人、ラジオを聴きながら座っている。

「ああ、お買い上げですか」
「はい、これを一つ」
「500円」
「領収書お願いします」
「はいはい」

俺は、財布から500円玉を取り出し、老人に手渡した。
老人は毎度あり、と機嫌よく500円玉を受け取る。
やはりいい店だ、任務外でもここには立ち寄る事にしよう。

それから、領収書には酒井エコ・コンシャス・プラスティックスと記入する。
俺はここの社員ではないが、偽装身分としてこの会社に籍を置いている。

「なんかの会社の人?」
「ええ、リサイクル関係の商いをしてまして…そうだ、こういうデザインのものって他にもあります?」
「ああ、他にももう3点ほどあったんだが…まとめてお買い上げになった人が居てねえ」
「そうですか、残念だな」

────妙だな、これで三軒目だ。

俺のセンサーに、奇妙な感覚。
いやだな、面倒ごとでなければいいが。

「ありがとうございました、また来ますね」
「毎度、また来てね」

ひとまず、マクロラインを使ってサイトへ戻ろう。
俺は、地下鉄を目指した。


20██年 5月1日 群馬県山間部 サイト-8103 人型実体収容棟 差前鼎蔵

サイト間を繋ぐ機密地下鉄網「マクロライン」を使って30分、俺は財団のサイトへと辿り着いた。
マクロラインの気のいい運転手に挨拶を交わし、エレベーターで上層へと昇る。

エレベーターの先のライフルを背負ったセキュリティ要員にも挨拶し、IDを提示して廊下へ出る。
白い壁と白い廊下、道々には様々な人々が行き交っている。
白衣を着た研究員や、背負ったセキュリティ要員に挟まれて廊下を歩くDクラス職員。

俺はその一人一人に「よう」だの「久しぶり」などと、調子のいい声で挨拶を交わしていく。
挨拶は大事だ、その方が一日を気分良く過ごせるし、後ろから刺される確率を減らせる。
これは俺にとっては重要不可欠な信条だ。心地よい暮らし、楽な任務、これが第一。

部屋の一室にIDカードを翳すと、ドアが圧搾空気の音と共に開く。

内部は簡素な1LDKほどの広さになっており、リビングには二人の人物がテーブルについていた。

一人は、こざっぱり髪を短く刈った白衣の研究員。
もう一人は、ワイシャツにジーンズを来た、肌の浅黒いアジア系の顔立ちの男だった。

「どうも、諸知博士」
「お帰りなさい、エージェント・差前」

博士は機嫌よく、俺に応えた。
俺は、この博士が女なのか男なのか、今でも判然としていない。
見ようによっては男のようにも見え、女のようにも見える。
まあどちらでもいい、少なくとも今はこの博士が、俺の仕事の依頼人クライアント
俺にとっては、この関係性で充分だ。

「今はティータイムでしてね。エージェント・差前、貴方もどうです?」
「ええ、じゃあいただきます」

俺が椅子に座ると、諸知博士はカップにコーヒーを注いでくれた。

「博士、例のもん持って来ました」
「エージェント・差前、ご苦労様でした」

俺はカバンからペンケースを取り出し、諸知博士に手渡した。
これで任務完了、楽な仕事だ。こう言う仕事ばかりならいいのだが。

「おや、これは新しいタイプのアノマラスですね」
「俺にも、見せてくれませんか」

若干片言気味の日本語で、男が諸知博士にせがむ。

「どうぞ、POI-490-JP。これは、あなたのためのものです」

POI-490-JPはペンケースを受け取ると、しげしげと眺めた。

「懐かしいな…こいつは建国30年記念の時に売り出されたものだ」

その視線は、ペンケースの中央に刻まれた紋章に吸い込まれていた。

「ベクソン……」

POI-490-JPは、懐かしげにその名を呟く。
この男はSCP-490-JP初期収容時、オブジェクトと一緒に回収された。

「気に入って貰えましたか、POI-490-JP」
「ええ、そう、ですね」

POI-490-JPは、ペン立てを握り締め、感慨に耽っていた。
ベクソン、それがこの男の住んでいた国の名だ。

「しかし、よく見つけてくれましたね。これは新しい〝ベクソン・アノマラス〟ですよ」

ベクソン・アノマラス。

これは、SCP-490-JPが消去したというベクソン国の痕跡そのものだ。
日本国内では、こういったアノマラスがいくつか見つかる事がある。
俺は時折こういった品々を集め、サイトに納入する仕事を行なっていた。

「いいっすよ、仕事ですから。でも博士、一体なんなんです、これ」
「あなたもSCP-490-JPの報告書は読んだと思いますが」
「でもあの報告書が事実なら、なんでこんなものが」
「そうですね、ちょっと説明をしましょうか……いや」

諸知博士は立ち上がりかけ、POI-490-JPの方を向いた。

「やめておきましょう、貴方にとっては辛い話になるでしょうから」
「いや、いいよ。俺にも聞かせてくれ。なんで全部消えちまったはずのものが、ここにある?」
「わかりました、では──────」

諸知博士は立ち上がり、口を開く。
「SCP-490-JPは、ベクソン国改善装置の名で知られていました。その効果は、ベクソンという国に存在するあらゆるものを消去するというものです。POI-490-JPの証言によれば、最初は少数の人間が使い、その後SCP-490-JPはベクソン国内に流出した、ここまではいいですか?」

俺もPOI-490-JPもそれぞれ頷く。

「よろしい。問題は、SCP-490-JPが不特定多数の人間によって起動されたという事なのです。もしSCP-490-JPが過去改変をも含んだ現実改変アプリケーションであるならば、こう行ったものが同時に起動された場合、なんらかの干渉が発生する可能性があります。それも、我々の時空間に於ける時空間衝突が起きたという仮説が成り立ちます────ああ、エージェント・差前、コーヒーのおかわりはお好きに」

俺は頷きつつ、コーヒーポットからカップにコーヒーを注ぎつつ、諸知博士の言葉を待った。

────参ったな、この人の話、たまに長くなるんだよなあ。

「多重時空間干渉が発生した場合、どう行った事が起こりうるか?まず考えられるのは、効果が相互に打ち消される事ですね。もう一つは、干渉により、時空間に一種の合成波が発生する事です。こう行ったものが、同時にいくつも発生する事を想像してみましょう。すると、SCP-490-JPの使用者は同時に消去され、取りこぼされるものが出てくる────」

「その結果、ベクソン・アノマラスが生まれたって事ですか」
「どうやら私の話をきちんと聞いていたようですね。偉いですよ、エージェント・差前」

諸知博士は、できの悪い生徒を見るような目で俺を見つつ言った。
どうも、話を先に進めようとした俺の意図は早々にバレたらしい。

「つまり、POI-490-JPの証言が確かならば、SCP-490-JPの現実・過去改変にはムラが発生する可能性が高いという事です。消しきれないもの、取りこぼされたものがあったのだという事ですね」

「先生、俺は嘘なんか言ってない。あれは全部本当だ、本当に起きたんだ」

POI-490-JPは、必死の形相で抗弁した。

「分かっていますよ。だからこそ、エージェント・差前に貴方の国の痕跡を調べてもらっているんです」
「ああ、そいつは感謝してるよ……俺だって、まさかこんなに俺の国のものが見つかるなんて思ってなかった」

リビング内の棚には、いくつかのベクソン・アノマラスが置いてある。
ベクソン印、きんぽうげの花が印字された空の缶コーヒー。ベクソンの紋章が印字された傘。ペン、先ほど見つけたペン立て。そして、ベクソン印の消しゴム────

この僅かなベクソン・アノマラスが、この男の今は亡き祖国の面影を今に伝える遺品だった。

「そういえば博士、最近妙な事がありまして」
「なんです?妙な事というのは」
「実は、ベクソン・アノマラス、俺以外にも探してる奴がいるみたいなんです」
「ほう、それは困りましたね。ベクソンの文物については私も興味があるのですが」
「それ、専門外でしょ?」
「失礼な、〝オカルト研究〟も私の専門の一つです。ところで最近の研究で、SCP-490-JPには奇妙な特徴がある事が判明したんです。もう少しコーヒーを飲んでいって貰いますか」

失敗した────研究員は自分の分野となると話が長くなる傾向にある。
俺は自身の愚かさを痛感しながら、コーヒーポットから3杯目のコーヒーをマグカップに注いだ。


20███年 5月1日 世田谷区 外務省官舎 高木善一

頭が痛い。

若干ふらつく足取りを抑えつつ、私は自室に辿り着いた。

何か、何かがおかしい。自分の頭の中に、空洞がぽっかりと空いている。
私は、そんな奇妙な感覚に襲われていた。何か、決定的なものが足りないのだ。

それはなんだろう?何が足りない。
そもそも何が足りないのかさえ、思い出せない────いや?

そうだ、足りないのは記憶だ。
自分の脳にあるべき記憶が、欠落しているのだ。

長年の本省勤務。それは事実なのだろう。
だが自分は本省ではなく、どこか別の場所に居たはずなのだ。

玄関から寝室に向かう。私はひとまず、自分の記憶を漁ろうと思い立った。
しかし、あれはなんだったのだろう。何かを引っ掻くような、そんな音が聞こえた。

私は這々の体で、パソコンを起動する。自身の日記や備忘録などを過去に遡って探す。
しかし厄介だ。何かのキーワード検索をすればすぐ出てくるはずなのに、それが分らない。

数時間ほど備忘録と向き合った。

これ以上過去へ遡れば入省当時の記録に行き着いてしまう。
今度は電子化されて居ない手帳のメモを見る、これも不明。

そして私は、鍵のかかった机の抽斗ひきだしがあった事を思い出した。
鍵を探す、あっさりとそれは見つかった。小さな鍵束をいつも財布に入れていたのだ。

鍵を試す、抽斗の鍵が開いた。

抽斗を開くと、中には入省当時のメモ、銀行の通帳などをはじめとした有価証券。
それを全て机の上に出した。すると、書類の下から何かがころり、と転がり出た。

それは、一本のUSBメモリだった。

私はそれを、PCのUSBポートに恐る恐る接続した。

ドライブが読み込まれ、autolun.exeが起動する。
画面上に、私が見たこともない異国の文字で書かれたランチャーが起動した。
インストールボタンと思しきものをクリックすると、数秒でインストールが完了する。

そして、画面上にシンプルなウィンドウが表示された。

そこで、再び私の鼓膜を奇妙な音が襲った。
まただ、何かを引っ掻くようなキーンと言う音。

これが、この記憶の欠落の正体なのか。

だがしかし、これは……この言語は一体何なのだ?

すると、チャイムが鳴った。
こんな真昼間に誰だろう、新聞の勧誘なら断った筈だが。
私はおずおずと、玄関へと向かった。


20██年 5月1日 国際情報統括官組織 第五統括官室 統括官 久多良守也くたらぎもりや

「〝やっこ〟さん、動きありました」

久多良は、国際情報官の遠藤健えんどう けんより報告を受けた。
折部の端末には、宿舎のドアから引き摺り出される〝奴さん〟こと高木善一の姿が映っていた。

国際情報統括官組織は、外務省内に設置された諜報機関インテリジェンス・コミュニティである。
世界各国に存在する日本大使館、それを軸に対外情報を収集するのが本来の役目だ。

これらの情報統括官組織は4つまでの統括官室を持っている。
そして、表向きには存在しない事になっているのが、この第五統括官室だ。

「よし、予定通りだ。遠藤、お前は〝奴さん〟を徹底的に追尾しろ。いいか、追尾以外何もするな」
「了解しました、〝視察〟体制は既に整っています。現場に向かいます」

戸部は素早く、部屋を出た。
久多良は、案外事が素早く進んだのを好ましく思っていた。

外務省情報統括官組織。外務省直轄の諜報組織とは言え、その扱いは過小評価されていた。
少なくとも、現場を預かる久多良はそのように考えていた。

そもそも、国内に於ける諜報組織群は非常に多い。
その中でも最たるものは警察庁公安部の擁する公安警察、次いで公安調査庁だ。

しかしながら久多良は、外務省情報統括官組織こそが諜報機関の理想形であると考えていた。
この組織のモデルとなったのは英国諜報部、SISである。

SISはその命令系統上、英国外務英連邦省を頂点に頂く組織となっていた。

本来諜報組織とは、外務省がその頂点となって集約されるべきだ。久多良はそのように考える。
そして、この対超常情報調査機関としての第五室もまた、それと同様に拡充されねばならない。

だが、現今の体制下ではそれは難しく、大概は財団とGOCの行動を追認するのみとなっている。
この状況では、日本国内及び国外の危険な超常存在情報を集約する事など不可能。

今回の追尾。これは、数年をかけて準備してきた秘策でもある。
我々はただ、事の成り行きを見守っているだけでいい。


群馬県山間部 サイト-8103 人型実体収容室 差前鼎蔵

「────まず、第一に」

俺は、話が長くなるのを覚悟しながらコーヒーを啜った。
ふと俺の耳に、陶器のポットがカタカタと震える音が届いた。

POI-490-JPが震えている。

「おや、これは────聞こえたのですか?POI-490-JP」

諸知博士がPOI-490-JPに、不審な事を尋ねる。

「あ、ああ────まただ、また聞こえた。あの音は────ベクソン、改善装置、の」
「落ち着いてください、POI-490-JP。今状況を確認します」

諸知博士は携帯端末で、各サイトの状況をチェックした。

Terminal #062


------
Welcome, User
------




エリア81-系列緊急状況確認サービスにようこそ。
現在のエリア81の各サイトのステータスは以下のようになっております。
サイト-81-01系統:グリーン
サイト-81-02系統:グリーン
サイト-81-03系統:グリーン
サイト-81-04系統:グリーン
サイト-81-05系統:グリーン
サイト-81-06系統:グリーン
サイト-81-07系統:グリーン
サイト-81-08系統:グリーン
サイト-81-09系統:グリーン
全システムチェック完了 STATUS GREEN

全系統異常なしコンディショングリーン

「博士、〝聞こえた〟ってのはどういう事ですか?」
「ちょっと待ってください────POI-490-JP、この錠剤を飲んでください。鎮静剤です」
「博士……大丈夫、なんだな?だ、誰も消えたりしないよな?」
「大丈夫です、さあ鎮静剤を……良し。もう大丈夫ですよ」
「ああ、先生。俺は大丈夫、大丈夫だ」

俺は状況を把握出来ず、POI-490-JPの背中をさすってやる事しか出来なかった。

「私から説明します、結論から言うと、SCP-490-JPは起動された時点で、なんらかの高周波を発生させます」
「高周波?犬笛みたいなもんですか?」
「そうです。それが今、発生した────これで3回目です」
「3回目?どう言うことだよ、収容違反じゃないのか?それ」
「ええ、実際それに近い事象が発生していました。しかしそれは既に鎮圧済みです」

なにやら話が面倒な方向に振れてきたぞ────俺の本能が、アラートを発していた。

「少し待ってください。これは私達の権限でどうにかできる事ではないかもしれません」

諸知博士は、手元からスマートフォンを取り出してどこかに電話した。
嫌な予感がする。可能な限り関わりたくなかった、例の場所の気配がする。

「ええ、はい。私です。ええ、ちょっと面倒な事になりました、はい、はい」
「なあ博士、俺はちょっと用事があるんだ。義妹いもうととお茶をする約束で────」
「ええ。はい。一人居ます、ええ。そちらの人員との面識も、ありますね」

諸知博士は俺を見た。やめろ、何なんだよ、勘弁してくれ。
面識────そういえば最近、育良・速水・ロロの姿を見ない。
どこかの特務機関に配属されたって話を聞いたが、まさか、まさかな。

噂によれば、海野と西塔は彼らと共に、幕僚部政治局で暗躍の日々を送っていると言う。
まあ、海野は元々諜報畑の人間らしいし、西塔はどんな仕事もそつなくこなす。
だが政治局、あれは呪われている。面倒ごとしか降ってこない部署だ。

政治局長が反逆罪で逮捕され、ついでに日本支部理事〝獅子〟もまた同じ運命を辿っているのだ。
現在政治局長は後任が見つからず審議中、代理を務めているのはよりにもよってあのロシア人だ。

そんな部署に関われば、絶対面倒ごとに巻き込まれるに違いない。
そもそも俺の今日1日の予定はどうなるのだ、義妹とのデートは?

「ええ、了解です。提供できるデータは全て、はい。では頼みましたよ。イヴァノフ政治局長代理」
「用事ありますんで、これで」

用事も済んだので早々に立ち去ろう、アディオス。
立ち上がろうとした俺の腕を、諸知博士が掴んだ。

「サイト-8100へ行ってください、今すぐに」

俺は、自らの明瞭だった前途が暗雲に包まれるのを実感していた。
そして────義妹、串間小豆とのデートの約束を反故にしてしまう事、その言い訳を考えねばならぬ事。
そして彼女はサイト-8100に勤務していると言う事実を脳裏に喚起し、大いに落胆する事になったのである。


20███年 5月1日 世田谷区 外務省官舎 差前鼎蔵

午後の日差しが、俺たちを柔らかく包む。
若干暑さを感じるほど春めいてきた気候の中、俺たち3人は官舎へとたどり着いた。

「随分と早く判明したもんだな、都合が良すぎやしないか?」

俺は他人事のように言った。

「諸知博士が周到な人だからだろ?諦めて仕事しようぜ差前サン」

俺の隣には、目つきの悪い女────西塔道香さいとうみちかが居た。
敬語を使いながらもその敬意を全く感じさせない、その絶妙な語調を俺は味わった。

この女、ほんと、ほんっとにほんと、もう。
俺は全身がムカデに覆われるかのような痛痒感を味わった。

そして「ああやっぱり」と言う感じで西塔の横にいるのは、顔の薄い腕利きスパイ、海野一三うんのいつみだ。

俺たちがここに集う事になったのは、無論理由がある。

諸知博士は、SCP-490-JPが発生させる高周波の周波数を、かなり早い段階で突き止めていた。
そしてその高周波を、東京都内を飛び回っている財団のドローンがキャッチしたのだ。
それから、この高周波発生時には、周囲の電子機器にノイズを発生させる事も判明していた。

博士は財団のカメラ網をサーチし、そのノイズを発生させたエリアを突き止めた。
その中心地が、ここと言うわけだ。しかし、ここは官舎。巨大な集合住宅である。

この中からノイズの発信源を探し出すのは至難の業だろう。

「おい、どうやって探しゃいいんだ?」

俺は西塔に尋ねた、いい回答が帰ってくるとはあまり期待していなかったが。

「頭使えよ。こういう時は機械に頼ればいい。監視カメラの映像漁ろうぜ」
「なんか、お前にそれ言われんのめちゃ腹立つな」

全く失礼な女だ。

西塔の提案により、財団のネットワークを通じて外務省官舎の監視カメラの映像をチェックする事にした。
すると意外にも、今日の特定の時刻が不自然に削除されている事を発見できた。

携帯端末を取り出して数分、確認作業は終わった。

────こう言うところが、財団うちの強みだよな。

俺はしみじみと現在の立場に感謝した、すぐに仕事が終わればそれでいい。

削除された監視カメラのフロアは10階のものだった、これで階数は特定できた。
俺たち三人は、エレベーターで10階まで上昇する。

「さて、階数は特定できたが次は部屋番か……総当たりかな」

エレベーターの中で、俺は若干うんざりしながら言った。

「それなんですが、今回の件の管理官コントローラーから情報が来る筈です」

再びうんざりした。それは、今回の件に俺を巻き込んだ張本人の話だったからだ。
黒幕はイヴァノフ。そして今回の件の雑事担当は、ミスター天下り官僚こと道策常道だった。

「あいつの鶴の一声さえなけりゃ、俺は義妹いもうととデートしてたんだがね」
「それは……残念でしたね」
「うるせえ、お前に俺の悲しみがわかるかよ」

10階についた、すかさず周囲を探索する。

「クリア」

海野が淡々と言う。

────荒事になるかな、こりゃ。

俺は、春物のコートの下に隠したグロック17の存在を意識した。
同様に、西塔、海野も銃を帯びている。それを使う羽目にならなければいい。

俺のポケットの中で、スマートフォンが振動した。
発信元はサイト-8100の秘匿回線。

相手は総合企画局JAGPATO専従、道策常道。
俺は不承不承、即座に出る。

「はい、差前」
「道策だ。単刀直入に言う、今回の件はJAGPATO案件となる目算が極めて高い」

おいおい、切っていいか────俺はスマートフォンを床に叩きつけたい気分になった。

「説明、お願いしていいっすか?」
俺は、道策に遠慮なく言った。デートの約束をフイにしたのだから当然の権利だ。

「端的に言うよう努力する。ノイズの発信源の部屋番号は10-12」
「随分詳細ですね、なんか根拠でも?」
「諸知博士と、こちらのソースを合成した情報だ、あてにして貰っていい」
「そりゃどうも、種明かしは?」
「外務省の超常機関が奇妙な動きをしている、どうやら我々と同じ対象を注視していたらしい」

多分恐らく外務省に潜り込ませた財団の〝もぐら〟からの報告だろう。
だが、恐ろしくどうでもいい話だ。
帰っていいか?俺はその言葉を脳裏に紡ぐのに精一杯だった。

こうしている間にも、チャットソフトは義妹からのメッセージを小さく表示している。
〝にいさまの嘘つき〟〝約束だったのに〟〝大嫌い〟

この言葉の一つひとつが俺の心を貫き、抉り続けていた。

「了解。それと道策さん、ちょっと気になることがあってさ、いいかな」
「何かね」
「ハゲろ」
「子供じみた物言いはやめたまえ、串間嬢の機嫌が悪いのは私も知っている」
「誰が原因だと思ってんだよ、誰が。この天下り役人、切るぞ」

通話が切れた。

「はい、部屋番号判明。ちゃっちゃと行こうぜ」

海野は、若干申し訳なさそうに頷く。
西塔はそれにあくびで応答した。

10-12号室のドアを引く、先頭は西塔だ。

「おい、空いてるぞ」

鍵はかかっていないようだった。

西塔はドアの隙間に拳銃を差し込み、一気に開く。

西塔が銃を構えて突入、尖兵ポイントマンとして室内の状況を探りつつ、続いて突入。
廊下は真っ暗で電気は点いていない。右側のドアを開く、バスルーム、クリア。
左のドアは寝室、クリア。西塔は廊下の奥のドアを開く、リビング、クリア。
そして、ベランダは無人。

俺は寝室に侵入、部屋の内部に画面が点いたままのPCモニターを発見した。
そして、開きっぱなしの机の抽斗ひきだしを見た。

「どうやら先を越されたらしいぜ」

推論、10-12に住まう高木何某は、オブジェクトを所有していた可能性が高い。
そして何者かは、オブジェクトを奪い、高木何某を拉致して逃亡した。
監視カメラに偽装映像すら挿入せずにいたところを見ると、随分と焦っていたのだろう。

「CI、かな」

海野が呟いた。

「この押し込み強盗の手口はカオスゲリラの独立分隊ですね。彼ら、追い詰められているんじゃないかな」
「そうだろうよ。追い詰めたのは海野おまえも含まれるけどな」

1月に発生したクーデター紛いの反乱事件。
それは現在もなお、財団の組織に無視できぬほどの混乱を招いていた。

「僕はいつも通り仕事をしただけです、実際に追い詰めたのは────」
道策メガネだろ、あの役人、ほんとクソ真面目だからな」

1月の事件で、道策はGOCと連携しつつ事態の収拾に当たった。
そのため、CIの国内勢力は現在明らかになっているものの多くが補殺されたと聞く。
あいつらの行動に余裕がないのも、それが大きな影響を与えていると思われた。

「おい、じゃれてる場合かよ」

西塔の目つきが余計鋭くなった。

「どうすんだ?手ぶらで帰っていい雰囲気じゃねえぞ?」

どうやらこの女は今、機嫌が悪いらしい。
俺は不承不承、打開策を考えていた。
そしてその策は、なんだか当たりそうな予感もしていた。

「こう言う時はな、頭と足を使うんだよ」

俺は、もうどうにでもなれと言う気分で言い放った。


20███年 5月1日 千代田区 神田神保町 差前鼎蔵

ベクソン・アノマラスを巡る旅路が始まった。

俺は渋る西塔をなだめつつ、自身の情報網でベクソン・アノマラスを取り扱っていた店舗を巡った。
これでもう十件目になる。今のところ収穫は一切無い。

「なあ差前サン」
「なんだよ」
「こういう情報ってさ、どうやって仕入れてんだ?」

なるほど、こいつも多少は先輩に敬意を持つようになったか。
俺はそう思い、企業秘密を少しだけ開陳する事にした。

「俺は世間に顔が広いの。ベクソンのマークのブツがあるかどうか、人力検索できるんだよ」
「Hit数ゼロだろ」

やはり敬意などなかった。
俺はその事実を改めて実感し、大いに落胆した。
本日二度目の落胆だ。勘弁してくれ。

「うるせえ、嫌なら帰れよ」

俺は口を尖らせつつ、小さな古書店の入り口を潜った。

店内にはSFの書籍が多く並び、カウンター近くの棚にはにほんの少しの実用書が並んでいる。
多くは英和辞典、ついで技術書などが揃えられている。

「どうも、ご無沙汰してます」

俺は初老の店主に挨拶をした。

「ああ越後さん、どうも。例のモノだけどね……もう売れちゃった」
「そうですか、残念です。どんな人に売ったか、覚えてます?」

そう言いつつ、俺はカウンターに封筒を置いた。
ちょっとした付け届け、この店主とはもうなんどもこう言うやり取りをしていた。
「ああ、それはちょっとねえ……悪いなあ、商売としては。でもいいか」

店主は客の人相風体を説明した、俺は聞きつつ店内の様子を再度観察する。
監視カメラ発見。このタイプなら、記録に侵入するのもたやすいだろう。

「ありがとうございます……で、どんな本でしたっけ」
「ああ、何語かわかんないけど……インドネシアかどこかの辞典だったよ」

俺の背筋に怖気が走った。

ヤバい、奴らが手に入れたのはベクソン語辞典だ。


20██年5月1日 千代田区紀尾井町 清水谷公園 幕僚部総合企画局員 道策常道

道策は日差しの中、ある男を待っていた。
平日という事もあり、公園には人通りも少ない。

非公式な会合には、絶好のロケーションと言えた。

道策は所定のベンチに腰かける、特に異常はない。
ふと道策の視界に、やけに背丈の低い男が現れた。

身長は154cm程だろうか。
黒いスーツを纏った子供のような、奇妙なシルエットだった。
男は道策の前で立ち止まり、無言で道策に名刺を手渡した。

東弊重工総合庶務 鴻池平蔵こうのいけへいぞう

髭面。そしてノーネクタイ主義なのか、ネクタイはつけていなかった。
外見は30代後半から40代と言ったところだが、この男が実際何歳なのかもわからない。
そもそも彼が財団の歴史上に登場するのは1945年頃。実年齢は98歳になるはずなのだ。

「今回は非公式インフォーマルな会合にお付き合いいただき、ありがとうございます」
道策は立ち上がると、小さく頭を下げた。

鴻池はそれに応えず、間隔を大きく開けてベンチに座った。

「最初に言っておく。俺はあんたたちが嫌いだ。だが必要ともあれば会合もするさ」
「それでは、受け渡しを」

鴻池はカバンから分厚いA4サイズの封筒を取り出し、投げるようにベンチに置いた。
道策はそれを受け取り、封筒の封印を開いて素早く中身を確認した。

「で、見返りはどうなる?」
「無論、ご用意できますよ」
「返してくれるんだな、ウチの下請け」

数ヶ月前、東弊重工は、〝なんらかの超常ソフトウェア〟の開発を行なっていた。
諸知博士の知見により、これがSCP-490-JPの複製である事が判明する。

財団は東弊重工の拠点を襲撃し、そこで働いていた人員全てを捕縛した。
東弊の関連企業という事もあり、襲撃は予見されていたようだ。
全員が口を固く閉ざし、目的、依頼人クライアントなどの情報は得られていなかった。

しかし、イヴァノフは今回の件と3か月前の事案に関連性を見出した。
そして政治局長としてのコネクションと非公式なルートを総動員し、鴻池に渡りをつけたのである。

「話は終わりか?天下り役人」
「ええ。ですが、彼らは末端組織だ。その彼らと交換とは、正直驚きました」

鴻池はその言葉を聞くと、信じられない、というような顔をした。

「本気で言ってるのか?あんた」
「ええ、これは興味本位の質問ですが」
「あんた、俺と同じ立場ならどうするんだ?悪魔とだって取引するだろうが?」

道策は、ほんの少しの間目を閉じて考えた。

「ええ、そうします」
「そうだろ。それが答えだ」

そう言うと、鴻池は立ち上がって歩き出した。

彼はふと後ろを振り返り、叫んだ。

「全員返せよ!」

彼はそれだけ言うと、足早に歩き去った。

道策はスマートフォンを取り出し、素早くコールする。

「道策です。東弊のクライアントが割れました、CI及び経済産業省です」


20██年 東京都国分寺市 CIセーフハウス 高木善一

私は手元の辞典をめくりつつ、翻訳作業を進めていた。
始めてからもう2時間は経過している。

私は突然拉致され、注射を打たれて意識を失った。
気がつけば、見知らぬマンションの一室に私は拉致されていた。
4人の男たちに囲まれ、私の両腕には手錠がかけられていた。

「どこなんだ……ここは。貴方達は誰、なんですか?」

一介の官吏でしかない私を拉致するような理由など、考えつかないが。

「どこでもいい、俺達が何者なのかも気にしなくていい」

男は私に銃を向けた。

「俺たちの言う事に従ってもらえれば、それでいい」

私はそれを見て、頭痛を催した。
初めて見るはずの銃なのに、どこか懐かしい、どこかで見たような、そんな感覚がした。
しかし、彼らの要求とは一体なんなのだろう。

男は、私に一冊の辞書を投げ渡した。
見知らぬ国の言語が記載された、英訳の辞典だった。

それは、ベクソンという国の辞典だ。

そして、男は10枚ほどの44サイズの紙を10枚床に投げた。

「これを翻訳しろ、従うなら手錠は外す。翻訳作業が終われば家に帰してやる」
「わ、わかった……従う、翻訳すればいいんだな?」

私はそれを承諾した、承諾せざるを得なかったと言うのが正しいが。
銃を持った男に徒手空拳で立ち向かえるほどの蛮勇を、私は持ち合わせていない。

そして私は手錠を外され、部屋の奥にあるデスクについた。

辞典をめくり、それを英語から日本語へと訳していく。
三つの言語を相手に格闘する作業は極めて難しく、1時間でようやく用紙一枚分を翻訳できる程度だった。

しかし、私の脳裏には奇妙な感覚があった。
見知らぬ言語の筈なのに、どこか懐かしいような感覚があった。

翻訳作業の能率はどんどん上がっていった。
間違いない。かつて自分はこの言語を第二の母語としていた。
それを読み書きし、発音していたという確信が、私にはあった。

しかし、これはどういう事だろう?

だがそのせいか、翻訳作業はかなり進んだ。
どうやら彼らが訳すように言ったのは、何かのプログラムのマニュアルらしい。

そのマニュアルには、剣呑な言葉が並んでいた。
「社会に不要な要員」「消去」「義憤」「正義の達成」などだ。
このプログラムは、「社会に不要な要員」を「消去」するためのものらしい。

すると、再び頭部を鋭い頭痛が襲う。

本日より、この国にマスメディアなるものは存在しなくなった、国民各位は──────

今度の頭痛は凄まじかった。まるで脳の中で何かが成長していかのような痛み。

我々「きんぽうげと偃月刀の会」は、ベクソンに於ける不要な因子を排除する

頭の中に、次々とイメージが受かんでくる。
TV画面の中で、一人の男が何かを口やましく喋っている。

この「改善装置」により共産主義勢力や売国奴を国家から一掃し、真の────

「おい、手が止まってるぞ」

私の作業の手が止まると、男達は容赦無く私を殴りつけた。
衝撃を感じた、口の端が切れ、血が流れ出す。

────いやだ、死にたくない。

私は仕方なく、翻訳の作業を再開した。


20██年 東京都国分寺市 CIセーフハウス CI工作員 ██████

〝アノマラス〟の翻訳作業は順調のようだ。
現在はテスト段階だが、これならば早々にオブジェクトを稼働段階まで持っていけるだろう。

しかし、問題が発生した。財団は早々に我々の人着を確認したようだ。
事実、我々が使う予定の便は現在〝航空機トラブル〟によって欠航している。
恐らくは財団の差し金。このまま国外に逃亡するつもりだったが、予定が狂ってしまった。

もう、行き先を変更手続きの時間はない。すぐにでも〝飛ぶ〟必要がある。

しかし、なんの問題もない。行き先はいくらでもある。
CIの空間跳躍ポータル発生装置を使えば、距離など関係はない。
無論、こう言ったポータルの使用はGOCが目ざとく監視している。

ならば、行き先は超常技術パラ・テクの使用に寛容な場所しかない。
行き先はいくつかあったが、最適の場所は一つしかない。

スリー・ポートランド

行き先は、そこしかない。
スリー・ポートランドは、米国はオレゴン州ポートランド・メイン州ポートランド・イギリスのポートランドの三つのポータルから侵入可能な小宇宙型都市国家だ。

そこなら、荷物を〝バラせる〟と、█████は考えた。

まず、ポートランドへゆき、その上でCIの技術者を呼ぶ。
ダメなら、ユーテックからでも呼び寄せる。実際それは難しくない。

その上で荷物を解体し、脳だけにして情報を吸い出す。

██████は即座に決断し、仲間を集めた。

リビングに四つの金属球を並べ、しばらく待つ。
ラジオの空電のような音が鳴り響く。
この球体は今、スリー・ポートランドのポータルに割り込んで侵入経路を作っている最中なのだ。

そして、空間にバスケットボールほどの大きさの球体が出現した。

球体は東京、ニューヨーク、北京、香港、アマゾンの大樹林、ソマリアの荒野、サハラ砂漠などの映像をランダムに映し出す。

そして球は膨張し、スリー・ポートランドの摩天楼を映し出した。

あとはこの球体に身を投じるだけだ。

だが、球体に奇妙なものが写り込んだ。
視界の右側から、ハンチングを被った男が横切る。
そして、男は自分たちに銃口を向けた。昔映画で見た、銃口視点ガンバレル・シークエンスのように。

それが、█████がこの世で見た最後の光景だった。


東京都国分寺市 CIセーフハウス 差前鼎蔵

「突入」

俺達はポータルに飛び込んだ。

即座に周囲を確認。
そこはマンションの一室だった。
足元に、頭から血と脳漿を床にぶち撒けて動かなくなった男の死体が一つ。

「奇襲で一人倒れた、残り三人!」

俺は索敵結果を叫んだ、敵との距離が近すぎる。

「西塔!」

俺が叫ぶと、西塔は足元の球体を蹴り飛ばした。
あれはCI謹製、次元ポータル発生装置だ。

4つの球体が発生させていた力場がバランスを崩し、ポータルは消失した。

その隙をついて、男が西塔へと突進した。男の身長は高く、西塔のそれを凌駕していた。
大きな手で、西塔の両手を掴み、動きを封じにかかった。

「この野郎、デカブツが!」

海野にCIエージェントが摑みかかる。

俺が西塔に目をやった瞬間、前面に居た男が勢いよく回し蹴りをかける。
腕をクロスして素早く回し蹴りを防ぐ。

俺の右手には拳銃、そして左手には素早く抜き放った小ぶりのナイフ。

西塔は男に両手を捕まれ、動きが封じられていた。
みしり、と西塔の骨が軋む。強化手術でも受けているのか、男の膂力は西塔のそれを凌いでいた。

男は笑みを浮かべる、このまま腕をへし折ればこの女は戦闘不能。

────った

確信した瞬間、男の視点はぐるりと反転していた。

西塔は自らバランスを崩し、身を床に横たえつつ男の腹を蹴る。
鳩尾みぞおちに強烈な一撃を受け、男の意識が一瞬途絶えた。

西塔は蹴りの衝撃を生かし、我流の巴投げを放つ。

巨体が壁に衝突し、大きな音を立てた。

海野は突進してきた男の片腕を掴むと、ワンステップで男の右側面に移動、そのまま足を払った。
鮮やかな「足払い」の型であった。エージェントはもんどり打って倒れる。

そして俺は、前面の男の足にナイフを突き刺していた。
血が流れ、一瞬男の集中が切れたのを俺は見逃さない。
即座に男の顔面に掌底を叩き込むと、男は後ろ向きに吹っ飛んだ。

────財団神拳だか何だか知らないが、訓練を受けた甲斐はあったようだな。

三人のCIエージェントが床に倒れた。この間、一分も経ってはいない。

倒れる三人の男の脳天に、それぞれの銃口が向けられた。

減音器サプレッサーから漏れる圧搾空気音、地面を転がる薬莢の金属音、男達が斃れる鈍い音。
俺、海野、西塔。三人の正確な射撃で、CI工作分隊は即座に全滅した。

今日「音を鳴らす」のは、これが最後であって欲しい。
俺は心からそう願った。

CIの連中の行き先は概ね予測済みだった。
イヴァノフと道策は、彼らの行き先はユーテックか、スリー・ポートランドであると当たりをつけていた。
その上で、彼らは俺達をポータルで、スリー・ポートランドに渡航させていた。

2つの選択肢のうち、ユーテックは彼らにとって望み薄だった。
ユーテックはGOC108評議会のうちの一つ、〝珪のノルニルの使者〟の監視下に置かれているからだ。

ともなれば、選択肢はスリー・ポートランドのみになる。

あとは簡単。ポートランド内のポータル発生状況については、UIUが検知している。
その情報を傍受し、俺達は現場に急行、見事先回りに成功したというわけだ。

銃を構えつつ、マンションの室内を探索する。

寝室の奥に、一人の男がデスクに座っていた。
顔にはいくつかの痣、だが生きている。

「外務省の高木善一さんですね、お迎えに上がりました」

俺は笑顔でそう告げた。

どうやら今日の仕事は、これでもうほとんど終わりらしい。


20██年 東京都国分寺市 国際情報官 遠藤健

差前達がCIのセーフハウスから出てくる所を、遠藤はセーフハウスの窓から確かに確認した。

「録画したか?」
「はい、確かに」

遠藤は傍に居た部下に確認した。

これでいい、少なくともオブジェクトの収容違反は実際に起きていた。
あとはこれを持って、JAGPATOに持ち込むだけでいい。
GOCを抱き込んで、財団の収容プロトコルの不徹底を糾弾する。

これは始まりにすぎない、外務省国際情報統括官組織が飛躍するための踏み台だ。

圧搾空気と、空気を切り裂く音が聞こえた。

傍の部下の額に穴が空き、血が飛び散った。

「ごきげんよう」

遠藤は後ろを振り返ると、そこには一人の白人男性が立って居た。
消音銃付きの拳銃を持った部下を二人ほど伴って。

遠藤の部下は、三人ほど居たが、既に物言わぬ死体と化している。

「エージェント・マクリーン────」
「私を知っているとはなんとも光栄だ、だが君は失敗したね。我々のプロトコルの不徹底を突き、財団エージェントとCIの争いから漁夫の利を得ようと思ったのだろうが、甘かったな」

マクリーンは得々と語った。

「これは外務省独自のオペレーションだ、財団そちらの関与する余地はない」

遠藤はこの状況に置かれてもなお、打開策を見つけようとしていた。

「そもそも、オブジェクトに関与した可能性の高い職員について情報共有を行ったのは財団からだ。我々はその監視を行っていたに過ぎない。後々後悔する事になるぞ?君たちは我が国の主権を────」

「抗議があるならば、尋問室で伺うとしよう。連れて行け」

遠藤の背後に男が立ち、両肩を掴んだ。
そして、顔に黒い袋を被せた。

「やめろ!やめ────」

無様に抵抗する遠藤の腹を、部下が思い切り殴りつけた。
思い拳が遠藤の腹に突き刺さるが、それでも遠藤は瀕死のゴキブリのように足をバタつかせた。

無様に抵抗する遠藤を、部下達が引きずっていった。

これで良し。黒幕の経済産業省の直接関与の証拠は掴んだ、いずれ彼らにも制裁を加えねばなるまい。
しかし────ふとマクリーンは、マンションの部屋の狭さに気づいた。

日本の家屋は狭苦しい。マンションでも1LDKが基本とは、彼らは息が詰まらないのだろうか。
もっとも、こういった構造のお陰で、盗聴は大変に容易だ。

彼は私たちが、同じフロアに潜んでいた事にさえ気づかなかったのだから。


20██年 5月1日 国分寺市 高木善一

私は、ハンチングの男についていく事にした。
窮地を脱したものの、自分がこれからどうなるのか全く予想がつかない。

「安心してください、あなたは〝保護〟対象ですんで」

差前と言う男はそのように言った。だが、それでも不安は拭えない。
マンションから出ると、私は車に乗せられた。
運転手は顔の薄い男、助手席には目つきの悪い女が乗っていた。
彼らはどこからか、車を見つけてきたのだ。

「とりあえず、乗ってください」

私は不承不承、車に乗った。
窓の外に流れる街並みは、賑わっているようで古錆びていた。
集合住宅が多いのを見ると、ここは西多摩のどこかであるらしい。

「ああ、ここは────国分寺らへんですね。いやほんと、探すのに苦労しましたよ」

不安がる私の思考を見透かすかのように、差前が言った。

「あの、私はこれからどこへ連れて行かれるんですか?上司にも報告しないと」
「すんません、その必要はないです。というか、されるとちょっと面倒でして」
「なら教えてください、行き先だけでも」
「地下鉄に乗りましょう、その方が早い」

差前は事もなくそう言った。

だが、西多摩に地下鉄が開通したという話は聞いた覚えがない。

「心配すんなよ、あんたはただ従ってりゃいい」

目つきの悪い女が、意味ありげに言った。

「お前な、せっかく救助した対象をビビらせてどうすんだよ……大丈夫ですからね」

差前は急いでその場を取り繕った。
車は桜良心製薬ビルの、地下駐車場にたどり着いた。

車から降りると、差前は駐車場の端を目指して歩き出す。
金属製の扉の前まで来ると、差前はそこにIDカードを通した。

扉が開き、白い照明の長い廊下が見えた。
廊下を歩くと、突き当たりはエレベーターになっていた。

────何なんだ、ここは?

エレベーターに乗り、さらに地下へ。

────彼らは一体、何者なのだろうか。

私の不安をよそに、エレベーターは地下に到着した。

そこは、確かに地下鉄の駅だった。
だが奇妙な事に、客どころか駅員は一人もいない。

国分寺 桜良心製薬ビル

これが、駅の名前だった。
すると、奇妙に軽快なリズムのチャイムが鳴った。

「22時20分発 業務用路線 サイト-8103直通マクロラインが到着します。職員の皆様は、黄色い点字ブロックの後ろに下がり、お待ちください」

そして電光掲示板が、電車の到着を伝えていた。

電車が参ります

22:20 特急サイト-8103直通

22:40 快速サイト-8104直通

黄色い点字ブロックまで下がって お待ちください[]

すると、流線型のラインを持つ車体が駅に滑り込んできた。

運転席のドアが開き、車掌の制服に身を固めた男がホームに降り立つ。
その制服は、昔の国鉄の車掌のような、若干古めかしいデザインだった。

「国分寺桜良心製薬、国分寺桜良心製薬。お降りの職員は手荷物の確認願います」

車掌のアナウンスが響く。
これは、都内の地下鉄の光景と特に変わりがなかった。

客車のドアが開き、数人の男女が列車から降りる。
共通点は、誰もが白衣を着ているという点だった。

「おお、お疲れさん!」

差前は、車掌に手を振った。

「差前さん、早いとこ乗ってください!臨時編成ですんで、あとがつかえるとマズいんスよ!」
「おう、ありがと!じゃあ、行きますか」

私は存在しないはずの奇妙な地下鉄の客車に、仕方なく足を踏み入れた。

「ドア、閉まります」

電子音と共に、ドアが閉じた。


20██年 5月1日 サイト-8103 高木善一

今私は、彼らの〝サイト〟に居る。

白い廊下を歩いた、刑務所のような奇妙な施設だ。
俺は一体、これからどんな目に合わされるんだ。

しかし、私はハンチングの男の後をついていくしかなかった。
廊下の一室に入る。そこには白衣を着た人物と、肌の浅黒いアジア系の男が居た。

アジア系の男は、私にとってどこか親しみのある風貌をしていた。

「ああ、お帰りなさい。エージェント・差前」
「博士、オブジェクト及びアノマラスの回収、完了しました」
「ご苦労様でした」

差前は、PCとUSBメモリ、そして私が訳した紙の束、それから辞典を博士に一つづつ手渡した。

「辞典があったとは収穫でしたね、これでベクソンの文化をより知ることができます。ところで……」

博士と呼ばれた人物が、私を見た。男なのか女なのか、判別し難い。

「その方は?」
「〝ベクソン・アノマラス〟ですよ。多分、最後のね」

〝ベクソン・アノマラス〟?どう言う事だ?

「どういう事か説明して貰えますか?、それからあなたがたもかけてください」

私の疑問を引き継ぐかのように、博士が言った。
私たちはテーブルに腰掛けた。どうにでもなれ、と言う気分だった。

「諸知センセイ、酒は?」
「コーヒーがあります、ドーナツもね」

西塔、と言う女性がべらぼうな要求をしたのに対し、諸知と呼ばれた白衣の男は笑顔でそれを無視した。
海野と言う顔の薄い男が、全員のマグカップにコーヒーを注いで回る。

「では、説明して貰いましょう。この方が、アノマラスだという理由について」
「ベクソン・アノマラスはブツだけじゃないって事です」
「それは、興味深いですね」

コーヒーを飲みつつ、諸知博士は興味を示した。

「SCP-490-JP〝ベクソン改善装置〟、POI-490-JPの話が確かなら、こいつは同時に起動したって事になります。ここまではいいですよね」

その言葉に、私はびくり、と反応した。
POI-490-JP、と呼ばれた男性も同様の反応を返した。
西塔は、諸知が持ってきたドーナツを遠慮なく頬張りながら見ている。
まるで一切興味がない、と言うかのような態度だった。

「これらが同時に起動した事による時空干渉によって、ベクソンの情報が定着する現象が発生した……ってのはどうです?」
「ふむ、大胆な仮説ですが受け入れましょう」
「ありがとうございます。この仮説が確かなら、それは人間の脳にも影響を及ぼす筈です」
「つまり、この……高木さんでしたか?彼の脳こそが、ベクソン・アノマラスである、と」
「その通りです」

時空間衝突のショックと過去改変により、その情報が私の識閾しきいき下に眠っていた。
だが、再度SCP-490-JPが起動した事により、それが目覚めたのだ。

それが、差前の仮説だった。

何ともSFじみた話だったが、私にはそれが嘘でもない事を実感していた。

なぜならば私は、思い出していたからだ。
いや、思い出してしまったと言うべきか。

「つまりCIは、高木さんの脳に眠るベクソンの情報を元に、SCP-490-JPの多言語版を作ろうとしたのですか」

「その通り。スリー・ポートランドに彼を運ぼうとしたのは、おそらく高木さんを脳だけにして生かし、翻訳機にでも改良するつもりだったんでしょう。小宇宙型都市国家ならば、間違いなくそれができる筈ですから」

不穏な言葉が響いた、解体?脳だけにして生かす?小宇宙型都市?
やはり話がSFじみてきて、ついていけない。

「なるほど、確かにそれは盲点でした。しかし────となると、どうしましょうか?高木さん」
「わ、私は、どうなるのですか?そもそもあなたがたは一体?」

私はおずおずと、諸知博士に質問をした。

「その質問に答えるのは難しいですね、そもそも通常ならば、それをあなたが知ることはないのです」
「しかし、納得ができません。あなたがたは知っていた、ベクソンについて」
「ほう、やはりあなたは思い出していたんですね」
「はい。私はかつて、駐ベクソン日本大使を務めていました」

今ならはっきりと思い出せる、ベクソンで過ごした日々を。

「じゃあ、あんたもベクソンを知ってるのか?」

POI-490-JPが腰を浮かせた、目が潤んでいた。

「ええ、ベクソンの挨拶から文化から歴史まで。それがどうして消え去ったのかも」
「言っただろう、先生!俺のベクソンは嘘じゃないって!ベクソンはあったんだよ」

POI-490-JPは、私の顔を見つめた。

「なあ、あんたはどうやって生き延びたんだ?あの地獄を」

彼は最後のベクソン人なのだろう、ならば話さねばならない。

「私は外交特権を持っていましたから、どうにか無事でした……大使館に多くの人を匿いました」
「あの忌々しいもののせいで、みんな狂っちまった。俺もだ。でもあんたはそうじゃなかったのか」

やはり、話さねばならないか。
私は意を決して、口を開いた。

「いいえ、私もアレを使いました。暴徒が大使館を取り囲んだ時に……私も狂った側の人間でした」

そうだったのだ。

私もまた、生き残るためにアレを使った側の人間だったのだ。
思い出したくはなかった。だが、仕方がなかった。

大使館の周囲には小銃を持った民兵のような連中が押し寄せていた。
避難しようとする外国人を引き渡せ、彼らは声高に叫び、最初に石を投げつけて来た。
それが火炎瓶の投擲と自動小銃の銃撃に変わるまで、1時間と持たなかった。

だから私は決断した。
ベクソン改善装置に「日本大使館を囲む暴徒全て」と打ち込んだのだ。

「そうか……でも、良かったよ。ベクソンを知ってる人間は、俺以外いないと思っていた」
「私もです、何と言うか……あなたが生きていて、良かったと思います」

私がそう言うと、POI-490-JPは下を向き、鼻を啜りあげた。

「あなたをどうするかを、決めなくてはなりませんね」

諸知は、私を見据えつつ言った。

そして、一枚の書類をフォルダから取り出した。
書類の傍には、水の入ったコップと、小さな錠剤の包みを置いた。

「あなたには二つ選択肢があります、まず一つ、我々の保護下に入る事。これは、あなたをこのサイトに死ぬまで閉じ込めるという事に他なりません。そしてもう一つは、全てを忘れる事です」

私は手元の錠剤を見た。
これを飲めば、全て忘れられる、という事なのだろう。
昔見たSF映画を思い出していた。

赤い錠剤を飲めば真実を知り、青い錠剤を飲めば全て元どおり。
だが、赤い錠剤がないのが、あの映画との違いだ。
そして私は、一介の官僚にすぎない。

「でも、また同じ目にあったら?」
「ご心配なく。今後あなたは、我々の要注意監視対象となる。あなたが寿命で亡くなるまでね」
「それは……ぞっとしないな」

私は、ベクソンの男を見た。

彼こそ、ベクソンから来た男。
そして私もまた、その一人だ。

そして彼も私も、〝アレ〟に人生を狂わされた。
自分がここに止まれば、ベクソンの記憶をこの世に残せるのかもしれない。

だが────私は決断した。

「全て、忘れます。私にはこの世界はなんとも耐え難いものです。それに、仕事がありますから」
「そうですか────巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ」

私は錠剤を手に取り、再びベクソンの男を見つめた。

そして片手を上げ、呟いた。

af salan kuyap beksonさよなら ベクソンの人よ

ベクソンの男は驚いた表情をした、これはベクソンの別れの挨拶だった。

「「af salan kuyap jyaponicaさよなら 日本の人、会えて嬉しかったよ」

私は頷き、手渡された錠剤を飲み込んだ。


20██年5月2日 経済産業省 非主流技術調査室 調整官 馳戸晋平はせどしんぺい

「外務省のエージェントは捕縛されました、いずれ我々にも手が伸びるかと──はい、ええ。サンプルは破棄します。関連書類は即日消去処分に、ええ、はい。それでは」

馳戸は、東弊重工とCIに委託したオブジェクトの複製が失敗に終わった事を悟った。
今回の件に外務省も動いていたらしいが、彼らもまた財団の手にかかったという。

外務省側も災難だった。外務省のエージェントは、今晩にでも東京湾に沈められるだろう。

だが彼らがなんと言おうと、こちらのサンプルは保持している。
あとは、これを破棄するだけでこちらの潔白は証明できる。

しかし、破棄するには惜しいサンプルだ。

馳戸は、手元のノートPCの画面を見た。
画面には、日本の国旗に斜線を引いた画像をバックにしたUIユーザインターフェイスが浮かんでいる。

馳戸は、UIに任意のキーワードを入力する。
政敵、上席、そして財団………そしてエンターキーを押した。
無論、エラーコードのウィンドウが発生するだけ。これは未完成の劣化コピーなのだ。

ウィンドウにはこのような文言が表示されていた。

「日本国 改善装置」

馳戸はそっとウィンドウを閉じ、OSを終了した。

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