悪夢の日-2:胡乱な雨
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"姫"は作戦命令を受けて、今まさにサイト-81██へ襲来しつつあった。

"姫"はエンジンの音を聞きながら、項垂れるようにしてただ車内で待っていた。その黒髪はまとめて防弾ヘルメットへ収納されている。イヤホンのコードは隙間から伸び、無骨な無線機へと繋がる。無線機はインサージェンシーのベースへと繋がっている。耐熱性と防弾性に優れたジャケットは華奢な"姫"の身体には不似合いだったが、肩に掛けられたカップケーキ柄のファンシーなショルダーバッグが一層不自然さを際立たせる。

彼女はカップケーキが好きだった。手の平に収まりながら一つの菓子として独立し、甘くカラフルに転がるカップケーキが子供の頃から大好きだった。それ以外、記憶は無い。覚えているのは、棒切れを振り回しながら叫ぶ自分の姿と、困惑したように取り囲む白衣の連中の顔だけだ。

カップケーキがあれば何でもできる気がした。今も彼女の瞼の裏にはピンク色のカップケーキの残像がこびりついている。"姫"にとって、自身の体の一部以上の存在としてカップケーキは存在した。

今、ある女がサイトへ潜入しようとしているのを、"姫"はカップケーキ越しに感じた。それはインサージェンシーの女であり、カップケーキは女のフェイルセーフ装置として機能することを期待されていた。非常時になれば、カップケーキから噴出する爆炎が全てを葬り去ることを期待されていた。

"姫"にとって、自らの生むカップケーキは宇宙より無限大の可能性を持つ。"姫"が命じれば、カップケーキはその容積の限り応えてくれる。カップケーキに対する影響力、それだけで"姫"は実験対象から工作員へ成り上がっていた。

車内は暗く、目を閉じた視界はそれ以上に暗い。カップケーキの鼓動をひたすらに感じ取っている。カップケーキが転がる。カップケーキが落ちる。カップケーキの周りで、ざわざわと何かが騒ぐ。

「作戦はパターンβへ進行しました。『シロップ』投下時刻30秒前です。99113kは指定地点へ向かってください。各員、衝撃にご注意願います」

押し伸ばされたようにのっぺりとした声のオペレーターが、"姫"へ指示を出す。"姫"は目を開けたかと思うと、流れるようにしてドアの取っ手を掴み、外へ出た。あのカップケーキはたった今、彼女の命令に応えて弾け、消えた。しかるべき方向へ"姫"は向く。

サイト-81██の一角から、悪意に満ちた黒煙が上がっているのが見える。
 


 

水滴は光を反射しながら、水野研究員に今日もなお纏わりついた。

最後に握手をしたのはいつだったか、と湿った室内で何気なく考える。発汗異常を患う人間には良くあることだが、水野も他人との接触を躊躇った。握手をしたとして、相手は手に付いた汗を、自分に見えない所で洗い流してしまうだろう。どんな表情で洗い流す? 考えるのも躊躇われるような、堪らなく恐ろしいことだ。

水野は平時と変わらず、サイト-81██書類保管庫で山のような資料を相手にしている最中である。湿度が常に80%を超える室内で、彼女が歩く度に水音が発される。保管庫に窓は無い。彼女は日光を受容できず、蛍光灯に照らされた水浸しの室内に滞在し続ける。その水分の殆どは彼女から発されている。

必要な書類は必要な場所に配置され続け、湿った情報が頭の中に流れ込む。彼女は周囲の書類の内容を把握しながら、ゆっくりと歩く。相も変わらず、湿気のみが彼女を覆ってくれる。滴る液体の群れが追随しながら慰める。

先程出勤したばかりだったが、元々一日の殆どをここで過ごす水野にとって時刻は些事に過ぎない。日々に流されるように過ごす水野はそれを心地良く感じていたし、流速が変化することを望まなかった。髪の先から水滴を落としながら、水野はこのまま湿潤に過ごしていたいと常々感じていた。

水野はその外見に反して相当な長期間を財団で暮らし、財団外での生活は既に想像できなくなっていた。このままサイト-81██、せいぜい他のサイトに移動するだけだろう、としとどに濡れた布団に挟まれながら二、三日に一度は思考した。自らから発せられる湿気は日常の一部と化して水野を取り巻き、水野自身も特にそれを疎ましく思うことはない。ただ、数少ない友人や同僚を眺めては、密かにその視点に立ちたいと思うことはあった。また違った境遇で財団から離れられなくなった人間も数多く見てきたが、水野にとって個人の事情は他の誰かのそれと比較できるものではなかった。

内側から濡れた白衣は水を吸って行動を阻害する。その重ささえ、水野は快感として受け止める。

水野はほぼ激情を持たない。多少危険な目に遭ったことはあったが、生存欲求がそれほど強くないのか、行動を大きく制限される体質故か、諦念が染み付いてしまっているように感じた。髪の先から滴り落ち、床で弾ける水滴を眺める。いつか、鈍々と自分は死ぬだろうと確信に近い諦めを持っている。

保管庫には相当量のウォーターサーバーが設置されており、水野はそれをよく利用した。紙コップを押し当て、水が注がれていくのを待ちながら頭を巡らせる。服が肌に張り付く感触に慣れてから十数年は経つだろう。十分な量が注がれるのを見る。口元に水を運びながら、廊下へと出る保管庫の出口へ視線を向ける。

やけに外が暗い気がする。今日は一日、疎ましいほどの晴天だったはずだ。紫外線対策のバイザーとマスク、手袋を掴み取り、流れるような動作で装着しながら窓を見ようと出口へ向かう。トーストを咥えながら靴下を履くような気軽さで、水野はそれらを扱うことができた。今日に限れば、それは不幸だったかもしれない。天気を確認するためだけに装備を身に着け、防弾ガラスが嵌め込まれた窓の近くまで向かうのは軽率に過ぎたのかもしれない。

鬱陶しく晴れていた窓の外を見上げた。懐の携帯端末とサイトに設置されたスピーカーがけたたましく鳴り響くのを、水野は認識できなかった。

彼女は、降り注ぐ災厄を見たからだ。
 


 

サイト-81██の防御機構は正常に機能している。

検査ゲートでの不審者、及びその所有品によって引き起こされた火災は速やかに対応された。元々勤務していた検査員、そして不審者連行のために駆けつけた保安職員はそのまま犠牲になり、ガス放出設備による消火は成功していないものの、それだけだ。炎が防火シャッターで区切られた空間内で燃え盛る分には何の問題もない。少なくとも、センサー越しにゲートの様子を見る霧甲水博士はそう考えていた。彼はこのサイトの危機管理を担当していた。室内には、彼と同じようにこのサイトの安全を確保する職員達が、事案発生を受けて一斉に動き始めている。

霧甲水は軽く息を吐いて、再びモニタに目を戻し、各オブジェクトの収容状態を確認する。何ら異常はない。当然だ。単なる火災程度で収容に影響が出るような設計はされていない。繋いでいる通信からも特に致命的な報告は無い。

財団での非常事態において、最も重視されるべきなのはオブジェクトへの影響、より具体的には収容違反へ繋がるか、否か。そういった視点では、今回の事案が検査ゲートで被害を食い止められたことはむしろ僥倖であったとさえ言える。オブジェクト収容棟はおろか、人的被害や金額上の被害さえも最小限に収められた。あの威力の焼夷弾がサイト内部で効果的に使用されていた場合の被害は計り知れない。

炎は消えない。テルミット焼夷弾か、もしくはよりおぞましい何かを利用したものなのかもしれないが、現時点ではシャッターを破ってくることはないらしい。そして、これは財団の全ての活動に付いて回る言葉だ  「現時点では」。霧甲水はこの世界にどれだけの数の不条理があり、それらがいかにこちらの都合を無視しきって動くか十分に理解していた。

懸念材料としては、何故か焼夷弾がカップケーキの形状を取っていたことだった。まるで市販品かのように偽造されたそれは、紛れもなく爆炎の出所として機能した。なぜ焼夷弾は金属探知器をすり抜け、わざわざカップケーキの形を取ったのか? そこに霧甲水は忌々しい不条理を見出した。同時に、これが何らかの前段階であるという確信があった。既にセキュリティチームは捜査へ動き、霧甲水の指示通りに各職員へ通達がなされている。肌に嫌な汗が滲むのを感じる。

耳元で声が聞こえた。周辺を捜査するセキュリティチームではなく、サイトに常駐しているオペレーターからの通信だ。財団の優秀なオペレーターは訓練通りに、極めて冷静に、聞き取りやすく現状を報告する。同時に、否応なく危機感を煽り立てるアラートがサイト中に鳴り響く。霧甲水は通信を聞き、すぐさま最も近い扉を蹴り破った。自らが避難するため、そして同室にいる職員が速やかにサイト内部へ移動できるようにするためだ。

その蹴りの過程で勢い良く身体を回すと、流線形の視界の中で確かに違和感があった。今日は清々しい晴天だった筈だ。なぜだろう。なぜこんなにも暗く、窓の外は大量のピンクで埋め尽くされているように見えるのだろう?

クソが、と口の中で呟いてから、霧甲水は衝撃に備える。
 


 

水野がまず受け取ったのは非現実感だった。

数千数万数十万というピンク色のカップケーキの大群は今にもサイト-81██へ降り注ごうとしている。水野は自分がどんな顔をしているのか、笑っているのか驚いているのか、口を閉じているのか開けているのかもわからなかった。子供が見る夢のようなその光景は、質量を持って迫っている。周囲の職員の顔を見る暇はなかったが、誰もが一瞬は足を止めたはずだ。

遮光バイザーと防弾ガラス越しのせいか、水野はそれを目の前で起きていることとは受け止めきれずにいたように思う。窓枠の中でぐんぐんと迫ってくるカップケーキの群れに対しては、大移動する動物の群れとはまた違う印象を受けざるを得ない。今もカップケーキはガラスへ迫る。カップケーキの後ろにもまた違うカップケーキが見える。

一瞬の中でふと、水野はカップケーキの動きに違和感を覚えた。力なく机から床へ転がり落ちるカップケーキは、あんなに明らかな殺意を持って落ちただろうか。あんなにこちらを不安にさせただろうか。あんなにこちらを見つめるだろうか?

全身に熱を帯びた衝撃を受け、思わず目を閉じた。皮膚がかっと熱くなったかと思うと、いつも纏わりついている水滴が蒸発していくのを感じ、また右半身が床に叩き付けられた痛みを感じる。頭に当たる硬い感触から、どうやら倒れてしまったらしいと気付いた。バイザーが外れていないのは幸運だった。バイザー越しに、廊下に転がるカップケーキが見え、また窓ガラスの破片が煌めくのも見える。窓の外の煙、またこの状況から、水野はこれらのケーキが炸裂したことを知る。

カップケーキが悪意をもってあのガラスを破ったのだろうか? そもそもこれは襲撃なのだろうか、事故なのだろうか? 頭は未だに混濁していたが、水野は考えるのを止めなかった。ただ、思考は自らの身体の方へと向いていく。

口の中が液体で溢れている。臭いからどうやら血液らしいことはわかったが、妙にさらさらとしすぎているし、味も薄い。息をする度に液体を吐き出す必要がある。次第に、水野は咳き込み始める。ごぼごぼという音が動きに交じる。周囲からは様々な音が聞こえたが、急速に苦しくなっていく呼吸が音を消していく。

水野は唐突に死を実感した。喉周りの筋肉を必死になって収縮させるが、吐いても吐いても鉄臭い水は零れ続ける。目の前の廊下には無数のカップケーキが転がっている。喉奥に指を入れて血を掻き出そうとしたが、更なる水がとめどなく溢れ出すだけだった。そこで初めて、水野は自分の体を再認識する。

肺全体が焼かれながら締め付けられるような感覚に襲われる。他にもいくつかの痛みが暴れ、ようやく水野は衝撃によって自らの内部が破壊されたことを理解した。そして、自分から溢れる水分、その全てが状況を悪化させていることも。発汗異常が体内に影響を及ぼすのか、と考える間もなく、水、水、水が彼女を覆う。

今や水野はじゅるじゅると音を立てながら崩壊していた。胴の傷口と火傷は中から溢れ出す水分の捌け口として機能している。湿度を増していく周囲とは対照的に、水野は速やかに乾き始める。スポンジが絞られるようにして水野は萎む。肌から水分は抜け出し、辺りを濡らしながら皮膚は醜く皺を形作る。白衣が濡れながら水野へ纏わり付く。窒息しないように水を喉から吐き出すことも苦しくなっていく。

衝撃から数十秒も経過していないだろうが、水野はこの乾きに永遠を感じ、また乾きの先にある死に何気なく思いを馳せた。咳き込みながら、カップケーキの去った空を視界に入れる。喉に力を込める度にごぼごぼと音がする。

不意に肩を掴まれる。幾度か名前を呼ばれたが、それに応える力はない。声の掛け方、肩にある手袋の感触から、救助隊員であることがわかった。素早く、かつ丁寧に水野は搬送準備を整えられ、濡れた床の上を運ばれていく。隊員が濡れて滑りやすい床を歩いていくのを想像して、朦朧としたまま水野は申し訳なく思った。もう一度だけ、血を吐き出しながら瞳を動かして空を見る。外で銃声と爆発音が響いているのをようやく認識する。

青空は無数の白煙で汚されていく。

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