トリップハンマー
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「分かったことの中で役に立てられる事を教えて下さい、お願いしますよ」司令官イワタ・ミノリは会議用テーブルの椅子に座って休むとため息をついた。

「あ、はい、司令官殿、私たちは、ええ、かなりの進捗をですね」研究助手は唾を飲み、襟を引っ張った。「スピリットダストの主成分が特定され、ある種の植物性物質がヘロインで希釈されたものであることが判明しました。ヘロインの持つ血液脳関門突破能力により、薬物が全身へとより早く吸収されるものと見られ――」

「待って、話を少し戻してください。どのような種類の植物性物質なのですか?」

「え、あ、はい、ええと、分かりません」研究助手はたじろいだ。ミノリの視線は融けた鉄のようであった。意気地のない研究助手は彼女には敵わなかった。

「二週間の調査を行って、あなた達間抜けは薬物が植物のようだという事以外には何も報告できることを見つけられなかったのですね」イワタ司令官は指でテーブルをつついた。「結構です、解散」研究助手はほぼ全速力で慌てて部屋から駆け出していった。

ミノリは再びため息をつき、スピリットダスト事件についての自分のノートを捲った。カオルによって財団がスピリットダストへの関心を急速に抱いてから二週間が経っていた。二週間の混乱と白熱の調査は、明確な証拠も、何者が堂仁会にこのような薬物をもたらしたのかも明らかにしていなかった。意義のない二週間であった。

ミノリはリモコンでテレビジョンの電源を入れ、ニッポン全国ニュースにチャンネルを合わせた。目の端で見て、彼女は今日の見出しに気がついた。

「三名の無残な死は三重殺人自殺か?警察の捜査が進行中」

イワタは小さく毒づいた。事態が長引いたゆえに大衆メディアも何かが起こっている事に気が付きつつあった。この調子では、いつ彼らが偶然――

ミノリの思考は呼び出し音に遮られた。ポケットから電話を取り出し、そして眉をひそめた。未登録ナンバー。若干の疑念を抱きながら、彼女は電話に答えた。

「地域司令官のイワタさんだね」なめらかなバリトーンの声が漏れてきた。イワタは硬直した。

「り、理事長オダ様。お電話を頂き光栄です」突然の呼び出しに驚かされ、ミノリは少し口ごもった。

「君の地域で起きている『スピリットダスト』の問題についての報告は届いている。地元メディアのうち、少し知りすぎた者を黙らせる必要があった。私はこのようなだらしない事態を今後見たいとは思わないし、この案件が一刻も早く解決されることを期待しているよ」その声はミノリの肌を這い回り、身震いをさせた。どういうわけか、その声は豊かな音色を持っているにも関わらず、聞く者に悪いモノを感じさせる質を持っていた。

「承知しております。我々が片付けます」不快感を抱いていることを相手に伝えないようにミノリは答えた。彼女はそれを嫌っていた。

「上手くいく事を祈るよ」電話が切れ、イワタ司令官は電話をテーブルに置いた。彼女はそれをしばらく見つめた後、立ち上がって会議室を後にした。

「スピリットダスト事件に関わっている全ての潜伏エージェント宛てのメモが必要です。一刻を争います。地域司令官が我々に目を光らせています」ミノリが手を振ると、秘書は大慌てでセキュアな通信チャネルを通じてノートを送った。

その後、イワタ司令官は執務室へのドアを開け、綺麗に整理された自分のデスクへと座った。ミノリはしばらく周囲を見渡した。

彼女の執務室は窮屈であったが、口を結んだ渋面と熟練した効率性でやりくりしていた。書類棚にはエレガントに書かれたラベルが施され、輪になって壁に並べられ、そして彼女の机は部屋のおよそ四分の一を占めていた。使い古した椅子に座るためには机を押す必要があった。椅子は身体の重心を動かすと軋む音を立てた。古いマグカップには沢山のペンや鉛筆が立ち、その隣には紙が積まれていた。

彼女の背後の壁には学位記や表彰状や財団からの栄誉賞が額に入れられ、輝くように磨かれていた。時を経て黄変した一枚の写真もまた、同様に壁に飾られていた。その写真は若く可憐で笑顔を浮かべた女性が、財団支給の収容班作業服に身を包み武装職員輸送機のそばに座っている様子を写していた。

ミノリ司令官は古びて軋む椅子にもたれ、短い間目を閉じた。

そしてまっすぐ座リ直した後、職務に取り掛かり始めた。


タナカ・カツオは膝をついてしゃがんでいた。

地面に並べられたゴミを選別していると、画面のひび割れた携帯電話が落ちているのを見つけた。見た目にも関わらず、電源を入れると動作し、笑顔の若い男が少女の腕を取り友人を連れて夜の外出をしている最中の写真を映し出した。

その若い男はバラバラになって部屋に散らばっており、カツオと相棒のユーダイが探しまわっていた。写真の少女は頭の大部分が消えた姿で部屋の隅に転がっており、壁に血のシミを作っていた。スピリットダストの痕跡が残っている廃棄された注射針が両者から見つかり、それは最近使われたものであった。彼らが住んでいた小さな部屋はほぼ全壊しており、家具は打ち壊され瓦礫と化していた。

全ての遺体が完全に死亡していることを確かめた後、カツオとユーダイは証拠品を探すために部屋を調査し始めた。カツオは手袋を付けて電話に残されたメッセージを流し読み始めた。家族、友人、そして同僚から届いたものが最近のメッセージを占めていた。「愛している」や「寂しいよ」といった文章が最近のメッセージにあふれていたが、これらは再び見直されたり読まれたりすることはない。

表示のない番号からのメッセージを見つけると、カツオは眉をひそめた。名前は記されておらず、長い会話もなかった。メッセージは一言だけだった。

「スイヨウビ ゴゴ2ジ。 ヨイシナアリ、 カネヲ モッテコイ。 コウエン、 フンスイ チカクノ オオキナ キノシタ」

カツオは立ち上がりユーダイに向けてうなづいた。二人は部屋を後にした。


ユーダイの運転する車の中で、カツオは事件ファイルに目を通していた。突然、ユーダイが話しかけてきた。

「これが解決への糸口に繋がるんですかね?」

カツオは顎を撫でた。「おそらくな。おそらく」

「おそらく、ですって?」その声には若干の棘があった。シバタはハンドルをきつく握り締め、その手は白くなり緊張していた。彼の視線は道のはるか遠くを向いていた。その目はこれといった特徴のない縁で固められていた。

「落ち着け、ユーダイ。こういうのは時間がかかるんだよ」カツオは年下の相棒を宥めようとした。

「時間?カス共がこのSCPを売って罪のない人を殺すのに時間が関係あるっていうんですか?」

車が赤信号で止まると、ユーダイが苛立ちから拳をハンドルへと打ち付けた。

「オレはよく分からないモノのせいで人が死んでいく事件をただ指を咥えて眺めるために財団に入ったんじゃないんだぞ。なんでもっとしっかりやらないんだ?他の警官は何処に行ったんだ?他のエージェントは?」シバタは顔を歪めた。「オレ達が子供のころテレビで見た、西部劇に出てくる丘の上の騎馬隊は何処に行っちまったんですか?」

タナカ刑事はため息をついた。突然強く、強く老いを感じた。三五歳である感じがしなかった。少なくとも六五歳になった感じがした。手で髪を梳き、膝の上のフォルダを閉じた。

「ユーダイ……おれたちが騎馬隊だ。この事件には他に誰もいないし、呼んだって誰も連れてくることはできないだろう。おれ達だけなんだ。こんな事言っても納得出来ないのは分かる、だがおれたちには時間と辛抱が要るんだ。つまらない事をやらかせば、そのせいでもっと多くの人が死ぬことになる」カツオはユーダイを見た。

カツオの相棒は何も言わなかったが、その手は少しだけ緩んでいた。彼は小さく肯定的な返事を返し、再び静かな運転を続けていった。

カツオは車の窓の外を見た。皆一度は通る道だ。彼も一度は通った道だった。最近雇用されたばかりで、未だに純真な心を持っていた。未だに財団は奇跡の組織であると考えていた。純真すぎるが故に、全ての者を守ることは出来ないということに気がつけなかった。未だに愚かなのだった。


カツオは車の中に座り、神経を尖らせて緊張していた。彼は大きな木の立っている、公園の隠れた隅を見張っていた。

大きな樹の下にはユーダイが、バスケットパンツにパーカーという出で立ちでベンチに座っていた。彼の隣にはバックパックが置かれ、彼の耳にはイヤホンが詰められていた。彼は左右を見回し後ろを見回し、彼に近づく者を探していた。

時刻は二時を回っていた。

ユーダイはあくびをし、座っているベンチにもたれかかった。周囲一帯は閑散としており、老夫婦が鳥の一群に餌をやっているだけだった。風は凪ぎ、穏やかな雰囲気だった。

視界の隅に、公園の歩道を漫ろに歩く男をユーダイは捉えた。彼はのんびりとしたペースで歩み、鞄を背中に何気なくぶら下げていた。彼はユーダイの隣に座った。

「今日もいい日ですよね?」男はそう言い、満面の笑みを浮かべた。

「はい、いい天気です。オレのお袋だったら、自然界のスピリットも喜んでいるとか言うところですよ」

「へえ? 信心深い人なんだね。あんたもそうなの?」

「まさか。オレが小さい頃にそんなことを色々教えてくれたもんですが、今となってはホコリを被ってますよ」

「ああ、はいはい。ところで、あんたに渡す荷物を持ってきたんだけど」

ユーダイはその場で男を絞め殺したくなる衝動を抑えた。「お? ギフトにちょうどいい物かな」

ユーダイは隣に置いたバックパックを取り、男に渡した。平然とした態度の男はバックパックのジッパーを開け、中の金を取り出すことなく素早く数えた。満足したのか、彼は背の鞄を開いて二本の封筒を取り出し、ユーダイに手渡した。

「よし、また今度な」男は再び笑い、立ち上がって再び歩道を歩いて行った。

ユーダイは息を吐き、激しく鼓動する心臓を宥めようとした。彼は電話を取り出し、調べた。

彼が地図を調べると、かすかな、しかし確かな音が電話から発された。鼓動する小さな円形がユーダイの居る位置から少しずつ離れていくところが電話の画面に映し出されていた。

ユーダイは立ち上がり車に戻った。


用心棒がコガ・ナオキの体を上から下まで見て確かめた。

「名前は?」

「コガ・ナオキ」

用心棒は手にしたクリップボードを見て、低く唸った。「フレアへようこそ」彼は扉を開け、若い兄弟をクラブへと入れた。

その中は他のクラブと同じだった。うるさく、汗臭く、不快であった。空気は体を動かす度に粘り付き、スピーカーから噴き出す音楽はコガの好みとは全く合っていなかった。

コガは最初に見つけたウェイトレスを止めた。

「どうしました?」冷めた態度のウェイトレスがそう言った。既に別の所を見ており、明らかに注意が向いていなかった。

「ショージさんを探しているんだが」ナオキは意識を自分に向けるよう語気を強めてそう言った。

ウェイトレスはコガへと鋭く注意を向け直した。彼女は少し目を見開き、口に手を遣った。「ショージさんのお友達の方だったのですか!申し訳ございません、こちらへどうぞ」

人混みをかき分けながら、ウェイトレスはクラブの奥にある「従業員のみ」の表示が付けられたドアまでナオキを導いた。彼のためにドアを開けると丁寧に礼をし、彼女は急いでその場を離れていった。

いかなる突然の事態にも備えて警戒しながら、ナオキは目の前の階段を降りていった。階段の下にあるもう一つのドアを開け、中へと入っていった。

中に流れている音楽は先程よりも趣があったが、相変わらずうるさく不快なものだった。それでも中に居る者たちは上の者たちとは大きく異なっていた。こちらの者たちはより無気力に、甘い怠惰を湛えた蜜のような空気の中で体を動かしていた。

中心では多くの人がゆっくりと踊り、その動きは音楽とは全く調子が合っていなかった。ナオキが額にしわを寄せていると、踊っている者の一人が彼を見た。

彼女の目は色相と明るさを変える色とりどりの虹のようであった。少女は忙しくまばたきをし、その度に彼女の目は別の万華鏡のような色彩を取った。その目は美しく彩られていたが、ひどく生気がなく、あたかも命が宿っていないように見えた。

ナオキの心は寒気立ち、目を背けた。

部屋中のあちこちに笑顔を浮かべ踊る者たちがいたが、その誰もが一様に緩慢な動きをしていた。隅にいるカップルはクスクスと笑いながら思い思いに絵画の破壊と再構築を繰り返していた。少女が男の膝に座ってもたれかかり、男と体をこすり合わせながら自分の唇を彼の唇に埋めていた。彼らの顔は溶け合わさっているように見え、おそらく実際に溶け合わさっていると思われた。

仮面のウェイターが注射器やパイプなどといった道具の載ったトレイを持って壮観と壮観の間を動きまわり、有頂天から帰ってきたと見られる客にそれらを差し出していた。その際いつも忘れずに紙に記録を書き残していた。ソファーに寝転んで上方の虚空に光を出現させていた男の一団にもそのようなウェイターが近づき、丁寧に巻かれた煙草を差し出した。男たちは貪るように煙草を取って吸い、満悦とした空気に潜りこんでいった。最後の男の所に来るとウェイターは顔をしかめた。その男は反応を示さなかった。男を調べると、ウェイターは舌打ちをして合図をして他の使用人を呼び、その手を借りて男の死体を部屋から運び出した。

ナオキは吐き出したくなった。仮面のウェイターがコガへと静かに近づき、トレイを差し出した。その上には一本の清潔で未使用な注射器が載っていた。そして中には緑色を帯びた液体が入っていた。

ヤクザはトレイを押しやって言った。「ショージさんを探しているんだが」

ウェイターはへつらって礼をし、部屋の脇に並んだブースの一つへと案内した。

そのブースには大きなサングラスを身につけて普通の煙草を咥えた精悍な男が座っていた。両脇には少女が抱えられ彼に笑顔を向けて笑っており、その他の友人も同じように輪になって座っていた。

男はウェイターが近づくとちらりと目を上げた。ナオキは咳払いをした。「あなたがショージさんですか?」

煙草を吸っている男が笑った。「多分ね。誰だよ?」ナオキは決まり文句のように媚びへつらった。

「コガ・ナオキです」

男は笑顔をより大きくした。「あー、じゃあ爺さんがお前を寄越したんだな?座って飲もうや。どうだ俺のクラブは?」

ナオキはやや堅苦しく座った。「素晴らしい所です」

「当たり前だろうが。金を沢山掛けたんだからな。よし、そしたらストレートに商売の話に移ろうか。スピリットダストのシノギに一枚噛みたいそうだな?」男は少女たちから手を離し、テーブルに肘をついた。少女の一人が立ち上がり、誘うようにしてナオキの側へと歩み寄っていった。彼女はナオキの膝の上に座った。

ナオキは平然としていた。

「はい。親分がそのことについてあなたに尋ねるよう仰りました」少女がナオキに手を回したが、ナオキは無視した。

彼女はナオキの耳へ「前に二人組のヤクザの人をお相手したけど、あなたとは違ったわ」と漏らした。

ナオキは彼女を無視した。彼女はナオキに興味を持たせることはできなかった。何をやったとしても同じだろう。

「まあ、俺に話すところだよなそれは。で、お前の所の者がスピリットダストを欲しいってんなら、必ずアガリを俺たちに納めなくちゃならねえってことは分かってるよな?」

「もちろん、承知しております。モノはすぐにこちらへ流していただけますか?」ナオキが尋ね、少女はナオキの首にキスをし始めた。

「もちろん、もちろんだとも。真剣な奴だな。もうちょっとここに居ておかないか?パーティーはマジで楽しいし、その娘もお前に気があるみたいだぞ」ショージは部屋の方へ身振りを示した。もう一つの死体が運び出された。

「ご遠慮させていただきます。こういうパーティーは性に合わないので」

「だよな、分かってるよ、そういうタイプの奴じゃないってことは。他に気のある野郎もいるぞ」

「いえ、お構いなく。やめてくれませんか?」ナオキは膝を撫で始めた少女に向けてそういった。彼女はしばらくショックを受けたように見え、あたかも自分の誘惑を拒まれるとは思っていなかったかのようであった。そして、彼女は渋々と彼から離れていった。

少しの間、苛立ちの影がショージの顔を差したが、やがてニヤニヤとした表情に戻っていった。ナオキは片眉を上げた。

「まあ、また会おうや、ナオキ。名前で呼んでいいだろ? オレたちは友達なんだから」彼は手を差し延べた。

「はい。友達です」ナオキは強く握り締め、ショージと握手した。

ズキズキとした痛みがショージの体を伝わったが、そのような素振りは見せなかった。ナオキは快楽主義の世界を後にし、ナイトクラブを去っていった。

車に向かうと、心地よく冷たい夜の空気が彼に元気付けた。それでも、ある一つの物がどうやっても彼の頭を離れてくれなかった。

それはヤツらの目だ。

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