荒れ狂う光
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前回

ミーティングの開催場所である収容ユニットS167-00-1006は、死産したCryptomorpha gigantesの頭蓋骨だ。

頭蓋骨をくり抜いて出来上がった空間は試験的に建設されたベガス・ルームである。つまり、中で起こった出来事が外に漏れ出ることは無い。中の人間が出てくる時に記憶は篩に掛けられ、この世への進出を阻まれる。出てきた人間は、何も記憶していない。頭蓋骨は90年代に取得された。情報抑制効果は種が生来的に備える反ミーム隠蔽性質の副産物で、元々は自然界においてその異様な巨体を殆ど観察不可能にするものだった。バーソロミュー・ヒューズ博士がチームと共に幾年も費やして解明した現象で、現在となっては再現可能だ。C. gigantesの骨を合成し、鋼鉄のグリッドを用いて押し出し成型する。得られたプレートをボルトで繋ぎ合わせ、密閉された箱を作り出す。複雑な機械を用いることなく、箱は常時ミーム的に遮蔽された状態となる。相当なポテンシャルを秘めた技術だ。

頭蓋骨は全長45m、幅16m、高さ15mで、専用に作られた広大な収容ユニットの中心に留め置かれている。同じC. gigantes個体の骨がそれを取り囲み、省スペースの観点から細密な放射状のパターンに配置されている。"納骨堂"は収容ユニットの一階の約1/3を占める。ユニットの残りは、回収された臓器を収める為の船が如き巨大な機械で埋まっている。その一部は本当に船で、再利用された輸送船の中に脳組織や皮膚組織が積み込まれていた。

建築物の間取りはある程度開けたもので、困難とはいえ通行可能だ。しかし一階から徒歩で進むとなると、常に照明が灯っているにも拘わらず、眩暈を起こすような凄まじく不気味な場所に感じられる。ヒューズは今、音のよく反響する谷間を進んでいた。左手側には百メートル大の下腿骨が、右手側には青い鋼鉄製のコンテナがあった。コンテナは個体の第一胃を収めている。前方から彼を見下ろす頭蓋骨は薄黄色の塔のようで、足場や役目を終えたスキャニング機材で覆われている。その空っぽの目は漆黒だ。

ヒューズは通路を歩きながら、これら全てが単一個体から、それも種としては最も小さな個体の一つから取られた物であることを思い出さずにはいられなかった。

頭蓋の後ろ側のかつて第一頸椎があった場所には、巨大な複合機械式エアロック、傾斜路、階段、そして集結地が設置してあった。集結地は小規模な出入国管理窓口のようなもので、S167-00-1006を出入りする全ての人間と物品を監視していた。退出時に記憶は全て消去されるものの、文書記録や電子記録は人の手で管理されなければならない。標準的な手順において、最初に退出する人間は持ち出した指示文書をフィルター担当官に渡し、部屋の内部にあるどの情報が消去されるべきか、どの情報を残して良いかを伝える。通常、残して良い情報は極僅かだ。

座席、スキャナー、コーヒーマシン、掃除用具で一杯の台車かご、幼体を収めたケージの山が並ぶ。そして集結地のすぐ外に、リムジンが一台停まっていた――ただのリムジンではない、防弾性のものだ。

「残りの者は何処にいるんだ?」とヒューズはその場にいたボホナーという名の財団職員に訊いた。「時間通りに来たのだが。」

「こちらへ、どうぞ。」と彼女は言い、スキャナーの近くの座席へ招いた。同じ手順を十数回は経験していたヒューズは、言われずとも左手を差し出す。ボホナーは滅菌されたブレスレット型のセンサー機器の包みを剥がし、機器をヒューズの左手首に括りつけた。彼女は近くのスクリーンを観察する。「他の者は一時間近く前に入室しています。」と彼女は言う。

ヒューズは顔をしかめた。いつもと状況が違う。何の理由で違う時間を指定した?彼がやってくるまでの一時間、何の準備をする必要があった?「何か言っていたか?」

「まさか。」

このミーティングが何の為に開かれるのか、過去のミーティングで何が話し合われたのか、それらに共通する議題があったのか、それすらもヒューズには皆目見当が付かなかった。

しかし実際のところ、ヒントと言うべきものはあった。まず一つがミーティングの頻度だ。今年の始めに行われた最初の会合を終えた直後、記憶を失った状態の彼らの手には、今後も月例でミーティングを開くことを指示する文章があった。10月頃、ミーティングは週例になった。先週はミーティングが三回行われた。そしてその週の金曜日には新たなスケジュールが指示された。本日月曜日から、彼らは毎朝90分のミーティングを開くことになっていた。

参加する面子はより明白なヒントだ。ミーティングにはヒューズの他に、同組織の三人の上層研究員、そしてサイト41、45、167の管理官が参加していた。サイト167管理官を務めるマイケル・リーは、財団反ミーム部門の長であり、ヒューズの直属の上司だった。

彼は背後に停めてあった車を盗み見た。"こいつ"も勘定に入れる必要がある。性別すら分からないが。ヒューズは、リムジンの持ち主に関して確信を持っていた訳では無いが、財団収容施設の内部に一般車両で乗り入れる権限を持っている人間は数えられる程しかいない。はっきり言ってしまえば、そのような人間は十三人しかいない。会議室の中にはO5がいる。我々の秘密会議の内容に興味を抱いているO5がいる。新たに発覚した、言うまでもなく不穏な事実だ。

彼は車に向かって頷いた。「今頃ここらはプライべートセキュリティで溢れているはずじゃないのか?」

ボホナーは肩を竦める。

「O5と一緒に中に入った人間は?ボディーガードは?車の中に誰か残ったのか?」

「いいえ。」

ヒューズは再び車を見遣った。窓は色付きガラスで中は覗き見えなかったが、少なくとも運転席に誰かが座っているはずだ。しかし、本当の保護機能はどこにある?もしかすれば透明なのかもしれない。微生物。守護魔法。車が自分を見返してくるかのようにヒューズは感じた。

「口を開いてください。」ボホナーはヒューズの頭に円盤状の帽子を被せ、エミッターを口蓋に向けた。二波の放射線が脳を通過する。「精神的な侵入を受けたことは?」

エミッターに発話を妨げられながら、ヒューズはどうにか返答する。「ひいえ」

ボホナーはエミッターを取り出し、廃棄する。「過去12時間の間にレム睡眠を経験しましたか?」

ヒューズは口を拭った。「はい。」

「貴方は指を何本持っていますか?」

「十本。」

「数えてください。」

ヒューズは両手を広げて順番に数える。「一、二、三、四、五、六、七、八、九。」右の親指が「十。」

ボホナーは幼体への拒絶反応を予防する為の物質をヒューズの体に注入し、続いてケージの一つから幼体を取り上げた。幼体は持ち上げられることを良しとせず、混乱を露わに触手を広げる。「頭を後ろに傾けて天井を向いてください。目は大きく見開いて。後、眼鏡も外していただければ。」

ヒューズは言葉に従い、眼鏡をスキャンして貰う為にボホナーに渡した。「この作業は好きになれない」と彼は述べた。

ボホナーは無言だ。彼女は幼体がヒューズの両目に被さるように、アイマスクさながらに配置する。実体が顎や髪にまとわりつく際の冷たい、ぬめった感覚がある。続いて、触手は首の後ろで両側から合わさり、脊椎との編み込みを始める。不安を覚えながら暗闇に閉ざれた数秒を待つと、ちょうど右目と重なる位置に、幼体の皮膚に円形の窪みが形成される。脳味噌が本来の位置から外れたような、そして本物の眼球に代わって新たな眼球が現れるような感覚が生じる。義眼は本物の四倍程の大きさだ。単一の眼球ではあったが、四つの瞳によって距離感を測ることはある程度可能で、紫外線を少しだけ見ることもできた。

幼体は、短期・中期記憶を保管する外部ブロックとして、そしてバート・ヒューズと外界の橋渡しを行うプロキシとしての機能を果たす。ミーティング後に取り外された幼体は焼却され、ミーティングの記憶と共に処分される。

これは決して唯一の記憶処理技術ではない――ガス、薬剤注入、外科処置、儀式手順。他に多くの安全な、立証された技術があり、財団職員や一般市民に対して用いられる。しかしそれらに共通なのは、既に意識下に侵入した情報が対象であり、それを事後的に取り除くか抑制するための技術であるという点だ。それらは不完全な技術だ。記憶除去は致命的な断片を残す可能性があり、時には危険な全体像が再現されてしまう。そしてその一方で、抑制された記憶を呼び起こす記憶補強技術は進捗の一途にある。最新世代の生化学的記憶補強技術の近年の産物であるクラスZは、全ての事後的な記憶除去技術を無効とする物質を生み出すと考えられている。クラスZに対抗できる記憶処理技術として残るのはもはや断頭しかない。しかし事前に危険が分かっているのであれば、物理的に区画化を行うという手段がある。エアギャップ化。記憶のアウトソーシング。そういった手法で誰も意識に触れられないようにすれば良い。正真正銘に経験していない事実を思い出せるはずが無いのだ。

それは複雑かつダイナミックな研究分野であり、ヒューズが最先端に立つ複数の分野の一つでもある。幼体と同様の機能を発揮する機械は存在していた。それはシリコン製のモデュールで、ヘッドセットのように被ることで外科的に耳の後ろに接続する代物だが、ヒューズからすれば、脳を直接コンピュータと接続するくらいなら死んだ方がマシだった。コンピュータが財団製となればなおさらだ。相手が誰であろうと脳波を渡すつもりはない。財団に加入した時、三十年前にもなる話だが、彼は自分の遺書に一つの禁止事項を設けていた。アップロードの禁止。皆が彼の正気を疑った。

思えば、幼体とベガス・ルームを併用するのは過剰防衛に近しい。それもまたもう一つのヒントだろう。

「手荷物のスキャンが終わりました」とボホナーは彼に伝えた。ヒューズはポケットに小物を詰め直し、ノートパソコンを手に取った。頭に乗った新たな重量物によって不安定な歩行を強いられながら、彼はエアロックに続く階段を上った。

*

財団職員の美的感覚の乏しさを真っ先に指摘するのがバート・ヒューズという人間だ。通常の財団職員は、百回中百回の割合で、外観的な心地良さよりも暴力的な機能性を優先するものだ。そして嘆かわしい程の人数がその違いに気付きもしない。ヒューズが見れば、その傾向は建築機能の選択、財団施設やオフィス、研究室や収容施設の内装に表れており、絶望と荒涼に満ちた雰囲気を典型的に生み出していた。機械や装置、工具やフォント選びにさえその傾向を見出せた。硬い輪郭、色彩の衝突、劣悪な空調、人間性の欠如、過密、狭所。

それに引き換え、S167-00-1006の内装は喜ばしいサプライズだった。ヒューズは実際に溜息を吐いた。珍しく誰かがデザイナーを雇ったらしい。広々としたモダンな空間で、明るく照らされ、厳選された壁の一部が鮮やかな二次色で塗られていた。コンクリートは一片たりとも露出していない。

S167-00-1006は単一のスペースではなく、自己完結した、二階層にまたがる続き部屋だった。中央の会議スペースは吹き抜けで、長楕円形のテーブルとハーマンミラー製の椅子が並んでいた。左側の壁沿いに、すりガラスの壁と扉で仕切られた小会議室が並んでいた。その上方にはキッチンエリアがあり、一階と階段で繋がれていた。その後ろ側にはさらなる小部屋と洗面所、収納があった。カーペットは灰色と橙色で、不規則な六角形の模様を描いている。換気の行き届いた空間で、コーヒーの香りが漂っていた。

四人がヒューズを待ち受けていた。サイト41担当のマリオン・ホイーラーはキッチンからの階段を降りてくるところで、手にしていた使い捨てカップからは湯気が立ち上っていた。サイト41管理官のグレーヴスは中央テーブルに着き、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。マイケル・リーは部屋の後方でO5-8と談笑していた。全員が幼体を身に着けていた。四匹の幼体が計四つの巨大な眼球を揺らめかせ、部屋に立ち入ったヒューズを同時に見つめた。至極居心地の悪い光景だ。ヒューズは無理矢理に作った笑顔を返した。

「来たか」とO5-8が言う。彼は……奇妙な外見をした男だった。幼体を纏っていることを考慮しても。ヒューズは過去にO5の顔を見たことが無かったが、少なくともO5-8の容貌は予想から程遠いものだった。ヒューズは不躾な視線を送らないように努めたが、彼の幼体は見つめることが極めて得意なようだった。

「キャッチアップは済んだところでしょうか?」とヒューズは尋ねた。非同期的業務の繰り返しの性質上、ベガス・ルームで行われるミーティングの最初の四分の一は以前のミーティングの後に残された文書を読むことに費やされる。ヒューズの予想通り、一時間に及ぶプレミーティングが済み、コーヒー休憩に入った後に、これからミーティングを再開しようというところだった。

「その通りだ」とO5-8が答える。彼はテーブルの端の席に着き、グレーヴスはその隣の席を選んだ。リーはO5-8の右側に、ホイーラーがそのさらに右に座った。O5-8はホイーラーの反対側の空席を指し示した。ヒューズの為に準備された印刷物が席の前に並べてあった。

ヒューズはノートパソコンを置き、躊躇いがちに文書に向かった。「これを今から読めば良いのでしょうか?」

「好きなだけ時間を掛けて構わない。」

「私のチームのメンバーは何処に?」とヒューズは訊いた。「三人がまだ不在です。」

「文書を読めば分かるだろう、ヒューズ博士。」とO5-8は言う。監督者は陽気な風に見えた。もしかしたら、陽気な仮面を被ることで、己の権威と力をヒューズに意識させないようにしているのかもしれない。この男の価値は実質的に無限大と言われている。最早、金銭が考慮に入らないという水準だ。彼および彼と同種の人間は、あらゆる行動を許されている。

ヒューズは溜息を吐き、読み始める。

文書はヒューズが執筆したとされる学術論文だ。共著者として同僚の研究員らが名前を連ねており、うち二人は本来ここにいるべき人間だった。論文のタイトルも内容も見覚えが無かったが、彼の研究分野においては珍しくないことだ。文章は彼自身のフォーマルかつ学術的な筆致で書かれ、その真正性に疑いの余地は無い。

無駄のない文体、濃密かつ本質を突いた内容で、他のミーム学者を想定読者に置いたものだ。要約に拠れば、それは新規の強大かつ危険な(反)ミーム複合体を検知したことの報告だ。アノマリーは事前にSCP-3125に指定され、著者らはApollyon指定の申請を予定していた。

「なるほど。」

最初のページの本文では8種の異なる事象が説明される。殆どが異常性で、殆どが財団の制御下にあり、SCP指定されていた。一見したところではそれぞれの現象は互いに無関係で、提唱されたSCP-3125とも無縁だった。ヒューズは数分の熟考に及べば示唆される関係を突き止められるだろうと思いつつ、そのまま読み進めることにした。ページを裏返す。文書の量は両面刷りのA4用紙1枚に過ぎない。

反対側の数字は大半が数式だ。グラフが一つ。方程式が一つ。新規性の高い二つのミーム複合体変換手順の概略。概略は"増幅"と題されている。その後は――

――文章形態のジャンプスケアに等しい何か。決定的な論理の飛躍に続く、ヒューズにとってあまりにも直截な、唐突で悍ましい理解の到来により、生理的な恐怖反応が現れる。"Apollyon"の語が表に並んでいることを事前に知り、紙の裏側にはさぞかし不快な文面があるのだろうと予測しながら、彼は怯んだ。「おい、何だこれは。」

誰一人として言葉を掛けない。彼らは期待の眼差しで、ヒューズが考えを固めて結論を述べるのを待っていた。

彼は論文の残りを読み進め、それと同時に読み終えた時に何を言うべきかを思案した。終わりに差し掛かっても、衝撃から立ち直ってはいない。SCP-3125の全貌は現状の理解の範疇を優に超えていた。今はまだ鍵穴を通じて覗き見たに等しい。理解を得るには、コンピュータの前に座って暫く結果を弄る必要があった。

否。まず初めに必要なのはフィルターだ。放射能を有したアイデアの複合体を一定の安全性の下で扱う為の鉛製手袋に準ずるもの。それヒューズを覗き見たかもしれないと彼は感じていた。

Apollyon指定は、実質的に収容が不可能な、極めて破壊的かつ活発なアノマリーにのみ与えられ、Keterの上位指定に相当する。譬えどれだけ足掻こうと、Apollyonクラスのアノマリーは一定の確度で最終的に世界を滅ぼすとされる。問題のアノマリーが引き起こすXA-クラスシナリオを回避する道が一つあるとすれば、それは先んじて他のApollyonクラスのアノマリーに世界を滅ぼされることだ。アノマリー同士の相対的な脅威度の比較は、収容に用いられ得る資源の不足ではなく、不可避的な破滅までの年数が指標となる。ヒューズが暗算したところによれば、その年数はおよそ一桁に収まる。

「なるほど、これがそうか」と彼は言う。妙な解放感がある。「世界を滅ぼすのは'こいつ'という訳だ。」彼はテーブルの面々を見渡す。「Apollyon指定は受理されたのか?」

「いいや」とO5-8は言う。

「されなかった?」

O5-8は薄っすらと笑みを浮かべる。「評議会の現在の考えでは、Apollyon指定は降参と同義だ。士気に悪影響を及ぼす。敗北主義的な思考の蔓延を齎す。特殊指定を除けば、現状ではKeterが分類の最上級だ。現存しているApollyonオブジェクトは再評価及びKeterへの再指定が来年頃に行われる可能性が高い。他に、何か言い足すことはあるかね?」

ヒューズは言う。「収容手順を考え出せと?既に同じ会話を何度もしているのでは?」

「仮に今回が初めてだったとしよう。」とO5-8は言う。

ヒューズは憂いながら文書を見つめた。「知性ある人間を全て駆除すれば退けられる」と彼は言う。「ホストとなる知性体が宇宙に居なければ、SCP-3125は顕現し得ない。」

束の間、全員が固まった。「はい」ホイーラーが言う。「貴方は以前にもそのアプローチを提示しました。ただ、私達の誰一人として貴方が真面目にそれを言っているとは考えなかったでしょうが。」

「私は真面目にそれが可能だと言っているし、確実にうまく行くだろうと言っている」とヒューズは言う。「我々の理念は『確保、収容、保護』だ。何らかのタイミングで『出来るだけ多くの人間を生かしておく』を追加することを考えた方が良い。」

「保護の対象が人類なのは暗黙の前提ではないでしょうか」とグレーヴスが言う。

「アノマリーを確保、アノマリーを収容、アノマリーを保護。他にどんな解釈が有り得る?」

「話が脱線しています。」ホイーラーが言う。「全知性体の駆除は却下です。」

「全世界規模でミーム学研究と反ミーム学研究を停止させ、隠蔽することならできるだろう。」ヒューズは言う。「機械的に学問分野を丸ごと解体してしまうとしよう。実験を全て止めさせ、研究を無かったことにし、研究者全員を洗脳する。誰もその分野で研究を行っていないのなら、SCP-3125を見つけることは無い。放射性廃棄物のように、到底手の届かない、アイデア空間の僻地に無期限に埋め立てられる。」彼は天井を見上げた。興味深い思考実験だ。「皮肉な話だが、それを実現する一番現実的な方法は、人工のミームを生成することだ。『ミーム学研究は本質的に無価値であり有害だ』というアイデアをエンコードしたミームだ。宗教的な、あるいは疑似科学的な拡散性で満たし、それを公共に広める。出回りだした一年後には自分達のラボを取り壊しているだろう。反ミーム部門自体の外部脅威に対する免疫機能がそれに対抗できる程のものであれば話は別だが。譬えその案を採用しなかったとしても、戦争の推移をシミュレートし、有り得る可能性を知っておくことは必要だ――」

「バート」ホイーラーは言う。

「いや、隠れるのでは駄目だ。外部的に導入されるか自然発生すれば――」

「分かっているのよ、バート。一度通った道だから。SCP-3125は今こうしてミーティングを行っている間にも顕現しつつある。先駆するアノマリーを見なさい。私達は、貴方が前兆と呼ぶ事象の最中にいるの。あれはもう直ぐそこに来ている。」

ホイーラーが言及しているのはヒューズが過去のミーティングで作成したであろう予測モデルのことに違いない。今の自分には、そのモデルを十分に吟味するだけの時間が無い。しかし、理解することはできる。

理解できることをヒューズは恨んだ。彼の中にある恐怖は、多くの人間とは異なる場所に由来するものだ。敵の異質な全貌は、それ自体が人を脅かし、服従させるに十分な迫力がある。流し読みの範囲で思い描くSCP-3125の姿は、悪夢のシナリオだ。それは人類とその文明を彼には想像し得ない存在に変貌させるだろう。とはいえ、想像を超えた存在は平日の仕事で頻繁に見るもので、ヒューズ自身はさほど想像力に富んだ人間ではなかった。彼はSCPデータベースのほぼ全体を知り尽くす、収容設計に関する世界的な権威である。天才的な能力を発揮しない数少ない分野については、信頼できる同僚がいる。全ては解決済みの問題であり、既に鍵の掛かった箱だ。

この問題は違う。彼は他にもアイデアを持っていたが、論理的に、問題に取り掛かる方法が存在しなかった。問題の全体を理解しようとした瞬間に彼はその身を持っていかれるだろう。これに対処する箱を設計し、建設する上での前提は、既に建設した箱の中で作業を行っていることだ。彼は宇宙を箱に収めなければいけない。

彼は周囲の壁を見回す。一見したところ、壁はまだ耐えているようだ。

「同じようなユニットの中に隠れて余生を過ごせば良い。」彼は言う。「種全体がユニットの中に入る。SCP-3125は疫病のように現実を跋扈する。私はこの場所を収容ユニットの外部であると宣言する。以上だ。」

反応は無い。

「無理な話だと思う」と彼は言う。「SCP-3125が現時点で総意現実の中で存在しているのなら、もうお手上げだ。Apollyon指定がされようとされまいと、私の見立てではこのアノマリーは実質的に収容不可能だ。私……あるいは私のチームが過去の会合で違う発言をしたかもしれない。今の自分が答えを見つける為の正しいヘッドスペースから外れているかもしれない。私達は人間として日々変わっていくものだ。」

「いいや」O5-8は言う。「君は毎回同じことを言う。」

「ならばそれまでだ。それまでか?」

O5-8は言う、「財団の目的は保護だ。大半の事例において求められるのは、異常存在の厳格な収容、即ち異常存在を確実に、無期限に保有する為の特別収容手順だ。標準指令において積極的な無力化は禁忌とされ、破壊はあらゆるコストを費やして防止されねばならない。この部屋にいる全員が承知していることだ。しかしながら、私を始めとした財団の上級役員は、あくまで限定的な状況下において、ガイドラインを撤回する権限を有している。私はその権限を行使しよう。基準現実において、SCP-3125と人類文明の共存は不可能であると私は判断する。我々はSCP-3125を破壊する。恒久的に。それを踏まえ、新たな展望を見出せるだろうか?」

「特別無力化手順」とヒューズは真顔で言い放った。表情は刻一刻と曇っていく。

O5-8は付け加える。「私の知識として、無力化は……一般的には収容よりも容易とされている。」

ヒューズは言う:

「私が最初に財団に加入した時、教育役の職員に、とうの昔に退職した人間だ、一度質問をしたことがあった。『我々が収容した史上最大のアノマリーは何か?』と。彼のクリアランスの範囲内での話だ。その質問に対して彼は、昔聞いたという噂話を話して聞かせてくれた。彼の最初の日々に、まだ働き始めて間もない頃に聞いた話を。それは、アブラハム系の諸宗教が元は一神教ではなかったという噂だった。本来は、大文字のGで記される神が三柱いた。そして過去百五十年のどこかで、財団はそのうちの二柱を殺害した。」

「私は彼を信じた。私は若く、経験が浅く、短絡的で、敬いを抱いていた。何年も経ってその会話を振り返った時に初めて――他の人間からその噂話を、似たような話すらも聞いたことが無かった――それが単なるほら話だと気付いた。」

「それから何十年、ミーム複合体技術はあの頃から千億倍の発展を遂げた。私はその三割に寄与し、反ミーム連合の案件を四半期毎に確認している。この星に住む誰よりも、何が可能か、何が不可能かを知っている。そしてこれは……」

ヒューズの言葉が途切れる。皆が期待を込めて彼を見守った。結論には届かない。思考の枠組みが間違っている。それは彼自身の拒絶か、解決策を実行に移すことへの躊躇いかもしれない。何とも皮肉な――

「私は何と言ったんだ?とにかく教えてくれ。」

「君のチームは、SCP-3125は観測史上で最も危険なミーム複合体型脅威であるが、理論的に最上位の存在とは限らないと述べた」とO5-8が言う。「君は、SCP-3125よりも強度で勝る、SCP-3125の無力化に特化したアイデアを人工合成し、なおかつそれを我々の制御下に置くことが可能であると述べた。対抗ミームだ。」

「一体どれだけの……もしかすれば……可能か」とヒューズは漏らした。「途方もなく危険だ。甚大なリソースが必要だろう。十年か二十年の実働を、一切の妨害無く続ける必要がある。観察を退ける為に、外部宇宙から密封された空間の中に終始滞在する必要がある。宇宙船を建設できる程の大きさの空間が必要だ。いや待て。

思考がようやく追いついた。それまでの言葉に過去の自分が込めた意味に気付く。彼は長年に亘って財団の下で働いてきた。

「終わったんだ」とヒューズは言う。「ラボは完成している。何十年も前に秘密裏に建設され、持てる最高の研究者が中に入っていた。仕事は完了している。準備は終わった。このミーティングは、対抗ミームの散布方法を考えるためのものだ。素晴らしいじゃないか!それが本当なら、素晴らしいことだ。そうだろう?」

「バート」ホイーラーが言う。「財団に加入して間もない頃、貴方も教わったことでしょう。守るべきものを守る為、何時の日か、準備の暇も与えられず、己の人生の大部分もしくは全てを捧げることになるだろうと。貴方は三十年間ここで働いてきました。その日が何時かやってくることを貴方は知っていたはずです。皆、同じことを教わりました。」

ヒューズは影に飲み込まれそうに感覚を覚えた。彼は、今まで口を開いていなかった上司のマイケル・リーを見遣った。

リーは言う。「ラボが完成しているという点でお前は正しい。建設作業は過去48時間の間に完了した。作業員は記憶処理を施され、解放された。しかし研究はまだ始まっていない。それが今日の議題だ。」

ヒューズは言う「……そこには私の部下がいる。」

「そう、お前の部下達がそこにいる」とリーが言う。「彼らはバンカーの中で待っている。カバーストーリーは既に出来上がっている。お前の死を偽装する。時間だ。中に入るんだ。」

「今すぐに?いや。それは……どうだろうか。」

「お前のチームは志願した。私が直々に手続きを済ませた。実に良い部下達を持ったな。」とリーが言う。

「馬鹿を言うな」ヒューズが言う。「私がそれに志願したとでも。」

ホイーラーが声を上げる。「バート!」

ヒューズが言う。「その案に同意したという過去の全ての自分は救いようのない大馬鹿野郎で、私はその意志を棄却する。牢屋送りじゃないか。二十年も太陽を見れない生活を送るなど御免だ。仕事を理由に生き埋めにされてはたまらない。私には――」

言葉が途切れ、彼は焦点の合わない目でテーブルを見通そうとする。本来なら、「私には家族がいる」と言うつもりだった。

家族はいない。

妹はまだ生きている。彼と同じく財団職員だ。しかし彼女に話かけることはできず、彼女の方も彼に話しかけることができない。既に試したことだ。

ヒューズはまた別の道を選んだ。「この案は……成功率が低い。時間的制約がある。今が2008年。SCP-3125は2010年代後半にはやってくる――」

「大変高い成功率です」とグレーヴスが言う。

「『大変高い』とは幾らだ」とヒューズが言う。

「50%以上。もしも貴方が入るのなら。」グレーヴスは彼の意見を補強する為のものと思しき分厚い報告書を取り出した。

ヒューズは報告書を覗き込んだ。表紙に自分の名前が記されているのが見てとれた。ちくしょうが。50%は良い確率だ。自分がこの部屋にいる別の人間であったなら、両手でチャンスをつかみ取ろうとしたに違いない。

グレーヴスは続ける。「この計画を進める必要があると我々を説得したのはまさしく貴方です。そして貴方は自分がその中心にいる必要があると言いました。自分を捧げる覚悟はできていたのです。」彼は報告書を取り上げ、後半の一ページを開いた。彼の幼体の眼が目まぐるしく動き回り、目的の個所を探し当てた。「貴方自身の言葉を引用しましょう。『SCP-3125は全多元宇宙規模の脅威である。それは我々に隣接する現実をも脅かす。それは我々のマクロバースに内包されるミクロバースをも脅かす。それは我々の宇宙を創作として内包する宇宙をも脅かし――』」

「それで気が休まるなら、禁固刑だと思えば良い。」とO5-8が口を挟む。「過去の君の判断を取り消しても構わない。いずれにせよ、君の行く先はあのバンカーの中だ。」

ヒューズは再び周囲の壁を眺めまわす。彼の考えていることは他の人物にとってあまりにも明白だった。

「ヒューズ博士、扉は施錠されている」O5-8が言う。「話がつくまで、君が会議室を出ることは無い。」

「カバーストーリーはどうする?」ヒューズが訊く。「どうやって進めるつもりだ?」

「S167-B03-312でヘリウムガスの漏洩が発生します」とグレーヴスが説明した。「漏洩は実際に発生します。偽の死体がすでに準備してあり、弁別は不可能です。貴方の知られているスケジュールには手を加えさせていただきました。貴方がいるのはこの部屋ではなく、漏洩現場です。なお――」

「ただの引き延ばしだ」O5-8はグレーヴスを含めた皆に言った。「これ以上教える必要はない。」

「代わりの人間を挙げてみろ」とリーが提案する。「本気で考えてみろ。お前以外の誰であれば、信頼に値する確率でこの問題を解決できる?他の誰を送り込む?」

ヒューズは何も言えない。誰もいない。本当に、誰も存在しない。そして彼ならできる

リーは追撃する。「他にいるのか?本人の意思は無関係だ。誰なら必要な技術を持ち、なおかつ既にバンカーの中に入っていない?」

世界が微動する。リーは立ち上がっていた。ホイーラーは片方の肘掛を掴んで周囲を警戒する。彼女の拳の中には蓋の取れた万年筆がある。彼女は何かを思い出したかのような表情を浮かべていた。O5-8はホイーラーを一瞥し、彼女の反応に当惑を見せながらも、動かない。ヒューズは何も気付かない。

「私だけだ」ヒューズが言う。

「お前だけだ」リーが言う。「私からすれば、それで十分だ。」

「待ちなさい」とホイーラーが言う。

リーは何処からともなく銃を取り出した。ヒューズの幼体の瞳が収縮し、菫色の針穴に変わる。

これが計画の一環でないことを全員が知っていた。本物の銃だ。所持はあり得ない。ホイーラーは椅子から立ち上がろうとする。しかし彼女のサイドアームは部屋の外の鍵の掛かった箱の中だ。

リーはバート・ヒューズの胸を狙って二回発砲した。一発目は肺を貫通する。ヒューズが倒れこむと同時に放たれた二発目は、彼の防弾性のラップトップの淵を跳ね返り、会議室の天井を穿った。

*

リーは向き直り、次にO5-8へ照準を合わせる。二発の銃弾が放たれる。耳を劈く電撃音と緑色の蛍光を飛び散らせながら、O5-8の防御機構はそのエネルギーを吸収する。ホイーラーはリーの利き手の真後ろから飛び掛かり、一方の手で銃を上向きに弾き、もう一方の手で万年筆を喉元に沈める。リーは抵抗する。ホイーラーは力強く引っ張り、男の喉を開く。リーの指から力が失われ、ホイーラーは銃を奪い取る。リーは自らの血で気管を詰まらせながら苦悶の声を発し、無意味に傷を手で押さえ、後ろによろめく。彼は頭を――正確に言えば、頭に装着した幼体を――会議室の扉のガラスに打ち付け、広がり続ける鮮血の湖の上に滑り落ちた。リーは無力化された。

二秒が経つが、何も起こらない。

O5-8はホイーラーと目を合わせた。「君はどう思う?」と彼は焦るように訊いた。

「マイケル・リーは感染者だった。理由は不明です。」とホイーラーは言う。彼女は安全装置を掛けた銃をホルスターに収め、テーブルを飛び越えてヒューズの様子を見た。確認したところ、彼は死んでいた。グレーヴスも死んでいる。一体何時グレーヴスが銃弾を受けた?今この部屋で一体何が起きた?「もしかしたら、サイトの隅々まで感染済みかもしれない――」

「追加で質問させてもらおう」とO5-8が話し始める。猛烈な高温と光の一撃が彼の言葉を遮り、つい先ほど頭があった所の壁を焦がした。

ホイーラーは熱源の方向へ振り返り、血まみれの手で握っていた銃を対象に向けた。何かが収容ユニットのエアロックを突破するためにレーザーを照射していた。強力なレーザーで、機械じみた精密さで操作されていた。人間の目で追えないと思われる程の速度で。

「私が個人的に所有しているセキュリティだ」O5-8が言う。「銃声を聞いたのだろう。」

「停止させてください」とホイーラーが言う。「ユニットが突破されれば、全員がSCP-3125の餌食になります。」

「ユニットは密閉されている。扉が開くまで、どんな信号も送ることは出来ない。」

「それはまずい――」

エアロックが分断され、複数の破片と化す。巨大な黒色の機械体が隙間を覗こうとしゃがんでいた。まさしく、O5-8のリムジンが立ち上がって歩行能力を得たと言う他にない姿をしていた。今なお内部に人間の操縦者が居るのかどうかは判別が付かなかった。機械の傍らにはボホナーが拘束されていた。彼女はオレンジ色の接着剤の塊によって集結地にあった椅子に固定されていた。「助けて!」と彼女は叫ぶ。

ホイーラーの視点では、黒色の大波が彼女の方へ、収容ユニットの中へ流れ込んでくるようだった。彼女は銃を落とし、両手を上げる。煙を放つ銃を手にしているのは言うまでもなく体裁が悪い。実際のところ、どのようなヒューリスティクス、人間か電子機器によって機械が操作されているのか確信を持てなかったが、彼方が愚かな判断を下す危険を考慮する必要があった。

「下がれ」とO5-8はボディーガードに向かって言う。機械は動きを止めるも一本のレーザーはそのままで、辛うじて目で追える速度で四人の不動のターゲットの間を飛び交っていた。ホイーラー、ヒューズ、グレーヴス、リー。機械は誰かの動きを待ち構えていた。

未だ死に至っていないリーが僅かに震える。レーザーは一発の反撃を加え、彼の頭を幼体ごと原子分解した。レーザーはより短い間隔で、残った三人のターゲットを順に狙う。ホイーラーは一ミリメートルたりとも動かない。

「言ったはずだ、下がれ!」

今度こそO5-8の声は届いたようだった。レーザーはカチリと止まり、機械はニュートラルポジションで停止する。

ホイーラーは肩の力を抜いた。「リーは感染者だった」と彼女は繰り返した。彼女は部屋の後方へ急ぎ、壁に掛けてあった医療キットを降ろす。「貴方を脱出させる必要があります。その後は、サイトを洗浄しなければ。」

「いつ感染した?」O5-8が訊く。「誰によって?私が受けた説明に従えば、SCP-3125は犠牲者の身体の支配権を完全に奪い、その中核概念を広める以外の行動を取ることを生物学的に不可能とするはずだ。リーの身体は十全に機能していた。」

「計算違いがあった」とホイーラーが言う。彼女はキットの内容物の大半を放り出し、細いノズルの付属した、ピンク色の液体で満たされた奇妙な形のカプセルだけを手元に残した。

「銃は何だ?入室時にチェックされたはずだ。」

「分からない」ホイーラーは、秘密裏に室内に銃を持ち込む方法を幾つか思い付いていた。リーが以前に入室した際に隠した可能性がある。ボホナーが共犯かもしれない。共犯が他にいるかもしれない。彼女の考えでは、ヒューズの三人の部下も殺害されている可能性が高い。

今となっては考えるだけ無駄なことだ。彼女はカプセルを自分の右手首に宛がい、薬剤の半分を注ぎ込んだ。即効性の化学的記憶処理剤だ。彼女の希望的観測が成立すれば、一回分の投与で二人を生き長らえらせることができるはずだ。

「そろそろSCP-3125がお出ましする頃ではないかね?」とO5-8が問いかける。「確かに……何かを感じる。頭の中に。私の幼体の中に、と言うべきか。」

「私もです。袖をまくってください。少しの間、シールドを解除してもらう必要もあります。」彼は指示に従い、ホイーラーは薬剤の残りを投与した。シールドが標準装備であることをホイーラーは切実に願っていたが、それは著しく入手困難で、仮に身にまとったとしても深刻なデメリットや副作用が付いてまわるものだ。

部屋の外では、ボホナーが喉を詰まらせながら異言を吐いていた。彼女が再び悲鳴を上げる。ホイーラーがその方向を向くと、濃色の長く尖ったジャベリンが糸状に分岐したような物体が、建物の天井の何処からか降下していた。それはボホナーが固定されていた椅子に絡みつき、彼女ごと宙に持ち上げる。二本目の細い触覚が視界に入る。触角はボホナーの糊まみれの腹部を興味深げに探り、紙に画びょうを指すように、その身で彼女を貫通した。

彼女の喚きと共に、何リットルもの血液が噴き出て足元の床を濡らす。触角は引き抜かれ、最初に穿たれた穴の隣を貫通する。同じ動作が何度も繰り返される。

さらに多くの蜘蛛足がO5-8のボディーガードを貫き、機体をエアロックから引きはがす。瞬く間に、ボディーガードは火花を散らす鉄屑に分解される。レーザーは機械の死と呼応して激しく点滅する。それは最早機能を果たし得ない。

遠方で、サイト規模の収容違反警報が鳴る。

「あれはミーム的な脅威だ」O5-8は自分に向けるかのように呟く。「蜘蛛型実体は何だ?」

「代替の移動手段は?」とホイーラーが訊く。

「S167-B02-101、脱出ポッドがある」とO5-8が答える。

彼がそう言うやいなや、ホイーラーはその文字列を血濡れの万年筆で自分の手に書きしるした。「地下に?確実な情報として?開錠コードはある?」

O5-8は五桁の数字を伝えた。彼は自分の頭を掴む。幼体は不機嫌そうに色と感触を変えており、その青白い肌を感染症が巡っているように見えた。「感じられる。まるで――鋼鉄の顎のようだ。これは……実に不快だ。」

「脱出ポッドに辿り着く必要があります」とホイーラーが言う。「それ以外は重要ではありません。理由を記憶しておく必要はありません。分かりましたか?」

蜘蛛足がエアロックに侵入し、ユニットを裁断しようとする。素早く、貪欲で怒れる存在だ。それらは中に何か重要なものがあることを知り、到達できずにいる。頭蓋骨は分解するにはあまりに強靭なのだ。

O5-8はフィールド経験が不足している。記憶処理に思考を妨げられている。「君に従おう。」と彼は眠たげに口にする。「脱出ポッドだ。率いてくれ。」

ホイーラーは彼の手を取った。もう片方の手で、彼女はリーの銃を掴んだ。弾薬はそれなりに残っている。「付いてきて」と彼女が言う。彼女は以前にも同じ状況に遭遇している。彼女が知らないだけだ。

建物の天井が内向きに湾曲し始める。

*

その正体は何だ?

それは何処にいる?SCP-3125はどんな姿をしている?その動機は、起源は、作用規範modus operandiは――一体どれだけを知ることが可能だろうか?問題を解決する上で、知る必要はあるのだろうか?実体を箱に閉じ込め、チェックメイトに至った時、知性体の知性を論じることがどれ程重要だろうか?

その対抗ミームは、如何なる輝きを放ち、如何様に精神を捻じ曲げるだろうか?如何にしてそのような破壊的な存在を人間の手によって組み上げ、安定化することができるだろうか?どのような人間なら内側から爆ぜること無くそれを携えることができるだろうか?怒りと共にそのような概念を人間のアイデア空間に導入することで何が齎されるだろうか?現在のミーム科学がその解法に至るまでどれだけ掛かるだろうか?一年か?一世紀か?今、ヒューズが身を投じているのは、どんな途方もない不可能性だろうか?

彼は何も知らない。彼はサイト167が崩壊しつつあることを知り、何らかの暴力的で精神的な存在が廊下と職員を満たし、充血した彷徨い歩く群れがあらゆる人間を最悪の存在に変えていることを知っている。その存在は、間違った考えを帯び、間違った姿を晒す、無色で怒れる存在だ。彼は廊下を駆け抜け、通気口を経由してさらに奥深くへ進む。彼の身体は小さく、俊足で、滑りがちに動作する。彼なら辿り着ける。彼なら自分を閉じ込めることができる。

彼は幼体が如何にして生存するのかを知らない。ケージで飼われているのを見ただけだ。ボホナーがこなしていた管理ルーチンを知らない。それは水中で、C. gigantesの血漿の中で生存可能だろうか?調合餌を与えられるのだろうか?餓死する前に、リバース・エンジニアリングによって自身を生物学的に理解する必要があった。彼は自分の思考の様態を知らない。考えることは痛みを伴う。

しかし考えることはできる。

次回: ブラッド/ブレイン

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