図南の翼
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冬の気配が感じられる秋の夕暮れに、ある一人の男が町を訪れた。その当時、腰に細身の洋刀を差した警官や、日常的に着物を着用する人間が存在する昭和の時分である。世の中に科学技術が蔓延し、にわかに軍靴の気配を感じる、米国との大戦の少し前のことであった。
 
自動車が荒く喧しい音を立て走る大通りに、大きな手提げ鞄を持った一人の男が悠々と道を歩む。その男は電車を乗り継ぎ、今しがたこの町に到着したばかりである。町に到着する前は、本島から少し離れたある島に滞在していた。本来ならば、その島から離れる予定はなかったが、お上からある命令を下された為に上京せぬばならなかった。
 
男はホテルで部屋を取り、ボーイに余分な荷物を預かってもらった。男は再びブラブラと外に出る。寒さに縮こまるように肩を窄み、雑踏の中へ踏み入った。行き先はバーである。耳に喧しい呼び鈴を鳴らしながら店のドアを開き、カウンター席に腰掛けた。室内は賑わう……とまでいかないがソコソコ人が入っているらしく、ざわめく声がボソボソ響く。
 
男は焼酎と適当なおつまみを注文した。数分したところで、燻製チーズと、水割りが提供される。男はチビチビ飲み食いしながら、使い古した黒革の手帳を取り出し、時折万年筆で記していく。その様子にバーの常連客の一人が、興味津々に話しかけた。
 
「おっと、どこかから逃げ出したのかな? フフ……おかしいったらないぜ。あんた余所者だろう? 見慣れない顔をしている。何をしているんだ? 帰らなくていいのかね」
 
「……? こんにちは。依頼人の指示で、ちょいっとこの町に用があってやって参りました。しがない私立探偵をやっております。探偵の腕前は辣腕とまではいきませんが、結構腕が立つ方でございますよ」
 
男は微笑みながら、得意げに云う。バーの常連客はキョトンとした顔した後、大きく口を開いてゲラゲラ笑った。探偵や腕が立つといった発言を冗談か法螺とでも思ったのだろう。常連客は数分間、肩を震わせ腹を波打たせた。呼吸すらままならない大爆笑である。
 
「そりゃ重畳。フフ……自分でやり手とか云っちゃうんだもの。私立探偵かぁ……俺も何か依頼しようかなあ」
 
「密室殺人などは勘弁くださいましね? ところで……探偵らしく活動しますが……この町で、何か変わった事件はございませんでしたか?」
 
「あったよ。ツイ先日……五日前のことだったかしらん……一応、新聞沙汰になったんだがね……」
 
「新聞沙汰……」
 
「運が良いか悪い事か新聞の三面記事には、余所の大火災の見出しで目立たなかったんだねぇ。……いや実際、その火災は奇妙な事件だったな。住民全員が自分が誰で己が何なのか分からない……記憶喪失を起こしてたって云うじゃないか」
 
「ええ。記憶喪失だけでなく、顔面や身体に麻痺の症状が出た……予言を云い出した……生首だけで動いた……など、色々なことをお聞きします。噂話には尾鰭がつきものですが、確かにヘンテコな事件でありますね」
 
「科学製品でも流れ込んだのかねえ? まあ、ともかく、だ……俺たちにはソッチ話題よりもコッチの事件の方が注目すべきモンでね。まだ噂は風化しちゃいないんだ。皆、あの事件のことを不安そうに口にしている……」
 
「……どんな事件なんです?」
 
「狐憑きだよ」
 
……狐憑き……。男は常連客が口にした言葉を耳にして、丁度良い機会と捉えた。実は、この男が島から上京した理由というのは、その狐憑きの事件を解決するため赴いたのである。バーへ向かったのは単なる気まぐれであり、本気で情報収集をしようとは思っていなかったが、渡りに船だ。右手にペンを、左手に手帳を携え聴取の姿勢を取る。詳細に情報を聞き出すべく、促すような言葉を向けた。
 
「周囲の言葉から察するに……若い細君が狂ったそうですね。……狂ったというぐらいですから、人でも殺して、煮て焼いて食ったりしたのでしょうか?」
 
「煮ても焼いても食えない事件さ。単純に正気を失っただけだが、今回のはちょっと凄くてね……実はこの町には、ある狂い筋の一家があるんだ。狂い筋といってもね、判でも押したように生まれた瞬間から狂っているわけじゃない。突然、おかしくっちまうんだ」
 
「かわいそうですが、そういうのは脳病院にいれていた方が良いでしょうな」
 
「単純に一個の人間が狂人になろうが、痴れ者なろうが、知ったこっちゃない。だが、最悪なことにその狂いが、一族外の人間に伝染するんだと。そこが一番恐ろしい。明日は我が身にならないか、みんな怖くてたまらないんだ」
 
「難儀なことだ」
 
男はぐいっと水割りを呷る。咽喉がゴクリと音を立てた後、更に詳しく調査すべく常連客に「狐憑き」の話を伺った。
 


 
翌日、男は狐憑きの噂の元である家に向かった。そこは古く大きな屋敷で、堅牢そうな門が備え付けられている。それは厳重な戸締りのためではなく、その家の人間を封じ込めるため厳重な仕切りを作ったとしか思えなかった。その証拠に豪邸であるにも関わらず、周囲には乞食の姿すらなく、茫々と乱れる野原があるばかりである。コスモスが愛らしく咲いているが、より一層この家の持つ陰鬱さを強調しているように感じた。
 
男は門前から来訪の意を告げると、若い女中が出てきた。彼女は顰めっ面になりつつも、すぐに取り繕い、客間へ案内する。その最中、女中はチラチラと男を振り返った。客人がよほど珍しいのだろう。案内された客間は洋室であった。男はドッカリとソファに腰掛ける。物珍しそうに調度品を眺めていると、屋敷の主人が現われた。かなり若い男だが、精神的に疲弊しており、顔には若々しさと瑞々しさがなかった。
 
「依頼人の春日部と申します」
 
「どうも。私は、退治屋の峠というものです」蒐集院の隠れ蓑の一つである偽の名前を出す。「狐憑きの祓いに来ました。よろしくお願いします」
 
「あなたが、ですか……」春日部の主人はジロジロと男――峠の顔を眺めた。「……まあ、そういう人でなければ、務まらないのかもしれませんね」
 
含みのある言葉である。峠は頭を傾げながら、「話は大体伺っておりますよ」と口火を切った。
 
「細君が発狂し、他の者も狂ってしまった……だとか。まずお聞きしたいのですが、狐憑きの由来や因縁はありますでしょうか? 誰かを呪った……もしくは呪われた……謂れ曰くの品がある……穢れや祟りを受けた……。何でも良いんです。教えて下さい。祓うといっても、種類によって対処が全く異なりますから」
 
「そう、ですね……。実は、この家には、曰く謂れの品があります。……丁度江戸か明治辺りの時分に、山伏でも虚無僧でもない身分不詳の人物から、珠を預かったのだそうです。何でも、玉藻前の殺生石……であるとか。私はその珠を実際に見たことがあるのですが、ただの石塊であるように見えました」
 
「見たことがある? 何ともありませんでしたか?」
 
「……別段、何ともありません。……自分がいつ、妻と同じように気が狂うかわかったものじゃありません……信用のない言葉でしょうが、こうして人と話が出来、人間のように暮らせているのであれば、大丈夫なのでしょう。いや……しかし、私がそう思っているだけで……どこかが……狂って……」
 
主人は己の意識や認識が疑わしいのか、過去の記憶を探り始めた。峠は主人を安心させるように、専門家としての意見を出す。峠がこれまで仕事に携わった幾つかの実例を引き合いに根拠を示せば、主人はほっと安心した顔をした。
 
「ところで、奥さんは……親戚か何かか? 失礼ですが、妻を娶ろうにも狂い筋の噂が……」
 
「家内は、親戚でも遠縁でもありません。血統なんてもういませんから……。彼女は、私の家が狂い筋でも好いてくれる、小さい頃からの関係です。全て承知の上で嫁いでくれました」
 
「ハアア、おしどりですね。……奥さんが狂う前と、他の方がおかしくなる様子……それと、珠の詳しい話をお願いできますか?」
 
「……えぇ、お話し致します」
 
主人は、以下にその様子を語ってくれた。
 
……少し前にお話ししましたが、狐憑きの珠は江戸か明治の頃に受け取ったものだそうです。珠は木箱の中に収められてあり、蓋を開くとそこには灰色をした真ん丸い石が入っていました。春日部の祖先は、珠を取り出そうと箱の中に指を入れた瞬間、狂いました。これが第一の事件、発端です……。
 
……第二の事件は、先祖の息子が父の仇を討つべく、箱ごと珠を破壊しようと、日本刀を振り下ろした時に発生しました。一太刀あびた珠は、ヒビどころか瑕一つ入りませんでした。それが口惜しかったのでしょう……入れ物ごと珠を蹴り飛ばし、中身が外に転がると、その場にいた全員が前人と同じように狂乱の有様となったのです。……キット、珠を破壊しようとした祟りが降りかかったのでしょう……。
 
……呪いの力はすさまじく、狂気に触れた人は一生涯、正気を取り戻ることはありませんでした。しかし春日部の人間は、それでもなお執拗に珠を破壊しようと躍起になって奮闘し、その度に返り討ちされ、今日に至ります。私達は大狐の呪いを治めるべく、後生大事に奉って参りました。屋敷の奥の間に安置し、月の初めと終わりに坊主を招き、経を読んでおりました。妻には、「このように慎重に接することで、私達は当たり前の人間のように暮らしていけるのだ。罰当たりなことはしていけない」と、何度も云い聞かせておりました……。
 
……しかし、嫁ぎ先が嫁ぎ先です。妻は悪くないのに……噂がヒソヒソと立ち、好奇の目にマザマザと曝され、ストレスを抱えるようになりました。普段は痛くも痒くもない顔で、気丈夫に振る舞っておりましたが、いつまでも知らんぷりすることができなかったのでしょうね。好き好きに話す野次馬、思い思いに喋る好事魔達を打倒すべく、勇み足で家に戻り、箱を開いて床に珠を叩きつけるとタチマチ……。
 
「妻は、風伝と逸話を絶つため、勇ましい真似に出たのでしょう。私は彼女を責めません。出来ることならば救いたい……可能ならば以前のように戻ってほしい。彼女だけではありません。私の頼みで、発狂した妻を押さえつけようと働いてくれた屈強な男衆までもが……」
 
「……何故、人に預けたり、早々に俺たちに対処を求めなかった?」
 
「預けようと、何度も何度もあなた方にお知らせしました。だが……『ただ狂うだけの珠』だとかおっしゃって、退治屋さんは一蹴されたではありませんか……っ!」
 
突如、春日部の主人は目を青白く光らせながら峠を睨み付けた。彼はその事実を知らなかったが、素直にペコペコ平謝りする。春日部の主人は長い間、拳をワナワナ震わせていた。昂ぶった感情を沈め、冷静になるため深呼吸を繰り返す。頃合を見計らって、峠はそっと訪ねた。
 
「……奥さんをおさえるべく助けを呼んだのだそうですが、どうしてその人たちに呪いが降りかかったのでしょう?」
 
「……わかりません……男衆が奥の間に足を踏み入れると、何故か妻と同じようになったのです。キット私達は、大狐の怒りを買いすぎてしまったのでしょう。呪いは強烈になっているようです。峠さん、あの珠はあなたに差し上げます。しかるべきところに保管していただけませんか?」
 
「預かるのは構わないがね……」
 
峠は後頭部をガリガリと掻き、手荷物を探った。手提げ鞄の中にあるのは、商売道具と幾許の金である。
 
「狐憑きになった人達はいまどこに? 脳病院に送っちまったか?」
 
「部屋から飛び出したところを押さえ、地下の座敷牢に閉じ込めております。お祓いのために病院へは送りませんでした」
 
「そうか。良い判断だ。呪物はどこにある?」
 
「奥の間に放置したままです」
 
峠は頷きながらテーブルの上に、大きな木箱を取り出した。留め金を外して中を開くと、そこには様々な薬品や小道具が詰まっている。興味ありげに注視する主人に、峠は薬箱だと簡潔に述べた。
 
「効くか分からないが、飲み薬を煎じてみよう。状態が良くならなかったら、脳病院に移送した方が良い。えーと、これこれ……あったあった」
 
薬箱から取り出したのは、大きめのアルミ缶である。缶にはラベルが貼られているが、そのイラストを見た瞬間、春日部の主人は即座に立ち上がり、峠を指差して大声で怒鳴りつけた。額に青筋をウネウネ走らせ、怒り心頭である。
 
「それはダチュラの花じゃないか! お前は私の妻や他の人たちに狂い茄子を飲ませるつもりなのか!?」
 
「落ち着いてくれ、これは特別な薬で……」
 
「ダチュラはダチュラだろう! 狂った人を更に狂わせれば元に戻るとでも? 取り返しがつかなくなるだけだ! 帰ってくれ帰ってくれ! 何故、あなた達まで私達を苦しめるのか!」
 
今にも殴りかかってきそうな鬼気剣幕に、峠はたじろいだ。峠は誤解を払拭すべく、春日部の主人の目をじっと見ながら真摯に訴える。
 
「これはダチュラではない。確かに缶に描かれている開花はソックリだが、異なるものだ。よく見てみろ。ダチュラは白い花弁をしているが、こいつは赤みを帯びた紫色をしているだろう?」
 
峠はその他に、薬の元になる植物の説明を長々と口にした。存分に説明したところで、主人は不承不承、座り直した。峠の言葉を全て鵜呑みにしているわけではないが、繰り返し説明することで、ただ危険な薬でないことを承知してくれたらしい。
 
「……すみません。大声を出して」
 
「マア、ハハ……確かに素人目では、ダチュラに見える。ややこしいから、缶のイラストを変えてもらうように云っておきます」
 
峠は苦笑を浮かべながら、浅く息を吐く。額にはビッショリ汗をかいていた。いらぬ誤解を回避するために為された労力は、甚大なものであった。しかしその疲労は、単純にそれだけではなかったように思える。缶の絵を見ると、無性に胸騒ぎがした。……何故だろう……。
 
「これは水に混ぜて使います。火に炙り煙を呑む方法もありますが、効きすぎますので。主人、薬の処方のために、薬缶……熱湯と常温の水……砂糖、木箆を用意してもらっても良いですか?」
 
不安を断ち切るよう溌剌快活に云うと、主人は傍らに控えていた女中に、注文した品を持ってこさせるよう云いつけた。女中が戻ってくるまでの間に、峠は十二人分の粉薬の準備を終わらせる。女中から薬缶や砂糖等の品々を受け取ると、峠はまず、空の薬缶の中に粉薬と砂糖を入れ熱湯を注いだ。湯気に混じって漂う薬の臭いは雑草よりも青臭い。砂糖と粉薬を木箆でかき混ぜ、常温の水を注ぐと、数分で水薬が完成した。
 
「地下室に案内してくれ」
 
主人の案内で、客間から座敷牢に移動する。座敷牢の中を開くとそこは地獄にも聞かれぬ、狂乱の宴が催されていた。捕縛された数十名の人間が白目をひん剥き、泡を吐き、爪をキリキリ立たせ、妄りに狂っている。峠は怯むことなく、狐憑きの皆に薬を飲ませていく。大きく開いた口に薬を注ぐのだが、舌に伝わる味に激しい拒絶を示す。強烈に苦いらしい。味を誤魔化すために砂糖を混ぜていたが、大した効果はないようだ。峠は皆が薬を飲み終えるまで、吐き出されても噛みつかれそうになっても、懇々と熱心に作業を繰り返し、二時間程で配布が終わった。薬を飲まされた人達は先ほどの錯乱を忘れたように大人しく、静かに静かに、こっくりこっくり舟を漕いでいる。
 
「一週間ぐらい、夢遊病のような状態になりますが、チャント効いている証拠です。おそらく狂った状態から脱すると思うぜ」
 
「ほ、本当に妻は……皆は……」
 
「心配なら坊主に経を唱えてもらうと良い。……ところでご主人、一番問題の珠について伺いたい。何度も何度も聞くが、見ただけでは問題はないんだな?」
 
「恐らく。……私は、自身が正気か否か……モウ分かりません……信用ならないかもしれませんが……」
 
「そうやって自分の正気を疑っているうちは大丈夫だ。自分は正しい、正気なんだと思い始めたら危ねえ。……そして次に、狐憑きになった人は、部屋に入るとそうなったんだな?」
 
「ええ、珠に近寄るとそうなるのでしょう……部屋に入った瞬間に様子がおかしくなったのです」
 
「ずっと前の先祖は珠を取り出そうと箱に指を入れると、狂った。先祖の息子は箱を蹴り飛ばして部屋に中身が転がるとたちまちおかしくなった……間違いないか?」
 
「ハイ、そうです。それが一体……?」
 
「大事なことだ。とてもとても大事なことなんだ」
 


 
その後の峠の行動は迅速だった。それは的確に行動したというよりも、迷いがないと表した方が適切かもしれない。彼は珠が放置されている奥の間へ行き、珠の所在を確かめた。ブツの外見上は、河川や山道に転がっている普通の丸い石のようにしか思えない。峠は主人に用意してもらった空の桐箱を、部屋の縁に配置する。峠は部屋の中に髪の毛一本入らないよう気をつけながら、長い棒を使って珠を弾き飛ばし、地味な努力をして、桐箱の中に納めることに成功した。
 
峠は珠を収めたことを主人に知らせ、報酬としていくらかばかりの謝礼を貰い、ようやく仕事を終えた。時間にして三時間ほど掛かったが、早々に終え上々である。峠は屋敷から出た後、煙草屋にブラリと寄り、ホテルに戻った。仕事達成の脱力と業務中の疲労のために、今晩は早めに寝ようとドアを開く。島に帰って、真中に珠を渡そうと考え始めた瞬間、峠は立ち眩みを感じた。
 
ベッドの傍には小さなソファが置かれているのだが、そこには立派な軍服を着た男性が座っていた。入室者の顔を見ようと目を凝らすが、どうしても眼球が意に反して動き、直視することができない。峠は純粋な疲れではなく、その人物を一瞥してしまったがために、視界がぐらついたのである。峠は深くしつこい浮遊感を味わいながら、男から顔を背ける。手で額を押さえながら、唸るような声でその男の名前を呼んだ。
 
「三川……だな?」
 
「あぁ、そうだ。久し振りだな」
 
「いきなり何の用だ……」
 
三川は峠の返答を耳にして、何事か引っ掛かったのだろう。小首を傾げながら、足を組む。少しの間、重苦しい沈黙が続いたが、ややあってボソボソと。
 
「…… “戦争を間近に控えた大事な時期なのに、いつでもできそうな仕事”を指令され、無事に終えたようだな。ご苦労。蒐集品を出せ。私が預かろう」
 
ズイッと片手が差し伸ばされる。峠は数秒躊躇したものの、素直に桐箱を差し出した。三川に木箱を受け渡したとき、差し出すことに何故ためらったのか考えるが、答えは出なかった。峠の思案を他所に、三川は箱を縛っていた紐をスルスル解いて蓋を外した。
 
「これはなんだ?」
 
「狐憑きの珠だそうだ。頭がおかしくなるんだとよ」
 
「……、ただ狂うだけか? それなら、狐憑きじゃなくても良さそうなものを」
  
「……確かに狂うだけで、予言なんかしなかったな……だが、威力は本物だ」
 
「して、他には? この妖物の詳細を教えてくれ」
 
「……。精神錯乱にはある一定の範囲がある。箱の中から取り出そうと、指を入れると狂う。箱から部屋に移すと、部屋の中に居た者が……小箱に納めているときは、小箱に肉体の一部を入れた者に……部屋に出すと入室者に……といった具合だ。あの部屋から出すと、何がその効果範囲の“区切り”になるかわかりゃしねえ。俺の身も危ない。俺は珠のあった部屋に髪の毛一本入らないように気をつけて、地味に苦労してその箱に納めたんだぜ。絶対に外に……いや、箱に指を入れるなよ?」
 
「威力は本物といったな? 疾患者にはどんな処置をした?」
 
「普通にダチュラを処方した。記憶を喪失させることで、影響から脱することができるみたいだ」
 
三川は春日部の主人に、自分が処方しようとした薬は「ダチュラ」ではないと否定したが、それは嘘ではない。そして、今しがた述べた言葉も嘘ではない。もっと正確に云うならば、「往来のダチュラを品種改良した薬」ということになる。峠は話のついでに、春日部の主人が缶の絵に対して反発的な態度であった事を述べ、缶のラベル変更を要請した。これは春日部のほかにも、同様の件があったからだ。対処すべき問題と思われたので……。
 
「包装を変えようにも、蒐集院お抱えの薬師がいないからな。島の半分以上が焦土と化したそうじゃないか。マァ……他所に、種も畑も人もある……影響はあっても問題はないだろう……が……しかし……」
 
三川は珠を見詰めながら感情と抑揚のない声で云う。それは無関心というよりも、自身の荒々しくなる気持ちを制御するために、押し殺されたものであった。しかし、三川は完全に感情を制御できていない。その証拠に木箱を破壊せんが如く、強く握り締めた。
 
「オイオイ乱暴に扱うなよ、この部屋に転がり落ちたら二人ともおじゃんだぜ?」峠は肩を竦める。「火事の件は三面記事に出ていたな。何でも、『火事収束後、生存者全員に記憶喪失』……『顔面、身体麻痺等の症状有り』、『予言を言い出した』……『斬首した生首が動いた』……だとか……根も葉もない尾鰭がついて回っている」
 
両者が話す火災は、バーの常連客が口にしていた“話題の事件”のソレになる。記憶喪失の真相は、畑で生育していた特別製のダチュラが燃え、その煙が島に充満することによって起きたものだろう。記憶喪失の薬は水薬よりも煙の方が効果があった。必要以上に吸引すると、身体や脳に致命的な症状が出るのだ。
 
「俺が島を出た丁度後で、正直驚いた。真中が無事だと良いんだが」
 
「……。私はお前に命令で、真中に“これから”のことを話すために島へ行ったのだったな。どうして島を離れた?」
 
「仕様がないだろう。上からの命令だったし」
 
「二度も云うが、戦争を間近に控えたこんな時期にか? お前は島で何をしていた? ……いや、何をされた?」
 
「? 何もされちゃいねーよ。物騒だな、オイ」
 
「真中は記憶喪失の薬を持ち、そして精通している。私の質問に答えるお前の返答は、型にはまった例文のようにしか感じられない」
 
「あ?」
 
峠は苛立った顔を一切隠すことなく、三川を睨み付けた……が、一分も経たない内に目線を逸らした。首をゆるやかに振り、浮き沈む視界の不安定さを正す。目頭を押さえながら、露骨に話題を別のものへ持っていくよう、喋り出した。
 
「真中がいなくなって、記憶喪失でというよりも、外科的な意味で麻酔薬が少なくなったのが苦しいな。戦争に怪我は付き物だからな……痛みが残った手術はさぞ苦しかろう。治療なのに拷問だ」
 
「話を逸らすなよ。どうして真中は火事を起こしたのだと思う?」
 
「意図的に燃やしたことが前提なのか? 案外、寝煙草が原因かもしれないぞ」
 
「私は、意図的に己の存在を消すためにダチュラ畑を燃やし、島民に記憶喪失を起こしたと思うがね。なあ、知っているか? 住民票を元に島民の名前を当て嵌めて個人を特定していったが、人間が二人どうしても足りないそうだ。更に火災から翌日、島近くの本島で、『骨壷を持った人間』の目撃談がある。確実に真中だと思うのだが、それが兄か姉の方なのか、私には分からない」
 
「姉がいたのか……」
 
「お前は数年前からよく、記憶喪失剤を貰って懇意になっているだろうに……。真中は恐らくなんらかの理由で葦舟、ひいては財団に繋がっていると思われる。そうでなければ、あんな真似はしないだろう……」
 
三川はそこまで云うと、衣擦れの音を立てながらゆっくりと立ち上がった。木箱の蓋を閉め、紐を巻き戻す。峠の前から立ち去ろうと、二、三歩進んだところで気でも変わったのか、ニヤニヤ笑いながら話しかけてきた。
 
「そうそう……真中はダチュラの更なる改良を加えていた形跡がある、疑惑程度だがな。あの薬は記憶を消去するだけで質としては良いとは云い難い。十年前の記憶を消すなら、十年分記憶を消さなくちゃならん。効率の悪い。……もしも消去ではなく捏造……改変が出来たらどうだろう。情報隠滅の手段としてはナカナカ上等ではないか。ところでお前……」
 
 
「島に行く前は誰にでも敬語を使う礼儀正しい奴だったが、その口調はどうしたことだろう?」
 
 
「え……」

「言葉が荒々しく、態度が不遜だ。こんな短期間に人格でも変わったか? 記憶でも違えたのか?」
 
「え? え? ……?? …………????? ???????????????」
  
「虚を突くと思考停止し襤褸が出ることから、捏造技術は完全ではないらしいな。私の顔を見ると、脳にストレスが掛かるためか、直視できないようだ。お前は、自分の口調が変化していることに違和感を覚えているか? ヤレヤレ……自分で自分を疑う内はまだ大丈夫なのに、それが正しい、正常なのだと思っているとイヨイヨ危ない」
 
……そうやって自分の正気を疑っているうちは大丈夫だ。自分は正しい、正気なんだと思い始めたら危ねえ……。
 
それは奇しくも、峠が春日部の主人に対して云った言葉である。まさか、このような形で返って来ようとは……。
 
「フン……それじゃあ、お達者で。戦争の収集時にでも逢おうじゃないか。そこまでお前が正気を保っているか、分からないが」
 
三川は軽く高笑いしながら、部屋から出て行く。峠は三川の言葉が外国語か未知の言語を聞いているような、曖昧な態度でいた。明らかに日本語であるにも関わらず、理解できなかったのだ。思考が止まって、言葉がスルリと抜けていく。阿呆のような顔でポカンと直立し、言い知れぬ恐怖を自覚した。

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