悪夢の日-1:孤独の朝
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99113k  通称"姫"は穴だらけのサイト-81██の中を走っていた。

彼女は緑色の目をしていて、アジア系の顔立ちで、絹のように白くなめらかな肌を持ち、180cm近い長身で、髪が黒く、未成年者で、そして、彼女はインサージェンシーの保有するタイプ-F-Ⅳ現実改変能力者だった。最後の一点のみが、彼女に硝煙と銃声に包まれること、ガスマスクとヘルメットをつけること、サブマシンガンを携帯すること、そして大量の人間を粉々にすることを許していた。

今日における全ては騒がしく終わりつつあったが、彼女はそれに妙な達成感と全能感を覚えていた。撤退戦の最中でなければ、腕を掲げて笑い出しそうなほどに愉快な気分だった。インサージェンシーから支給された装備に交じってカップケーキ柄のショルダーバッグが揺れ、戦場に不釣り合いなそれがむしろ今日最も多く人を殺めたのを知る者は限りなく少なかった。

"姫"は自らが生んだ破壊を遡って今にも撤退を成功させようとしていたが、その途上に少しだけ興味を惹かれるモノを見つけた。亜音速の暴力をショルダーバッグから取り出した更なる破壊でやり過ごしながらそれに近づき、数秒だけ彼女はそれを観察する時間を得た。エージェントとしてはとても褒められたものではなかったが、それを咎める仲間は既に周囲にはいなかった。何より、火力だけなら彼女は今迫り来る刺客達に決して後れを取らなかった。いざとなれば破壊でこの一画を塗り潰すことさえできた。

だから、"姫"は倒れたそれを眺めた。

それはどうやら細身の女の形をしていた。警備服のような服装は高熱で皮膚と融合し、所有物だったと思われる警備帽も少し離れたところで焦げていた。燃焼する胴体は黒く炭化しつつあり、あまり豊かとは言えない胸も炎は平等に舐り、醜く焦がしていた。すっかり焼けてしまっているせいで髪の色は分からず、顔などはもう見る気も起きなかった。穴という穴が溶けて塞がっているに決まっている。だが、赤ん坊のように背を丸めて焦げた死体に彼女は愛情すら抱こうとしていた。間違いなく自分自身がこれを生み出したのはわかっていたが、可哀想だとも思った。その事実と可哀想という自分の感情を比較してまた滑稽にも思った。ともあれ、"姫"にとってこの女の死体は本日を象徴する何かしらとなったのは確実だった。

数秒が経過した。"姫"は撤退を再開することを決めて走り出し、その顔には屈託の無い笑顔が浮かんでいた。笑顔に任せるままに、彼女は敬意を込めて細身の女の焼死体、その頭を踏み潰した。頭蓋骨を含むいくつかの何かが砕ける音を残して"姫"は去り、焼死体は何も言わずにそこに残った。

焼け死んで頭を潰された女は、ただ透き通る青空にその姿を執拗に眺められ続けた。


その日は朝夕まづめの通常出勤日だった。

財団の管理する寮で、財団の管理するスマートフォンのアラームで朝夕はいつも通りに目を覚ました。目を覚ますと、自分の髪色を見るより、水を飲むより、トイレに行くより先にまずTVで天気予報を確認するのが彼女の習慣だった。今日一日の自分の機嫌が天候一つに左右されるのは、中々に生活しにくいものだ。この日は幸いにも一日中晴天のようで、データ放送の天気欄には太陽のマークが一列に並んでいた。

相変わらず私物で乱雑に満たされた室内を見渡す。財団から与えられる給料は彼女一人が生活する分には困らず、それは同時に不要物を買い込んでしまうことを意味した。そして必要以上に貯めこまれたモノ達は容易く朝夕の手に負える量を越え、今や主を差し置いて部屋の所有権を主張するまでに至る。寝癖のついた頭を掻いてから、ひとまず今日の分の着替えを発掘しようと試みる。室内用の私服は規則正しく保管されているのに、下着が棚から飛び出して床に散乱している光景は中々に倒錯的だった。

間違っても男性は上げられないな、という考えが眠気を纏った頭に浮かび、朝夕はその思考に改めて三十がひたひたと迫っていることを自覚する。誰一人として朝夕を急かさない財団という組織にあってなお、完全にその願望を捨てることは難しかった。

漠然とした孤独への恐れは常に彼女の周りにあり、ゼラチンのようにゆっくりと固まりながら朝夕を追い詰めつつあった。おそらくはほとんどの同じ境遇の者がそうであるように、朝夕もまたその問題を意図的に意識から除外する癖がついていた。朝食、着替え、髪の調整、朝の支度を機械的に済ませる自らの手足を視界に収めながら、朝夕の意識はそれからは別離していた。晴天の日差しに照らされる透き通った髪を揺らしながら、朝夕検査員は自室を後にした。

家主を吐き出した一室は日に照らされる埃が専有した。舞いながら輝くそれを眺める者はおらず、静寂のみが淡々と埃を包む。
 
 
 
朝夕まづめは通常通り、併設された寮からサイト-81██に出勤した。寮とサイトは壁で包まれた通路で直結していて、出勤中の彼女は外気から完璧に隔絶される。晴天時特有の透明感に溢れる三つ編みは財団職員以外の目には留まらず、その財団職員はもはや朝夕には慣れきっていて、精々泊まりがけの者が彼女を一瞥して外の天気を把握する程度だった。朝夕はサイト-81██にとっては至って普通の職員に過ぎず、邪険にされることもなければ丁重に扱われることもなかった。ただ、ほんの少しだけ彼女は他の職員とは異なっていた――それだけのことだ。彼女自身もその周囲もそれに一々気を払ってなどいられないのが現状だった。

検査員に支給される指定の警備服はサイト側で洗浄・保管されているのが普通だが、通勤時間が往復でも4分に届くかどうかという朝夕がそれに従えば手間がかさみすぎる。財団としても、出入時行われる各種検査や認証をパスしていれば特に制服のままの出勤を咎める理由もなく、朝夕は家を出た時点で既に勤務時と何ら変わりない格好だった。

荷物を置くために待機室へ向かう。無骨な金属扉を開けると、既に同僚の男性職員がもそもそと朝食をとっていた。どうやら前夜からの8時間勤務を終えた所らしかった。おはようございます、という形式的な挨拶のみを交わし、荷物を自分のロッカーに入れて検査所へ向かう。1日が始まることを認識して憂鬱に思い、これまでに経験してきたいくつかの事例を思い浮かべて、退屈に今日が過ぎていくことを祈る。

X線検査をパスした荷物を調べるために並んだ机、検査員が座る簡素なパイプ椅子だけが検査所にあった。既に座っている同僚を横目に、いくつかある椅子のうち一つに腰を下ろす。水色のゴム手袋を嵌めてただ安っぽい椅子に座っていることが主な業務ならどんなに良かったか、と思考するのは一度目ではなかった。
 
 
 
そして、一人目の来客があった。荷物を机に降ろすように言って、椅子から立ち上がる。若い女性ということが若干朝夕の精神をほぐし、荷物検査を終えると流れるようにボディチェックへ移行した。数々の苦情は承知しているが一線は超えていないつもりだし、そもそもセクハラ紛いのことをしなければ検査など成立しようもない、というのが持論だった。特に身体が柔らかく凹凸のある女性ならば。

「じゃあ後ろを向いてください。背中の方を検査させていただきますので」

「はーい。……うーん、こんなこと言うと失礼かもしれないですけど、やっぱり女性の方だと安心しますね」

「そうですか?」

「ええ。私はここに出入りするようになってまだまだ日が浅いですし、渡航の経験もあまりなくて。こうして検査されること自体に不慣れなんです」

「へえ」

服の下に不審物がないかを入念に検査しながら、朝夕は同時に来客を観察した。肌の張りやスタイルからして20代、それも前半に見える。研究職でこの歳はかなり珍しいだろうから研修中のエージェントだろう、などと手を動かしながら考えられる程度には、朝夕はこの仕事に慣れていた。ゴム越しに伝わる確かな筋肉の感触がその考えを不安定に裏付けつつあった。

惜しみつつボディチェックを終了する。

そして、朝夕検査員が手を腰に回した瞬間に、皮膚に馴染ませる形で各種小型センサーを仕込んだ来客は手荷物を掴んで逃走を試みた。ここが財団でさえなければ、大抵のセキュリティは素通りできただろう。逃走の意図は不明だったが、朝夕の体は勝手に動いてくれた。

女が検査所から出るスライド式の扉に手をかけた所で、その腕を掴んで捻じり上げる。恐らくは意図されずに呻き声が漏れ、そのまま床に組み伏せられるようにして、女は数瞬で制圧された。この間、朝夕は何も思索しなかったし、しようとも思わなかった。手に伝わる布の感触、伸し掛かった女の背中、女の抵抗に機械的に拘束を強める自分をひどく客観的に朝夕は認識した。検査所の床は鈍く朝夕の影を映し、周囲の同僚が些細なざわめきと共にその距離を縮めていることをまたその影で朝夕に示した。

朝夕は同僚が渡してくれた拘束バンドで両手を縛り、不審者の女が持って帰ろうとした手荷物と完全に引き剥がす。このまま待機していれば、腰のボタンで通報せずとも、カメラ越しに異変を察知した保安職員が二十秒もせずに駆けつけてくるだろう。腰に通報用ボタンがあることを看破されていたことより、手の動きを完全に読まれたことが多少朝夕のプライドを傷つけた。晴天のお陰もあってそこまで鬱屈とした気分にはならなかったが、あるべき明朗さは欠けていた。若干重たい頭で女に猿轡を噛ませ、頭を地面に押し付ける。

女の手荷物はショルダーバッグで、朝夕にやや乱暴に掴まれたせいか中身は検査所内に散らばっていた。化粧ポーチ、財布、手帳、スマートフォン、イヤホン、喉飴、そして、

(……カップケーキ)

それは既製品の色形をしている、ビニールのパッケージに入った小さなカップケーキだった。形を崩さずに転がってぴたりと止まったそれは凝視するほど目立つものではなかったが、どこか強烈な違和感を伴ってそこにあった。4個、という個数もまた、一人で持ち歩くにはやや不自然なものに朝夕には映った。

女の頭を数度、無意識に殴っていることに気付いた。反射的に同僚の視線を確認するが、検査所には限りなく非常時におけるいつも通りの緊迫が流れていた。それはもちろん朝夕の筋肉にも伝わっていたが、同時に朝夕の意思は妙な乖離を見せていた。保安職員の規則的で効率的な足音が聞こえる。その振動が伸し掛かっている女を通して伝わる。女が微かに笑ったような気がして、思わずもう一度女のこめかみの辺りを殴った。保安職員の靴が視界の端に侵入した。

そして、拡散する熱と光があった。

それがどこから由来するものかはわからなかったが、朝夕は一瞬だけ背中全体に猛烈な痛みを感じ、遅れるように身体の前面にも熱気を受けた。女から手を離したかどうかも認識しない間に、朝夕は検査所の床に崩れ落ちた。瞼は閉じられたはずなのに赤と白が突き刺すように網膜に注入され、平衡感覚を失うほど自分がのた打ち回っているのが感じ取れた。焼かれている場所には激痛を、それ以外には酷熱を感じた。朝夕は水を欲した。

  水? 一度その答えに辿り着くと、熱の塊に脊髄を貪られながらも朝夕の意識は答えにしがみついた。瞼は堅く閉じられていると信じていたが、赤と白、時たま黒が明滅する。内と外から騒々しく音が押し寄せる。熱い、と思った。水を求めた。

汗腺はどうしたか、皮膚の表面はただただ熱に突き刺されている。背面に既に制服の感触が無いことを前向きには捉えられなかった。朝洗ったはずの顔が乾ききっているのが分かる。水、もしくは雨を求める。喉を焼くような匂い、もしくは気体の塊を感じる。焚き木にくべられた藁人形を一瞬だけ想起した。編んだ三つ編みが揺れて腕に当たるのをかろうじて感じたが、転げ回っているせいでそれも引き千切ってしまったかもしれない。水を頭から浴びたい。

皮膚が定型を喪失していくのを、そして四肢までもが熱に喰われるのを感じる。どこからか水滴の音が聞こえる。対照的に、ぱきぱきと音がして身体からは水分が失われていく。逃走の意思も等しく焼かれて灰になる。水を踏む音、騒ぐ音、同僚の音が聞こえる。音はどんどん喧しくなる。顔の皮膚は柔軟性を投げ出して骨に張り付き始める。もう熱は耳へ達した。転げ回る足と腕は感覚から消えた。視界は相変わらず赤と白を反転させながら、徐々に黒が占める領域を増やしていった。どんな格好をしているのかはわからないが、一方に壁があることからどうやら自分は横になっているらしかった。初めてうっすらと目を開ける。水で満たされたい。

眼球は一瞬だけ白と灰色と赤の混じった風景を映したが、残った意識を踏み躙るような痛みだけを残して機能しなくなった。水が逃げてしまう。ここまでで何秒経ったのかは分からなかったが、小麦粉を練るように朝夕の時間は押し潰され、引き伸ばされ続けていた。頭蓋骨を通じて音が聞こえる。音さえも朝夕の意識に寄り添い、無限に伸びるように頭を包む。熱が頭に伸し掛かろうとしている。唇を開く。音は一定の感覚で響く。熱が顔へ伸びようとする。息を吐く。音が朝夕へ達する。声帯を震わせる。

「みじゅ」

そして、足音はそのまま朝夕の傍らを通り過ぎた。

独りの女、その焼死体が後に残った。

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