街の底
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雪。
一面見渡す限りが雪だった。屋根を厚く埋め尽くし、そこからなお垂れ下がっている。踏みしめて身震いした。
足元の雪には二筋、三筋とまばらに足跡があった。どうやら通りを行くのは自分一人ではないらしい。ふと、子供たちの教室で聞いた百人一首の句が思い浮かんだ。"山里は冬ぞさびしさまさりける"、だからといって、ひとりでなければ雪や寒さがなくなる訳でもなかったが。それどころか侵入して即、あからさまに降雪が勢いを増した気配すらある。

常夜の町はまあまあ活気づいているようだった、通りは見える限りは無人だが。一方で、己を大した術者だとは思わないので、たった一人の立ち寄りでここまで雪が増えるということは、中にいる者たちの大半は魔法を使えないのかもしれない。そうであった方が色々な意味でありがたくはあった。相手方とこちらの腕の差に関わらず、こんなときに物取りに待ち伏せされたり、人に見られず陣地を張りたい人間に出くわしたりするのはかなり面倒だからだ。
大きな荷物は冷気をしっかり吸いこみ、薄い袋の中から防寒着越しに肩を苛んできている。不審な足跡がないことを確認するために一瞬だけ振り向くと、なるべく早足で歩いた。

荷物の正確な送り主の見当も、居場所のあてもまるでない。とにかく分かりそうなものに尋ねてみるつもりで来たが、残念なことに、店の間口はどこにも見当たらない。入口に近すぎてなんとなく敬遠してしまったが、今さっき通り過ぎた小さな店々に入っていればよかったかもしれない。しかしこの手の場所で焦って後戻りしようとすると面倒が起こるものなので、とにかく今は歩くしかない。これもありがたいことに、緩い角を曲がるとすぐ暖簾のかかった戸がまた視界に入ってきた。

戸口を開けると暖房の熱気が溢れて、たちまち、これだけは外の世界とあまり変わらない石油ストーブの匂いで包まれた。これでやっと寒さから逃れられそうだ。

店内にはぼんやりとにぎわっている気配があった。影なき亡者たちと、影を失くした生者ですし詰めだろう。生者の失くした影だったか? うろ覚えだが、まあ今回は大した問題じゃない。肝心なのは主を見つけることだ。こちらも難なく済みそうだった。
人が、周りより一段くっきりとしている人間がカウンターの後ろからこちらを認め、目が合うと微笑みかけてきた。まるで図ったように真正面の席が開いていた。
「いらっしゃい、寒かったでしょう」
「ええ」曖昧に微笑み返す。
「ご注文ごとはおありですか」
頼みたいことがあるかどうか、とは。変わったことを訊かれたものだった。どう考えても居酒屋の注文の取り方じゃない。もちろん予習の範囲内ではある。
緊張と室内の熱が合わさって、首から上が火照ってくるのを感じた。ここまで来たからにはさっさと終わらせよう。
「人に頼まれて……これを送り主に返したい言うんですけど」「あら」
膝の上で巾着を緩めた。ナイロンの衣擦れ。中からは寸胴が現れた。
「寸胴鍋」「手紙預かってます」
紫色の巾着の中を手探りして、鍋の下に敷かれていた封筒を取り出して差し出す。一瞬の間。逡巡だろうか? しかし店主は静かに受け取った。しばし黙読する間、さらに奇妙な沈黙があった。やがて再び店主の方から口を開いた。
「あなたも読む権利があると思いますが、読み上げましょうか?」
一瞬、心臓が撞木で衝かれたように跳ね上がった。多分顔には出なかっただろう。そう思いたい。
「どっちでもいいですよ、ぼく、字は……苦手なんで」「じゃあ遠慮なく」
それとは別に、また奇妙な遣り取りだ。

前略 恩人様
昔日は吾輩のような粗忽者をお助け戴き、誠に有難うございました 折角父母に通わせて貰った旧制高校を肌に合わず投げ出し、中華料理屋に勤め始めて早幾年、当時は未だ一人前になるかならぬかの内に先代を亡くし、受け継いだ店を以前と負けぬほどに盛り立てていこうと奮闘しておりました折、血気ばかりが空回りして肝心の味を作り出すことが出来ず、常連が離れて行く事に心を痛めておりました 幸い妻は器用で愛想もよく、店を潰すには至らずともこのような苦労を掛け、また先代の味を失うも悔しく、ある日自棄のやん八になって酒を求めておりましたところ、貴方様の店に辿り付いたのであります
貴方様は私の懊悩を聞くと直ぐ様この鍋を与えて下さいました 半信半疑で店に戻って水を煮立てると、貴方様の言う通り!! 先代の味のスープが出来上がるのです! それからと言うもの毎日店は繁盛し、御蔭様で息子達を大学に遣ることも出来ました
しかし誠に申し上げにくい事で御座いますが、妻が私の与り知らぬ間に痴呆症を発症してしまい、私はそれに気付く事無く無神経な言葉を掛け、店の経営を優先するばかりに息子らにも重荷を負わせてしまい、私は貴方様の御心を全うする事が出来なかったのでしょう 鍋はもはや先代の味を生み出す事が無くなって仕舞いました その後も鍋は何の変哲もない鍋として使い続けておりましたが、今度は私をアルツハイマーの病魔が襲い、店を畳む事に相成りまして、息子が建物を厨房の道具類毎売り出すに当たって、鍋を如何にしようかということになりました
このような手紙を出すことになってしまい、大変心苦しくしゅうございますが心の底から感謝しております 有難う御座いました 乱文失礼

敬具

ちらりと見えた手紙にはワープロの文字が並んでいた。ふと依頼人が自分で打ったのか、あるいは息子に打たせたのかが気になったが、どうでもいいことだった。ひょっとしたら店主には分かるのかもしれない。その店主は笑みを浮かべて手紙を畳むと、封筒に戻していた。見る限り、個室の影たちは特に反応する様子もなかった。
「さ、受け取りましょう」「おう」
店主がどこかに手紙を置いて手を伸ばしてきたので、手伝って寸胴の尻を持ち上げてカウンターを越させてやった。店主は持ち上げた寸胴の中をちょっとの間検分しているようだったが、やがて満足した様子であちら側のどこかに置き、金属が静かにぶつかる音が聞こえた。
「わざわざこんなところまで、ありがとうございました」
「おう」
店主は深々と礼をした。思わずこちらもつられて頭を下げた。
「ささやかなお礼ですが、どうぞ。召し上がっていってくださいな」
そう言うと店主はカウンターに小さなグラスを置いた。中は透明な液体で満たされている。持ち上げてしげしげと検分していると、店主の声がした。
「心配ですか」
年も性別もよく分からない顔をして、店主が微笑んでいた。グラスに刻まれたアルファベットが間で明かりを照り返した。
刻んであるのは英語のように見える。ゼア? フィアー・ノット・ザ・スピリッツ、バット・ビー……このあたりで早くもお手上げだった。元々英語も決して得意ではなかった。何の意味もない言い訳だが、もうアメリカを出て人生が半分以上過ぎてしまったのだ。過ぎてしまった。とっさに出てきたこの考えに、ふと、アメリカのどこだったかも分からない我が家から、子猫のようにつまみだされる今の自分の姿が思い浮かんだ。確かに、ひとり養父の家を出て行くのが不本意でなかったと言えばうそになるが、私は追い出されたと感じていたんだろうか? あの、色あせた玄関脇のポーチ。軋むロッキンチェアの音。兄弟姉妹の声。秋の日差し。
外で雪が静かに積もる音がした。
「霊は嘲るものでも責めるものでもなく、さもなくばあなたは道を見失う」
店主が言った。柔らかでとげのない声。しかし同時に、底なし沼の底からささやいてきたように思えた。
動揺して落としかけたグラスが手の中で踊り、零れた酒は防寒ズボンに落ち、椅子の脚が床を擦って派手な音を――物質的な世界にくらべれば、かなり篭っていたが――立てた。しかし声の主は店主ではなかった。喋ったのはすぐ傍にあった年代物のラジオだった。よくよく耳を澄ませば、さっきから時折聞こえていたのはこれのノイズだ。
突然物思いから引き戻されて余程面喰った顔をしていたに違いなかったらしく、店主は無言で笑った。こっちは、忍び寄ってきた気の動転を、郷愁と一緒くたにして知らぬ顔で押しやらねばならなかった。知らぬ顔が肝心だ。警戒を怠らず、しかし本筋でないことや目先の人参に集中しないこと(さっきのように)。己を保って異界から戻るための基本のだ。本は全く役に立たなかったが、この鉄則を教わったことに関しては、図書館には足を向けて寝られない。

わたついている間に、店主はつまみを用意していた。
「お通しです。キエフ風ヴィネグレットをどうぞ」
背のくぼんだ蟹の器に、赤い角切り野菜が盛られていた。蟹はつややかな目を動かしてこちらを見上げた。おもむろに野菜を背中からつまんで食べ始める蟹を目の前に、店主が言った。
「行かないといけない場所があったけど、街を去るのがいやでずっとここにいる子もいるんですよ」
店主はあくまで笑顔だった。もしかしたら、わずかにでも困惑しているのかもしれないが。
「この子と同じ時期に生まれたきょうだいはもう皆旅立ちました。戻れるようになれば戻ってくればいいんですよ、そうすればきょうだい達ともきっと再会できるから……」
銀の皿を背負った蟹は、カウンターに茂った羊歯を切り取る作業に取り掛かっていた。赤い花びらが白木の上に散らばる。店主は俯いてなにかをしていて、外の雪と同じような白い横顔が、黒々した干し海鼠を背景に、余計に白く見えてきたような気がした。
あまり店主の見た目について考えないようにしようとしていると、つい疑問が湧いてきてしまい、思わず口をついて出た。
「造化模倣あるいは縁起の魔法か、それとも……」「バックラッシュを創造的活力として利用した発生です」貧弱な奇跡論の知識は、たちまちやんわりと言葉をはさまれてしまった。
「その……フラットの反作用やろ、雪は」なんとかして連合の仲介者が使ったジャーゴンを忘却の彼方から引っ張り出せた。内心得意でなかったと言えば嘘になる。
「創造と破壊、両方のベクトルを編み上げて作り上げられました」「ほう」
しかし、次はなかった。案の定。気の抜けた相槌に対し、店主は親切にも会話を継続した。
「いわば、あの雪の結晶ひとつひとつが破滅から生を汲みだす高井戸なんです。無の対照としての命そのものとも呼べるでしょうね」
「破滅と命ねえ……」
ストーブの近くに陣取った芭蕉の鉢植えから、融け始めた雪が落ちる音がした。この街の一体どこで青い芭蕉が手に入るのだろう?


住宅街のような街並みを抜け、見通しのいい道に出ると、イチョウ並木と雪の残る植え込みの隙間から朝日が昇るのが見えた。見下ろす街にもまばらに雪が積んでいる。時間的な歪みがなければ、外の世界は6月のはずだ。ということは、ここはまだ街の内部なのだろう。
このまま坂を下りつづければ、おそらく外に出られるはずだ。するとまたすぐイチョウ並木が途切れ、唐突に植物で覆われた煉瓦壁が道路をふさいだ。雪こそ残っているが、草木は青々している。もちろん行き止まりではなく、古びた両開きの大きな鉄扉が、葛とゴールデンロッドに隠されるようにしてあった。これが出口だろう。
引いて一瞬、無情な手応えを思い浮かべて動悸がしたが、こちらの内心の小さなパニックとは無関係に扉は軽く開いた。もちろん知っていた。""を通り慣れたタイプ・ブルーならば、精神を落ちつけ、物のやり取りを最小限にすれば酩酊街を通り抜けることはそこまで難しくない。通り抜けるだけ、なら。

引きとめられないということは、ここに自分を留めたいと願うものは存在していないということで、それはそれで一抹の寂しさを感じずにはいられない。もちろん、これもここの仕組みの1つだ。


おそらくこちらが会話に詰まっていることに気付いて店主は笑い、一瞬黙ってくれた。
「その……アレやろ」
さっきと同じ切り出し方になってしまった。
「反作用からも反作用生まれるんやから、それ、結局……最終的には破壊的な方のアレがたまりにたまって、ぶちまけられんのと違います? 人の大勢いる街の上に」
店主は笑みを崩さなかった。
「それも破滅を避けることを選ばなかったことで、人が自ら歩むこととした運命なのでしょう。少し寂しいけれど、私たちはいつもあなたたちの選ぶ道があなたたちにとっていいものだと信じていますよ。
それに、その時が来ればここも同じですから。きっとお互い、一人ぼっちにはならないでしょう」

また芭蕉の葉から雪の(なんで暖房の効いた室内にこんなに雪が?)しずくが落ちた。多分、かなりのびっくり顔をしていたのだろう。店主の微笑みには、明らかに申し訳なさが混じってきているような気がした。
遠くで機関車の汽笛が聞こえた。これもラジオだろうか。汽笛の音に耳を奪われていると、機関車の緑色の車体と、そして雪に埋もれながらも赤々とした鳥居が頭に浮かんできた。そろそろ離れないとまずいかもしれない。黒い水面に逆さの灯台が映る。店主は言った。
「今日はわざわざありがとうございました。是非、またお越しください」
オレンジのランタンの光が回ってきて、世界を包み、たちまち他に何も見えなくなった。上も下も分からない状況に、なんとか薄目を開けて手探りしながら宇宙遊泳のような気分で巾着を掴んだら、次の瞬間には夜明けの路地に立っていた。


扉の周りの草のささめきは、人の声を形作っているように思えた。店主の声だったかもしれないし、全く似ていないかもしれない。

「もう忘れてしまった/忘れない/忘れますか?
覚えている/思い出せない/覚えていたくない?」

「よう分からん……」
そう口に出して答えても、鼻をくすぐるのは外の温度と湿気だった。もう街に充満していた酒精の気配は微塵もない。

報酬を握ってねぐらに帰るか、それとも今から飲み直すか。"道"を知らない人間には心霊スポットとして知られるガード横は、どちらにするにも半端に遠かった。24時間営業のフードコートかスーパーか、下手するとハンバーガー屋やコンビニで妥協する流れか。どちらもあまり嬉しくなかった。
今は何時だろう? 夏至の時期なのにもう真っ暗だった。人通りもほとんどない。うっかりすると、小雨の中を歩いて帰宅するのを宿命づけられていそうだ。
さっき出たつきだしを蟹より早く食べていれば……いや、空きっ腹に酢のものは辛い。そもそもスケジュール配分を失敗して、腹ごしらえせずに酩酊街に入った時点で失敗だったのだ。
仕方なく、目に雨が入らないよう、そして顔が見えづらくなるようにうつむいて歩き出した。どれか一ついつもの店に人が少ないこと、雨がひどくなる前に着くことを祈る。道中、長らく思い出していなかった、アメリカ時代に行ったダイナーと、そこで食べたグリルドチーズサンドのことばかりずっと考えていた。

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